トリスタニア診療院繁盛記   作:FTR

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その20

 『転生もの』というジャンルがある。

 ネットSSの世界の話だ。

 原作の知識や、現世のいろんな技術を使って異世界で大活躍、というのがスタンダードなパターンだ。

 しかし、実際にその境遇に落ちてみて私は思い知った。

 現実というものは、生まれ変わろうが世界が変わろうが、残酷で厳しいものなのだ。

 物心がつき、魔法の存在を知り、ハルケギニアという言葉を聞いた時点で、私はこの世界が『ゼロの使い魔』のそれであることに気が付いた。

 

 

 

 ― いいのいいの、道具はね、使うためにあるのよ ―

 

 

 ― あんたもたまには、故郷に帰るんだね。親に顔を見せてやりな。私みたいに、帰る場所がなくなっちまう前にね ―

 

 

 

 

 ゼロの使い魔と言えば、私はティファニアが大好きだった。

 気立てがよく、反則なスタイルを持ち、芯が強くて、おまけに美少女。

 作品が作品であれば、メインヒロインを張れるキャラだ。女の私の目から見ても、ヒロインであるルイズよりよほど応援したい娘だった。

 そのティファニアの陰にいるのがマチルダ・オブ・サウスゴータ。

 ワルドとペアで物語の裏街道を進む、不遇の美女。そして、ティファニアの保護者にして、姉。およそ、幸せになれるパターンが想像できないキャラだった。

 ハーフエルフに生まれ、過酷な宿命を背負いながらも優しさを失わないティファニア。

 闇に身を落とし、それでも妹だけは守ろうと業火に身をさらし続けた『土くれのフーケ』ことマチルダ。

 作品を読むたびに、いつも私は思った。

 

 何で、この二人が不幸せにならなければならないのか。

 

 世の中は、確かに不条理で満ちている。

 しかし、この二人にそこまでの業があるとは思えない。

 ならば、何が悪かったのか。

 決まっている。

 モード大公。

 彼の浅慮が、彼女らの不幸を決定づけたのだ。

 この場合、愛は免罪符にならない。

 相手の幸せを願うなら、涙を飲んでシャジャルを手放すべきだったと思う。

 そうすれば、誰一人泣かなくて済んだはずなのに。

 

 話が進み、ティファニアはやがて友を得、恋を知り、差別を受ける立場を脱して幸せを掴んでいく。

 しかし、私が覚えている範囲では、その陰でマチルダは尚も闇の中を歩き続けていた。

 

 もし、私自身に力があれば、早い段階からいくらでも運命の歯車をいじれただろう。

 しかし、ちっぽけな子供であった私は、自分のことで精一杯だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 落成した診療院での最初の夜だった。

 

 四人そろっての半月ほどの宿屋暮らしの間に、買い取った空き家を大工に頼んで直してもらっていたのがようやく出来上がり、皆で過ごす初めての夜だ。

 さて、これから新生活という肝心要のスタートであるが、初っ端から抱えた問題があった。

 当然ではあるが、マチルダもティファニアも料理というものが全くできなかったのだ。

 太守の娘ともなればお抱えの料理人はいただろうし、ティファニアはまだ子供だ。

 そういう機会がなくても、まあ仕方がないだろう。

 そんな訳で、その夜の夕食は私が作ることとなった。この辺りは前世でとった杵柄だ。

 助手はディルムッド。さすがは英霊、芸域が広い。

 料理といってもコース料理のようなとんでもないものは作らない。

 作れと言われれば真似事くらいはできるが、あんなものをいつも食べていたら生活習慣病になってしまう。

 何より、今の私たちにそんなお金はない。

 室内の調度を整えるのは皆に任せて、市場に買い出しに出かける。選んだ食材は、私なりにバランスを考えたものだ。

 ニンジン、ジャガイモ、タマネギ。手の加え方ひとつで何にでも化けられる三種の神器だ。

 それに動物性タンパク質として肉を少々。

 調味料として、タルブ特産の『ショウユ』が手に入った。

 マチルダもティファニアも手伝いを申し出てくれたが、それほど広いキッチンではないし、明日以降キッチンを任せる予定のティファニアには別途教授するということで、二人には配膳を担当してもらうことにした。ディルムッドにはサイドのサラダの用意をしてもらう。

 まず、ずらりと食材と調理器具を並べてメインの段取りを反芻する。

 

 

 ・ジャガイモとニンジンとタマネギを食べやすい大きさに適当に切る。

 ・鍋にそれらを入れて、ひたるくらいの水を入れる。

 ・強火にかけて煮立てる。

 ・煮立ったら中火にして、砂糖を入れて数分煮込む。

 ・充分煮えたら、ショウユを大さじ1杯を加えてさらに煮込む。

 ・肉を投入する。

 ・肉の色が変わったらショウユをさらに大さじ1杯半加えて灰汁取りをする。

 ・落し蓋をして10分ほど煮込む。

 ・ジャガイモが充分煮えたら落し蓋を外す。

 ・強火にして適度に水分を飛ばす。

 

 

 確かこんな感じだったはず。

 我ながらちょっと自信がなかったが、食えない物になることはないだろう。

 もとより、アルビオンは料理がまずいことについては折り紙つきだ。

 そこそこ味が整っていれば文句は出ないだろう。

 とりあえずスタートしてみる。

 スルスルとニンジンの皮を剥きながら自分の手を見る。

 ずいぶん荒れていた。

 しばらくの間とは言え、浮浪児をやっていたのだからきれいなわけがない。

 治癒魔法ひとつできれいになるが、そんな気を回している余裕もなかった。

 働き者のきれいな手、という表現もあるが、正直、手のきれい汚いについては、あまりいい記憶はない。

 

 

 

 

 あの日のことが、何だか遠い昔のような気がした。

 

 

 

 

「何ということをしたのです、お前は!」

 

 母が叫んでいる。

 体を震わせ、その表情は恐れや憤怒に歪んでいた。

 もともとヒステリックな人だったが、顔に青あざを作り、服をボロボロに引き裂かれ、そして返り血を付けた私の様子に、彼女の中の狂気のスイッチが入ったようだった。

 

「兄の庇護なくして私たちが生きていける訳がないでしょう。それを何故そのような恐ろしいことを! 恩義ある兄の伽の一つもできぬと言うのですか!」

 

 母の言葉が、私の脳内でぐるぐると回り続けた。

 何故だ。

 母の言うことが、理解できない。

 それとも、理解できない私がおかしいのだろうか。

 暴行されかけた娘に対し、何故そのようなことが言えるのだろう。

 私は正直に胸の内を述べた。

 

「こんな目に遭ってまで、あの人の庇護を受けたくありません。私たちには魔法があります。真面目に働けば、生きていくことなど難しいことではないと思います」

 

「私に手を荒らせと言うのですか! 貴族の娘である私に!」

 

 生まれた時から、苦労というものをしたこともないような白い指を、私に突きつけて母は怒鳴る。

 本当に白い、爪もきれいに整った指だ。

 その手の美しさに、得体が知れない生き物のぬめりのような気持ち悪さを感じた。

 恥のないところには、同時に誇りも存在しない。

 ひたすら誰かに寄りかかって生きていることを良しとするのが、果たして貴族というものであろうか。

 今とは違う生き方を模索すると言う概念すら、この人にはないのだ。

 理解と言う圧力が高まり、その圧を受けて私の心の中の器に、罅が入った。

 

「それだけの……それだけのための、私は生贄なのですか?」

 

「子が親の言うことを聞くのは当然でしょうに!」

 

 母は震える手で杖を取った。

 

「仕方がありません。私がお前を仕置きして、兄への謝罪といたします」

 

 その言葉で、私の中の器が一気に割れ砕け、水が怒涛のように溢れ出た。

 物心ついた時から、もしかしたらと思ってはいた。

 この時、やはり、と思ってしまった。

 僅かに、可能性として信じていた母の愛が、この瞬間に朝露のように消えた。

 感情はない。

 ただ、作業のように、心の中で濁流を渦巻いている水をイメージして、私は母より先にルーンを唱えた。

 

 

 さようなら、私の母だった人。

 

 

 私は、欠片ほどの躊躇いもなく、杖を振り下ろした。

 

 恐らくはこの時に、私の心のとても大切な部分が壊れてしまったのだろう。

 割れ砕けた器のように。

 そのことが何に繋がったのかは判らない。

 過度な精神的なストレスが遺伝子に働きかけたのか、はたまた魔力の循環異常を引き起こしたのか。あるいは、幼少期からストレスに抗い続けて来た私の中の傷だらけのクウォーツが、ついに砕けたのかも知れない。

 原因は判らなくても、結果は静かにこの身を訪れた。

 

 この時、私の時間は凍りついた。

 

 

 

 

 北部連合と中央を結ぶための政略結婚。

 それが父母を結びつけた縁だった。

 その結晶として生まれた身ではあるが、望まぬ結婚を強いられた父にとって、生まれた私は疎ましい存在以外の何物でもなかったらしい。公の機会でもない限り、私が彼を見る機会はほとんどなかった。

 いろんな意味で自由人だった母にしても同様で、私が住む家で彼女を見かけることは一年の半分くらいだった。

 私の育成には乳母と従者が数名ついたきりで、しかもそいつらも最低限のことしかしてくれないビジネスライクな連中だった。

 公女の身の上では安易に外出もできず、放任主義の両親からは、然るべき身分の友人も手当てしてもらえなかった。

 話し相手は、しかめ面で面白みのない家庭教師だけという日々が私の幼少期だった。

 一度逃げ出そうとしたが、あっという間に見つかり、警備担当の兵の数名が責任を問われて暇を出されることになった。

 一瞬で人生が狂ってしまったあの時の彼らの目は、今でも忘れられない。

 私の軽挙が、彼らの生活に罅を入れてしまったのだ。

 私はいよいよ身動きが取れなくなった。

 そんな状況で、未来を知っているとか現代知識があるなんてことは生かそうにも手段がなく、徒に時を重ねる中で、私は私の戦いを強いられることになった。

 

 

 敵の名は、『孤独』と言う。

 

 

 気楽と言えば気楽だが、孤独というものは、鉄を蝕む錆のように静かに深く心に浸透していき、時には人の命すら奪うとんでもない代物だったりする。

 一人、食事を摂る。

 巨大なテーブルに、ふんだんに用意された料理。

 しかし、50人は座れる食卓についているのは私だけだ。

 父はもとよりこの家に寄りつこうとはしないし、建前上は同居人である母は、どこかの貴族の子弟と幾つもある別宅に入り浸りだった。

 使用人たちに相伴を持ちかけたこともあったが、頑として受け入れてもらえなかった。

 大きすぎる屋敷に、一人で住んでいるような空虚な気配が私の周囲には常に漂っている。

 砂を噛むような食事は、食事と言うより餌だ。

 飢えて死なないように、自分で自分に与える餌。

 立場的に、友達を作ることもできない籠の鳥のための餌だ。

 転生者であっても、誰とも会話のない日々と言うのは心に堪える。

 そんな日々の中、私は磨滅して行く自分の心を維持するので精一杯だった。

 

 孤独を紛らわすため、私は魔法の勉強にエネルギーを注いだ。

 おぼろげながらに覚えていた医学の知識と治癒魔法の似ている点や違いを考えるのは面白かった。

 自分が何者だったかはこの時はまだはっきりと思い出せていなかったが、その知識と魔法の技術の親和性の高さに私は魅せられた。

 時間がある時は、庭にあった大きな楡の木の根元に座って幹の中を流れる水の気配を聞いた。

 大地から吸い上げられた水が、葉から空に消えていく生命の息吹を感じていれば、この緩慢な地獄も耐えることができた。

 

 

 水は、私の根幹であり、寄る辺でもあった。

 

 

 

 

 

 

 

「水のようになるんだよ」

 

 聞こえてきた声に、私は振り向いた。

 懐かしいキッチンだった。

 エプロンをつけた母が、鍋で何やら煮物をしている。

 醤油やら味醂やらが並び、ジャガイモ、牛肉、玉ねぎ・・・。

 懐かしい匂いが鼻をくすぐる。

 

「わかるかい?」

 

 母の言葉に私は答えた。

 

「わかんない」

 

 母は笑いながら、歌うように言う。

 

「固定観念を捨てて、心と体の力を抜いて、どんなことにも対応できるように自分の中から形を無くすのさ。水のようにね」

 

「むう……」

 

「水は茶碗に入れば茶碗の形になるし、茶瓶に入れば茶瓶の形になる。ゆるゆると流れることもできれば、滝のように激しく打つこともできる。それくらい柔軟に物事を考えるのが、世の中をうまく渡って行くコツだよ……おっと、そろそろかね」

 

 母は火を止めて、煮ていた物を器によそって私に差し出した。

 その手を見つめる。

 仕事で荒れた、がさついた手だった。

 余裕を削り、自分の命を削り、そろそろ削るところがなくなっていそうなほど、働きづめの母の手だった。

 

「ほら、味見をしてみな」

 

「……肉じゃがだ」

 

 私は確認するように呟いた。

 それは軍神・東郷平八郎のパワハラの果てに生まれた奇跡の逸品。

 一口食べ、深い味わいに頷く。

 

「美味」

 

「久々だったけど、うまくできたかね。おかずはこれでいいね?」

 

「うん。充分」

 

 頷いて、私はふと思って訊いてみた。

 

「ねえ、さっきの水がどうとか、っていうの、誰の言葉? お父さん?」

 

 父は亡くなって8年近く経つ。彼の事を、私はほとんど覚えていなかった。

 

「まさか」

 

 母は笑った。

 

「ブルース・リーだよ」

 

 それだけ言うと、母は上着を着て玄関に向かう。

 勤務医である彼女は、これから夜勤だ。

 私も、母のバッグを持って、後ろにくっついて行って玄関まで見送る。

 

「それじゃ、行って来るよ。戸締りはきちんとするんだよ」

 

「いってらっしゃい。今日は寝られるといいね」

 

「う~ん……日付が変わるあたりで雨だからなあ。交通事故の搬送が多いだろうね」

 

「大変だね、お医者さんも。体、大丈夫?」

 

 知り合いの看護師が言うには、母がいる病棟は『女王の病棟』と言われるくらい母中心で回っているそうだが、いくらそんな女傑でも、連日の長時間勤務は辛かろう。

 

「お前は余計な心配しないでしっかり勉強しな。来年から中学だよ。少しは漫画以外の本も読みな」

 

 私の頭をペシッと叩き、バッグを受け取って母は出かけて行った。

 その背中を見送り、キッチンに戻ると、食卓に、肉じゃがが湯気を立てていた。

 一人、食卓で肉じゃがをおかずに夕食を食べる。

 正直、出かけてしまう母に、伝えたい気持ちはあった。

 しかし、女手一つで私を育ててくれている母の前では、さすがに泣き言は言えなかった。

 気持ちを飲み込みながら口にしたジャガイモは、さっき味見したものとは別の物に感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ほこほこと湯気を立てる、豪勢とは言えないながらも温かい夕食がテーブルに並んでいる。

 

「変わった料理だね。シチュー、じゃないし……」

 

 マチルダが私が作ったメインをまじまじと眺める。

 ティファニアも興味津々だ。

 

「『肉じゃが』、という料理だよ」

 

 作るだけ作ってみたが、味醂がなかったので結構『なんちゃって肉じゃが』な出来栄えだった。

 味の方はそれなりに整ったので、食べられないことはないと思う。

 

「自信はないけど、温かいうちに味見してみておくれ」

 

 物を食べるのに理由はいらない。

 全員が食卓に座り、それぞれが信じるものに祈りを捧げる。

 私はワインに手を伸ばして、皆が肉じゃがに手を付けた時の反応を眺めていた。

 やや大ぶりなジャガイモを割って口に運び、驚いたような顔でマチルダが言った。

 

「美味しいね、これ」

 

「うん、すごく美味しい」

 

 ティファニアも目を丸くして賛同の意を示す。ディルムッドはどこかの騎士王のように、唸りながら何度も頷いている。

 お世辞ではないようで安心した。

 

「それはよかった。ちょっと調味料が足りなかったから本当に自信がなかったんだよ」

 

「本当に美味しいよ、うん」

 

 皆が、にこにこしながら料理に手を付けていく。

 それは穏やかな、家族の食卓という光景だった。

 ふと、自分の中に感じた微かな灯に戸惑いながら、私も自分の皿に手を付けた。

 味が良く染み込んだ、煮崩れる直前の、柔らかいジャガイモを口に運ぶ。

 ほのかに甘く、やや塩味がするジャガイモが、ほろりと、口の中で蕩けた。

 

 

 それは、本当に突然だった。

 ジャガイモを見ていた視界が、不意にぼやけ、ポタポタと温かい滴が、テーブルに落ちた。

 

「あれ?」

 

 私は思わず声を漏らした。

 驚いたように、3人が私を見ているのが判る。

 

「変だね、何だろうね」

 

 私の目から、止め処なく涙が溢れていた。

 

「ど、どうしたのさ?」

 

 マチルダに訊かれても自分でも判らない。

 

「どうしたんだろうね、本当に。どうしたんだろうね」

 

 顔をぐしゃぐしゃにして、鼻水まで流して、この世界に生まれて初めて、私は泣いた。

 

 簡単なことだった。

 私が欲しかったものは、こんなに当り前なものだったのだ。

 信じられる人たちと一緒に、普通に食べる、晩御飯。

 最高の素材を用い、最高の料理人が腕を振るった晩餐でも潤わなかった心が、それだけで暖かいもので満たされていく。

 

 『転生もの』というジャンルがある。

 ネットSSの世界の話だ。

 原作の知識や、現世のいろんな技術を使って異世界で大活躍、というのがスタンダードなパターンだ。

 どういう理由で、自分が転生する羽目になったのかは自分でも判らない。

 よくあるパターンを踏襲するなら、転生をすれば、そこは幸せな世界だったことだろう。

 愛してくれる家族がいて、類まれな才能を持って、世界のすべてが味方のような物語を紡げただろう。

 しかし、私が生まれ落ちた先は、私にとっては地獄だった。

 周りには誰もおらず、自分が望むことも何もできず、ただ時間だけを重ねることを強いられた牢獄だった。

 神を恨んだこともあった。

 この世界のことを知った時は始祖ブリミルも恨んだ。

 前世をどうやって終えたのかは知らないが、天寿を全うしたのなら、静かに眠らせて欲しかった。

 誰が、新たな人生を歩みたいと言ったか。

 誰が、孤独を味わい、辛酸を舐めたいと望んだか。

 誰が、こんな生き地獄に来たいなどと願ったか。

 私の魂は、幾度となく双月に向かい、声を上げずに慟哭してきた。

 

 そんな中で出会ったのが、ディルムッドであり、マチルダであり、ティファニアだった。

 

 おこがましくも、ティファニアやマチルダを、私は助けたつもりでいた。

 それは私の思い違いだった。

 

 

 助けてもらったのは、私だ。

 

 

 一緒にご飯を食べてくれたのが、たまたま彼女たちだったということは確かだ。

 巡り合わせの賜物とも言えるだろう。

 しかし、あの時、私の心が感じたものだけは他に代えられないものだったことも確かなのだ。

 誰が何と言っても関係ない。

 彼女たちは、私にとって、かけがえのない姉と妹だ。

 彼女らの笑った顔を見ると、それだけで胸がポカポカするのだ。

 長い一人旅の果てに、ようやく手にした宝だ。

 それを守るためならば、私は躊躇わずに命を懸けることだってできるのだ。

 

 ただひたすら泣いている私の周りでマチルダとディルムッドがおろおろし、ティファニアはもらい泣きして泣き出してしまった。

 

 診療院の最初の夜は、そんな感じだった。

 

 

 

 そんな皆に、言いたくても、まだ言っていない言葉がある。

 

 

 ただ、一言。

 心からの、感謝の言葉を。

 

 

 

 

 ありがとう、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 

 気持ちが言葉になり、言葉が声となって、聴覚を刺激した。

 それをきっかけに、視界が徐々に光を取り戻す。

 ぼやけた視界で見上げた天井は、よくある話だが知らないそれだった。

 ずいぶんと天井が高いところを見ると、かなり豪勢なお屋敷なのだろう。

 

 どこだろう、ここは?

 

 呟こうとして、喉がカラカラなことに気が付いた。

 思わず咳こんだ時、すぐ近くで何かが落ちる音がした。

 強張った筋肉を動かして振り向くと、そこに切り花を取り落として震えるマチルダが立っていた。

 

「ヴィクトリア?」

 

「……マチルダ?」

 

 数瞬の沈黙ののち、マチルダはすぐに慌てて手近にあった呼び鈴の紐を引いた。

 次に私の脇に駆け寄って、私の顔を両手ではさみこんで怒鳴った。

 

「この馬鹿! どれだけ心配したと……」

 

 吐き出そうとした感情が大きすぎたように絶句し、そして、マチルダはそのまま泣き出してしまった。

 感情に任せ、ただ、子供のように。

 

 吠えるように泣くマチルダを見ながら、私は思う。

 生きていてよかった、と。

 私は、とても幸せな奴だ、と。

 今ここに、私のために泣いてくれる人がいる。

 二度目の人生という泥沼の中で、懸命に這いずるできそこないの転生者にも、泣いてくれる人がいるのだ。

 この世界で、それ以上に嬉しいことがあるだろうか。

 

 神になぞ感謝はすまい。

 ただ、皆に会わせてくれた運命にこそ、感謝をしよう。

 

 知らぬ間に、私の目からも涙がこぼれた。

 

 

 

 屋敷の家人が駆けつけてくるまで、私たちは二人で泣いていた。


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