晴天の日差しが差し込む桐条グループ本社の応接間。
地上が薄っすらと青みがかって見えるほどの高所の一室で、友原達は呆然としていた。
『協力してほしい、って……それってつまり、オレ逹もシャドウワーカーとして戦ってくれってことっすよね』
『でも私たちはまだ高校1年だし、そもそも戦った経験なんてほとんどないし』
不安を感じるのも無理はない。一度死を覚悟した程の相手と戦えと言っているのだから、普通の学生だった彼らなら当然と言えるだろう。友原と葵の思考はぐちゃぐちゃになり、まともに物事の賛否すら考えられない状況に陥る。
……ただ、1人だけは違った。
『分かりました』
『って即答すんなよ頼城! お前はあれか! ノーと言えない日本人かっ!?』
『逆に聞くが、友原は身近な問題を前に無視するのか?』
頼城に冷静な視線で返され、自身も冷静さを取り戻す友原。
その思考で改めて桐条の頼みを思い返し、頼城の言わんとする事を理解する。
『……あー、そりゃ、無視する選択肢なんかないよなぁ』
『ええっ!? 友原くんも!?』
驚く葵。しかし、2人にとってこの反応は当然であった。
緊急時にはテンパってしまう友原だが、平常時の前向きさは頼城のそれより更に上を行く。──レッツチャレンジ。何事も可能性があるなら挑戦すると言うのが彼の信条だ。で、なければ、数多の地雷を踏み抜く事もなかっただろう。
頼城もそんな友原の性格を知っていたからこそ今の問い掛けをしたのだ。平常時に行動的な友原と、諦めると言う事を知らない頼城。表面上は違えど良く似た2人を眺める葵は、列車の時と同じく羨ましそうにその青い瞳を揺らしていた。
『無論、無理にとは言わない。私たちに答えられる事なら何でも答えよう』
『そ、そうですか。ええっと、なら1つだけ。あのペルソナやシャドウって一体なんなんですか?』
『……確かに、それを知らずに戦うのはいささか危ういか』
まるで自分たちがそうだったかの様に、実感の伴った呟きを漏らす桐条。
質問をした葵はその理由が気になったが、無闇に掘り返すべきでないと、言葉をぐっと飲み込む。
『まず、君たちはペルソナやシャドウについてどれほど知っている?』
『え、えと……』
『知らないから聞いてるんですけど』
戸惑う2人。だが、桐条が確認したかったのはそう言う話ではない。
『ペルソナ、シャドウ。……どちらも心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱した概念ですね』
『ちょ、おまっ、物知り名人かよ!?』
『調べただけだ』
と言うより物知り名人とは一体何者なのか。
呆れる頼城を他所に、桐条は赤い長髪を揺らして頷いた。
『その通りだ。ペルソナとは元来古典劇における《仮面》を意味する言葉。私たちが周囲と接するときに被る別の自分、とでも言うべきか』
『……えと、それはつまり、私が頼城くんや友原くんと接するときは、本当の私とは違うってのと同じですか?』
『あれ、葵さんってキャラ作ってんの?』
『えっ? いやえっと、あの、友原くんは素のままなの?』
『んんん……、あー考えてみりゃ、意識はしてねぇけどオレも素とは言えないかもなぁ』
人は他者と触れ合うとき、無意識の内に本来の自分とは別のキャラを形成する。それがペルソナ。外界と調和し、ときに対立する為に被る心の仮面と言う訳だ。
『次にシャドウについてだが、これはペルソナとは逆に当人が嫌い、内面の奥深くへと押し込んだ人格のことだ。誠実を目指す人は横暴な自分を封じ込め、論理的な人間は感情を優先する自分を抑え込む。表に出られない心、文字通り影と言う訳だな』
『あ、これは知ってる。だからもし他人の中に自分の嫌な部分を見ちゃうと、その相手を本能的に嫌ってしまうんだって』
『あ〜なるほどなるほど。って葵さんも知ってんの!? 知らないの俺だけ!?』
『あはは……はは、……うん! 何もしなくても嫌われる理由なら任せて!』
見るからに空元気なガッツポーズを決める葵。自らトラウマを抉る彼女を痛ましく感じた頼城は、ジト目で友原を睨みつけた。
『また友原が地雷踏んだ』
『うっせぇ! オレだって気にしてんだからな!?』
どうして友原はこうデリカシーと運がないのだろうか。
どうして真面目な空気が続かないのだろうか。
そんな下らない事で悩む頼城の隣で、友原が必死に今の話の整理を始めた。
『……んー、でもさぁ。そのペルソナやシャドウ、でしたっけ。心の1側面があんな力を持ってるなんて信じられないって言うか』
『君の疑問も最もだろう。私達の心には力がある、と言われても信じられる者はそう多くはいまい。──だが、確かに心は現実をも変える程の力を持っている。個々としては微量なものだがな』
桐条の言葉のニュアンスから察するに、個人の現実に及ぼす影響はそれ程でもないらしい。それも当然だ。そうでなければ今頃世界は混沌としている。
『──集合的無意識、という概念がある』
『しゅうご、なんすかそれ』
『集合的無意識、もしくは普遍的無意識とも言われているか。私達が感じ取ることの出来ない無意識、そこに全ての生命の精神が繋がっている領域があると言う話だ。ペルソナやシャドウも元を辿れば、その集合的無意識にたどり着く』
『あ〜〜、え〜と、人類皆兄弟っ、的な?』
いまいち概念が掴めていない友原が? マークを浮かべていた。
『何億、何兆もの生命の精神がつくりだす海、もしくは宇宙と言えば想像もつくだろう』
『……とにかくデッカい事だけは分かりました』
『ああ、途方もなく広大な領域だ』
ぐったりダウンしている友原を前にして、桐条は感心したように目を閉じて頷いていた。もしかして赤髪を伸ばし凜とした彼女は、友原が話についていけているとでも思っているのだろうか。だとすれば割と天然が入っているのかも知れないと頼城は思った。
『私達が使うペルソナはその最たる例だろう。集合的無意識には古今東西の人々が想像した様々なイメージが蓄積されている。神や悪魔、過去の偉人など、本当に多種多様なイメージがな。
──ペルソナが神話上の名を有しているのも、ペルソナとして召喚される自我がそう言ったイメージと結びついている為だ。現に桐条グループでは、ペルソナから神話的文脈を抽出し、武器に変換する技術も開発されている』
『ペルソナを武器に? うへぇ、さっすが大企業、恐るべし……』
『いや、褒められたものではない。……"桐条"が過去に犯した負の遺産だ』
3人から目をそらす桐条の瞳には、大人っぽい落ち着きの中に憂いを秘めていた。彼女が言う桐条とは桐条グループの事を指すのだろうか。けれど、何故か桐条のたたずまいを見ていると下手に聞けない重さを感じてしまう。
『他に何か質問はあるか?』
『……んと、そう言われても思いつかないって言うか』
『私たちの心、無意識には元々力があって、それがペルソナやシャドウ、なんですよね。……え〜と、多分、大丈夫です』
桐条はそんな友原と葵の返事に『そうか』と返し、何やら考え込んでいる最後の1人へと視線を向けた。
『頼城、君はどうだ?』
『……1つだけ。シャドウが以前からいるのであれば、なぜ今頃になって事件に?』
頼城は今の説明を事件に結びつけた時、その疑問が気になっていた。
シャドウが桐条の話通りに人の心に根ざすものなら、以前から事件になっていなければ矛盾が発生する。その理由は何か。
彼の疑問に答えたのは銀色のトランクケースを持つ真田であった。
『…… つまり、それこそ今回の事件におけるイレギュラーって訳だ。本来奴らは現実空間に現れない。現実とは異なる時間、空間を形成してその中に住んでいる。現実世界でシャドウが暴れまわっているからには、そこに何らかの干渉があると見て間違いないだろうな。──どうだ? 気になるだろう?』
身を乗り出して聞いてくる真田に、頼城は縦に頷いて答える。
それに1つ納得もいった。真田の言葉が真実であれば、今回の件はまさに想定外の事態。その状況で対処していたのでは人手不足になるのも無理はない話だ。
その後、一転して静まり返るシャドウワーカーの2人。話題の矛先が事件に向いた以上、この状況で話せる事がなくなったらしい。
何故なら葵がまだ協力するかを決めてないからだ。もしこの場で話を進めた場合、本人の意思を無視して葵を事件に巻き込んでしまう。故に桐条は今までの流れを一旦区切り、凛々しい視線を葵へと向けた。
『どんな判断でも私は引き止めはしない。それに時間が欲しければそれも応じよう。──全ては君の判断だ、葵莉子』
その言葉に打算はなかった。
桐条は純粋に葵の体や心を案じ、否定、賛成、保留の3つの道を提示したのだ。
選ぶのは誰でもない葵自身。頼城はそんな彼女に言葉を投げかける。
『葵、大丈夫か?』
『……ありがと。でも、私も決めたよ。私だって身近な危険を見て見ぬふりなんてしたくない。それに頼城くんが、2人がいれば多分なんとかなる。そう思うんです』
『そうか。君の勇気に敬意を示そう』
両手を固く握っている葵の意志に、桐条はふっと力を抜いた笑みで答えた。
『ではこれより、3人は非公式ながらもシャドウワーカーの一員だ。よろしく頼むぞ、頼城、友原、葵』
片手を3人に向け宣言する桐条。
やや遠くで真田も腕を組んで頷いている。
かくして、頼城達3名はシャドウワーカーとして活動する事となったのだ。
◇◇◇
『まずはこれを受け取ってくれ』
実質先輩となった真田から、3人はそれぞれ紙束と銀色の拳銃を受け取った。
『これは?』
『事件に関する調査資料と、ペルソナを安定して召喚するための召喚器だ』
『召喚器? あーこれがオレ達の武器って訳っすね』
拳銃をカッコ良く構えて揚々とする友原。
そんな子どもっぽい行動をしている彼に真田が忠告する。
『ペルソナ使いなら言わずとも解ると思うが、それは敵に向ける道具じゃないからな』
『分かってますよ。これは相手じゃなくて自分の頭を……って何で分かるんだ? オレ』
『先も美鶴が言っていた集合的無意識のおかげだろう。俺たち個人が知らなくても、全ての生命に繋がる無意識は知っている。数年前も何度か見られた現象だ』
『あ〜、だからあの時もペルソナの事が分かったのかぁ』
以前の疑問が解けて友原は笑顔を浮かべていた。
しかし、対照的に葵の表情は暗い。どうやらその召喚法に対して拒否感を感じているようだ。
『でも、何で自身の頭を撃ち抜くなんて……』
『話によれば擬似的に自殺をして、強く自身の死を認識するためらしい。その方がペルソナの出力が高くなるからな』
『し、死で私たちのペルソナが……?』
『ああ。お前達もたしか、死が目前に迫った極限状態でペルソナに目覚めたと聞いているが』
『……そう、でしたね』
普段の明るさがなりを潜め、ぼんやりと地面を眺める葵。ペルソナを覚醒したあの時を思い返しているのか、それとも別の理由か、それは本人以外分からない。だが、頼城はひとまず話題を変えた方がいいだろうと召喚器に視線を向けた。
『それより、グリップに埋め込まれたこの青い結晶は?』
『ああ、それは《黄昏の羽根》だ。物質でありながら心と同じ情報の性質を持つ結晶体。ペルソナ召喚時にその力をアンカーとして撃ち出す事で、自己を安定化させる事ができる』
頼城は拳銃のグリップに埋め込まれた結晶を興味深く観察する。
どこか"月の光”のような淡い輝きを放つ青く透明な結晶体。それはどうやら普通の物体ではない様だ。
『……そろそろ、事件に話を移しても良いだろうか』
と、そんな中、側面のソファに座る桐条が口を開いた。
唐突にも感じるが、今回の本題は召喚器ではなく事件。むしろ1段落するまで待ってくれていた事に感謝するべきだろう。頼城達3人は事件に関する資料へと意識を移す。
『現実空間におけるシャドウの被害報告。……調査人は、白鐘直斗?』
『白鐘直斗って、たしかあの探偵王子の? って2年前、実は探偵王女だと発覚したんだったっけ。──頼城は知ってるよな? 八十稲葉市の事件を追ってたって前にテレビで見たぜ?』
『ああ、時々ジュネスの屋上で見かけた』
去年まで八十稲葉市にいた頼城は答える。
八十稲葉市唯一の大型デパートであるジュネス。その屋上に探偵王子、アイドル、着ぐるみ、不良、やけに漢らしい青年などなど、非常にバラエティに富んだ面々が集まる光景は、近所のちょっとした噂になっていた。
『彼女には我々もよく世話になっている。今回もシャドウ調査と言う性質上、彼女の働きに頼っている面も大きいからな』
そんな桐条の話を耳にしながら、頼城は資料に目を通す。
1枚目は事件発生場所が記された地図と概要。巌戸台を中心に同心円状に分布している事が見て取れた。……最初の事件は5月9日の午前ポートアイランド内。頼城達が襲われた時に桐条が来てくれた理由は、恐らく別件で既に動き始めていたからなのだろう。
2枚目からは更に詳細な資料だ。現れたシャドウの情報、発生した被害、周囲に対する警察の情報統制など、事細かな情報が記されている。調査資料を纏めた白鐘の考察では、シャドウの発見数に対して発生源と思われる人物が非常に多い事から、未だ未発見のシャドウが多数いるのではないかと書かれていた。
──そして最後から2枚目。事件の調査を通して得られた情報を元に、白銀直斗は1つの推測を書き連ねていた。
『……本事件は、シャドウの発生源と推測される人物から共通して”この世界は間違っている”、”偽の神が作り出した”と言う発言が見られる。これらの内容は3、4世紀に地中海周辺で広まった思想《グノーシス主義》との類似点が多く、今後の調査は──』
『グノーシス主義? なんだこれ』
『その内容に関しては別途資料を付けておいた。最後の資料を見てくれ』
『あ〜、なるほど。これなら俺でも分かるぜ。他の質問だってこれくらいあれば『無茶言うな』……ですよねぇ』
友原と頼城はそんな軽口を叩きつつ、添付資料の"グノーシス主義について"と題された文を読み進めていく。
『正直、この思想が今回の事件に関係があるのかは分からない。だが現状、数少ない情報であると言うのも事実だ。一応この資料の内容も記憶に留めておいて欲しい』
『りょ、了解っす』
桐条の指示に従い、友原が文面の山にかじり付く。
彼なりに頑張ろうとしたのだろう。その茶色がかった瞳は必死に左右に動いていた。
だが、その行為が完遂される事はなかった。
──突如、立っていられない程の地響きが頼城達を襲ったからだ。
まるで地面が抜けたかのような異常な揺れ。それは一瞬で止まった。すぐに体勢を立て直した桐条は、素早く懐から通信端末を取り出し、地上の警備へと連絡を繋ぐ。
『何があった!?』
『”シャドウです! 大型のシャドウが突如本社内に出現し──ヴアァァァァアアアアア!!!! ……ァ、ァァ…………"』
悲鳴を最後に途切れる通信。
一体何が起こっている? それを理解するより前に、再度地響きが発生した。
ズシン、ズシン、と定期的に揺れる応接間。
これは地震か? ……いや違う。これは、巨大な何かがビルの壁面を登ってくる振動!
唐突に応接間が夜に変わった。
いや、外から差し込むべき光が途切れたと言うべきか。
何とか姿勢を保つ頼城達は、反射的に窓へと顔を向ける。
『へ、へへ……。それ、もう2度目だっての』
そのあまりの光景に、思わず友原が皮肉を漏らした。
壁一面のガラスにも入りきらない異形の仮面。
太陽を背面に覗き込む影は、4本の非生物的な腕を持った、途方もなく巨大なシャドウであった。
感情の読み取れないシャドウの仮面が不気味に動き、腕の1本が本社の側面から真っ青な上空へと離れる。まるで鞭を絞るようなその挙動。桐条はその動作から数秒先の惨劇を予測した。
『皆、伏せろ!』
──刹那、影の暴力的な一振りが、本社の壁に激突する。
砕け散るガラス。頼城達の頭上、応接間の壁が容赦なく抉り取られる。
瓦礫が山のように降り注ぐ中、ソファを即席の盾にし、皆は物陰からシャドウを見つめた。地面に黒い指を突き立て、壁を削りながら侵入してくる異形の化け物。その4本の腕はまるで2人の人間を無理やりくっつけた様に歪なものだ。
『狙いは、俺達か……?』
『分からん。だが、逃がしてくれる様子じゃなさそうだな』
『ああ、今はこのシャドウを討伐する。──総員、武器を構えろ!』
地面に落ちていた観賞用のレイピアを拾い桐条が叫ぶ。
包帯が巻かれた拳を固める真田。3人も召喚器を握りしめ大型のシャドウに相対す。
そう、標高180mの寒風が吹きすさぶ応接間で今、ペルソナ使い達は1つの脅威と立ち向かう事となったのだ。