トリスタニア診療院繁盛記   作:FTR

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その28

私の朝の日課が増えた。

目覚めた時、玄関に直行する前にやることが一つ。

目覚めと同時にぼさぼさの髪を整え、部屋のデスクの上に置いてある砂糖菓子の瓶に手を合わせる。

 

『おはようございます、伯父上。愚姪は、本日も頑張って参ります。』

 

 

 

 

ウルの月が、慌ただしく流れていく。

三国同盟が締結される傍ら、アンリエッタの輿入れの話題がトリスタニアを駆け巡る。

それはそれでアンリエッタ当人以外にとってはめでたい話ではあるが、それよりも街で話題を集めたのが、新政府の成立を宣言した神聖アルビオン共和国からの停戦と不可侵条約の申し入れだった。

曰く『長く続いた内戦で疲弊し塗炭の苦しみを味わうアルビオン国民のためにも、これ以上の戦火の拡大は望むところではなく、腐敗したアルビオン王党派に与するトリステインとゲルマニアの共和国への敵対的な政策は遺憾ではあるが、同じ始祖を信仰する者同士、今後は平和裏に物事を進めたい』とか云々。

猿芝居の裏側にある思惑はともかく、軍事的な力関係からトリステイン・ゲルマニア両国は飲まざるを得ない申し出だろう。

連中の本音を知っている私としては臍が茶を沸かしそうな戯言だったが、街の面々もその話をそのまま額面通りに鵜呑みにする者は殆どいない。やはり、商人の嗅覚は鋭敏だ。執行猶予とでもいうべき仮初の平和に、街にもどこか戦争前夜の雰囲気が漂い始めた。戦争というものは基本的に首都の落とし合いな訳で、こうなると王都トリスタニアもいつ戦禍に晒されるか判らない。こうなったからには、町内会としても独自の対応をせざるを得ない。

食料や薬品の備蓄、自警団の組織、避難体制の立案や周知など、町内会としての仕事は山とある。私としては、伯父上のことで落ち込んでいる暇がないほどやることがわんさかやってくることはむしろありがたくもあり、役員として臨時の救護所や女子供の避難場所の手配の各方面への連絡等にばたばたと対応に追われた。

 

 

 

 

 

「忙しそうね」

 

「ええ、不本意ながら」

 

カトレアの診療に関する定期打ち合わせのために公爵家別邸に顔を出し、カトレア相手に世間話に耽る。

ここしばらくの体調はかなり良いようで、発作のように定期的に患っていた体調不良もなりを潜めているようだ。顔色も良くなり、生来の美貌に年相応の奥行きある艶っぽさが混ざるようになってきた。

前世で『ゼロの使い魔』の登場人物で『お嫁さんにしたい人ランキング』をやったらこの人はトップを争う人ではないかと思っていたが、ここしばらくのカトレアであれば、2位に大差をつけての栄冠もあり得るのではないかと思う。華のかんばせと愛嬌、そして魅惑のボディに健康美が揃えば、もはやカトレアの前に敵はない。それに加えてお金持ちだし、頭も無茶苦茶いいし、家柄もすごいし、何より優しい。恐らくお嫁さんにもらえば男の自尊心を優しく受け止めながら、そうと思わせない形できちんと旦那を操縦していける良妻賢母の見本のような女性になるに違いない…何だかもう、完璧超人だよ、この人。弱点はないのか、弱点は。

歳は確かに適齢期を越えているが、そんなことは些細なことだ。私が男だったら今日にでもマチルダの工房に金の草鞋を発注に行くところだ。

ともあれ、トリステインとアルビオンとの雲行きが怪しくなったらさすがに公爵領に避難せざるを得ないカトレアだが、この分なら王都を離れても当分大丈夫だろう。公爵家の侍医団の腕には今更ながら唸るばかりだ。

 

「戦争になるのかしらね」

 

どこか不安げな声で、カトレアが呟く。

 

「どうでしょうね。できれば荒事にはなって欲しくはないのですが」

 

「私も、戦争は嫌いだわ」

 

「そうですね……真面目な話をしながら私の髪で遊ばないで下さい」

 

考え込む私を他所に、私の髪を二つ結いに束ねるカトレアに一言入れる。

 

「あら、いいじゃない。可愛いわよ」

 

ツーテールを垂らしている私を見ながらカトレアは御満悦だ。

この人の相手は本当に疲れる。話の論点が微妙にかみ合わないのだ。しかも、常に私より上を行くあたりは転生者としては悔しくもある。

 

「それで、貴方としてはこれからどうしたいのかしら?」

 

いきなり話を切り替えられ、しかもやたらと重いお題に私は言葉に詰まった。

ヴァリエールの家で、夫妻とカトレアは私の出自を知っている。そのカトレアが言うからには、そういう主旨の質問なのだろう。

 

「…さて、どうしたものでしょうか」

 

その問いの答えは、むしろ私が教えて欲しいくらいだ。

この先にどのように振る舞っていけばいいかは、私だけで決められることではないからだ。

 

この国の偉いさんのどこまでが、アルビオンの公女崩れである私が王都で勝手気ままに平民ライフを送っていることを知っているかは判らない。

推測の域を出ないが、私のことを知っている人数は多くはないが、皆無ではないといったところだろう。マザリーニ辺りは恐らく知っていると思う。

問題はその知っている少数の連中なのだが、アルビオン情勢がここまでこじれては、機を見るに敏な輩が動き出さないとも限らないことだ。

こちらは所詮は平民、天上界のその辺りの動きに関する情報が入って来ないのはいささか心許ない。

 

今回の同盟騒動で、トリステインが内に抱えた火薬樽とも言うべき王党派軍を御するにあたり、私という駒を盤上に乗せるという可能性もなくはないだろう。

私は王軍に弓を引いた凶状持ちであり、王族の系譜からは抹消されているであろう立場なのだが、伯父上が亡くなり、皇太子たるウェールズ殿下の行方が知れない今、アルビオンの始祖の血統を考えると私を担ごうとする動きがあっても不思議はない。

しかし、政治的にはお飾りであっても王家縁の者がいることに意義はあるだろうが、軍の連中のことを考えると、さて、ぽっと出の、しかもいわくつきの私を旗印に据えて士気と統制を保てるだろうか。

名を取るか実を取るかの問題だが、誰のタクトでその辺が決まるかは私には判らない。

 

公爵との約定では、何かあったら私は自由意思を放棄してトリステインの支配下に入らなければならないことになっているが、正直、私は貴族が、より正確には宮廷とか社交界と言った空間が好きじゃない。あの、ドロドロとした陰湿な集団の中で生きていると息が詰まってたまらない。

前世の学生時代にも陰湿な女同士のいじめを幾度も見てきたが、あれが児戯に見えるような黒い瘴気を感じるのだ。当然ではあるが、そんな腹芸ばかりが上手くなる世界より、腹の底から笑いながら酒が飲める平民たちの住まう空間の方が私の魂とは親和性が高いと思う。

しかし、『平民のままがいいです』と我儘を言って通るのならば幾らでも駄々をこねるのだが、現実はそんなに甘くはあるまい。

王位継承権。そんなものがこの世にある限り、いつ何時それが隕石のように私の上に降ってくるか判らないのだ。

逃げ出そうにもゲルマニアも同盟国になってしまったし、青髭治世下のガリアはもっとやばいだろう。ロマリアに至っては私みたいな神やブリミルが嫌いな奴が行ったら即日宗教裁判にかけられそうだ。

ここまで来るとサハラを超えて遥か東方へ、という話が何となく現実味が帯びて来ているような気がするが、そんな大冒険にディルムッドはともかくマチルダとテファを巻き込む訳にはいかない。彼女らには幸せになってもらいたい私としては艱難辛苦の道連れにするのは忍びないし、だからと言ってあの子たちとお別れするのは私が耐えられない。

こう考えると、この星の上に、もはや私の逃げ場所はないのかも知れない。

そんな私の苦悩を他所に、カトレアは涼しい顔でとんでもないことを口走る。

 

「私は、意外と貴方は女王とか似合ってると思うけど」

 

この人、実体はサトリとかいう妖怪の類ではないのだろうか。

この人の嫌な点は、この何でもかんでも御見通しという怖さだ。どうして何も言っていないのに私の悩みが判るのだろうか。いい加減、お釈迦様の手の上の孫悟空になったような気分になってくる。そんな気分を味わうたびに、矮小な孫悟空としては腹いせにカトレアに向かってかめはめ波でも打ってやりたい気持ちになる。

 

「…お戯れは困ります」

 

「あら、本気よ?」

 

そう言って私を見るカトレアの目は笑っていない。

幾らなんでもそれは贔屓の引き倒しというものだ。私は前世では文系の授業は睡眠に充てていたし、今生でも当たり障りのない良妻賢母の教育を受けてきた程度の人間だ。帝王学も経済学も政治学も弁論術も、専門的な知識や技能は持ち合わせていない。軍事関係だってさっぱりだ。そんな私に王器があるとは思えないし、仮にあったとしても、好き好んで窮屈な立場に身を置く趣味はない。

 

「柄じゃないですよ…それより、お願いですから変なデコレーションもやめて下さい」

 

「もう。いいじゃない、ちょっとくらい」

 

いろいろな髪飾りやリボンを準備中のカトレアがつまらなそうに言うが、手を止める気配が全くない。困ったお嬢様だ。

 

 

 

 

 

そんな慌ただしいある日のこと。マチルダからの呼び出しがかかった。

工房に来るようにとマチルダからの使いが来たのは、午前の診療が終わるころだった。

午後の往診の帰り、テファと一緒にマチルダのアトリエの扉を開けた。

 

「んっふっふ、来たね」

 

店に入ると、カウンターのところでマチルダが待ち構えていた。

大石蔵人のような怪しい声を出す姉の黒い笑顔に、私の中で大音量で警報が鳴った。

どう考えてもろくでもない用事だと予想がついたので私は黙って扉を閉めようとしたが、回れ右したところで襟首を掴まれた。

 

「まあ、待ちなって。悪い話じゃないんだから」

 

猫の子のように襟首をホールドされた私は、ジト目でマチルダを睨んだ。

 

「…何を企んでいるね?」

 

「企むなんて人聞きが悪いね」

 

「どうだか。それで、どうしたね突然?」

 

「まあ、裏に回ってみな」

 

「裏?」

 

私は言われた通りに、裏口のドアに手をかけて開けた。

 

ぎゃあ!

 

開けると同時に、硬質な音の連打と嵐のような剣気が驟雨のように私の顔を叩いた。

まるで『Fate/stay night』冒頭のランサー対アーチャーの戦闘シーンのような撃剣の音を響かせながら、工房の裏で局地的な奈須きのこワールドが発生していた。

素人のこっちにしてみれば、乱れ飛ぶ剣圧だけで自分がなます斬りにされたような錯覚を覚えるくらいだ。どういう剣捌きをすればこんな剣風が乱舞するような空間が出来上がるのやら。

髪の毛をぼさぼさにして悲鳴を上げた私に気づいたのか瞬時に嵐は収まり、我が忠臣が申し訳なさそうに駆け寄って来た。

 

「こ、これは主。とんだ失礼を」

 

その手にあるのは破魔の紅薔薇。本気モードか、ディルムッド。大爆発した髪に手櫛を入れてぼさぼさを直しながら訊く。

 

「何事だね…おや?」

 

言いかけて、私はディルムッドと相対していた人物に気付いた。

 

「あれ、ヴィクトリア?」

 

見覚えのある黒髪にパーカー。

どこかの誰かが召喚した別のサーヴァントでもカチコミに来ていたのかと思ったら然に非ず。そこには、『我らの剣』がデルフ片手に立っていた。

 

「何だ、少年じゃないか。どうしたね、虚無の曜日でもないのに」

 

魔槍と神剣の打ち合いじゃ、そりゃすごいわな。それはともかく、二人とも幾ら腕に覚えがあっても、本身での稽古はやめて欲しい。私の仕事が増えたら困る。刃止めした剣じゃ物足りないとでも言うのだろうか。と、言うより、いつの間にそんなに腕をあげたんだ才人君よ。すごい迫力だったぞ。

 

「ちょっとお願いがあって来たんだけど、店長さんに話はヴィクトリアが来てからにしろって言われてさ…」

 

「お願い?」

 

 

 

工房の中に戻り、皆が作業台を兼ねたテーブルの周りに座ると、テファがお茶を淹れて配ってくれた。

配り終わるまでの間、マチルダは終始嫌な薄ら笑いを浮かべていた。

何でそんなに嬉しそうなんだ、この人?

 

「それじゃ、改めて坊やのお願いってのを聞こうじゃないか」

 

お茶を一口飲んでマチルダが号令をかける。その言葉に、才人の動きが一瞬止まった。

己の恥を言おうか言うまいか悩んでいる様子が手に取るように判る。この子は結構根が単純なのか、隠し事とか嘘が得意じゃないようだ。

 

「実は…」

 

才人はぽつぽつと事情を話し出した。

 

 

 

 

 

 

「…お前さん、本当に馬鹿だね」

 

話を聞き終えて、私はそれを口にするのが精いっぱいだった。

一緒に聞いてたマチルダとテファも頷いている。ディルムッドに至っては頭痛を覚えたのか、こめかみを押さえている有様だ。

 

「ひ、ひでえ」

 

話を要約すれば、ルイズのベッドでシエスタに迫られて、それをルイズが勘違いした、ということらしい。

そういやそんなこともあったっけね。確かタルブ行きの発端である宝探しイベントのきっかけになった出来事だったっけ。前後の脈絡を度外視して冷静にその部分だけ聞いていると、実にアホらしいイベントではある。犬も食わないぞ、そんなもの。

そんな訳で、才人のお願いというのは、

 

『行くところがないので、工房で住み込みで働かせて欲しい』

 

とのこと。

問答無用で部屋を追い出されて途方に暮れた結果、マチルダを頼って王都に出て来たようだ。原作じゃ行くところがなくてテント暮らしをしていたように思うが、この時間軸だと修業の関係でマチルダの工房という頼れそうな心当たりがあったということか。よく一人で王都まで来られたな、こいつ。

 

「だいたい、密室で不用意に女と二人きりになっているあたりでアウトだよ。お前さんがどう言おうが状況証拠がそうなっているんだ。きちんとお嬢ちゃんに理を尽くして説明しないお前さんも悪いやね」

 

「だってあいつ、話も聞いてくれないんだぜ?」

 

まあ、あのルイズだ、さぞすごい剣幕だったことだろう。

そんな才人に、マチルダが呆れてため息をついた。

 

「まあ、真っ先にうちの工房を頼ってくれたのは光栄だけど、戻らなくて本当にいいのかい?」

 

「う、うん…だって、もう俺なんかクビだって…」

 

念を押すようなマチルダの問いに、才人の語尾が弱くなる。

 

「でも、多分ルイズさんも勢いで言っちゃったんだと思うよ、それ。真に受けちゃうとルイズさんも引っ込みがつかないと思うけどなあ」

 

テファも追い打ちをかける。

 

「でもさあ…」

 

才人の心の中に、微妙に後悔が浮かんでいるのが見て取れた。

ふふ、悩め悩め。悩んで成長するのは若者の特権だ。

そんな私の達の中で、建設的な意見を出したのがディルムッドだった。

 

「まあ、男女の感情はこじれるとままならぬものだ。だがな才人、やけを起こした者に務まるほど工房の仕事は甘いものではないぞ?」

 

うろつき3年ものまね10年というのがセオリーの職人の世界に、全くの素人がちょっと雇ってくださいと飛び込んで来ても困るのは当然ではある。

そういう下積みをすっ飛ばして名をあげているマチルダの方がおかしいのだ。

 

「う…それは…」

 

「少し距離と時間を置くのも手ではあろうが、働いて金をもらうということをそんなに簡単なことと思うな。職人は顧客あってのもの。いい加減な気持ちでは雇うわけにはいかん。腰を据えて働くかどうかはその辺の整理がついてからにしろ」

 

「は、はい」

 

「それよりも、よい機会だ、泊りがけで鍛錬に励むというのはどうだ。何もせぬより心も少しは軽くなるだろうし、あとで諍いになったら『自分を見つめ直すべく修業に打ち込んでいた』と答えることもできるだろう。無論、工房の手伝いもしてもらうがな。配達くらいはお前でもできるだろう」

 

ディルムッドの言葉に、才人が勢いよく顔を上げる。

 

「いいんですか師匠!?」

 

ディルムッドは頷き、マチルダに向き直る。

 

「どうでしょうか、店長。雇うかどうかはさておき、しばらくこの者を工房で寝起きさせてやりたいのですが」

 

ディルムッドの問いにマチルダが眉を顰めた。

 

「幾ら居候だからって、工房は可愛そうだよ。部屋は余っているから家に泊めればいいじゃないか。テファもヴィクトリアもいいよね?」

 

まあ、私にも異存はない。むしろ、こんなところで一人で寝られている方が気になる。

 

「え、本当にいいの? 雨風が凌げれば工房でも充分なんだけど」

 

私はため息をついて言った。

 

「何をいまさら。まあ、働くかどうかはともかく、お嬢ちゃんの機嫌が直るまでいればいいさね。それより、無駄飯食わせるつもりはないから、こってりコキ使うからね。後悔するんじゃないよ?」

 

「もちろん! いや~、助かる。ありがとう」

 

「まあ、つまらん見栄を張らずに正面から頼みに来た姿勢に免じてってとこだね。あと、判ってるとは思うけど、テファに変な真似したら命はないものと思いなよ」

 

「しねえよ!」

 

こいつは悪い奴ではないが、基本的にスケベだ。

先日、テファと初めて会った時のこいつのリアクションはあまりに予想通り過ぎて呆れてしまった。

テファの胸元を『男』の目で凝視する才人。まさにガン見という奴だった。

気持ちは判らないではない。こいつにしてみれば『革命』的なテファの双峰だ。しかし、葛藤するそぶりもせずにあの視線はあまりにも露骨すぎた。

キッチンに向かうテファの胸を視線でホーミングしていた馬鹿に制裁を加えるために私が杖を取り出すより先に、マチルダがブチっといった。

 

 

『何すか、この牛は!!』

 

レビテーションの魔法で工房にあった牛型のオブジェに放り込まれた才人の声が、牛の口の辺りからこもった感じで聞こえてくる。

 

「私の可愛い妹をああいう邪な目で見るような色魔には、お仕置きが必要だと思うんでねえ。ウル・カーノ」

 

『お、お仕置きって何ですか?』

 

「んっふっふ、ほ~ら、いい声でお啼き」

 

『お、あ、熱っ! 熱っ!!』

 

豪快に焚き付けに火をつけて牛を炙っているマチルダのあまりにも黒い笑顔に、びびりまくった私は声をかけられなかった。うっかり介入したら私までモーモーと啼かされる羽目になるような気がしたからだ。

詳しいことは口にするのも憚られるので、興味がある方は『ファラリスの雄牛』で調べてみていただきたい。

何でこんなものがここにあるのかは怖くて訊けない。

 

直後にテファが飛んできて才人は九死に一生を得、私たちは正座でテファに怒られた。

焦げてる才人も一緒に正座して、『えっちなのはいけないと思います』とお説教を食らっていた。

あの事件で、才人が少しは懲りてくれていればいいのだが。

 

帰りがけに、マチルダが相変わらず嫌な笑みを浮かべて私のわき腹をつついた。

 

「せっかく一つ屋根の下だ、うまくおやりよ」

 

「何が?」

 

私の問いに、マチルダは答えずに笑うばかりだった。

 

 

 

 

とりあえず、診療院の物置部屋を一つ片づけてベッドを整える。

せっかく家に泊まるんだから晩御飯に和食でも作ってやろうかと思ったが、思いの他市場のラインナップでは作れる和食が少ない。

どうしたものかと思案していると、ティファニアがいいアイディアを出してくれた。そのアイディアを基に市で山菜や根菜、マッシュルームやハーブを買い込む。肉はウサギ肉を選んだ。

適当に具材を刻んで、鍋でそれらをぐつぐつと煮込む。

味の方は手探りだが、前にテファがジェシカに教えてもらったレシピを頼りに整えたら、それなりに美味しく仕上がった。

出来上がったのは、御存じタルブの名物と言われる鍋料理『ヨシェナヴェ』のティファニア風だ。

あまり食べなれないシチューだが、味の方は好評。才人もすごく喜んでくれた。

成長期だけあって実に見事な食いっぷりで、私たち4人前と同じ量を一人で平らげそうな勢いだった。いやはや、男の子を抱えた世のお母様がたの苦労が忍ばれる。

まあ、男の子はこうでなくっちゃね。

 

 

 

翌朝。

牛乳を飲みに玄関に出ようとしたとき、裏から小気味のいい音が聞こえた。

何事かと思って出てみれば、そこにデルフを振るっている才人がいた。

手にした薪を宙に投げ、鞘走る一閃でそれを切り刻む。まるで橘右京の『秘剣ささめゆき』みたいな素早さだ。

刃が鞘に収まると同時に綺麗に斬られた薪が落ちる一連の動作に、私は思わず拍手してしまった。

 

「あ、ヴィクトリアか。おはよう」

 

「おはようさん。見事なもんだね」

 

「そうか?」

 

才人はちょっと照れたような顔をした。

 

「師匠から速さ重視で腕を磨けと言われたから、こんな練習をやってるんだ。ちょっとしたもんだろ?」

 

「実戦で役立つかは私にゃ判らないけど、普通の傭兵くらいなら楽勝だろうね」

 

「へへ、魔法使いにも勝てるぜ」

 

「へえ、立ち合いでもしたのかい?」

 

私の言葉に、才人はちょっとばつが悪そうな顔をした。口が滑った、とでも言う感じだった。

 

「ああ、ちょっとね…」

 

珍しく口ごもる様子に、何となく察しがついた。アルビオン行きの話は緘口令が敷かれていたはずだ。歯切れが悪いのは恐らくそのためだろう。

すると、どこかで髭を相手に丁々発止やらかしたということだろうか。

死線を越えた経験が彼の血肉になっているのだとしたら、腕が上がっているのも頷ける話だ。

私としてはできればウェールズ殿下の話を聞きたかったが、詐術に嵌めて白状させるのも可哀そうなのでやめておくことにした。しゃべった後で自己嫌悪する才人を見るのも忍びない。

 

「まあ、言えないこともあるだろうから詳しくは聞かないよ。実戦はともかく、今のを辻で見世物にしたらいい稼ぎになりそうな感じだね」

 

「そうだな。前に使い魔の品評会でやったんだけど、結構好評だったんだぜ」

 

「品評会?」

 

「この前、王女様が学院に来てさ。使い魔は出し物をしなくちゃいけないって言うから、王女様の前で今のをやったんだよ。優勝は無理だったけど、評判はまずまずだったよ」

 

なるほど、ルイズと才人にアンリエッタが目を付けたというのはそれか。

確かに普通の人からしてみれば信じられない剣舞だろう。私だってこの世界でディルムッドの槍捌きを見ていなければ、ガンダールヴの力に度肝を抜かれていたと思う。

 

「へえ。少年もなかなか腕の売り込み方を知っているね」

 

頷きながら誉める私に、才人は少し顔を顰めて言った。

 

「誉めてくれるのはいいんだけどさ…その『少年』っていうのやめてくれないか?」

 

「何で?」

 

「やっぱ、自分より小っちゃい子に呼ばれるのに『少年』はないよ」

 

またそれかい。

私の方がいくらかお姉さんなんだけどねえ。

 

「じゃあ何と呼べばいいんだい? サイトとでも呼べばいいかい?」

 

それを聞いて、才人は妙に哲学的な顔をした。

付き合いは短いが、何となく最近悟るところが一つある。

この男、こういう真面目な顔をした時に限ってろくでもないことを考えている。

 

「そうだな、ここはひとつ『お兄ちゃん』で」

 

私は漫画のようにずっこけそうになった。

 

「お、お兄ちゃん?」

 

「違~う!」

 

拳を握り、鬼気迫る顔で声を張り上げる才人少年。

何でこいつは朝からこんなにクライマックスなんだ?

 

「もっと甘えた声で、できれば上目づかいで言ってくれ」

 

何というか、鈍い頭痛を覚えた。

さすがの私でも、思わず引いた。

そうだった、こいつはこういう奴だったっけ。『レモンちゃん』だの『ちいさいにゃんにゃん』だのといった強烈な変態語録の持ち主だったっけね。

思春期真っ只中なのは判るが、いささか現代日本の変態文化に染まりすぎじゃなかろうか。

転生者としてハルケギニアのいろんなイベントを体験してきたが、まさかこんなアホくさいものにまでお目にかかるとは思わなかったよ。

 

「いいか、手はこうして足は内股、首の角度はこれくらいだ」

 

私が唖然としているのをいいことに、妙にてきぱきと私の手や頭に手を伸ばして角度を調整する才人。

 

「さあ、言ってごらん。声を鼻から出すような感じで『お兄ちゃん』!」

 

「頭を冷やせ、馬鹿者」

 

躊躇なく杖を振るった私の対処は、間違いじゃないと信じている。

 

 

 

 

 

とりあえず居候となった才人だが、当面は朝からマチルダの工房の手伝いをすることとなった。

診療院の方は男手は今のところ要らないし、工房なら力仕事はいくらでもあるだろうし、空いた時間に稽古も付けられるから効率がいい。

後は、現代人の体力で体が資本の工房ライフが送れるかどうかだが、そこは男気を見せてもらうとしよう。

そんな感じで2日ほど過ぎた。

午後の往診の帰り、行きがけの駄賃に書物屋によって例に寄って毒物関係の書物を仕入れてからテファと一緒に工房に顔を出した。

 

「ごめんよ」

 

ドアをくぐると、カウンターにいたのはマチルダだった。

 

「おや、往診の帰りかい?」

 

「ちょっと様子見にね。少年は?」

 

「時間が空いたから、今は裏でディーと稽古中だよ。呼ぶかい?」

 

「ん、いいや。真面目に働いていればそれで結構。それで、使ってみて様子はどうだね?」

 

「まあ、そこそこ見どころはあるね。慣れない仕事の割には、よく働いてくれているよ」

 

マチルダがからからと笑う。

 

「それは良かった」

 

「素直に気になるって言えばいいのに」

 

「何が?」

 

「とぼけちゃって」

 

そんな話をしている時だった。

 

 

 

「お邪魔するわよ」

 

何となくベチョっとした感じの色っぽい声が聞こえた。

振り返ると、燃えるような赤い髪を持つ、褐色の肌の女性がドアを開けて入って来た。

マントを着ている姿からしてメイジ。

大きく開いた胸元を見ると、ティファニア程ではないにしても、実に立派な双峰を装備していらっしゃる。

もちろん、私がよく知っている人物だった。

 

初めまして、キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。

 

「あら、ツェルプストーの。毎度どうも」

 

どうやらキュルケはこの店の馴染みだったらしい。今まですれ違いだったのか、会ったことなかったな。噂通り、歳不相応の色気が滲み出ている人だね。

そんなキュルケが私に視線を向けて、人懐こい笑顔を浮かべた。

 

「あら、可愛い子ね。店長の娘さん?」

 

私は思わず噴き出した。そして、マチルダに殴られた。

 

「私ゃまだ独身だよ」

 

さも心外そうな口調でマチルダが抗議の声を上げた。

 

「あら、独身と子供がいることは矛盾しないわよ?」

 

「結婚もせずに、そんなふしだらなことするわけないだろう」

 

原作ではアレなところもあったようだが、貴族の御令嬢を廃業してからも表稼業だけで生きてきたマチルダは、実はすごく身持ちが堅い。男と女の秘め事どころか、浮いた話ひとつ聞いたことがなく、街の男性諸氏からは難攻不落のマチルダ城とも言われているくらいガードが堅いのだ。もしかしたらファーストキスもまだなんじゃないかね、この人。

そんなマチルダが自分の潔癖な信条を話す相手が、対極の価値観の世界の住人であるキュルケというのがギャラリーとしては非常に面白い。

 

「お堅いのね。それより、ダーリンはいないかしら? ここにいるって聞いたんだけど」

 

「だーりん?」

 

「サイト・ヒラガって言う、黒髪で、剣を背負った子よ」

 

「ああ、奥にいるよ」

 

「ん、私が呼んで来よう」

 

私は立ち上がって裏口に向かった。

歩きながら思う。それが良いことなのか悪いことなのかは判らないが、今私がいる時間軸は、どこかで帳尻が合うようにできているらしい。

今回のキュルケ襲来は、恐らくは宝探しへのお誘いだろう。

私としても歓迎すべきイベントだ。どこで流れが変わるか判らないが、タルブの戦い、そしてアルビオン逆上陸でも活躍した零戦は、できれば才人の手元に置いておきたい。

 

才人を呼んでキュルケに引き渡してカウンターに戻ると、いつの間に店に入ったのか、そこに青い髪の女の子が立っていた。物静かな佇まいで、うっかり置きっぱなしにしていた私の毒物の書物に視線を向けている。

 

「やあ、久しぶりだね」

 

声をかけると、タバサは眼鏡の奥から以前見たような静かな視線を向けてきた。

 

「これ」

 

タバサが指差す毒物の資料を、私は頭を掻きながら見る。

彼女から出された宿題は、まだ終わっていないのだ。

 

「あちこち手を尽くしてはいるんだけどね。まだ、これぞと思うものが見つからないんだよ。面目ない」

 

謝る私に、タバサは微かに首を振った。

 

「約束、守ってくれているだけで充分」

 

そんなやり取りをしている時だった。

 

「ちょっと、何時まで待たせるんだい?」

 

入って来たのは金髪の優男。

はだけた胸元に薔薇の杖、出来れば視線を合わせたくないタイプの少年だった。

一目見て判ったよ、ギーシュ・ド・グラモン。

原作の描写そのままの、ナルシストの生きた見本みたいな雰囲気の少年だね。

ギーシュの向こうからは、シエスタが顔を覗かせている。

宝探しツアーの参加者御一行様勢揃いだ。

 

そんなこんなで原作濃度がかなり濃くなった店内で、学生どもがあれこれとやり取りを始めた。

キュルケが胡散臭い地図を並べて、回る順番を話し合っている。

その集いの会話の中心にいるのは、才人だ。

この時、私は初めて平賀才人という少年の持つ、数値にできない才能のことを理解した。

この子には、人を引き付ける奇妙な天性があるようだ。

それはカリスマというのともまた違う、不思議な力だ。

原作でも、学院の皆が集まった時には才人は自然とその中心になっていた。今この時もそうだが、キュルケもギーシュもタバサも、考えてみればもともと平民である彼と対等の立場で話をする方がおかしな連中なのに、それが才人と友達付き合いをしているような様子がすごく自然に見える。

憎めないと言うか、妙に人間くさい魅力が才人にはある。

原作を思い返せば、それに引き寄せられた友人の何と多いことか。

だからこそ、これからの多くの試練を彼は乗り越えて行けるのだろう。

前にも言ったかもしれないが、私もまた才人のような奴は嫌いじゃない。

恋愛対象という意味ではなく、人として彼には好感を持っている。

こういう奴と友達になれると言うのは、恐らく人生の幸福の一つなのだと思う。

 

意外なことに、そんな会話の中に、自然な感じでテファが溶け込んでいた。

王都住まいの平民ゆえの情報を訊かれている内に会話が弾み、果てはキュルケが目を剥いて胸に手を伸ばしてくるのにテファが両腕で抱えるように胸を隠して抵抗し、それを男連中が羨望の眼で見つめている。間にシエスタという平民が入ってくれているのが、程よい潤滑油になっているようだ。和気藹藹とした、青春くさいじゃれあい。

良い傾向だ。

もともと、人に好かれる天性では才人にもそう負けていないのに、私の手伝いばかりで同年代の友達があまりいないテファだ。このまま、この子たちと友情を深めてくれると私としても嬉しい。また、打算的な考えで恐縮だが、彼らもまた才人と同様にこれからのテファの力になってくれるであろう存在だ。

特にギーシュは女にだらしないように見えて、あれで信用できる男だ。テファを守るためにクルデンホルフの公女相手に己を顧みない啖呵を切って見せた辺りは特に印象深い。あの時のギーシュは物語の中で最も男らしくて素敵だった。その後で女湯を覗いてせっかく上がった株を落としさえしなければ綺麗にまとまったあたりはご愛嬌だ。

女性陣に目を向ければ、キュルケもタバサもテファを敬遠する気配はなく、むしろ平民であることを気にせずに積極的に構ってくれているし、シエスタとは先日の私の学院訪問の関係で以前から顔見知りだ。何気に面倒見がいいこの二人がいれば、テファも皆と上手くやって行けるだろう。

後は、早いところテファの出自について打ち明けられるくらいの信頼関係が築ければいいのだが、それについては先は少し長そうだ。ウェストウッドの森の話があれば最初にハーフエルフありきだったのだが、それについては状況の流れに任せるしかないだろう。

それはそうと、クルデンホルフで思い出した。

あのアホ公女、テファの顔を張り飛ばしてくれたんだっけ。

乙女の顔に、しかもテファの、私の可愛いティファニアの顔に手を上げるなんて。

思い出したら強烈に腹が立ってきた。今からあのアホ姫の頭の皮を剥ぎに行こうか。

連鎖的に思い出したが、あの事件の問題点はそれだけじゃない。あの後の才人の所業も看過できん。世間知らずだったテファの胸を無遠慮にまさぐるとは、刎刑にも値する大罪だ。

私の目の前で同じことをしたら、こいつも私の母方の伯父と同じ目に遭わせてやろう。

 

 

そんな感じで、まだこの世に存在しない罪を思って黒いオーラを発していた時だった。

 

「あら~、怖い顔してどうしちゃったのかな、ヴィクトリアちゃんは」

 

いきなりマチルダが背後から私の首に抱きついて、思わせぶりなことを言う。

 

「どうしたって?」

 

「いいのかい? あの坊や、テファに取られちゃうよ?」

 

こらこら。いろいろ気遣ってくれたのはありがたいが、元よりルイズ一択の才人少年にそんな感情を持つわけがない。

仮に懸想したとしても、私は略奪愛という奴が嫌いだ。略奪されるような意志の弱い男は、いつか自分のことも裏切りそうで信用できん。

 

「馬鹿なこと言ってるんじゃないよ。そういう意識を持ったことなんかないよ」

 

「へえ、そうなんだ?」

 

「はっはっは。年下は好みじゃないさね」

 

冗談めかして言うと、マチルダはすごくかわいそうな人を見るような目で私を見た。

 

「あんたが言うと、とんでもなく違和感があるね、その台詞」

 

「うるさいね。とにかく、テファにジェシカ以外にも同年代の友達ができそうなんだ。姉としては暖かい目で見守ってやりたいじゃないか」

 

「ふ~ん、私の見立て違いだったかねえ。じゃあ、あの頭が寂しい先生の方がいいのかい?」

 

「コルベール先生?」

 

「あそこまで歳が離れていると、さすがにいろいろ問題あると思うよ? 悪いけど、本気だったら私は止めるよ?」

 

「何でそうなるんだよ。第一、あの人は売約済みだよ」

 

その未来の買主は、目の前で才人にじゃれついているが。

 

「え、そうなの? じゃああんた、もう弾がないじゃないか」

 

「いい加減、その話題から離れなよ。まだ若いテファならともかく、マチルダの場合は自分の墓穴も同時に掘っているって判らないのかい?」

 

「な、なにおう」

 

「うわ、やめなって、お、重い~」

 

 

 

僅か2日ほどの居候だった才人少年は、その日の内に予定調和のように宝探しに旅立っていった。

頼ってすぐに出ていくようで申し訳ないと、頭を下げて勝手を詫びるあたりは才人も筋の通し方を知っていると思う。

その宝探しだが、どういう話の流れか面子にテファが加わっていた。

おねだりする子供みたいな口調で『ねえ、姉さん、誘われたんだけど、私も着いて行っていいかなあ?』と訊いて来るテファがすごく可愛かったのはともかく、彼らと親交を深めることはむしろ歓迎なので私は快く送り出すことにした。

もちろん、マチルダと私で才人にでっかい釘を刺すことも忘れない。

できればディルムッドをお供に付けたかったが、美男ゆえにキュルケに絡まれると面倒くさそうなので、今回だけは才人少年を信用することにした。

才人に加えてトライアングル二人にドットが一人。そうそう困ったことにはならないだろう。

 

送り出したはいいが、心配であまり眠れずに過ごすこと数日。

私のやきもきが絶好調に達しタルブに出向こうかと思い始めた日の夕方に、笑顔のテファが元気に帰って来た。

その日の夜、まるで遠足帰りの子供の話を聞く親のように、私たち三人でテファの話を拝聴した。

実にいい笑顔で話を紡ぐティファニア。本当に楽しかったようだ。

学院の面々には、あとで御礼状を書くとしよう。

無論、ただ聞くだけではなく、各フラグの確認も忘れちゃいけない。

それだけに、キーワードとして『竜の羽衣』の単語が出た時には少しだけ安堵のため息が漏れた。

零式艦上戦闘機は、無事に才人の手に渡ったらしい。

 

良くも悪くも、今の時間軸は未だに予定調和から抜けていないようだ。

これから記されるのは、新たな英雄の伝説。

蘇りしガンダールヴ、英雄サイト・ヒラガの伝説の幕開けを私は確信した。

 

 

 

ウルの月の末、王女の婚礼の3日前のことだった。

トリステインにとっては悪夢のような、そして私にとっては予想通りの事件が起こった。

神聖アルビオン共和国による宣戦布告と、間をおかずに始まったタルブ侵攻。

アルビオンの暴挙に、王都は騒然となった。

政治的な情報は入りづらくても、戦争となれば情報の流れは驚くほど速い。

王都全体に禁足令が出され、町内会も憲兵と協力して練ってきた対応策の実施に取りかかった。

私もまた、非常時のための救護所の設営に奔走する。

私には野戦病院の経験はないが、前世の仕事の関係上『国境なき医師団』の話を聞いたことがあったので、テント型の治療施設を作ることについてはある程度ノウハウがある。

戦は嫌いだが、町内会の役員としては、さすがに王都が戦場になった際には民間協力者として王軍を支援しなければならないだろう。

戦況はまだラ・ロシェールで睨み合いが始まったばかりのようだが、戦列艦や竜騎兵の移動速度を考えると、前線が破られて侵攻が始まればトリスタニアへの到達はすぐだろう。

それに備え、トリスタニアでも老人や女子供の避難の第1陣が始まった。先日私が出かけた大きな公園に難民キャンプが設営される手はずになっている。すべての避難が完了するまで2日はかかるだろう。マチルダとティファニアも明日避難の予定だ。

空き家になった街については武器屋が組織した自警団と、助っ人としてディルムッドが火事場泥棒に対して目を光らせている。金目の物や家財道具がまだたくさん残っているトリスタニア。侵攻の際には略奪の憂き目に遭うのだろうが、命あっての物だねと我慢してもらうしかない。婦女子にしても、まずは己の身の安全が第一だ。

ルイズの虚無という起死回生の一撃で戦闘が終わることを知っていても、最善を祈って最悪に備えるのは有事の際の鉄則というものだ。私としても、何かのはずみで歴史がずれてしまう可能性がないとも限らないからには、できることはすべてやっておきたい。

ピエモンの采配により、粛々と段取り通りに行われている避難は実にスムーズだ。

こっちも負けてはいられない。

そんな感じでバタバタと働いていた時、通りをギャロップで過ぎていく兵士たちの中に、見知った顔を見た。

短い金髪の、精悍な女戦士。

 

「アニエス!」

 

その姿を理解するなり、私は叫びざまに走り出した。

 

「アニエス!」

 

再度の呼びかけに、アニエスはようやく気付いて振り返った。

 

「院長か、役目御苦労!」

 

「タルブだね!?」

 

「ああ。今まで世話になったな!」

 

その言葉の裏に感じた彼女の決意に、私は無性に腹が立った。

原作では、この戦いでアニエスが功績をあげて騎士に叙せられることは知っている。

しかし、時間軸が異なるこの世界では、何が起こるか判ったものではない。縁起でもないことは冗談でも口にして欲しくなかった。

 

「馬鹿なことをいうんじゃないよ!」

 

私は乱れてきた息の中で怒鳴った。

 

「怪我まではいい、怪我までは私が面倒みるから、死ぬんじゃないよアニエス。死んだら許さないからね。絶対に生きて帰って来るんだよ!」

 

馬の脚が早まり、馬群は私を置いて走り去っていく。

アニエスが何か言っているが、蹄の音にかき消されて聞こえない。最後にアニエスは私に腕を上げて見せ、そのまま走り去って行く。

 

その後姿を見送りながら、私は思う。

やはり私は戦争は嫌いだ。

医師としての信条はもとより、戦争は理不尽にいろいろな物を奪って行きすぎる。

親しい者が戦場に赴く時、そこには常に帰ってこないかもしれないという可能性が付きまとう。

見送った後姿が、その人をみた最後の記憶になることほど悲しいことはそうそうない。

それが肉親であり、友であればなおのこと辛い。

心の底からアニエスの無事を祈りながら、街の外に消えていくまで、私はその後姿を見送った。

 

 

 

 

 

血みどろの戦いがあった。

多くの者が倒れて逝った。

砲が唸り、魔法が飛び交い、屍山血河が大地を彩った。

制空権を奪われ、巨艦から砲撃を浴びせられ、トリステインが窮地に置かれた時。

 

タルブの地で、始祖の奇跡が具現化した。

それはあたかも地上に生まれた太陽のようであり、その一撃で圧倒的なアルビオン艦隊を打倒した。

 

動乱の第1楽章が始まった。


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