……ライは、ただ一人、無人の都市を歩いていた。
風の音すらしない完全なる静止した世界。明かりのない信号機。粉々に砕けた街中の時計。まるで旧校舎内の辰巳ポートアイランドのようだったが、空だけは漆黒に染まっていた。
冷たいアスファルトを踏む音だけが鳴り響く。
こつ、こつこつと、
ただひたすらビルの谷間を歩き続ける。
ここはいったい何処だろうか。ふとジャンクフード店の中を見てみるが、そこには食事の置かれたテーブルが並んでいるだけだった。人の気配など何処にもない。ライは窓ガラスから離れ、また無人の都市を歩き始める。
空気すら停止したような息苦しい空間。
どれくらい経っただろう。
しばらく歩いていると、何処からともなく声が聞こえてきた。
『ねぇ』
可愛らしく、そして悲しそうな少女の声。
ライは思わず足を止めて周囲を見渡す。1ミリも揺れない街路樹の葉。ただひたすらに冷たいガラス。何処にも人の影などない。
『ねぇ、早く思い出して』
何処からともなく聞こえてくる少女の声。そうだ、これは葵の声だった筈だ。ライは反射的に振り向くが、そこに葵の姿はなく、待ち構えていたのは”思い出せ!”と荒々しく塗られたビルの壁であった。
……何だこれは。
『何してんだよ、ライ。お前は仲間の人間関係とか気にしてる場合じゃねぇだろ?』
今度は友原の厳しくも悲しそうな声。しかし彼の姿はなく、冷徹なビル街に現れたのは”思い出せ!”、”思い出せ!”と真紅の血文字。
……何を思い出せと言うのか。
『早く、早く思い出して。そうじゃなきゃ――』
今度こそ、確実に声の居場所が分かった。
彼女らは今、ライの背後にいる。
ライは片足に力を込め、全力で振り返った。
そこには、
『また、こうなっちゃうよ?』
十字架に磔にされ、胸を槍で刺された葵と、
胸に風穴を空け、深紅の血だまりに沈む友原の姿があった。
一瞬、息が止まる。
どう見ても重症な2人は、それでもライの顔を見つめていた。
口から血を零し、虚ろな目でも、何かを訴えるように、何かを危惧しているように『思い出せ』『思い出して』と機械のように繰り返し呟いている。
だから、何を思い出せと言っているのか。
ライはそう叫びたかった。
だが、叫んだところで意味などない。
思い出せと言うのなら、その意図を確かめればいいだけの事ではないか。
ライは混乱しかけた思考を無理やり正し、その足で一歩前に進み、
……足元にぐにっとした柔らかな、そして気味の悪い感触を感じた。
静かに、視線を下に向ける。
足元にあったのは地獄絵図、……幾千幾万もの人間の山であった。
学生と思しき制服を来た人々も、アルバイトの女性も、生まれたばかりの赤子も、その親も、老人も、少年も、少女も、男性も、女性も、何もかもが等しく地に倒れ伏して動かない。
気がつけば街並みはなくなっていた。海のように広大な地平線。それは全ておびただしい数の肉の塊だ。全世界の人間が"終わって”しまったが如き悪夢の光景を目の前にして、ライの意識が凍りつく。
……いや、この光景も至極当然のものだろう。
失敗すればいずれこうなってしまう。
思い出せ。
全てが手遅れになる前に。
そんな意味不明な思考を最後に、ライの意識は暗闇へと溶けていった。
――暗転。
◆◆◆
トリスタ第三学生寮、物の少ないシンプルなライの個室。
まだ日も昇ったばかりの日差しの中、ライはベットから跳ねるように起き上がった。
寝巻き代わりのTシャツはいつの間にか汗ばんでおり、心臓の鼓動も強く脈打っている。気持ち悪い。だが、この気色悪い感覚こそが、ここが現実である事を証明していた。
そう、あれは夢だったのだ。
あの2人が血を流し、山のような人間が倒れている光景など夢。
……本当に?
「俺は、何を忘れている……?」
頭を片手で押さえ、答えの出ない言葉を漏らす。机に置かれた置き時計が示す時間は午前4時51分。まだまだ授業には早い時間だった。
◇◇◇
赤い制服へと着替えたライは、まだ薄暗い階段を踏みしめ一階に向かっていた。まだVII組の皆も寝ている時間。毎日のように上り下りしている階段も、普段とは違う静けさに支配されている。
(夢の原因は間違いなく旧校舎の”あれ"だよな)
ライの頭に浮かぶのは3日前の旧校舎内での出来事であった。ようやく見つけた過去の手がかり……だと思われる存在。頼城葛葉の存在はライの心に大きな波紋をもたらしていた。
けれど、波紋によって記憶が蘇ると言う事もなく、依然として過去に関する記憶は空白のまま。その焦りが悪夢となって現れたのならば、あの2人が登場する悪夢にも説明が付けられるだろう。
そう、あの悪夢は幻想なのだ。
何故かそう結論づけたい衝動にかられるライは、ふと、いつの間にか階段を下りきっていた事に気がついた。今は導力灯の明かりも消える時間帯の為、普段見慣れたロビーも薄暗く、シーンと静まりかえっている。その静けさがまるで夢の中のようでどうも落ち着かない。
けれど、そんな静寂も唐突に消え去った。
ライがこれからどうしようかと考えている横で、食堂の入り口が唐突に開いたのだ。
「あら、今日はお早いのですね」
中から現れたのはシャロン・クルーガー。
彼女は例のバーベキューの後、そのままVII組の住まう第3学生寮の使用人兼管理人となっていたのだ。それを知った時のアリサの驚きようも凄かったが、何より凄いのは彼女の周到さ。どうやらテストが始まった頃には既にトールズ士官学院と契約を結んでいたらしい。
寮内の食事事情も改善してくれたシャロンに向け、ライは率直に返答を口にする。
「早く目が覚めてしまって」
「そうですか。もしや、悪い夢でも見ましたか?」
シャロンが冗談っぽく微笑んだ。
確かに子供っぽい理由かも知れない。が、事実なのだから仕方ない。ライは肯定の言葉を口にし、
「ええ、そんな…………ッ……」
刹那、ライの側頭部に前触れもなく鋭い痛みが走った。
まるで粉々に砕けたピースを無理やり詰め込んだかのように、まるでガラスを脳内でかき混ぜているかのように、脳内を蹂躙する正体不明の激痛。足元がふらつき、視界もぼやける程の異変の中、またもや意味不明のノイズが脳裏をよぎる。
"――思い出せ。この今は、決して長く続かない"
それは夢の中で散々聞いた言葉と似ていた。
(……だから、一体何なんだ?)
ただの夢、と言うのは訂正しよう。これはどう考えても異常だ。
歯を食いしばり、体がふらつきながらも自問自答する中、シャロンの心配そうな声が耳に響く。
「体調が優れないようですが、お休みになられた方がよろしいのでは?」
その言葉で意識が外に向いた途端、まるで何もなかったかのように痛みが引いた。それを認識したライは内心戸惑いながらも顔を上げる。……身体の何処にも異変はない。
「いえ、大丈夫です。お構いなく」
取り敢えずシャロンに対して平然とした様子で答えた。確かに不安定な状態ではあるが、先ほど悪夢を見たベッドに戻るなど真っ平御免だ。
それよりも、今は外の様子を確認したくて堪らなかった。
先のノイズが悪い予言のように思えてならない。ライは心の奥を蝕む危機感を払拭するために正面玄関へと歩を進める。が、しかし――
「お待ち下さい。何処にお行きになられるのですか?」
正面玄関の前にシャロンが立ち塞がった。
「クルーガーさん?」
「自室でお休みになられた方が宜しいかと。今は大丈夫そうですが、先程のライ様はさながら重病人のようでしたわ」
「重病人とは大袈裟な」
ライは心底不思議そうに感想を呟く。
シャロンの「それは冗談で言っているのですか?」と言う視線。しかし、ライが本心から口にしたのだと察すると、別の案を提示してきた。
「では、モーニングティーなどは如何でしょうか」
変わらぬ細やかな笑顔で、しかし否定を許さない圧力を伴って紅茶を勧めてくるシャロンを前に、ライは内心違和感を感じた。
(アリサから何か言われたか?)
アリサもリィンに似てお節介を焼きたがる人柄だ。
もしやあのバーベキューの夜にライの話題が出たのだろうか。だとすればシャロンがアリサの願いを叶えようとするのは必然。ナイフを首に突きつけられたかのような威圧感から省みるに、強行突破などと言う手段は不可能に決まってる。
悪い予感がすると言うのは理由にはならないだろう。必要なのは最もらしい口実。ライは寮内を探し、そして窓へと視線を向けた。
そこには朝露が滴る青々とした植木が顔を覗かせていた。
早朝であることや日陰と言うこともあり、やや力なくしなっている葉っぱ。それを見たライは士官学院で育てている苗の事を思い出す。外に出るには丁度良い口実だ。ライは早速シャロンへと振り返る。
「……済みません。苗の様子を見てくるので紅茶はその後で」
「苗、ですか」
食堂の扉に手をかけていたシャロンはライの提案を聞いて動きを止める。
そして翡翠色の瞳を閉じて考え込むこと数秒。しぶしぶ了承したという面持ちで、シャロンは気品高く頭を下げた。
「ではカップを温めてお待ちしておりますので、お気をつけて行ってらっしゃませ」
つまりは早く帰ってこいと言う話だろう。
ひとまず許可を貰ったライはシャロンに軽く礼をし、正面玄関から寮の外へと出て行った。
今朝から妙に疼く謎の危機感も、流れ行く早朝の景色を俯瞰していると少しづつ和らいでくる。やはり外に出るのは間違ってなかったと歩きながら考えていると、ふとライはシャロンに関する違和感に気がついた。
(そう言えば、何故俺が降りてくる事に気づいた?)
あの時は確か、誰も起こさないように静かに一階へと降りていた筈だ。なのにごく自然とライの来訪を察したとは、まさか彼女も気配を読めるのだろうか。
誰もいない早朝の街道の上、第3学生寮へと振り返る。
ラインフォルトの万能メイド。
未だ謎の多い存在だった。
◇◇◇
――トールズ士官学院校舎裏、菜園。
溢れる緑や池に囲まれたこの場所は、早朝と言う事もあって普段と違う雰囲気を醸し出していた。涼しげで透き通った空気からは甘い花の香りが漂い、葉の上に滴る露は朝日を反射してダイヤモンドのように輝いている。
ライはそんな新鮮な光景を内心味わいつつ、隅に置かれた鉢へと静かに歩いて行った。目の前には丁寧に並べられた2つの鉢植え。ライはおもむろにかがんで苗の様子を確認する。
「問題なし、か」
手のひらの中にはやや赤くなりかけたミニトマトの実。病気なし、害虫なしと、正に順調な成長具合であると言えよう。隣の麦もすくすくと育っており、もうすぐ収穫の頃合いだと主張していた。
この分だと、次の特別実習が終わった頃にでも収穫出来るだろうか。土の手入れや水やりを終えたライはそう結論づけ、今度は立ち上がって周囲を見渡す。
それは日常の風景。それは緩やかに流れる時の恵み。ここにはあの悪夢の残照は欠片も存在しない。その事実は何故だかライの心に安寧をもたらした。そう、まだ大丈夫なのだと。
(……まだ?)
自身の不可思議な思考にライは頭を捻る。しかし、いくら深く考えこんでもその理由は明らかにならない。悪い予感とは裏腹に外は日常そのものだった事もあり、まさに空回りし続ける
仕方ない。そう自身を納得させたライは菜園を後にする。最後にチラリと見たのはフィーの花壇。菜園の中で唯一花を咲かせないハーブの芽は、まるで彼女の問題を表しているようだ。諦めによる停滞、以前のバーベキューで感じ取った課題を胸にライは歩く。
……果てして、停滞しているのはフィーか、それともライか。
土から顔を出したハーブの芽は、何も語りはしなかった。
◇◇◇
――寮への帰り道。
教会の横を流れる川の上に差し掛かったライは、そこで見慣れた褐色肌の男、ガイウスとばったり出くわした。
「ふむ、このような時間に出くわすとは珍しいな」
ガイウスは普段通りの落ち着いた空気を携えて感想を述べる。
その言葉から察するに、普段から早朝に出歩いているのだろうか。クラスメイトのまだ見ぬ日常を肌で感じながら、ライは横を向いてガイウスの目的を考察した。
「教会か?」
「ああ、女神と風に祈りを捧げに行くところだ」
「……祈り、か」
まあ教会を訪れる理由としてはポピュラーなものだろう。
しかし、教会にあまり馴染みのないライにとって、祈りと言う行為がどのようなものか想像するのは難しかった。
教会に視線を向けるライ。そんな灰髪の青年に対し、ガイウスがそっと問いかけてくる。
「もし教会が気になるのなら、ともに教会へと赴いてみないか?」
「俺も?」
珍しい提案を受けたライの脳裏に天秤が浮かぶ。
何せシャロンから早く戻るよう言われているのだ。もし遅れたらまたあの威圧を正面から食らう事だろう。……だが、ライにはそんな事関係なかった。
「ああ、頼む」
前に進む事、それがライの歩む道なのだから。
…………
――七耀教会。それは暗黒時代を平定したゼムリア大陸最大の宗教だ。大陸中央に位置するアルテリア法国に総本山を構え、空の女神エイドスを信仰の対象としている。と、士官学院の授業で教わった。
その信仰の広さは相当であり、主な町ならば何処にでも教会が建てられているらしい。事実、ここトリスタだけでなく、ケルディックやセントアークにもそれらしい建築物があったので、その信仰は確かなものと見て間違いないだろう。
教会に初めて足を踏み入れたライはそれを改めて実感した。
正面の壁にはめ込まれた女神のステンドグラスからは幻想的な光が注ぎ込まれ、しっかりとした造りの長椅子が列をなしている。その丁寧な造りは信仰なくしてあり得ないものだ。
奥へと歩きながら興味深そうに分析するライの様子を見て、隣のガイウスが率直な言葉を発する。
「もしや、七耀教会に来た事がないのか?」
「俺の記憶、いや感覚が正しいなら」
「そうか。…………」
何やら考え込んでいるガイウス。
だがそれを確かめる前にステンドグラスの近くまで来てしまった。
ガイウスは慣れた様子で台座の前で片膝をつき、両手を握って静かに祈りを捧げる。
恐らくこれが祈りなのだろう。
ライもそれに習い祈りを捧げようとする、……が、その手は途中で止まってしまった。それに気づいたガイウスは、先ほど聞いた事を思い出したのか祈りを止め、ライに話しかけてきた。
「何か教えた方がよいだろうか」
「……そう、だな。女神と風に祈ればいいのか?」
「いや、本来は女神だけでいい。俺の故郷、広大なノルドの地では古来より野を駆ける風を信仰し、風の赴くままに暮らしていた。故に、俺の祈りは一般の教義とは外れているだろう」
この状況では祈るどころではないだろう。
2人は一旦立ち上がり、近くの長椅子へと移動した。
「そもそも、土着の信仰と七耀教会は両立出来るものなのか?」
「女神エイドスが寛容だ。土着の信仰も受け入れ、人々の平和と救いを説いている」
「だからここまで広まっている、と言う訳か」
信心深いガイウスの話を聞いて、ライの知識がまた上がった気がした。
何故、七耀教会が大陸全土で受け入れられているのか。それは他の信仰を淘汰した訳ではなく、むしろ併合していった結果なのだろう。
「今度は此方が質問しても良いだろうか」
「ああ、構わない」
唐突な話題変更。いや、教会に誘った真の理由はこの質問をする為だったのかも知れない。ライは頷き、静かにガイウスの言葉を待つ。
「……ライジョウクズハについてだ」
ガイウスの静寂な視線がライを貫いた。
そう、ライと頼城葛葉の関係についてはVII組全員が知っている。
それは旧校舎内での調査を終えたあの日、当然の流れでVII組の面々との情報共有が行われたからだ。食堂のスペースに集められたサラを含め12名。シャドウとペルソナの共通項、集合的無意識、現実世界に現れたシャドウの異常性。そして最後にライと呼ばれた頼城葛葉の存在が伝えられた。
ただ、それが本当にライなのかどうか。
それがどうにも定まらなかった。
今思えばライと頼城葛葉の符合点は山のように存在する。しかし、頼城葛葉の容姿は半透明ながらも黒髪黒眼と判明しているのだ。それがどうすれば灰髪青眼になると言うのか。その矛盾が焦点となった。
それに頼城のあだ名がライだからと言う理由も、確定材料としてはやや弱いのも事実だ。
以上の2点から議論の結果は保留。
今回ガイウスが誘ってきたのも、そんな現状を気にしての事なのだろう。
「ライはどう考えている?」
「……正直まだ分からない。けど、俺が日本の生まれであるなら、今まで疑問に感じていたものにも納得がいく」
ライはそう言いながら懐の召喚器を取り出し、ステンドグラスに掲げた。
色鮮やかな光を跳ね返す銀色の拳銃。出自不明であるこの召喚器も、シャドウワーカーの一員として貰ったものならば説明がつくだろう。
「……そうか」
ガイウスはライの返答を聞いて、ゆっくりとステンドグラスを見上げた。
しばしの沈黙。
やがて、彼の口から無意識のうちに言葉が漏れる。
「ならば何故、今のお前は1人なのだろうな」
刹那、ライの手から拳銃がこぼれ落ちた。
一瞬遅れ落下する召喚器に気がついたライは、地面に落ちる寸前でそれをキャッチする。
「済まない。思慮に欠ける問いだった」
「いや、事実だ」
召喚器を懐に戻しながらライは答える。
それは無意識の内に考える事自体を避けていた疑問だった。頼城葛葉と言う青年は、2人の友人やシャドウワーカーの人々とともに日本で戦っていた筈。なのに何故、ライは今エレボニア帝国で1人なのか。
今朝の悪夢を思い出す内容にライの心臓が凍りつく。
だが、ライはその感情を無理やり奥に押し込め、長椅子から立ち上がった。
「……そろそろ時間切れだ」
「む、時間切れとは?」
「クルーガーさんを待たせてる」
そう言ってライは教会の入り口へと歩いていく。
早朝の教会内に響く一対の足音。ガイウスはクラスメイトの背中を見つめ、最後に聞きたかったもう1つの問いを投げかける。
「1つ聞かせてくれ。――この状況、ライは"重い”と感じた事はないか?」
ライの足が止まる。
人間関係の問題、帝国に暗躍するシャドウの問題、そしてライ自身の問題。それら全てが一身に降りかかっている現状の答えなど、ただ1つに決まっているだろう。
「……重いさ。けど重いだけだ」
だから何も問題はない。
ただ前に進むだけ。
そんな決意を言葉に込め、ライは教会の外へと出て行った。
◇◇◇
「――ガイウスには悪い事をしたな」
太陽も少しばかり高く昇った寮への帰り道。少々強引に外に出てしまった事に対してライは僅かに肩を落としていた。
時間切れだと言うのは事実だ。考えたくもない疑問が提示されたと言うのも理由の1つだろう。だが、あの時教会の外に出た理由はもう1つあった。
そう、ガイウスに習い祈りを捧げようとして、途中で手を止めてしまった理由。
あの時、ライは“神にだけは祈りたくない”……と感じてしまったのだ。
(俺は神にでも会ったのか? まさか)
頭に浮かんだ突飛な予測を振り払い、ライは寮の中へ、食堂の扉の前へと辿り着く。この両開きの扉を開ければシャロンが待っている。さて、待っているのは慈悲深い微笑みか、それとも鋭い絶対零度の微笑みか。ライは覚悟を決め、その扉を開け放った。
そこには、
「う〜す! 邪魔してるぜ」
……妙に軽い先輩の姿があった。
砕けた緑の制服を身に纏うクロウ・アームブラスト。少々面を食らったものの、彼の姿が食堂にあるのは別段おかしな状況ではない。何故なら――
「今日も来てたんですか」
「ここの料理が異様に美味いのが悪ぃんだよ。さっすがラインフォルト社の使用人、あっちの寮で出される食事とはレベルが違ぇわ」
と、言う訳である。
以前のバーベキューでVII組全員と顔見知りになった影響もあってか、割と高頻度で朝食や夕食を食べるため第3学生寮に顔を出していた。最早クロウもVII組の一員のように感じてしまうのは、ライだけではなくVII組全員の総意だろう。
ひとまずライは軽食を出されたクロウの対面に座った。
「おう、今日は試験結果発表&実技テストの日だってのに、問題抱えてるみてぇだな」
「……? 何故それを」
「そりゃもう、オレくらいの観察眼を持ってすれば「クルーガーさんに聞きましたか」……察しが良すぎて嫌味なレベルだな、おい」
キッチンで無関心を貫くシャロンを見て答えを言い当てるライ。そんな後輩を前にして、クロウが力なくテーブルに崩れ落ちた。しかし、クロウはすぐに起き上がると、まるでなにもなかったかのように会話を再開する。
「ご察しの通りシャロンから今朝の異変を聞いた訳だ。……そこで、だ! オレが何か力になれねぇかなと思ってよ」
「先輩が?」
「そこ、真顔で聞き返すな!」
ビシッとツッコミを入れるクロウ。
「ま、とりあえず適当に話してみろよ。話しても損になりゃしねぇだろ?」
まるで1ヶ月前と同じ状況だ。今朝の異変に関してはどうしようもないが、別の悩みなら話してみても良いかも知れない。そう判断したライは、クロウに聞いてみる事にした。
…………
「――なるほど、空回りしてる、ね」
ふむふむとクロウは考え込む。
しかし、その顔は答えに悩んでいると言うよりは、そう来たか、と言った不敵なものであった。
「その答えは簡単だ。ライ、お前は空回りなんかしてねぇよ。……行動ってのは良くも悪くも周囲に影響を与えるもんだ。だから一見進展してないように見えたって、実際には見えないところで変化が起きてる。この前のバーベキューだって、お前の知らないだけで色々と動いてるかも知れねぇぜ?」
自信満々に語る銀髪バンダナの先輩。その話を聞いたライは先の出来事を思い出す。今朝の悪い予感は確かに徒労であっただろう。だがその結果、ガイウスに遭遇するという別の影響を生み出した。クロウが言いたいのはそう言うことなのだろうか。
「……そうだよな。見えなくても進んでる筈なんだ」
「アームブラスト先輩?」
「っと悪ぃ悪ぃ、話を戻すわ。――ここで1つ提案だ。なんなら賭けでもしねぇか?」
慌てて誤魔化すクロウだったが、無理やり問い詰められる様子でもない。
ライは仕方なく先輩の話に乗る事にした。
「賭け?」
「お前の行動が影響を与えてるって証明さ。具体的には……こいつを使うんだ」
そう言ってクロウが取り出したのは戦術オーブメント、ARCUSだった。
確かクロウは去年、ARCUSの試験導入の為にトワ達と特別実習をしていた筈だ。ならば彼がARCUSを持っているのも自然の摂理で、……クロウの言う賭けの意味も理解出来た。
「こいつでお前と戦術リンクをして、その結果を証明とする。どうだ? 良いスリル感だろ」
戦術リンク、それに伴う問題は身に染みて理解している。
反発か、ペルソナ覚醒か。どちらにせよ平穏無事には終われない賭けをしようとクロウは持ちかけて来たのだ。
「成功させる自信でも?」
「ははっ、んなもんねぇよ。リィン達の話を聞く限り十中八九失敗だろうな。……だが、それでお前に嫌悪感を抱くかどうかは別問題だ。4月にリィン達がリンクした時とは違って、オレは2ヶ月もお前の影響を受けてる。だから失敗してもお前と嫌悪感を同一視しなけりゃ、賭けは成功ってこった」
つまりクロウは、今までのライの行動による影響を、自身の嫌悪感とライを分離して捉える事が出来るかによって証明しようと言うのだ。
失敗すれば問題が1つ増え、成功しても得られるのは証明だけ。
どう考えてもハイリスクローリターン賭けだが、得るものがない筈のクロウは何故か乗り気で、何より臆する道などライには存在しない。ライ自身も迷いなくクロウの意志に応じる。
「乗ります」
「OK、なら早速いくぜ!」
――リンク――
共鳴する2つのARCUS。
小さな機械を介して今、2人は”繋がった”。
……
…………
少しばかり静寂が続く。
目の前にはリンクした時から固まるクロウの姿。
もしや成功か? と、疑念を抱いた次の瞬間、パリンと音を立てて戦術リンクが崩壊した。
「――ッ! 話には聞いてたがキツイな」
意識を取り戻したクロウが飛び跳ね、肩で息をしている。
どうやら事前の宣言通りリンク自体は失敗に終わったらしい。
だが、
「……でも、ははっ、どうだ賭けには勝ったぜ!」
ライを見るクロウの瞳に嫌悪感など欠片もなかった。
即ち彼の宣言通り、賭けには勝ったと言う事なのだろう。
「そのようで」
「なら、勝ったついでにその敬語も止めて貰うぜ。前から思ってたけどアームブラストって長いだろ? かれこれ2ヶ月、入学の時から関わってんだし、これを機にタメ口&名前呼びで行こうじゃねぇか」
むしろこうなるのを待ってましたと言わんばかりに提案してくるクロウ。その言葉を受け取ったライは、ふとケルディックでの一幕を思い出した。1日限りだったマルコとの思い出。ライの口角が僅かに上がる。
「……どうした?」
「いや、何でもない。――よろしく、クロウ」
「おうとも!」
テーブルを挟んで握手を交わす2人。
その絆は単なる先輩後輩の関係ではない。
確かな友人としての絆を、ライはその手を通じて感じるのだった。
“我は汝、汝は我……。汝、新たなる絆を見出したり。汝が心に芽生えしは運命のアルカナ。その絆がもたらす運命とは、果たして如何なるものか……”
運命(クロウ)
そのアルカナが示すは幸運や転機。正位置ではチャンスや変化を示し、逆位置では事態の悪化やすれ違いを意味する。その名の通り運命を表すアルカナであり、吉から凶へ、凶から吉へと循環する人生の流れを暗示している。その暗示が意図する先はライか、それともクロウか。答えを知るのもまた運命のみであろう。
――――――――――
溜め回。又の名を布石ばらまき回でした。