「おはよう、なのは」
爽やかな笑顔を向ける青年。
鍛え上げられた身体は無駄な贅肉など一切ないとばかりに引き締まっている。
どこぞの筋肉バカか、と侮ってはいけない。その鋼の肉体美にくっついている顔は端麗な甘いマスク。一度微笑めば女性を虜にし、一度苦悶を浮かべれば母性を射抜く。
「ところで――」
だが、同姓――それも妹に寄り付く男に対しては、
「いつまでもくっついているそこの虫はなにかな」
般若となる。
それが、高町恭也だった。
雲に隠れた月夜。活気がある商店街から離れた高台の学校。
その校門でわたしは、待ちぼうけ。
校舎の中を見回っていた小さな灯りも先ほど消えて、校舎は真っ暗になった。
放課後、まっすぐ帰ってベッドへダイブしたわたしの体調は戻っている。体力も気力もばっちり準備万端だというのに。
「平介くん、遅いね」
学校で帰ろうとしたところを引き止めた彼が、約束の時間に現れない。
やることがあるといって別れたきり、念波も通じない。ユーノちゃんが調べてくれた平介くんの魔力は移動中だから向かっているは間違いないのだろうけど。携帯のディスプレイは22時を15分ほど過ぎたことを報せていた。
(今朝のこと、怒ってるかなぁ…)
朝練習で体力が尽きたわたしを送ってくれたとき、丁度、学校に行くお兄ちゃんと鉢合わせしてしまったのだ。そのときの平介くんの慌てぶりを思い出し、つい吹き出してしまう。
「なのは……?」
なんでもない、と首を振る。
漫画のようにだらだらと脂汗を流して片言の挨拶を交わすと、平介くんはわたしをお兄ちゃんに預けて走り去ってしまった。
そして、始業チャイムが鳴っても空席だった隣の彼が姿を現したのは2時間目の授業中だった。
遅刻者とは思えない自然とした動作で扉を開けて着席すると、机に伏せたきり、半日ぴくりとも動かなくなった。注意する先生もあんまりに反応がないものだから、流石に心配していた。まぁ、口から垂らした涎を見るまでは。
そして、げっそりした彼の頬が、わたしの印象に残った。
平介くんに協力してもらおうと言い出した自分が、平介くんに迷惑ばかりかけている。
それはユーノちゃんに対しても同じで、力になりたいと言ったものの助けてもらっているだけだ。
何も出来ずに、ただ皆の負担にならないように心配をかけないようにひとりでいた幼い女の子は、ちっとも――
「なにひとりで黄昏てんだ、高町」
ここ最近聞き馴染んだ声に、我に返る。
きょろきょろと周囲を見回してもその姿はない。
(空耳かぁ…)
幻聴を聞くまで待遠しくなっていたのだろうか。
ふと、視線を落とした足元で、行儀良く座った黒い塊がわたしを見上げていた。
「……ネコ?」
「ひぃ、食べられるっ」
肩にいたはずのユーノちゃんが頭の上で、震えていた。猫はネズミの天敵なのです。
「大丈夫。この子、まだ子猫だよ?」
「そうは言ってもつい身体が反応しちゃって」
落ち着きなく動き回るユーノちゃんを追っていた金色の瞳が少し鋭くなったような気がした。
いったいどこから来たのだろう。鳴きもせずにこちらをじっと見る二つの金色。人馴れしている。
首輪を調べようとしゃがんだわたしは、直前に聞こえた声のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。
「おいこら、人の頭を気軽に撫でるな」
タコ町のくせに、と猫らしからぬ不敵な表情と人らしき言語。
フェレットでも普通に話せるユーノちゃんの前例があるから、猫が喋り出しても不思議ではない。
不思議ではないけれど――わたしのことをそう呼ぶ人は1人しかいない。
「もしかして…平介、くん?」
一声、猫が鳴いた。
◆◆◆
ハトが豆鉄砲をくらったような高町の反応は、想像以上に良かった。つい気分がよくなる。
魔力を効率よく貯めるため、変身魔法を思いついた昼休み。
連日魔力不足で自己防衛ができないのは僕にとって死活問題だ。少なくとも1ヵ月は、ジュエルシード関係の戦闘が続くし、高町たちのハイレベルバトルのとばっちりをくらうのは御免被る。その解決策として、変身魔法は最適だった。
というのは建前で、実際はもっと切実だった。
最近、高町とつるんでいるように見える僕は、他のクラスの男子や上級生から呼び出されては脅され、高町の個人情報について尋問されたりと騒がしかった。恐るべし、高町ファンクラブ。恋する少年達のピュアな心に僕はやさぐれた。
ただでさえ、面倒ごとに足を突っ込んだんだ。
クラスでの問題に構ってられるか。これ以上、面倒ごとを増やさないためにも注目度を下げる。
それでも学校は所詮ガキの集団に過ぎない――そう高をくくっていた。
その矢先、悠長に構えていられない事態に陥った。
よりにもよって高町兄に高町を背負っている場面を見られてしまった。
高町は気づかなかったようだが、殺気の込められた視線は僕を射抜いていた。今朝の一件であの人外兄貴の妹に近づく要注意人物としてマークされたに違いない。ユーノが女だから他人事だと余裕をこいている場合ではなかった。
チキン並みのハートが根を上げる前になんとかしなくては。このままでは夜道を1人で歩けない。
そうして、生み出された変身猫バーション。
フェレットを選択肢から消したのは、某双子使い魔の存在だ。
身体を咥えこむ歯牙の堅さ、獲物を捕らえて恍惚する息遣い……涎まみれになった忌まわしき過去を僕は未然に防ぐのだ。同じ種族ならば追い回されることもあるまい。
さらには高町と一緒にいるところを目撃されても僕だとは誰も気づかない。もーまんたい。
(ふっ、完璧だ)
そうして鬼ごっこフラグの回避を確信した僕は、現在、高町に抱きかかえられていた。
「えへへー、カワイイなぁ」
「やめい、恥ずかしい」
頬ずりをする勢いの高町。近づいてきた緩んだ顔を手で抑えるが、
「にくきゅう柔らかーい」
感触を楽しまれた。逆効果乙。
反して、変身魔法まで使えたんだね……とびくびく身体を跳ねさせているユーノとは距離が遠い。
安心しろ、ユーノ。僕は誓ったのだ。キミを第二の僕にはしないと。
(だからたとえ、ちょろちょろと前を通り過ぎようとも、理性が働く限りこの衝動を耐えてみせるにゃ!)
……うん、無理かも。甘噛みくらいは許してくれ。
心の内で謝罪を済ませた。
ジュエルシードを回収すべく高町と侵入した夜の学校は、想像以上に不気味だった。
……猫フォームで来てよかった。人型で抱えてもらうなど極刑に値する。こうして人肌の安心感に励まされることもなく、校舎に入った瞬間に即効転移で離脱していたことだろう。
本来の立場が逆になっていたとしても、あえて言及はしない。
「あ、ここだ」
ユーノのナビで高町の足が止まった。特別授業用の教室らしい。六人ほどが使える大きめの机が配置されていた。各机には、水道とガス線のようなものがある。
「理科室だね。変わったところはないけど…」
扉の透明なガラス部分から中をのぞいていた高町の言うとおり、出入り口に理科実験室と看板があった。
冷たいプラスチック製の扉と未来に期待したいお胸の間で潰されている今の僕には何も見えないので、ユーノ談である。
「発動前だからね。検知したのも微力な反応だし」
「そっか。……それじゃ、わたしにはどこにあるかわからないね」
思わず、敏感になった耳がひくついた。
このガキンチョは全く、子供らしくない。すぐさま気を取り繕うかのように明るい声を出すのも拍車をかけている。
(まったく……こういうところは並行世界であっても変えられない業なのかね)
世界移動する前の記憶よりも幼い高町は扉を開けようとしていた。鍵がかかっているようで、不思議そうな声に交ざってガタガタと大きめな音がする。
力技で扉を外すのもいいが、ユーノに転移してもらって内側からあけてもらうのが一番スマートではないだろうか。
結界を張ってあるとはいえ、物音を立てるのはあまり好ましくない。主に僕の耳のために。猫の聴力は人の約4倍なのだ。なので――
「せめてもう少し静かにやれや、高町」
「私、何もしてないけど」
「さっき壊す勢いで叩いてただろ。おめめが使えないからって舐めんなよ」
「そんな乱暴なことしてないよ。平介君を抱えてるんだから無理だもん、ほら」
証明するかのように高町の目線まで持ち上げられた。前足の脇に両手を挟まれては、もはやぶら下るしかない屈辱に抗うように後ろ足をバタつかせる。が、笑いを漏らされたので、目の前の高町を睨み――
佇む丸刈りにした少年が視界に入った。
猫の聴力は人より長けているが、視力は10分の1程度しかない。赤い色は認識できないし、ぴんぼけしているように見える。
但し、猫は夜行性。
日中は不自由でしかない視界も変わってくる。人では何も視えない暗闇であってもわずかな光だけで、白黒写真の如くくっきりと見えるわけだ。
その少年の右半分が臓器をさらけ出された状態だと。
ふと、すぐ傍から流れてきた冷たい空気に全身の毛が逆立った。
隣の部屋は確か――実験準備室。
「――ね、ねえ、平介くん」
「なんだ、高町」
高町も壊れた扉に気づいたのか、心なしか声が震えている。
決して廊下に滴る水音のせいではない。ないったらない。
「振り向いた方がいい、かな?」
「そうだな、魔法の限界を超えるぜと熱意を迸らせ、一生と全財産をホラーハウスつくることだけに費やしたマニアの最高傑作にたとえ興味本位であろうと足を踏み入れようとするようなノリと好奇心があるなら俺は止めはしない。だが、高町。俺はたとえどんな結果になろうと、その選択をしたお前をふさわしい名で呼んでやる」
非常口の電気をバックに、徐々に近づいてくる少年。皮膚を被っている方が高町に重なっており、むき出しになった眼球と肩越しに見詰め合う。
「――勇者よ」
栄光あれ。
3/3 加筆。