「んん…ふうあああ。喉乾いたぁ…」
モゾモゾとベッドの上にある白い掛布団が動き、その中からバーバラが出てくる。
4つのベッドが置かれているこの部屋にはそれ以外には小さいテーブルと大きな箪笥が1つずつあるだけだ。
テーブルの上には火の消えたランタンが1つあり、それが1列に並んだ4つのベッドを2つずつにする境界線のように存在している。
窓から外を見ると、まだまだ太陽が出ておらず、夜明けまでまだまだ時間がかかりそうだ。
バーバラが寝ているベッドは列の右端で、その隣にはミレーユがすやすやと静かに眠り、その隣のベッドにいるハッサンは掛布団を床に落とし、体が反対に向いて眠っている。
チャモロはある理由でこことは別の建物で休んでいる。
だが、そのもう1つ隣のベッドには誰もいない。
その上には彼が着ていた、茶色い布でできた無地のパジャマが置かれている。
ちなみに、このパジャマはここで寝る前に渡されたもので、4人ともサイズに違いはあれど同じものになっている。
「…レック?」
そのベッドで眠っているはずの仲間の名前を口にする。
彼を探そうと思ったバーバラはハッサンが起きないよう警戒しながらその場で服を着替え、ランタンを手に取る。
そして、メラで火をつけた後でそれを左手で持ち、ゆっくりと部屋から出て行った。
建物から出たバーバラはランタンで周囲を確認しながら進んでいく。
石でできた街道の構造はレイドックのそれと大差ないものの、それがあるのは中央のメインストリートのみで、それ以外の道は土で作られ、その左右には草木がある。
藁ぶき屋根のある白いレンガの家が何軒もあり、バーバラが出た家も例外ではない。
メインストリートを北へまっすぐ進むと、岩山が存在し、その中腹には神殿がある。
ゲントの村はレイドック国領の一部であるものの、このように大きな文化的違いを見せる村であり、癒しの神ゲントを古くから信仰し続けてきた場所だ。
標高の高い場所に位置するためか、それとも北へ大きく移動したためかレイドックと比較すると少し気温が低く感じられる。
なお、この地域では自給自足が実践されており、昨晩バーバラ達をもてなした米や豆のスープ、山菜のおひたしはすべてこの村の人々の手によって生産された食料で作られたものだ。
病人やけが人、老人や乳児以外は肉と魚は月に1度、初代長老の命日にのみ食べることを許される。
これは自分たちの生が他の生物の死によって成り立ち、生命の尊厳を実感するための取組だ。
「ハア!!くうう!!デヤァ!!」
建物の裏にある広場からレックの声が聞こえる。
その声と共に、剣を振る音もする。
「レック…」
広場まで来たバーバラが彼を見つめる。
ゲントの村まで移動している間、彼は夜明け前に起きてこのような修行を繰り返すようになった。
時には徹夜で修行をしていることがあり、毎朝両手は汗とつぶれたまめから出た血で濡れていた。
「ハアア!!ウオオオ!!…!?」
剣を振るレックの足の動きが乱れ、転倒してしまう。
そんな彼を見かねたバーバラが彼に駆け寄る。
「レック!?」
「バーバラ…?どうしてここへ?」
こっそりと抜け出したはずなのにと思いながら、バーバラの瞳をじっと見る。
彼女の瞳に映るレックは目にくまを作っており、疲労のためか肌が少し荒れている。
「ねえ、レック…。その、ね…最近無理をしてるんじゃない?」
「無理…?」
「だって、あたし達の見ていないところでもこんなに疲れるまで修行をしているから」
心配そうにレックを見つめる。
能天気で明るい彼女でも今のレックの前では本来の調子で接することができない。
「そんなことないよ。ムドーを倒すためにも…」
少しだけ目をそらしつつ、修行する訳を口にするが、急に彼に睡魔が襲い掛かり、そのままバーバラの腕の中で眠ってしまった。
「レック…あなたは1人じゃないんだよ…?」
「んん…?」
目を開いたレックの視界に広がるのは真っ暗な空間。
見えるのは闇以外には足元にある灰色の無機質で冷たい石造りの床だけ。
先程まで修行していた広場とは大違いだ。
「ここは??」
バーバラの腕の中で眠ってしまったことまでは覚えているが、なぜ自分がここに立っているのかいまだに理解できない。
装備しているのも剣だけで、盾も鎧も装備していない。
「ハッサン、ミレーユ、バーバラ…?」
回りを見渡しながら前へ進む。
しかし、歩いても歩いても目に映る景色は変わらない。
1時間…2時間…3時間…。
孤独で肩を貸す仲間も風の音も聞こえない、闇の空間を歩く。
靴を隔てて感じるのは堅い床の感覚、そして両足に伝わる疲れ。
疲れで足を止めると、前方から大きな足音が聞こえてくる。
「誰だ…?誰かいるのか!?」
腕で額の汗をぬぐい、その足音がする方向へ足を進める。
誰がいるのかわからないが、とにかく味方である可能性にすがるしかない。
これほどの大きな足音が人間の物であるはずがない。
だが、何時間も闇の空間を歩き続けた彼の思考は摩耗していて、今のレックにはそれに気づくことができなかった。
分かることは、進むにつれて足音が大きくなることだけだ。
あと少しで足音がする場所につくと思ったその時…。
ボ、ボ、ボボボ…ボ…。
ゴオオオオオ!!!
レックの周囲に数個の青い火の玉が発生し、その後で一気に数十個の同じものが発生して彼を包み込む。
そして、その炎によって視界が広がり、足音の主の姿を見せる。
「あ、あ、ああああ!!」
緑色の鱗、巨大な体、体を突き破って心に直接寒気を与えるようなプレッシャーを放つ瞳。
レックの前にいるのは…ムドーだ。
「なんで…なんでムドーがそこに!?」
無我夢中で手にしている剣を構えるが、彼の心にまたあの時の恐怖が襲い掛かる。
それを見透かしたように、ムドーはニヤリと笑みを浮かべる。
恐怖で身動きの取れないカエルを見る蛇とはこのような快感を得ることができるのだろう。
己の力によって、無力な相手を支配するというシンプルではあるが理性のある生物のみに許される至高であり下劣でもある欲望。
それを満たすことによって生まれる快感を。
「はあ…はあ…はあ…」
笑うムドーに対して、レックの体はひどい脂汗で濡れている。
仲間のいない、自分1人だけで今こうしてムドーに立ち向かわなければならない。
これほどの恐怖の中で失禁しないのが不思議なくらいだ。
そんな彼の心に追い打ちをかけるように、ムドーは口から炎を放つ。
「うわあああ!!」
目を閉じ、剣と腕を楯に身を守る。
だが、炎はレックに当たることなく、彼の周囲を舐めるように燃やし尽くす。
まるで最初から彼を焼き殺す意志がなかったかのように。
「くぅ…ムドー…!」
いまだに燃え続ける炎を見て、レックの心に自分を馬鹿にするムドーへの怒りがわいてくる。
しかし、それと同時にそんなムドーに対して抵抗できない己の無力さへの悲しみもわく。
(ハッサン…ミレーユ…バーバラ…!)
目を閉じ、必死に今ここにいない仲間に助けを求める。
(レック…レック…)
「え…?」
急に脳裏に声が響いてくる。
その声はライフコッド、そしてアモールで会った少女の声だ。
驚くレックに少女は優しく諭すように言葉を並べる。
(レック、今目にしているものや聞こえるものに囚われてはいけません)
「見えるものと聞こえるもの…?」
(そうです。あなたの想像の中にいるムドーは無敵の力を持つ存在です。しかし、いかに魔王であったとしても生物の理から完全に逃れることはできないのです。思い出してください。あなたが放ったあの雷を受けたときのムドーを…)
「雷…」
レックは恐怖を必死に振り払いながら、その時のことを思い出す。
確かにその雷を受けたムドーは絶命することがなかったものの、多大なダメージを受けており、シェーラによる奇襲を受けたときと比較するとかなり動揺していた。
冷静になって考えると、それだけでもムドーが無敵の存在ではないということがわかる。
(ただ、見えるものと聞こえるものに囚われてはいけません。感じるのです。今目の前にいるムドーを…)
「感じる…感じるって??」
(ラーの鏡は真実を映し出すことができます。しかし、闘気や力を見ることはできません。それを感じることができるのは魂だけなのです)
自分にそんなことができるのかと不安になりながらも、レックは目を閉じ、耳から聞こえてくるすべてのものを遮断する。
真っ暗な空間の中、聴覚と視覚を封じた彼の残された感覚が研ぎ澄まされていく。
(俺の隣にいるのは…なんだろう、なんだか大きい…大きくて暖かい…)
目で見たときは幼い少女で自分よりも明らかに小さかったが、こうして感じるだけだとその中にある底知れぬ何かを改めて分かってしまう。
そして、目の前にいるムドーから感じるものは…。
「プレッシャー…?けど、違う。あの時感じたのと全く違う…」
確かに目の前にいるのはムドーだ。
しかし、地底魔城で戦ったときに感じたあの王としての風格や征服者の力に裏付けられたそれとは程遠い、まがい物のプレッシャーを今のムドーから感じることができる。
「違う…!!お前は、お前はムドーじゃない!!」
目を開き、目の前の贋物に向けて走り出す。
コバエを追い払うかのように、ムドーのような贋物がレックに向けて炎を放ち、彼がそれに飲み込まれる。
(炎の中にいるのに…熱くない。俺の体が燃えていない…)
確かに今受けているのは炎。
最初にこの空間で見た炎は熱かった、いや…熱いと感じていた。
しかし、改めて感じてみるとそれはただの幻だ。
「うおおおお!!」
大きく跳躍し、ムドーの腹部に剣を突きたてる。
しかし、剣がムドーの体をすり抜け、勢い余って彼の背後の床に落下する。
「…やっぱり」
落下により痛みに耐えつつ、背後のムドーを見る。
すると、それは静かに消滅していった。
(あなたが感じたとおり、ここにいたムドーは幻です。あなたの中にいる恐怖の象徴です)
「恐怖の象徴?」
(そう、これはあなたの中にある感性を見出すための試練なのです。目の前にある力の本質を見る第3の眼の存在…あなたが過去に失ってしまった感性…)
急にレックの周囲を青い光が包み込んでいく。
(忘れないでください。恐怖をコントロールすることが魔王を倒す手だということを…)
「恐怖をコントロールって…それは一体どうい…う…」
青い光にラリホーの魔力が宿っているのか、強烈な眠気に襲われたレックはそのまま眠りについてしまった。
「う、ううん…」
目を覚ましたレックの視界に広がるのは藁と支えとなっている材木。
となりの部屋からは炊き立ての米の匂いと焼けた肉と魚の匂いがする。
窓からは青い空と朝日の温かな光が見える。
「ふん、ようやく起きたか」
「え…?」
右隣から低い老いた男性の声が聞こえる。
紫色の袈裟と茶色い無地の布を重ねてきていて、黄色の肌と白い髪の老人で、レックの予測では年齢は70代後半。
なお、髪型は悪く言うとカッパ型ハゲだ。
老人の黒い瞳がゆっくりと自分に目を向けるレックの瞳を見る。
「ふむ。どうやら試練の成果が出始めているようじゃな」
「成果…あ…!」
始めは何を言っているのかわからないレックだったが、自分の眼に映る老人の中にある力が映っているのがわかった。
全身を血管のように駆け巡る青い魔力の流れを。
「青い…魔力??」
瞬きするとその青い魔力が映らなくなった。
「見えなくなった…?」
「集中しなければ見えないか…じゃが、今はこの段階で良いじゃろう。早く隣の部屋へ来い。お主の仲間が待っておるぞ」
ゆっくりと立ち上がり、樫の木の杖を突きながらゆっくり外へ出ようとする。
「待ってください!あなたは…?」
「儂はチャクラヴァ。ゲントの村第20代長老じゃ」