54話「ウラ・ノルド(1)」
3度目の特別実習を終え、トリスタの駅に足を踏み下ろしたライ達B班の面々は、旅の疲れを全身に感じながらも寮の前へと戻って来ていた。夕方に差し掛かった空の下、普通ならすぐに部屋に戻って休みたい状況だろう。
「なんだか、懐かしいね」
「……そうだな」
しかしその中の2人、フィーとライは入り口に立ったままぼんやりと上を仰ぎ見ているばかりだ。現実世界ではたったの2泊3日しか経っていない。しかし、2人にとっては既に1ヶ月以上も経過した過去の様に思えてならなかった。
格式のある煉瓦の壁も、毎日くぐっていた筈の両開きの扉も、清々しい空気ですら。何気ない全てが懐かしく感じてしまっている。他の3人も2人の境遇を知っている為か、何と言おうか迷っている様子だ。そんな空気をぶち壊してしまう存在は今この場に存在しない。
「な〜に入り口で惚けているのよ。さっさと中に入ってきなさいな」
ただ1人、寮の中から顔を出したサラを除いては。
その呑気な声を聞いたライとフィーは現実に引き戻され、そのままなし崩しに寮の中へと入っていった。
……
…………
久々に帰ってきた寮内。導力灯の明かりに照らされたロビーにA班の姿は見当たらなかった。どうやら今回はライ達の方が先に帰ってきたらしい。そう頭の片隅で考えながらライはロビーの壁を手でなぞる。……確かに、これは現実の寮内だ。決してロゴス=ゾーエーの生み出した幻影ではないだろう。食堂を確認し終えたフィーと顔を合わせ、2人はお互いに親指を立てた。
「ねぇ、エリオット。あの2人はホントに大丈夫なの? 妙に息合ってるし、なんだか変な行動してるんだけど」
「あははは……、大丈夫だと思いますよ。多分」
「多分って何よ。多分って」
はぁ〜、とサラは頭を深く押さえ込んだ。彼女がライ達を送り出した後に感じた予感の通り、今回も何やら面倒な出来事に巻き込まれたのだろう。上への報告も含めて実に頭が痛くなる案件である。
「――だからって、話を聞かない訳にもいかないのよねぇ」
教官の辛さを噛み締めたサラは、どうせ中心には彼がいたのだろうと当たりをつけて、ライの肩をポンと叩いた。
「サラ教官?」
「ちょっと、ライ。今度はどんな事件に巻き込まれたのよ? 早く私に教えなさいな」
「……その割には、余り聞きたそうには見えませんが」
「当然でしょう? あなたの事だからま〜た面倒な話になりそうだし。まあ今回は全身の切り傷くらいしか怪我してなさそうだから、ちょっとは安心できるけど――」
と、話を続けようとしたサラをちょんちょんと小さな指が邪魔をする。
「――どうしたの? フィー」
「その認識は間違ってる」
間違っている?とサラはフィーの意図が掴めず首をかしげた。彼女が確認した限りでは、ライの傷はケルディックの時の方が甚大。今回はそれほど深い傷を負った様には見えなかったからだ。
「もしかして服の奥に酷い怪我あるの? だったら念のためベアトリクス先生に「だって、ライは今回、腕がミンチになったり頭や心臓に風穴空いたりしてたから」……え?」
しかし、答えは予想の斜め上を爆走していた。
「……フィー? 聞き間違いかしら。もう一回言ってちょうだい」
「腕がミンチになったり、頭や心臓に風穴が――」
「普通に即死よね!? 生きてちゃ不味い怪我よね!? ライ、あなたまさか幽霊なんじゃ」
「生身です。時間が巻き戻ったので」
「巻き戻った、って……。あああ、本格的に頭が痛くなってきたわ……」
ふらふらとソファーに座り込み、やけ酒を呷り始めるサラ。
これはもう報告をする様な状況でもないだろう。一先ず荷物でも置いてくるかと階段を登り始めるライであったが、
「ライはもう帰ってるっ!?」
今度は入り口の方から甲高い怒鳴り声が飛んできた。
一体なんなんだと皆の視線が一斉に入り口へと向く。そこにいたのは、駅から走って戻って来たと思しきA班6名の姿であった。
「どうしたアリサ。それにリィン達も」
「どうしたもこうしたもないでしょ!? あなた今度は一体何をしたのよ!?」
今日はやけに問い詰められる日だ、とライは遠い目で詰め寄るアリサの顔を眺める。
何をしたのか?と言われても、ライ自身アリサ達に何かした覚えはないのだから答えようがない。
「……アリサ、ライも何だか分かってないみたいだし、それくらいにした方がいいんじゃないか?」
そんな悪循環を破ってくれたのは、数歩遅れてやってきたリィンであった。ボロボロの制服を見に纏って疲れているのか肩を落としている。他のA班も皆一様にして汚れた服装をしており、それだけ見てもA班に何かあった事は想像に固くないだろう。
「何があった?」
「えっと、念の為聞いておくけど、本当に心当たりはないのか? 今日の朝の事なんだけれど」
「今朝?」
その時間帯はまだ空回る島にいた筈だ。思い当たる節のないライはリィンに説明を求める。
「仕方ないか。けど、少し長くなるぞ?」
「構わない」
「……分かったよ」
リィンは疲れた様子で天井を仰ぎ見た。
どこから話したものかと考えているのだろう。やがて考えを纏めたリィンはぽつりと声を紡ぎ出す。
「実は、な。俺たちは今回の実習で、シャドウ事件の首謀者に出会ったんだ」
◆◆◆
――時は遡って2日前の6月26日。
ライ達と別れたA班は列車に乗って、エレボニア帝国より北東に位置するノルド高原へと向かっていた。
ノルド高原はその名の通り山の高所に広がる雄大な平原である。涼やかな風が色鮮やかな草花を揺らし、起伏の大きな斜面を何本もの滝が流れ落ちていく。そこの空気を吸うだけで心が洗われる様な美景が広がっているのだと、高原の遊牧民出身であるガイウスは語った。
しかし、そんなノルド高原の抱える問題は美しい光景とは裏腹に暗いものであった。ノルド高原はエレボニア帝国の北東に位置するものの、帝国の領土ではない。……いや、正確に言えばどこの領土でもないのだ。ノルド高原の西にあるエレボニア帝国と東のカルバード共和国が共に主権を主張しており、高原は国際問題の中心地となってしまっている。リィン達が乗っているノルド高原行きの列車も、簡単に言ってしまえば前線への物資供給と、カルバード共和国への牽制が目的で引かれた線路であった。
「ほへぇ〜、むぐ……、何だかメンドウなことになってるんだねぇ〜。もぐむぐ」
「そう思うならサンドイッチを食べるのを止めろ。行儀が悪い」
「へ? だって湿気っちゃったら勿体ないでしょ? いらないならユーシスの分も貰うよ?」
「お、おい止めろ。誰もいらないとは言ってないだろうが!」
列車の席に座っているユーシスは、迫り来るミリアムの魔の手からシャロンのサンドイッチを守り通していた。
それを横で見ていたアリサとエマの2人は長く続きそうだと視線を外す。
「ほっんと、いつも通りよねぇ」
「まあそれもミリアムちゃんの持ち味ってことで。それよりガイウスさん、これから向かう先は帝国軍の砦なんですよね? 私たちが入っても大丈夫なんでしょうか?」
「心配しなくていい。帝国軍の将官とは以前からの顔なじみだからな。無論、今回の件もすでに文で伝えてある」
「へぇ帝国軍の将官と……って、もしかしてガイウスが士官学院に留学してきたのって」
「ああ、将官に勧められたからだ」
「それなら安心ですね」
ひとまずの不安要素はなくなった為、エマはほっと肩の力を抜いた。
窓の外には穏やかな自然の光景が流れ続けており、A班の面々は穏やかに昼食のサンドイッチを口に運んんでいる。それに、ノルド高原は別世界と感じるほどに雄大な光景だと聞く。まだ見ぬ秘境への期待感を胸に、A班の面々を乗せた列車がカタンコトンと進んで行くのであった。
……ただ、この時エマ達は知る由もなかった。
果ての地であるノルド高原にすら黒い影が伸びていたと言う事実を。その一端を彼女らが知ったのは、列車が終着駅に到着した時であった。
◇◇◇
「厳戒態勢を急げ! 各員、装備の確認も怠るな!」
「――閣下、監視塔の増員、および各地点の配置を完了しました!」
「うむ、共和国軍に動きがあれば即時伝えよ!」
帝国の北東端、ゼンダー門の内部は激しい男達の声と走り回る足音で溢れかえっていた。
慌ただしく武器を持ちだす兵士達。情報も錯綜している様で中央と連絡を取ろうとしている姿も散見される。
来たばかりのリィン達はその異様な空気に翻弄されるばかりだ。まるで戦時中が如きビリビリとした緊張感を肌で感じ、恐る恐る鋼鉄製の砦の中を進んでいく。
「これは……、演習って訳でもなさそうですよね」
「戦争でも始まったのかな?」
「ち、ちょっと、ミリアム。ここでそれは洒落にならないわよ」
「えへへ、ごめんごめん」
テヘッと舌を出すミリアムは全く悪びれた様子もない。それもその筈、彼女にとってそれは冗談でもなかったからだ。
「でも何かあったのは間違いないよね? ここの正規軍が戦う相手って限られてると思うけど?」
「……その可能性が高いのは事実だろうな。ガイウス、誰か話を聞けそうな人はいないか?」
「ああ、少し待っていてくれ」
A班の面々を背にガイウスは先へと歩いていった。向かう先は各兵士に指示を出していた将官と思しき眼帯をつけた屈強な男。丁度部下への指示を終えた彼はガイウスの気配を察したのか振り返り、隻眼の視線をわずかに細める。
「……おお、おぬしか」
「ご無沙汰しています。ゼクス中将」
「済まぬな。本来ならばVII組を出迎える手筈だったが、見ての通りそんな余裕もなくなってしまった」
「いえ。それよりも、共和国軍が動いたのですか?」
この騒然とした光景を見る限り、何かあったのは間違いないだろう。だが――
「……そうであれば、まだ事態は単純であったのだがな」
ゼクスの反応は予想外に歯切れの悪いものであった。
「では一体何が?」
「うむ。やや不可解な事だが、本日未明よりノルド高原に駐在していた共和国軍が一夜で姿を消したのだ」
共和国軍もやってくれる、とゼクスは苦々しく呟いた。……共和国軍の消失。確かに敵対している帝国側として無視できないのは無理もない話だろう。しかし、ゼクスの声を聞いている限り、まるで一手先を行かれた者の様に感じられるのは何故だろうか。その疑問を抑えきれなくなったユーシスが、堂々とした足取りでガイウスの隣に並ぶ。
「どう言う事だ? 共和国軍が退いたのなら帝国にとって都合の良い事だろう?」
「む、おぬし達は彼の学友か?」
「ああ、俺の名はユーシス・アルバレアだ」
「アルバレア……、四大名門のご子息とはまた面白いの顔ぶれが揃っている様だな。――良いだろう。おぬし達の疑問も最もだ」
そう言って、ゼクスは振り返り砦の外を一望する。
緑一色の大地に揃いつつある鋼鉄の柩。その遥か遠方には共和国軍を見張る監視塔がそびえ立っていた。……そう、事の始まりは監視塔からの報告であった。
「始めに言っておくが共和国軍は撤退していない。文字通り姿を消したのだ」
「……つまり、導力戦車も飛行船も残したまま、人だけが忽然と消えたと言う事か」
「うむ、その通りだ。今は西ゼムリア大陸における通商会議が2ヶ月先に控えている。撤退の確認も取れていない以上、共和国軍が何やら画策していると見て間違いない」
西ゼムリア通商会議。緩衝地帯かつ国際貿易の中心地であるクロスベル自治州で行われる予定の国際会議である。西ゼムリア大陸に存在する全ての国が一堂に会する大舞台。当然の事ながら、国際関係の問題が話題に上る事も避けられないだろう。……その駒を手に入れる為に一計を図っているのではないか。ゼクス中将が危惧しているストーリーとは端的に言えばそう言う事だ。
「では、帝国軍もノルドの地に展開されるのですか?」
「我らの監視が届かない場所に潜伏している可能性もある。リベールの時とは異なり我らに大義名分もない以上、後手に回る他ないのだ。……集落のラカン殿にも既に避難するよう伝えている。おぬし達も集落からあまり離れない様にな」
「待ってくれ。まだ聞きたい事が「畏まりました」……ガイウス?」
まだ情報を得たかったユーシスを無理やり遮る形でガイウスが割り込み、そのまま話は終わってしまった。ゼクスと別れ、集落へと向かう為の馬を取りに歩く中、ユーシスが先頭を歩くガイウスに不満をぶつける。
「おい、何故勝手に話を打ち切った」
「……済まない。集落が移ったとなると、早く向かわねば夜になってしまうのでな」
「なら、あの話をこのままにしておくつもりか?」
対立する2つの意見は双方正しいが故に終わりが見えなかった。
故に第三者の視点だと思ったリィンが歩み寄り、ガイウスとユーシスの間を取り持つ。
「ユーシス、一先ず集落に向かわないか? ここはこの辺りに明かりはないだろうし、……そして何より、集落が心配だからな」
「……そう言う事か。ならば、仕方あるまい」
存外、素直にユーシスは引いてくれた。普段は温和なガイウスがこうも頑なになる理由、故郷の危機に対する不安を理解できない程、ユーシスも冷血ではない。ようやく落ち着いてくれた事にホッと胸を撫で下ろすエマを最後に、A班はゼンダー門を後にした。
◇◇◇
ゼクス中将が事前に用意してあった馬に跨ったA班6名は、ガイウスの故郷であるノルドの集落へと向かった。広大な平野に響き渡るトンビ。茜色に染まった広大な空や岩山。世の辛さもちっぽけに思えてしまう程に圧倒される光景であったが、いざ集落へと到着した際には嫌でも現実に引き戻されてしまう。
無人の集落跡地。普段この時期はノルド高原南西部辺りに集落を置いているのだが、リィン達が到着した集落はほぼもぬけの殻と言っていい状況だったのだ。唯一残っていたガイウスの父、ラカンによると北にある湖の湖畔に集落を移したらしい。それを聞いたリィン達は疲れた体をおして、漸くガイウスの集落へと辿り着いた。
……そして夜。暖かな郷土料理を食べた後、遊牧民用の大きく丸いテントに案内されたリィン達はゆったりと疲れを癒していた。
「ね〜ね〜、しかんがくいんってどんな所〜?」
「え、えと……」
「おいリリ。お客さんも疲れてるんだから、そんな事言ったら迷惑だろ」
「ふふっ、トーマさんも話を聞きますか?」
「え、お、俺もですか?」
今、テントの中にはリィン達の他にガイウスの兄弟達も訪れていた。まだ幼く陽気な次女のリリ、引っ込み思案な長女のシーダ、そしてガイウスに次いでしっかり者である次男のトーマである。彼らはガイウスが通っているトールズ士官学院の事が気になっているのか、エマの話を興味深そうに聞き入っていた。
そんな微笑ましい光景を奥でぼんやりと眺めていたアリサの元に、リィンが水の入ったコップを持って歩いてくる。
「アリサ、水でも飲むか?」
リィンから水を受け取ったアリサは一気に喉に流し込んだ。喉の奥につっかえていたモヤモヤを流し込む様にゴクゴクと。そして、飲み終えたアリサはやや晴れた顔つきで空になったコップをリィンに返す。
「ありがと」
「気にしてるのか? 母親と、それにお祖父さんの事」
そう、実はB班と別れた後、A班はアリサの母親に遭遇していたのだ。
そしてこの湖畔に来た際には会社を追い出された祖父とも再会。まさかノルド高原で暮らしていたとは露ほども思っていなかったアリサは、思わず取り乱してしまった。
「まぁ、気にならないと言ったら嘘になるけど。前にシャロンから聞いてて覚悟してたから、お母様に関しては思ってたほどダメージはないかしらね」
けれど、今回の件においてアリサはそれほど思い悩んではいない。故にこの話は深めていく必要はなく、むしろアリサにとって話し合うべき事柄は他にあったのだ。
「それに、今は私の悩みなんて些細なものよ。 あんな光景を見てちゃね……」
「……そうだったな」
リィンは苦虫を噛み潰した様な表情でテントの外を眺める。
果てしなく広大な草原に煌めく満点の星々。それだけならば外に出て夜風を浴びたいものなのだが……、遠方に見える帝国軍の戦車を見てはその気も失せると言うものだろう。
まるで芸術品にペンキを塗られた様な気分だ。
ゴゴ、ゴゴゴゴとキャタピラが走る地響きを感じたアリサは深くため息をついた。
「はぁ、このまま一晩中哨戒するつもりなのかしら」
「仕方ないさ。何時どこに共和国軍が潜んでいるかも分からないんだからな」
「そりゃ分かってるんだけど……」
こんな状況じゃ気も休まらない。
今この場において、子供たちとミリアムを除いた全ての人の共通意識である。
「……ガイウス、あまり悩んでなきゃいいんだけど」
アリサが思い浮かべるのはゼンダー門から少し様子がおかしかったガイウスの姿だ。
今は父親と久しぶりに談笑している頃だろうか。この場にいないクラスメイトを憂い、アリサはぼんやりと天井の布を仰ぎ見た。
……
…………
「父さん、ただいま戻りました」
「ああ、よく帰った」
暖かな鍋を挟んで座り込むガイウスと父のラカン。久々の再会と言う事もあって、無理言って2人で話す時間を作って貰ったのだ。
「良い学友に恵まれた様だな」
「ええ、彼らは自慢の友人です」
「そうか。学友との時間は代え難いものだ。その絆、大切にすると良い」
姿勢正しく座り込んでいたラカンが柔らかく微笑む。それはノルド高原では得られないものであり、ラカンがガイウスの留学に賛同した大きな理由でもあったからだ。……しかし、ガイウスの表情は対照的に暗く落ち込んだものであった。
「父さん、共和国軍の件ですが」
「……やはり、その話か」
かちゃりと、ラカンは鍋のスプーンを皿に置く。
わざわざトーマ達を遠のけた理由はそれしかないだろうと、彼も薄々察していたのだろう。
「思えば、お前が士官学院に行きたいと言ったのも、ノルド高原の現状を憂いていたからだったな」
「はい」
「お前は昔から責任感が強いところがある。長男であるとはいえ、ノルドの未来を一身に背負う必要などないのだぞ?」
「……これは、俺が決めた道ですから」
静かに座るガイウスをじっと見定めたラカンは、やがて重い腰をあげた。
小さいながらも親しみのある我が家。それを一望してようやく本題へと入る。
「昼に、共和国軍に近しい集落へと赴いてきた」
「――! 東の集落ですか?」
「ああ。しかし、誰も共和国軍の件について話を聞いてはいなかったようだ。私の勘だが、今回の件はゼクス殿の想定している様な状況ではない」
「けれど、共和国軍が隠していたと言う可能性も……」
「無論、否定はできないだろう。だが、私はもっと別の原因があると感じている。ノルド高原が戦火に巻き込まれる可能性も、お前が思っているほど高くはない筈だ」
その言葉は真実か、それとも子の不安を和らげようとした親心か。
息子であるガイウスにも本心を伺い知る術はない。だが――
「……1人で思い悩むな。この地を愛し、守っているのはお前だけではない。私も、イヴン長老も、他の皆も思いを抱いている筈だ」
少なくとも後者は嘘でないと、ガイウスは感じた。
◆◆◆
――ノルド高原、湖畔。午前0時。
夜も更け、誰もが寝静まった月夜の集落。
水辺の虫が合唱を奏でている中、テントの布を抜け出す2人の小さな影があった。
「しょうがないなぁ。少し涼んだらすぐ戻るぞ」
「ん、ありがとねー」
それはトーマとリリの2人だ。彼らは士官学院の話を聞いて中々寝付けなかったらしく、夜風に涼もうとテントを抜け出してきていた。幸いな事に明かりの火は夜も灯されており、月の光は野原を明るく照らしている。トーマもそれを確認したからこそ、リリの要求を飲んでこうして外に出てきたのであった。
「リリ、明るくても湖は危険なんだから余り近づくなよ」
「ねぇトーマのあんちゃん! これなんだろ!」
「っておい、言ってるそばから!」
もし足を滑らせたら危険だ。湖畔で水面を覗き込んでいるリリを見たトーマは、焦って幼い妹の元へと駆け寄った。それ程までに夜の水面が危険な事くらいトーマの歳にもなれば理解出来る。だからこそがむしゃらに走っていたのだが……。
「……なんだこれ?」
湖面に近づいたトーマは、その不安もすっかり失せてしまった。
湖面を不思議がってじっと座るリリ。
幼い妹が写り込む水面には、大きく手を振るもう1人のリリが写り込んでいた。
なぜ?
どうして水面に写り込んだリリが別の行動をしている?
明らかに異常だと感じたトーマは、恐る恐る自分も水面へと顔を向けた。
「……ひっ」
思わず、息が止まってしまった。
無理もない。
湖面に映るトーマもまた、不気味な笑顔で手招きをしていたのだから……。
◆◆◆
――6月27日。
まだ日も昇って間もない早朝。まだ起きるには早い時間であるが故、リィン達5人はぐっすりと眠っていた。
しかし、唐突にその入り口が捲られ、日の光を伴って怒号にも似た大声が響きわたる。
「皆! ここにトーマ達は来てないかっ!?」
その切羽詰まった声は目覚ましよりも強く耳に反響する。故に、リィン達は朧げながらも次々とベットから上半身を起こした。
「ガイ、ウス……? 何かあったのか?」
「トーマとリリの姿がどこにも見えない。皆は何か心当たりはないか?」
「――何だって!?」
一瞬にして覚醒するリィン。
これが、ノルド高原で起きた騒動の始まりであった。
遅れている状況ではありますが、この話は今後に大きく関わってくる内容ですので投入。全3話の予定です。