明くる日の4月25日、宿屋の部屋にあるソファに眠っていたライはリィン達より早くに目を覚まし、早々に身支度を済ませると静かに部屋の外へと歩き出した。出来る限り顔を合わせないための行動にも段々と慣れて来た事にライは少し苦笑いする。
「どこに行くつもりだ」
背後から聞こえてきた声にライは足を止めた。凛とした女性の声、間違いなくラウラだろう。どうやら目覚めていたらしい。ライはベットの上で上半身を起こしているラウラに向き直った。
「起きてたのか。……まあいいか、先に食堂へ行くだけだ」
「私達を考えての行動には感謝する。だが、もうその気遣いは無用だ」
「……もういいのか?」
「正直のところ、まだ大丈夫とは言いがたい。だが、そなたは教官の命に背いてまで歩み寄ろうとしてくれた。その思いを無下にしたとなれば私は私自身を許せなくなる」
ラウラは目を伏せたままシーツを強く握りしめる。ライに対する拭えない懐疑心とラウラの信念がせめぎ合い、彼女自身を追いつめているようだ。重苦しい空気がラウラの周囲に漂っている。
「気にするな。全ては戦術リンク、要するに俺が招いた問題だ」
「いや、そう言ってもらう資格などない。どのような事情であれ、此度の事態を招いたのは私の未熟さが原因だ」
「だから気負う必要は……」
「だがそれではっ!」
2人の間で責任の奪い合いが続く。根本的な原因は自分であると主張するライに、己の未熟さを悔いているラウラ。まさに話は平行線だった。
しかしこのままでは眠っているリィン達も起こしかねないので、ライは仕方なしに妥協案を提示する。
「とりあえずこの話は引き分けと言う事にしよう。後は俺がラウラの信頼にたる人物だと示せばいいだけだ。……違うか?」
「……迷惑をかける」
珍しくしおらしい表情をしているラウラから目を離すのも口惜しいが、ライはラウラの負担を減らすために一旦離れる事にした。
ラウラの様子から察するに、嫌悪感は呪いの様にラウラの心に根付いているようだ。いくら頭で納得させたところで心に歪みがある以上、早急な解決は不可能だろう。ここは機を見るべきだとライは判断した。
「……そなたは、それでいいのか?」
引き分けと言いながらも負担を一身に背負うライの背中に向けて、ラウラは心配混じりの感情を投げ掛ける。確かに現状は辛い状況だ。だがライには今の一言で救われた気がした。
「その一言だけで十分だ」
ライはラウラに背を向けたまま、再び歩き出す。当初の予定であった食堂の一階ではなく、一晩眠っていたソファを目指して。
一度壊れかけた関係は少しずつ元の形に戻りつつあった。
◇◇◇
──それから数時間後、一階の食堂で朝食を済ませたライ達一行は女将のマゴットから今日の課題を受け取り、揃って風見亭を後にした。特別実習は今日の夕方で終わるため、もうこの宿屋を利用する事もないだろう。たった一晩の記憶ではあるが、月夜の光景は今でも鮮明に覚えていた。
「それでリィン、今日の課題は何なのだ?」
「ええと、財布の落とし物に魔獣の討伐……。どちらも任意で、やらなくてもいいみたいだな」
「ええっ!? それって実習としてどうなのかな?」
「……自分たちで考えろって事じゃないかしら」
士官学院にあるまじき緩さを前に面を食らうリィン達。意図のまるで掴めない実習内容についてあれやこれやと意見を出し合うが、結論が出ないまま時間だけが過ぎて行く。
しかしこのまま無為に時間を過ごす訳にもいかないので、とりあえずライ達は落とし物の話を聞くために大市へと向かう事にした。
…………
「──てめぇコラァ! 俺の屋台になんて事しやがった!」
「はっ、田舎者らしい幼稚な演技は止めたまえ! どうせお前なのだろう? 私の屋台を壊して得するものなどお前以外に考えられないからなっ!」
激しくデジャヴを感じる怒鳴り声が大市から聞こえてくる。間違いない、昨日の2人が懲りずにまた言い争いをしているのだろう。その事にリィン達はやや呆れた顔を浮かべ、ライも片手で頭を抑え呆れ返った。
(……昨日の今日で何やってるんだマルコ)
「おや、君たちは昨日の──」
「あ、オットーさん」
そんなライ達の背後から声を掛けてくる初老の男性。穏やかなその声はエリオットの反応からも分かる様に、元締めのオットーのものであった。ライ達は深い紺色の帽子を被ったオットーに向き直り、おのおの頭を下げ挨拶をする。オットーもそれに答えると、老人らしい柔らかな笑顔で語りかけて来た。
「先日は君たちにずいぶんと助けられたな。本来ならお礼にお茶でも振る舞いたいのじゃが、……生憎、今立て込んでおるので、またの機会にさせてくれないじゃろうか」
「ええ、オットーさんの事情は重々承知しています」
リィンは大市の方角に目を向けながらそう答える。大市からは変わらず2人の大声が晴天に混じり響き渡っていた。
しかし、今回は何が原因で言い争いをしているのだろうか。元締めなら知っているだろうと推測したライはオットーに尋ねた。
「……それは実際に見た方が早いじゃろう。なんなら一緒に来るかね、士官学院の諸君?」
特に反対する理由はない。ライ達はそれに肯定で答えると、オットーと共に大市へと足を運ぶのだった。
◇◇◇
「……これは」
大市の入り口に到着したライ達が目にしたのは木の残骸、台風にあったかの様にぐちゃぐちゃになった屋台だった。確かあの場所はマルコともう1人の商人が求め争っていたところだった筈だ。
……いや、そこだけじゃない。ライとマルコが商売をした屋台もまた、完膚なきまでに壊されている事が遠目からでも確認出来た。
「……まずは2人を収めるとするかのう」
「手伝います」
ライ達はいがみ合う2人を引きはがし、落ち着かせるためにそれぞれの意見を聞く事にした。
だが昨日の様に2人の怒りを抑える事が出来なかった。なんせ今回は前回と異なり答えを出す手段が見当たらないからだ。
2人の意見は昨日と同じく相手が悪者であるというもの。この主張は2カ所同時に壊されている事から可能性は薄いのだが、それを伝えたところで頭に血が上っている2人には通じない。2人を納得させるにはより強固な主張、それこそ犯人は誰なのかを説明する必要があるだろう。しかし、今のライ達には犯人を特定する情報も時間もありはしなかった。
どうにかして彼らの怒りを抑えようと四苦八苦するオットーとA班。膠着するこの状況を壊したのは意外な声だった。
「──そこまでだ!」
大市の入り口から轟く偉そうな声。その声にライ達やオットー、それに商人の2人は揃って入り口の方へと向いた。そこにいたのは青色の軍服を身に纏った兵士達。この地を治める貴族直轄の私兵、領邦軍であった。
背筋を伸ばした兵士達の先頭には、豪華な帽子を被った男性が偉そうに立っていた。恐らく彼がこの兵士達の上官なのだろう。不遜な態度で兵士達を従え、元締めのもとへと歩み寄って来る。
「これはなんの騒ぎだね?」
「う、うむ。実は──」
オットーは突然の来訪者に戸惑いながらも領邦軍隊長に1つ1つ説明して行く。
「ほう、昨夜に何者かが屋台を襲い商品を奪ったと。ならば話は簡単だ。この2人を捕えよ!」
「なっ! なんでそうなるんスか!?」
「そんな! 捜査もせずに何故……!」
マルコ達は近寄る兵士から逃げ腰になりつつも反論の言葉を発する。
「フン、領邦軍にはこの様な小事に手間をかける余裕はないのでな。それに2カ所の被害に2人の加害者。同時にお互いの屋台を壊したのであれば説明もつくだろう。──さて、どうするかね? このまま騒ぎを起こすのならば、宣言通りに捕えなければならぬのだが」
「……くっ……」
「……そん、な……」
隊長は2人が黙ったのを確認すると、満足そうに兵士を引き連れ入り口へと引き返して行く。
あまりの強硬手段に辺りが騒然とする中、ライはその背中に向けて疑問に感じた事を尋ねた。
「何故、昨日は大市の仲裁に来なかったんですか」
「少年よ、口を慎みたまえ。……言った筈だ。この様な小事に手間をかける余裕など我々にはないのだよ」
隊長はそう呟くと、これ以上何も答えんと言わんばかりに堂々と大市を後にした。
残されたライ達、いやここにいる全ての人々は領邦軍の強引な仲裁に思わず言葉を失う。しばしの静寂。それを打ち破ったのは帽子を深めに被ったオットーだった。
「……皆の衆、開店のためには壊れた屋台を片付けなければならん。すまぬが手分けして事に当たってくれぬか」
その一言を合図に集まっていた商人達が歩き出す。壊れた木材を協力して市場の奥へと運び、とりあえず商売が出来る状態へと戻し始めた。
リィン達も片付けを手伝い始める中、ライの視線は1方向に固定されていた。その先には頼りない足取りで片付けをするマルコの姿。ライには彼の背中が小さく見えた。
「……すまない。少し単独行動をさせてくれないか」
「もしかして、あの若い商人と顔見知りなのか?」
「ああ。片付けが終わったら彼から話を聞いてくる。リィン達は──」
「もう1人の商人から、だな。……分かった、そっちは任せる」
「任せてくれ」
ライは正面の片付けを手伝うリィン達から離れ、マルコの使っていた屋台の片付けに混ざる。
昨日、数時間だがライもこの屋台で商売を行っていた。そう思うと、手にした木片が何故か重く感じた……。
◇◇◇
騒動のせいで遅れてしまった大市も、商人達やライ達が総出で片付けをする事で無事に開かれる事となった。
壊された木材が取り除かれたがらんとした屋台。商人達が持ち場に戻った現在、ここに残っているのはライとマルコ、その2人だけだった。かろうじて残った木箱に腰掛けて項垂れるマルコに、ライは静かに話しかける。
「昨日の夜、あの後何があったか教えてくれないか」
「……あのおっさんがやったに決まってる」
「それを決めるのはまだ早い。それに俺は仮にも士官学院の生徒だ。こう言った事は見過ごせない」
「それ、どちらかと言うと遊撃士の言葉だぞ」
「……そうなのか?」
「ハハッ、変わらないなお前は」
マルコはやつれた笑いを浮かべた。ライにとっては遊撃士という存在そのものが分からないのだが、今この場で聞くべき事は別にある。今ならまともに話を聞けると判断したライは、今回の事件について詳しく聞く事にした。
「……俺も良くは知らねぇよ。昨日はライがいなくなった後、商売仲間ん家に転がり込んで朝まで酒飲んでたんだ」
「容易に想像がつく」
「うっせぇ黙って聞いてろ。そんで朝になって二日酔いになりながら屋台に来たらこの有様、って訳さ。そっからはお前も見た通りだ」
「つまり、マルコには証人がいるという訳か」
「疑ってたのか? ……まぁいいか。どうせハインツっておっさんも領邦軍も俺を犯人扱いだからな。……チクショウ」
「自暴自棄になるな、両方ともデタラメだ」
ライはマルコを励ます。事実としてマルコと同じく我を忘れていたハインツという商人も、調査すら行っていない領邦軍の推測もデタラメである事は間違いない。
ライがアリバイを確認したのも、客観的な判断の材料にするためである。
「それで犯人の心当たりは?」
「だからおっさんに決まってんだろ! 俺の商売を潰して完全にあの場所を独り占めする気だったんだ!」
「だが、彼の屋台も潰されている」
「どうせ自作自演だよ。疑いの目を向けられないためにわざと自分の屋台も壊したんだ。奪われた商品もどっかに隠してんだろ?」
「いや、可能性は低いな」
「……何だよ、文句あるなら言ってみろよ」
ライはその理由について1つ1つ説明していった。
まずはあまりに非効率であるという事。疑いの目を向けられないためならば幾つかの屋台を壊せば済む話だ。自らの商品まで隠してしまったら商売自体が出来なくなり本末転倒である。現にハインツという商人も今日商売をすることが出来ないらしい。
次に奪われた商品があまりに多いという事だ。マルコとハインツ、どちらか片方ならばなんとかなるかも知れないが、両方ともなれば相応の時間と人手が必要になる。この大市に隠したのならば話は別だが、それなら片付けの最中に見つかる筈だ。場所取りの問題が発生したのは昨日、ならば帝都から来たハインツに人手を集める時間はない。
これらを説明し終わったとき、マルコは苦虫を噛んだ様な顔をしていた。もうハインツを疑えない、マルコの顔にはそう書かれていた。
「……ならだれ…………だよ」
「どうした?」
「俺の商品を奪ったのはだれだって聞いてんだよ! そこまで言うからには分かってるんだろうなぁ!?」
マルコがライの胸ぐらを掴み上げる。
怒りに我を忘れているマルコ。だがライは冷静にマルコの腕に手を軽く乗せると、そのまま自身の推測を順に語り始めた。
「単なる物取りならここが狙われたのは不自然だ。なら壊す事自体が目的だろう」
「だから得をするのはおっさんだけだって言ってるだろ!」
「何も直接的な利益だけじゃない。壊す事で生まれた、例えば混乱を起こしたい者がいるとしたら──」
「────っ!!」
ライの推測を聞いたマルコが突然固まった。何かに気がついた、そんな反応だ。
「心当たりがあるのか?」
「…………ねぇよ。もう、どっかに行ってくれよ」
「……分かった。後は俺たちに任せてくれ」
掴んだ手を離し、後ろを向いて座り込むマルコ。もうこれ以上問いかけるのは難しいだろう。そう感じたライはこの場を後にする。
今のライに出来るのは奪われた商品を見つけ出す。ただそれだけだった。
◆◆◆
…………
「分かってるよ。騒ぎを起こしたい奴、この大市の陳情を取り下げたい連中、そんなの領邦軍しかいないだろ。……でもどうすりゃいいんだよ。たかが田舎の商人が文句言ったところで捕まるだけだ。泣き寝入りしかねぇのかよ。チクショウ……」
マルコは気づいてしまった真実を前にしてひたすらに落ち込んでいた。相手は権力者である以上、1人の商人でしかないマルコではどう足掻いたところで商品を取り戻す事など出来ないだろう。1人の学生でしかないライも同様である。マルコはもう完全に諦めていた。
「──フム、落ち込んでいる様だな。絶大な壁を前にして振るう牙を折られたと見える」
そんなマルコに1人の男性が声をかけてきた。億劫ながらも重い腰をあげ男に向き直るマルコ。
「……だれだよ、あんた」
だが話しかけてきた男は全く見覚えのない風貌だった。ライと同じ暗い灰色の髪は耳元で跳ね上がっており、眼鏡の奥の瞳には知的ながらも燃える様な熱意が込められていた。学者にしては荒々しい、無法者にしては知的すぎる。そんな相反する印象を持つ男に、マルコは混乱した。
「名乗る程の者ではない。だが私も同じだ。牙を向ける相手は違えど、強大な敵に抑えきれぬ憤りを感じている──」
男はまるでマルコの心を見透かしたかの様に語りかけてくる。男もマルコと同じだと。強大な権力を前にして怒りを感じている同志であると。
「どうだ。牙が欲しくはないか? その身の憤りを開放するための力が欲しくはないか?」
「俺は……」
「たしかに今のお前は無力だ。しかしお前の中には力が、不条理を覆す可能性が秘められている」
その言葉は今のマルコにとっては麻薬だった。どうしようもなかった現実を変えられる、ただ1つの希望────。
男はマルコに向けて手を差し出す。その手を取るか否か。マルコは一握りの希望にすがる様に手を伸ばした。
「さあ、その身に宿る願いを託そうではないか。……大いなる存在、”シャドウ様”に」
別に部屋の4隅で4人が肩を叩き合ったり、自分の電話番号に電話をかけたりとかはしません。