6月9日。草木も青々と生い茂り、太陽の暖かさも次第に増してきた初夏の午後。士官学院の教室でライは、窓から射す日の光を浴びながら物思いにふけっていた。
内容は言うまでもなくラウラとフィーの件だ。特別実習から帰ってきた5月31日から早9日。ユーシスやマキアスの様な表面上の対立はないものの、あれからラウラとフィーの間にギクシャクとした空気が流れる様になってしまった。まるで距離感を掴めていない赤の他人みたいに一言も言葉を交わさず、視線すら合わせる事はない。それが最近の2人の日常だ。
「アスガード、何をぼさっとしている」
その時、教卓に立つナイトハルトの声が飛んできた。ライは思考を止め、前に視線を戻す。
「この時期だと言うのに緊張感が足りない様だ。ならアスガード、この内容を答えてみろ」
ナイトハルトに促されるがまま、ライは黒板に書かれた文章を読む。
"長距離砲撃における基本的な弾頭について"
その下が空白であることから、恐らく解説の部分をそのまま問題にしたのだろう。
とりあえずライは教材の内容を思い出し、その答えを口にする。
「──榴弾かと」
「正解だ。これに免じて今の件は不問にするが、少なくともここ1週間は話を真面目に聞くように」
「分かりました」
「……授業に戻ろう。長距離の砲撃には基本的に火薬や鉄片を詰めた榴弾が用いられている。これは長距離の曲射でも殺傷力を維持し、同時に広範囲の歩兵や車両を攻撃するための物だ。帝国東部ガレリア要塞に設置された列車砲ほどの規模にもなると、爆発の威力は都市の一区画を粉砕するレベルに達し、──」
どうやら正解だったらしい。
ライは知識が上がった様な気がする。
まぁそれはともかく、ナイトハルトは何時もに増してピリピリした空気の中、復習も織り交ぜた授業を続けていた。……それもその筈。今のライ達には、学生生活最大の試練が待ち受けているのだ。生徒を導く教師も一段と厳しく教鞭を振るっていた。
「──今日はこれで終わりだ。中間試験まで残り1週間、ゆめゆめ勉学を怠らぬよう気を引き締めろ」
そう、今のライ達には巨大な壁、即ち夏の中間試験が目前に迫ってきていたのである。
◇◇◇
──放課後。
ライは1人、士官学院南西にある2階建ての図書館に訪れていた。理由は言うまでもなく中間試験の勉強の為。知識の歯抜けが多いライにとって、そのハンデ分の学力上昇は必要不可欠なものであった。
「帝国史、帝国史は……」
吹き抜けの2階、外周をぐるりと囲う渡り廊下に設置された本棚の1つ。歴史関係の本が置かれた場所を1つ1つ探していく。
だが、中々目的の本が見つからなかった。ところどころに空きのある本棚。2年制の士官学院では参考資料の需要も高い為、既に全て借りられているのかも知れない。そう考えて本棚から視線を離したその時、前触れもなく背後から声が聞こえてくる。
「む? ライか、何を探している?」
その声に振り返るライ。
そこにいたのは数冊の本を抱え込むラウラであった。どうやら彼女も試験対策に来ていたらしい。
「帝国史の資料を」
「……ふむ、帝国史ならその棚にはないだろうな」
「そうなのか?」
「ああ、先ほど私が取ったこの本で最後の筈だ」
ラウラが手に持っていた厚手の本に刻印された題名は『中世帝国史』。丁度今回の試験範囲に入る部分の参考資料だ。だとすれば、やはりもう残っていないのだろう。
「なら別の教科にするか。ありがとう」
「うむ」
ライは別の苦手教科である導力学の参考資料を探そうと歩を進め、……止めた。
もしかして、これはチャンスなのではないだろうか。ここ最近のラウラとフィーの確執。前回のマキアスの件と似ているのなら、ラウラと話し合う機会を逃す訳にはいかない。ライは歩みを止めた足を基軸に180度ターンし、ラウラに向き直った。
「む、まだ何かあるのか?」
「ラウラ、良ければその教科書で一緒に勉強しないか」
その凛々しい顔に似合わずきょとんとするラウラ。
やがてそれが帝国史の勉強の誘いであると理解し、僅かに口元を緩めて頷いてくれた。
◇◇◇
カタカタと鉛筆の音が鳴り響き、夕日の明かりが差し込む静まり返った図書館内。ライとラウラの2人は1冊の本を共有して勉学に励んでいた。ゆったりとしていて、環境音も少なく、かつ引き締まった空気も感じる図書館の独特の雰囲気。正に勉強に打ってつけの空間だ。
……さて、いつ話を切り出すか。
下手にフィーに関する話題を切り出せば、ラウラは何も答えることなく席を外しかねない。
それをこの9日間で理解していたライは帝国史の年表を書き写す中、密かにタイミングを伺っていた。神経を尖らせれば尖らせるほど感じる図書館の静寂。少し離れた場所の男子生徒2人組の雑談もよく聞こえてくる。
「──あ~かったりぃよな。試験勉強ってさ」
「ははっ、同感だわ。俺は別に軍関係に入りたい訳じゃないし、この勉強に何の意味があるって話だよ」
「そうそう、俺たちゃ名門校の経歴が欲しいだけだっての」
緑の制服を着た2人は鉛筆をテーブル上に投げ出して愚痴っていた。話を聞くに、軍事学を学んでも意味がないと言う徒労感が、2人のやる気を容赦なく削っていたのだろう。最早、鉛筆を走らせる行為すら億劫な様子であった。
「いっその事、誰かに代わってくんねぇかなぁ。ほら、最近噂になってる"シャドウ様"とかさ」
だが、その話は途中から横道に逸れていく。
「シャドウ様? ああ、代わりに願いを叶えてくれるって奴ね」
「そうそうそれそれ! 正に今の俺たちにぴったりだろ? 実際に願いを叶えたって人もいるらしいし、俺達もたまには本気出して調べて見ねぇ?」
「う~ん、俺はパス。つうか、あれやったら気絶しちまうって話もあんだろ? やったらバレバレじゃねえの」
「あぁ〜、まぁ確かに。……だったら南部で噂になってる奴やって見ないか? 部屋の4隅に立って肩を叩き合うって奴。北部で噂になってる午前0時の水面に映る別世界とかもついでにさ!」
「……オカルト好きだよな、お前」
オカルト話に付き合う男子生徒はうんざりした顔をしながら勉強道具を片付けていた。それはオカルト好きの相方も同様だ。どうやら2人はもう勉強を止めにするつもりらしい。
図書館の入り口から外へ出て行く2人組。それを見送ったラウラはふと、おもむろに呟く。
「シャドウ様の噂。もうこの辺りでも聞くようになったな」
「確かに」
「幸い方法についてはまだ広まっていないが、もしあのグノーシスが広まったなら、そなたはどうなると思う?」
「使う者は現れる。確実に」
もし、願いを叶える可能性を手にした時、それを使うか使わないか。例えリスクを承知の上でも、それを使う人物は確かにいるとライは思っていた。
届かない夢を抱く者、リスクを軽く見る者。理由はそれぞれだが、手にした力を試す人間は必ず存在する。誰しも大なり小なり願いを叶えてくれる都合のいい存在を欲しているのだから。だからこそシャドウ襲撃の事件は止まらず、今も帝国のどこかで事件は起こっているのだ。
「全く、願いとは自ら努力して掴むべきだと言うのに……」
ラウラは弱みに漬け込んで発生する事件のメカニズムを憂い、その整った眉を歪める。正道を行くラウラにとって、この噂はまさしく邪道の産物であった。
……再び静寂に戻る空間。先の流れを組むならば今がチャンスか。
今度はライの話題だと言わんばかりに、ライは口を開く。
「なあ、ラウ「──ところで、例のグノーシスについてサラ教官から何か返事は?」……」
しかし、それはラウラの次なる話題に覆い隠されてしまった。
彼女の鋭い勘がライの話題を察して避けたのだろうか。何にせよ、まだチャンスはある筈だ。ライはとりあえず今の言葉に答える事にした。
「何も」
「……そうなのか。あの特別実習の報告の折、教官は独自の情報筋で調べてみると言っていたが」
「試験後まで返事はないんじゃないか」
ライは鉛筆を素早く走らせながら数日前のサラの言葉を思い出す。
確か、朝のホームルームでサラは『私の評価にも繋がるんだから、絶対に高点数取りなさいよ! 特にハインリッヒ教頭の愚痴を聞かない為にもI組には負けないように!』とぶっちゃけていた。
そう、今のサラにとって火急の問題とはシャドウでもグノーシスでもなく中間試験なのである。多分VII組の誰よりもクラスの点数を気にしている事だろう。
「……納得した」
「まあ、サラ教官だから仕方ない」
呆れた表情のラウラに対し、ライはそう締めくくった。最低限、やるべき事はやっているのだから何も文句は言うまい。
……そして、次なるチャンスが訪れた。
「ラウラ、フィーに関す「そう言えば最近、生徒会の方は」……」
これではキリがない。
仕方ないと言わんばかりに鉛筆を机に置き、ライは真っ直ぐラウラの顔を見た。
「──ラウラ」
「う、うむ。なんだ?」
「フィーについて話を聞かせてくれ」
ライの提示した話題を聞いたラウラは、その撫でやかなポニーテールごと銅像の様に硬直する。その顔はひどく苦々しいものであり、同時にライならば聞くだろうと納得したようなものであった。
「全く、そなたは何時も真っ直ぐ聞くのだな」
「ラウラが話題を逸らすからだ」
「……確かに。我ながら情けない言動であったか」
明後日の方向に視線を滑らせたラウラが自傷する。
彼女もここ最近感情が荒れていると自覚しているのだろう。だがそれでも、彼女はライに話すつもりはないようだった。
「しかし、心配してくれるそなたには悪いが、今、私から言うことは何もない」
「なら逆に質問する。──ラウラはフィーをどう思ってる?」
マキアスの抱えていた問題を思い返したライが、そう問いかける。
ラウラがフィーを避け始めたのは猟兵だと言うフィーの話を聞いてからだ。それにセントアークで猟兵に対する感情を踏まえれば、マキアスと同じく猟兵として見てしまっているのではと言う推測が立つ。
しかし、
「……その答えは至極単純であろう。フィーは時間も問わずによく眠り、日々花の世話をする、もの静かで猫の様にのんびりとした少女だ」
ラウラの答えは推測とは真逆のものであった。
マキアスの確執とは状況が異なるのだと、ライは今になって理解する。
そして、答えを口にしたラウラは唐突に席を立った。
その視線は図書館の入口の方角を向いている。何かあったのかと訝しむライに向け、ラウラは早口で言葉を投げかけた。
「済まぬ、用事ができた。話はまた今度にしても良いか」
「あ、ああ」
「かたじけない」
軽く礼をしたラウラは素早く勉強道具を片付け始め、そのまま急いで図書館から出て行く。
座ったままのライとすれ違うラウラ。そのとき、彼女は小さな声で呟いた。
「…………フィーがただの猟兵であったならば、これほど悩みはしなかったのだがな……」
振り返るライを気にも止めず、ラウラは図書館を後にした。
嵐が過ぎ去ったかの如く取り残されるライ。何があったのか状況が掴めないまま両開きの扉を眺めていると、今度は数人の女子生徒が入ってくる。短めのスカートに赤色の制服、間違いようもなくライのクラスメイトだ。
「あ、ライ! 何? 1人で勉強してるの?」
その先頭、背の小さいミリアムがライに気づいて無邪気に駆け寄ってきた。
ライはとりあえず意識を入れ替える。
「今は見ての通りだ。ミリアムは?」
「委員長に勉強を教えてもらうことになったんだ! ね、委員長?」
「え、ええ。お邪魔します」
2番手のエマがよそよそしくお辞儀をした。ここは公共の空間なのだからその挨拶は微妙に違う気もするが、彼女は気づいていない。どうやら彼女はまだライとの距離感が掴めていない様子だ。
そして、エマの背中にはもう1人、3人目のメンバーがいた。
「フィーもか」
「……ん。今日は政治経済の勉強」
フィーはそう言って政治経済の教科書を胸元に掲げる。けれど、その幼さが残る顔は"嫌々来てます"と言いたげな暗いものだった。普段の授業やでも良く居眠りをしているくらいなのだから、あまり勉強が好きではないのだろう。中間試験すら楽しんでいるミリアムとは対照的なやる気のなさである。
……まあ、それはともかく、ラウラが突然いなくなった理由が判明した。
気配で他者の存在を察するラウラの事だ。恐らくフィーの気配を感知し、出くわさない様に図書館を早めに出たのだろう。そこまでフィーに会いたくないのかと、ライは僅かに肩を落とす。
「ねぇ、ライも一緒に勉強しない?」
と、その時、ミリアムがテーブルに乗り上げてそう提案してきた。
「俺は構わないが……」
ライはミリアムから視線を外し、残りの2人へと青い瞳を向ける。先程のエマの態度からも分かるように、ライとの交流は2人の負担になってしまう事は確実。それでも大丈夫なのかとライは視線で尋ねる。
「えと」
「…………」
返事に困るエマとフィー。そんな2人の様子を見たミリアムは、椅子に座るライを無理やり引っ張って2階へと上がっていった。
エマとフィーから聞こえないであろう位置まで移動した2人。
ライは足を止めたミリアムに対し端的に尋ねる。
「どうした?」
「むぅ~、どうしたじゃないよ! どうして2人は何時までもあんなに距離をとってるの!?」
ミリアムは珍しく笑顔意外の表情を浮かべていた。
頬を膨らませ、不満そうにライの顔をじぃっと覗きこんでいる。今の言葉から察するに、何時まで経っても縮まらないライとエマ・フィー間の距離が気になっていたのだろう。戦術リンクの嫌悪感を体験した事のないミリアムにとっては、ライが理不尽に嫌われている様にしか見えなかったのだ。
「原因は戦術リンクだ。彼女らに罪はない」
「え~、でももう2ヶ月も前の話だよね? ライも改善したいって思わないの?」
「当然だ。けど、今はラウラとフィーの問題が先だろ?」
「ボクにとってはどっちも変わらないよ! むしろ人数的にライの方がずっと大問題に感じるんだけど」
ライに衝撃が走った。
考えてみれば、先のラウラへの対応と、エマやフィーへの対応はまるで正反対であった。マキアスの時もそうだ。ライはいつの間にか優先順位をつけてしまっていた。クラスの問題解決に全力で挑むために、自身の問題を下に置いてしまっていたのだ。ライはその事実に否が応でも気付かされた。
「……分かった。何とかしてみせる」
「ホントっ!?」
「ああ、ホントだ」
ならば、優先順位は取り払おう。
ラウラとフィーの問題も、ライが抱える問題も等しく課題であることには変わりない。それなら、全部まとめて全力で挑む事こそライの信条だ。
それに、幸い良いきっかけもある。
ミリアムが提案した勉強会。上手く行けば2人との距離を縮める事も可能な筈だ。
方針が定まったライとミリアムの2人は、揃って1階への階段を下っていった。
…………
「あ、戻ってきた」
図書館奥にある階段を見て、フィーが呟いた。
既にエマと一緒にテーブルに座り、政治経済の教科書と参考書を開いている。
まずはこの輪に入れなければ何も始まらない。
ライは心の中で覚悟を決めた。
「──エマ、1つ頼みがある」
「え、えっと、何ですか? ライさん」
戸惑いながらも返事をしてくれる礼儀正しいエマ。
彼女は確か学年主席で入学した筈だ。なら、この頼みは何も不自然ではない。
ライは淀みのない青い瞳で、眼鏡の奥にあるエマの瞳を見つめる。
「勉強を教えて欲しい」
「そ、そういえば記憶喪失なんでしたね。…………分かりました。ミリアムちゃんも一緒に勉強したいみたいですし、一緒に頑張りましょう」
ぎこちない笑顔でエマはそう言ってくれた。
あまり賛成でないフィーと満天の笑顔を浮かべるミリアム。
そんな複雑な空気の流れる図書館の中、ライは1つ心の中で誓う。中間試験が始まるまでの1週間、全力で関係改善を図ると。
……こうして、ライ達の勉強会は始まった。
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