辻堂さんの冬休み   作:ららばい

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28話:飛行機雲

「うおえぇぇぇ~・・・・・・気持ち悪い」

「お疲れ様、乾さん」

 

マキさんと別れた後、俺は近くの漁船置き場に向かった。

そこではよく愛さんのお母さんである真琴さんや、地元の漁師さん達。

そして最近そこでバイトしてる乾さんがいるのだ。

 

マキさんと別れた時間帯が丁度乾さんのバイト終わりの時間だったので俺はそのまま彼女と合流したのだ。

一応ある程度は計算してたため弁当も事前に用意していたりする。

 

「食べたいのは山々ですけど食欲ないっすぅ・・・・・・」

 

完全に乾さんはバテていた。

今日は船から降りると同時にフラフラとした千鳥足で歩き、収穫を降ろす。

その作業が終わり、解散になったと同時に海に思いっきりゲロ吐いていた。

 

確かにこれではしばらく何も食べたいとは思わないだろう。

 

「じゃあこれ渡しとくからさ、酔いが落ち着いた頃に食べなよ」

 

俺は取り敢えず弁当の入った手提げを渡し、その場に座り込む。

さすが漁船の船着場だけあってかなり見晴らしがいい。

少し魚臭いけれど、それでも塩の匂いが混ざって不快なものではなかった。

 

「長谷センパイ、さっき皆殺しセンパイと一緒に近くの堤防にいましたよね」

「すごいね、海の上から見えてたんだ」

 

さすが乾さんだ。

 

乾さんは俺の横に若干ふらついた足で来て、同じく腰掛けた。

 

「何を話してたかとか聞こえてたり?」

「まさか、そこまで人間やめてないっすよ」

 

互いに笑い合う。

まぁそりゃそうか。流石に海上で遠く離れた人間の声が聞こえるとか人間超越しすぎだ。

それでもマキさんなら出来そうなイメージあるけど、そこは本人には言わないでおこう。

 

「でも、何話してたかは半分知ってますよ。

 辻堂センパイと皆殺しセンパイの決着の事っしょ?」

「・・・・・・本当に半分判ってるのね」

 

何故わかるとかは聞かなくてもわかる。

多分辻堂軍団を介して既に二人がやりあうことは噂になっているのだろう。

湘南の不良の顔である二人の喧嘩だ、それこそ今日だって凄まじい人だかりが出来るに違いない。

 

「で、見にいかないんすか?」

 

俺の渡した手提げに入れた水筒を取り出して乾さんはその中の緑茶を飲む。

 

「見に行こうとは思ってる」

 

だが思ってるだけだ。

その喧嘩の理由を俺はなにもしらない。

だから俺は二人の喧嘩に口出しはしないし、どちらの応援もしない。

 

大切な人であるマキさんと愛さんのどちらかに肩入れするのであれば、俺はむしろ両方とも肩入れしないスタンスだ。

 

そんな曖昧で中途半端な俺が二人の喧嘩を見てどうするのか。

何の為に喧嘩するのかも判らない、どちらに肩入れすればいいのかも判らない。

判らないだらけ俺が二人の喧嘩を見ていったいどうするというのか。

 

「ただ、腰が重くてね。

 ちょっとここから動けないんだ」

 

乾さんはよくわからない顔でお茶を飲みながら目線だけで俺を見る。

 

「乾さんはなんで二人が今日喧嘩するのか知ってる?」

「知りませんけど心当たりはありますよ」

 

彼女はコップの中身をぐいっと一気に飲み干し、一息つく。

そして僅かな間を置いた後、俺の方に顔を向けた。

 

「知りたいっすか?」

 

多分、知りたいと言えば彼女は教えてくれる。

ただ、俺はその問いに頷けなかった。

 

「いや、いいよ。

 それは自分で考えることな気がする」

 

ただ単純にどちらが強いかを明確にするため。

そんなシンプルな理由でない事は明らかなのだ。

それだけわかれば充分なのかもしれない。

 

「そっすか」

 

互いに何も喋らなくなる。

何もせず、動かず、無意味に海を俺達は眺め続ける。

 

遠くにある船の汽笛の音。波の音。漁師さんの声。

様々な音が入り乱れているのに、妙に俺は静かな感じがした。

 

そうしてどれだけ時間が過ぎたのだろう。

少なくとも十分以上は過ぎたはず。

先程いた人の姿はなくなり、船も見えなくなった。

 

多分、そろそろ愛さんとマキさんの喧嘩が始まる時間だろう。

 

未だ俺は二人の喧嘩を見に行く決心がつかない。

どうしたものかと悩む。

だが、そんな堂々巡りに入りそうになった瞬間、腕を横から軽く引っ張られた。

 

「さて、そろそろ行きましょうよ長谷センパイ」

 

酔いも大分マシになったようだ。

乾さんはさっきより幾分改善したような顔で俺を見つめる。

 

「どこにかな?」

「お二人の所っすよ」

「何故に」

 

いや、それすら愚問だったこれは。

乾さんにとっても愛さんは特別な存在なのだ。

それにもしかしたら辻堂軍団は全員揃って見るような手はずになっているのかもしれない。

 

「だって、行きたそうにしてるクセに長谷センパイは他人にでも言われないと最後までここにいそうですもん」

 

行きたそうにしている? 俺が?

全然自分のことなのに気づかなかった。

 

「長谷センパイ。長谷センパイがどう思おうとあのお二人にとって長谷センパイは特別なんです。

 だったら喧嘩が終わって、ボロボロになった時に会いたい人はやっぱり長谷センパイなんすよ」

 

乾さんはこの細腕のどこにこんな力があるのか分からないほどの腕力で俺を引っ張る。

 

「どちらが大切だとか、どちらに声をかければいいか。

 そんなのはその時に考えりゃいいじゃないっすか」

 

俺はその力に抵抗せず、大人しく立ち上がった。

そして引っ張られるがままに歩み始める。

 

「何も言葉にしなくても、お二人にとって長谷センパイの姿が見える。

 それだけで長谷センパイが見に行く意味はあると思いますよ」

「・・・・・・よくわからないよ」

 

自分の過去すら満足に思い出せず、喧嘩の理由すら判らず。

挙げ句の果てに未だマキさんとの約束すら思い出せない。

こんな俺が今二人の前に行っていいものなのだろうか。

 

そんな迷いがあった。

しかし乾さんは少し困ったように俺を見たあと、一度目を閉じて少し笑った。

 

「もしセンパイがどうしようもなく困ってて、それでいてどうしようもない事になったとして。

 それでも長谷センパイは諦めずに頑張っているとシチュエーションを仮定します。

 その時に何も手伝えないけど、あずが長谷センパイの頑張りを近くで見てたらどう思います?」

 

想像する。

多分、その時に俺は。

 

「もっと頑張ろうとするだろうね」

「そう思ってくれて嬉しいっす」

 

乾さんは心底嬉しそうに笑う。

 

「お二人にとっても同じことっすよ。

 長谷センパイが何をするまでもなく、ただ姿を見せてくれるだけで意味はあります」

 

そういうものなのか。

いや、確かに今乾さんの言った仮定を考えればそうなのだ。

俺だって二人にとっての特別な位置にいる自覚はある。

だったらそうなのかもしれない。

 

「乾さん、誰かに俺を連れて行くように言われたの?」

 

俺は決心して乾さんに手を引かれずとも自分で歩み始めた。

 

「ふふん。なんで自分が長谷センパイを焚きつけてるか、知りたいっすか」

 

俺は大人しく頷く。

それを確認した乾さんは僅かに悪そうな顔をして言った。

 

「お二人に貸しを作るためっすよ。

 あの人達とは長い付き合いになりそうですし。

 因みに喧嘩の結末なんてどうでもいいなんて思ってたりもします」

 

相変わらず腹黒い上に計算高い子だった。

でも、不思議だ。

その腹黒さも以前までのような人に不快感を与えるものじゃない。

単純にいたずらっ子を見ているような、そんな微笑ましさがあった。

 

「じゃ、行きましょうよ」

「うん」 

 

乾さんは再び俺の手をとって歩き始める。

俺はその手を受け止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

陽は登りきり、時刻は正午となった。

既に湘南は桜が咲き誇り、多くの花見客がいる。

 

だが、その花見客以上に数多の不良がいた。

湘南中の、それどころか他の県からわざわざ来たのであろう見慣れない不良の姿さえある。

 

その不良たちは弁天橋付近に固まり、円を組むように集まる。

その円の中心には何がいるか。

湘南の不良における顔。

圧倒的な知名度と実力を誇る最高の不良である二人がいた。

 

「随分と集まったもんだ」

 

マキは僅かに鬱陶しそうに周りを見渡す。

それをみて愛は少し困ったような顔をした。

 

「アタシがクミに今日のこと言っちまったからな。

 そこから広まったのかもしれねぇ」

「随分口の軽い舎弟を持ってんだな。

 やっぱ私はそんなの抱え込むよりかは一人でいる方が楽だ」

 

マキは視線を外し、愛を見る。

その視線は鋭く、大抵の人間はそれを感じただけで恐怖を覚えるだろう。

しかし愛は一切の反応を示さない。

それどころか普段となんら変わりない態度を崩さない。

 

「アタシだって群れたくて不良になったわけじゃない。

 気がついたらアイツ等が付いてきてただけだ」

 

愛自身にも圧倒的なカリスマはある。

本人がその気がないにもかかわらず気がつけば彼女を慕う舎弟が何十人もできるように。

 

それこそ愛自身がやる気をだせば江乃死魔のように凄まじい数の組織を作ることも可能なのだ。

 

二人はもう一度野次馬達を見渡す。

そして互いの目当ての人物がいないことを確認し、僅かに寂しげな顔をした。

 

「・・・・・・警察とかは恋奈が手を回してくれてる。

 しばらくはこの騒ぎを聞いても手を出してこないんだとよ」

「へぇ。じゃあここらへん一体を滅茶苦茶にしても大丈夫ってわけか」

 

互いに構えを取る。

梓のときとは違い、愛は最初から本気で戦うつもりだ。

グローブをはめ、構えの姿勢を撮り、僅かに腰を落とす。

 

マキも同様にファイティングポーズともリラックスした姿勢とも違う、独特の構えをとる。

 

「辻堂、この喧嘩で私達の関係も終わる。

 次の機会はもうない。悪いけど私は勝ち逃げさせてもらうぜ」

 

薄く笑い、凄まじい殺気を纏うマキ。

 

「そうかよ。普通ならここは言い返す所なんだろうけど、生憎とアタシは喧嘩の前にそういう挑発はしねぇ」

 

相反するように同格の闘志を放つ愛。

どちらもが今にも踏み込まんとする雰囲気を醸し出しながら睨み合う。

 

「そういうのは決まって負けるやつが言う前口上だからな!」

「上等だ!」

 

堰を切ったように互の距離がゼロになる。

僅か瞬きする間に数メートルの距離を埋め、一瞬で肉薄。

 

体当たりでもするのかと思った途端、その走る勢いのままに拳を相手へと向ける。

 

「ダラァアアア!」

 

予定調和のように先攻はマキが取った。

 

マキが全ての攻撃を愛よりも先に繰り出し、愛はその攻撃を全て叩き落とし、尚且つ防ぎ殴り返す。

 

「相変わらず喧嘩狼さんは消極的なようで!」

 

既に人の動体視力ではとてもではないが追いつけない蹴りや拳を愛に叩き込まんとする。

しかしそのどれもが愛に一度もクリーンヒットする事はない。

数秒のあいだに数え切れない連打を放つ人外であるマキ同様、愛も人外の強さなのだ。

 

「アタシはテメェみたいに無駄な事はしねーんだよ!」

 

マキと愛の攻防を見れば、マキ攻撃は一見ただ速いだけで重さは無いように見える。

だがそれは相手が愛だからである。

 

マキは愛に蹴りを逸らされ、金網に足がかかる。

この蹴りが人並みのものならば僅かに金網に足がめり込む程度だろう。

けれど――――――

 

「ありえねぇ!」

 

観客である不良がそう叫ぶ。

当然だ。

マキの撃ち損ないの蹴りは金網をまるで紙を破るかのように蹴りちぎった。

粉砕や撃ち飛ばすならまだわかる。

しかしマキの蹴りはその想像以上に鋭く、金網を破った。

 

「本当に強い奴は―――――」

 

梓以上の速度で動き、ティアラ以上の怪力で再び愛に連撃を叩き込むマキ。

愛はその全ての挙動を目と肌で見切り、全てを防ぎ続ける。

だからといって愛が防戦一方なわけではない。

 

愛は僅かに大振りになったマキの蹴りを掴む。

 

「一撃で決めるんだよ!」

 

足を掴んだまま一気にマキを引き寄せ、その勢いを最大限に活かしマキの腹部に右拳を叩き込んだ。

まるでチェスや将棋でも指しているかのようなその無駄のない喧嘩の仕方に愛に強さはある。

 

「ははっ、今のは少し驚いたぜ」

 

直撃したかと思った愛の拳は僅かにマキに届いてはいなかった。

寸前の所で愛以上の反応速度の見せ、手でその拳を受け止めた。

けれどその威力は凄まじく、マキですら手が痺れている。

 

愛とマキは仕切り直すように、距離を置く。

 

再び構え、睨み合う。

このまま膠着するのだろうかと周囲は思ったが、マキだけはそれに沿わなかった。

 

「じゃあちょっと攻め方変えてみるか」

 

愛から視線を外し、周囲の不良の群れに突っ込む。

突然の動きに的となった不良はわけがわからない。

 

「ちょっとコレ借りるぜ、帰ってくるかはわかんないけどよ」

「な、ぐほ!?」

 

その不良が持っていた木刀を奪い取る。

瞬間、愛に視線を移し肉食獣のような大胆かつ鋭い動きで肉薄。

 

手に入れた木刀を振りかぶる。

 

「そんなチャチなオモチャがアタシに通じるとでも――――」

「思ってねぇよ」

 

愛は冷静にその木刀を叩き折ろうと拳を合わせる。

その動きを尋常ではない動体視力で看破したマキは木刀を愛から逸らし、代わりに蹴りを叩き込んだ。

 

「んなッ!? ぐぁ!」

 

愛を超える速度で動くマキ。

愛のワンアクションより僅かに速く動くマキはこのような駆け引きすら無視する動きをする。

 

横腹に蹴りを直撃した愛はダメージを感じさせない動きで続く追撃を全て弾き落とす。

 

「お返しだ!」

「つぅ。くそ」

 

攻撃を落とすと同時に愛はマキの胸に拳を入れる。

僅かに苦しげな表情をするもマキは攻撃の手を休めない。

 

「ついでにコイツも壊させてもらうぜ」

 

マキが手に持った木刀を握り、そのまま尋常ではない握力で握り潰す。

握力のみで破壊された木刀はそのまま地面に落ちた。

それをみたマキは即座に残ったグリップ側の方を投げ捨て、再び素手に戻る。

 

再び始まる既による拳による打撃戦。

単純に肉体スペックのみを駆使して戦うマキに対し、冷静にカウンターを狙う愛。

どちらがクリーンヒットを出しているのかといわれれば愛の方が確実に堅実にマキにダメージを与えている。

 

「はっ、いいねいいね!

 これでこそ喧嘩だ、ノってきたぜ!」

「・・・・・・くっ、まだ速くなんのかよ。化け物が」

 

徐々に、徐々にだが喧嘩が続くに連れてマキの速度や拳の重さは増してきていた。

最初の時と比べれば明らかに違う。

その異様な肉体スペックに愛は徐々に押され始める。

 

最初は愛が三発マキに攻撃を叩き込むあいだにマキは愛に四発攻撃をする程度の差だった。

しかし今は愛が一発攻撃する間にマキが二発攻撃をする。

手数に僅かな差があるばあい、乗計算のように手数は減るものなのだ。

 

故に愛は最初のころ以上に防戦一方に入る。

 

「オラオラッ、少しは攻めてこいよ! 退屈しちまうだろうがよ!」

 

一方的に攻撃をするマキ。

次第に愛ですら反応できないほどの速度にギアを上げ始める。

 

数発、カウンターを仕損じた愛に直撃を入れ接戦を壊し、自身に有利な状況になった。

けれどそれを許す愛ではない。

 

既に湘南で並ぶものなどいない程の肉体性能になったマキの本当に僅かな隙を愛は見つける。

 

「調子に乗りすぎて雑になってんだよ!」

「――――づぅ!」

 

大抵のものなら見つけることすらできない隙、例え見つけたとしても付け入れる事などできないであろう隙を愛は的確につく。

マキはそれには対応できず、鳩尾にとてつもない一撃を貰った。

が、それでもマキは止まらない。

 

「ぐ、あ・・・・・・それでこそだ!」

 

既に興奮しきっているマキは痛みすら曖昧にして、足を止めずダメージを感じさせない。

再び迫り来るマキに愛は僅かに思案顔を見せた。

 

「人間とやってる気がしねぇよ。だったら・・・・・・」

 

愛は、仕切り直すようにマキから距離を置く。

マキはそれを警戒して深追いをしない。

 

理想的な展開になった愛は表情を引き締め、軽く深呼吸をする。

そして再びマキに視線を戻し、呟く。

 

「出し惜しみしてたつもりはねぇけど、やっぱ簡単に行く相手じゃねぇよな。

 こいよ、腰越」

「お望み通りにしてやるよ」

 

愛の啖呵に乗るマキ。

 

トップスピードで愛の懐に潜り込み、拳を振りかぶる。

このまま愛が反応出来ていなかった場合、確実にクリティカルヒットし、愛といえどもただでは済まない。

 

「タイミングがワンパターンでやりやすい」

「うおっ、あぶねえ!」

 

マキが嫌な予感がして頭を反らすと、その頭のあった所に愛のアッパーがすり抜ける。

もし手を止めて回避に移らなかった場合、倒れているのは確実にマキだった。

 

「次のテンポは――――そこだろ!」

 

マキが踏む込むタイミングを先読みした愛は、マキが拳を振り抜くよりも先に殴りかかる。

中途半端に攻撃姿勢に移っていたマキは避けきれず、柄にもない防御姿勢を取った。

 

「ほらほらどうした! アタシが守ってるだけだと思ってんのか!」

 

攻守が逆転し、今度は愛が一方的に殴り続ける。

マキのようにただ肉体性能のみに特化した攻め方とは違い、堅実な攻め方だ。

そのため、マキが反撃に移ろうとすればその反撃に対し的確にカウンターを入れる。

防御に専念すれば防御の隙間を縫って鋭い一撃を入れてくる。

 

マキはその飲み込まれたような喧嘩に舌打ちをする。

 

「図に飲んな辻堂!」

 

完全に開き直ったようにマキは一切の防御を捨てた。

瞬間、数発の愛の拳がマキに直撃する。

マキはそれにすら意に介さず、渾身の一撃を繰り出した。

 

しかしそれが愛に通じる事はない。

 

「そんな見え見えの玉砕戦法がアタシに通じるかよ」

 

マキの殆ど肉眼では捉えられない拳を予測のみで回避し、同時に掴む。

そして地についたマキの足を払い、宙に浮かす。

 

「ち、これはヤベェな」

 

マキは素早く受身の姿勢を取る。

だが間に合わない。

 

「終わりだ腰越」

 

愛は一気にマキを地面に叩きつけた。

 

コンクリートが砕ける音が周囲に響く。

マキは頭から地面に直撃した。

普通の人間ならば即死してもおかしくない威力の投げ技なのだが。

 

愛もマキも動かない。

 

「・・・・・・いってぇなオイ」

 

マキは、顔についた破片や砂を払いながらゆっくりと立ち上がる。

 

「化物かよ」

 

愛も今ので倒せるとは思っていなかった。

しかしまさかこんなにダメージが無いとも思っていなかった。

 

見た所マキは足がふらついているものの、それでも闘志や殺気は微塵も衰えていない。

 

いや、それどころか

 

「・・・・・・ッ!?」

 

愛は慌ててその場を飛び退いてマキと距離を置いた。

一瞬、マキの方から得体の知れない気配を感じたのだ。

 

なんだ今のは。

今まで何度もマキと対峙したが今ほどの寒気は感じたことがない。

愛は冷や汗を流し、未だ頭を抑えたままのマキを警戒する。

 

「辻堂、この喧嘩はどうやら私の負けみたいだな」

「何?」

 

マキは動かない。

ただ、それでも愛にはマキの方から隙はおろか、攻め入るタイミングすら見えない。

 

「ここまで来てわかったよ。このままいくらやり合った所で今みたいな事の繰り返しになるだけだ。

 むかつくけどそれは認めてやる」

 

徐々にマキは顔を隠していた手をのける。

 

愛はどれほどのダメージが残っているか、彼女の顔色から確認した。

見れば額からは僅かな血を流している。

けれど疲労を感じさせないその瞳。

 

「腰越マキは辻堂愛に負けた。

 誇れよ辻堂、めでたくお前は三大天の頂点に達した」

 

まるで愛に勝ちを譲るような事をいうマキ。

だが愛は確信していた。

このまま腰越マキが終わるわけがない。

 

「どういうつもりだ? まさかお前が相手に勝ちを譲るタマじゃねぇだろ」

 

警戒を続ける愛。

当然だ、こうしてマキは喋っているが、そのつど徐々にマキの纏う存在感が増していく。

 

「いいや、三大天の喧嘩はこれで終わりだ。

 お前の勝利で腰越マキと辻堂愛の因縁はおしまいだよ」

 

マキは額の血を払い、完全に立ち上がり愛と目を合わせた。

 

「だから次の喧嘩に移るぜ」

 

瞬間、マキの雰囲気が変わる。

 

「次は極楽院マキと辻堂愛の喧嘩だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

拙い、得体の知れないプレッシャーを腰越から感じる。

あいつがいった極楽院ってのが何なのかはわからない。

しかし、確実なことは私の知らない底をアイツが見せ始めた事だ。

 

「腰越マキの高校三年間はもうこれでおしまいだ。

 喧嘩ではお前に敗れ、男の取り合いですら負けた」

 

腰越はゆっくりと息を吐く。

構えすら取り払い、そこに自然に佇む。

 

「去年の夏に腰越マキは長谷大に恋をした。

 辻堂、そいつをお前から奪おうとしたけどやっぱ無理だった。

 だから八つ当たりのように今日お前に喧嘩をふっかけたんだ」

 

更に大きく息を吐く。

そこで不自然な点に気づく。

既にこの時期は春が始まり暖かくなっているのだ。

その為いくら息を吐いてもそうそう白い蒸気はでない。

晴れた今日ならば尚更だ。

 

だというのに、腰越の吐く息は白くなっていた。

 

「でもな、それすら返り討ちだ。完敗だ、私じゃお前に何一つかなわない」

 

腰越の周囲の空気が僅かに揺らいで見える。

同時に、確実にあいつの纏う存在感と殺気が跳ね上がっている。

 

「じゃあな、次は昔の私の相手してもらうぜ。

 子供の頃の、結婚の約束までしたマセガキを奪われた極楽院マキの相手をよ――――ッ!」

 

腰越の姿が消える。

有り得ない、今までのアイツのトップスピードですらアタシには見えずとも感じられていた。

だからここまで持って来れた。

 

だというのに、今アイツがどこにいるのか全くわからない。

 

姿を必死で探っていると、突然目の前に腰越が現れる。

 

「ガアアアァァ! 遅せぇんだよ!」

「ぐぁは!?」

 

全くその姿を捉えられない。

まともにその拳をもらい、たたらを踏む。

だがそこで下がってはジリ貧だ。

必死で足に力を込め、踏ん張る。

 

「奥の手ってわけかよ!」

 

確実に今の精神統一のような行為で腰越はリミッターを外している。

化け物じみた身体能力が更に圧倒的に増している。

元々アタシと腰越は僅かだが腰越のほうが肉体的な強さでは上回っていた。

 

しかしそれでも技術や経験でアタシの方が喧嘩での強さは先程まで勝っていた筈なのだ。

 

「オラァァァァァァ!」

 

アイツが一度拳を振る姿が見えたら次の瞬間アタシの体に数発の拳が降り注いでいる。

明らかにアタシの反射能力を凌駕しているのだ。

 

どうにかしてカウンターを狙おうとする。

 

「ちぃ、だったら!」

 

敢えて防御を捨てて完全なカウンター狙いに移る。

 

腰越はそれすら意に介さず、再び攻撃を仕掛けてきた。

その手が速さでぶブレたのと同時にアタシの腹や顔に数発の拳が直撃。

だがタダでは終わらせない。

 

食らった箇所に手を伸ばす。

当たったという事は、その位置に拳は在るはずなのだ。

当然やはりそこには腰越の手があった。

 

「とったぜ!」

 

その手を引き、体をこっちにもってこさせる。

同時に合わせるように拳を振り抜いた。

 

「いちいちチマチマと、小せぇ喧嘩してんじゃねぇ!」

「がはッ・・・・・・くそったれ!」

 

その掴んだ手を馬鹿力で振り払われ、カウンターの手はあっけなく躱される。

それだけならマシだ。

避けるついでにアタシの体中に数発の打撃が入る。

 

ついていけない。

こんなの初めての経験だった。

普段の喧嘩でアタシや腰越と退治している相手の立場になった気分だ。

根本的な肉体性能に手も足も出ない。

 

まるで対抗策が出ない。

 

「ダァりゃあああああ!」

「ぐあぁぁぁ!」

 

次元の違う速度で動かれ、一撃で気をやりそうになる重さの攻撃が続けざまに入る。

正しく手も足も出ない状況だ。

 

不意に首を掴まれる。

 

「潰れちまえ!」

「ガァは!?」

 

そのまま勢いをつけて後頭部から地面に叩きつけられる。

受身すらとる余裕がない。

 

防御すればそこが怪力でこじ開けられ、直撃。

反撃すればその反撃を躱され倍返し。

全ての行動がこちらのダメージになる。

 

後頭部を強打し、意識がとびかける。

しかしこのままノーガードでは拙い。

追撃を警戒し、腕で頭を守る。

 

「はぁ・・・・・・はぁ」

 

息を切らせ、ダメージに耐えながら頭を守り続ける。

しかし追撃は来ない。

 

何故かと理由を探るように目を腰越に向ける。

 

その視線の先には殺意を滾らせ、けれど、何か痛みに耐えながらアタシを睨む腰越がいた。

 

「ぐ、はぁ・・・・・・どうした、まだアタシは動けるぞ」

 

精一杯の挑発をする。

まだアタシは負けていない。

こいつの動きにまるで対処できないが、それでもまだやり返す事を考えている。

負けるつもりなど微塵もない。

 

「・・・・・・なぁ辻堂。

 不良同士の喧嘩ってのは必ず得るもの失うものがあるよな」

 

倒れるアタシを見下ろしながら、腰越は未だダメージを見せない様子で言う。

 

「ああ、勝ったやつが負けた奴の全てを好きなように奪い取れる。

 それがルールだ」

 

誰が宣言するわけでもない。

無論奪うものによっては罪がついてまわるかもしれない。

けれど負け犬が勝者の言葉に逆らう資格などない。

 

腰越はアタシの肯定の言葉を聞き、一度目を閉じる。

 

「じゃあ私が勝った時にお前から奪い取ろうとするものを今言うぜ」

 

嫌な予感がする。

胸を焼き尽くすような、得体の知れない不安を感じる。

 

「お前の大切で大好きな長谷大、貰うぜ」

「―――――なに?」

 

その言葉をアタシの頭は理解出来なかった。

 

「返せよ。

 アイツは元々私のものだったんだ、お前のものじゃない」

 

返すとは一体どういう意味なのか。

真意はわからない。

ただ、その言葉を聞いた瞬間理解した。

 

この喧嘩で負ければアタシは大を腰越に奪われる。

 

その事を理解した瞬間、頭が真っ白になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ガアァァァァァァァ!」

「やる気になったか、上等だ!」

 

マキの言葉を聞いた瞬間、愛は起き上がりマキに殴りかかった。

 

だがダメージが響いているのだろう、その足取りや拳の速度は今のリミッターを外したマキには酷く遅く見える。

マキは躱すまでもなく、数発カウンターのように拳を叩き込む。

 

「ぐうぅぅぅう!」

 

全てが直撃し、愛は崩れ落ちる。

肉体スペックは既に圧倒的に差が開き、技術も使えないほどにダメージを蓄積させられた。

既に愛がここから勝つにはよほどの理由がなければならない。

 

「辻堂、お前は今が幸せだろう。

 毎日が輝いて見えるだろう?」

 

座り込み、動けない愛をマキは見下す。

 

「私はそんな幸せそうなお前を見ているとどうしようもなく辛いんだ。

 今すぐ全てをぶち壊して、何もかも嫌になって、死んでしまいたくなる」

 

マキは酷く悲しそうな顔をする。

誰もがそのマキの言葉に耳を向けた。

 

「私が忘れさえしなければ今私はお前のように笑えてた。

 毎日が輝いて見えてたかもしれない」

 

マキの胸にあるのはどうしようもない後悔ばかりだった。

長谷大と辻堂愛が仲良くしているのを見るたびにマキは己を責め、後悔し続けている。

 

「約束までしてたのに。あんなに嬉しかった約束なのに、なんで私は忘れたんだろうな」

 

愛はようやくマキが言っていた約束の詳細を理解し始めた。

はじめはマキと大が『家族』になる約束だと思っていた。

だから愛はその約束を邪魔するつもりもなかった。

 

だが、おそらくその約束はもっと深い意味があった。

 

「私がいる筈だった場所にお前がいる。

 けど私はお前を責める資格はない、全ては約束を忘れた私の責任だからだ」

 

マキは今まで一度たりとも約束を盾に愛に迫った事はない。

マキ自身もその行為に筋が通るはずがない事を理解しているからだ。

しかしマキは今日、全てを解決するための行為を選んだ。

 

「だから奪う。

 お前からダイを、本来私が居たはずだったその場所を」

 

力で奪う。

喧嘩で略奪する。

 

不良として最後の喧嘩でそれを得ようとする。

 

けれど、その選択はマキ自身辛いものだった。

例えこの喧嘩でマキが勝ち、愛から大を奪ったとして果たして大の気持ちはどこにある。

 

愛と強制的に別れさせられ、傷心した大がその原因たるマキを愛せるか。

そん筈がない。

マキはただ愛と大の関係を破壊するだけで誰もが悲しむ結末しかない事は理解しているのだ。

だから勝ちそうな今でもまるで喜んでいない。

倒れた愛を追撃することもない。

 

「・・・・・・嫌だ、大は渡せねぇ」

 

愛は、マキのその独白を聞き呟く。

 

「大はアタシの大切な男だ」

 

愛はゆっくりと立ち上がる。

そして真っ直ぐ、愛を知る者が今ままで見たことがない程の必死な形相でマキを睨む。

 

「何が過去の約束だよ、何が本来居たはずだった場所だよ」

 

マキはゆっくり間合いを詰める愛を黙って見る。

愛はふらつく足取りでマキの目前にたどり着き、襟を掴む。

 

「お前が忘れた場所にアタシは座った。

 そこは何よりも暖かくて、本当に幸せな場所だった」

 

既に力はその体には残っていない。

だが、どれだけマキに殴られ続けようとも一切気持ちはくじけていない。

愛はその力ない拳でマキの顔を殴る。

マキはその拳を防御すらせず甘んじて受けた。

 

「それを今更、羨ましいから奪うだと。

 思い出したから返せだと、ふざけんな!」

 

愛はただ必死に殴る。

喧嘩狼の見せる普段の一方的で派手な喧嘩じゃない。

ただひたすら泥臭くて、女々しくて、見ていて辛いものだった。

 

「・・・・・・黙れ」

 

マキは静かな怒りを秘めた声でつぶやき、愛の顔を殴る。

その途轍もない威力を込めた拳を直撃し、愛は僅かに動きを止める。

しかしそれでもマキを殴ろうとする拳を止めない。

 

「その場所はもうアタシの場所なんだよ!

 もうアタシはそこから離れられないほど大切になった所なんだよ!」

「煩い、黙れ!」

 

ひたすらに、愛とマキは殴り続ける。

互いにガードを完全に捨て、単純な泥仕合だ。

 

「だったらお前もわかるだろうが! その席に座るお前を私がどんな気持ちで見ているか!?

 羨ましくて、妬ましくて、眩しくて・・・・・・それは私も手に入れられたものなのに!」

 

マキは本気で、一切の加減なく愛を殴る。

しかし愛は倒れない。拳を止めない。

 

「お前だってわかってるだろう! 今アタシがいる場所がどれだけ大切な場所か!

 お前だからこそわかるだろ!」

 

愛はどれほど殴られても動きがにぶらない。

それどころか思いを吐き出せば吐き出すほどその拳に重みが増し始める。

一撃殴られれば同じく一撃殴り返す。

それを繰り返す程に彼女は強くなっていく。

 

次第に、マキの方がダメージにより動きが鈍くなっていく。

肉体面も、思いも強さを増し続ける愛に対し、両方が弱まり始めるマキ。

 

次第に有利不利などなくなり、互いに棒立ちする相手をひたすらに殴るだけの喧嘩に変わり始める。

 

「思い出すんじゃなかったと何度も思った。

 あんな約束するんじゃなかったと、私はずっと考えてた!」

 

愛もマキも互いに倒れない。

もし倒れるのだとしたら、どちらかの気持ちが折れたとき。

もしくはどちらかが相手の気持ちを汲み取ったとき。

 

「あの約束のせいで私は前に進めなくなった。

 いつまでも女々しくお前らに嫉妬して、それがどうしようもなく私らしくなくて」

 

マキが最初の時と比べ見る影もなくなった威力の拳を愛に叩き込む。

 

「それでも諦めきれなくて、思い出を捨てきれなくて」

 

涙を流しながら、生の感情をむき出しにして愛を責める。

 

「そんな事になるくらいなら、あんな約束をするんじゃなかったって何度も後悔したんだ!」

「くっ、それでもテメェはその気持ちも約束も捨てきれないんだろうが!」

 

愛はマキを殴り返す。

しかしマキはダメージを一切意に介さない。

 

「そうだ! それでも私はダイが好きだから、私が私らしくなくなる程に愛してるから!

 だから私は前に進めないんだ!」

 

必死に、心に溜まった泥を吐き出すように叫ぶマキ。

それを真正面から受け止める愛。

 

最早互いに引くに引けない所まで来た。

自分の全てをぶつけ、相手の全てを受け止める。

それは最早喧嘩と呼べるものではない。

 

「だからお前を倒す、お前からダイを奪う、その居場所を私が奪う!」

 

どうしようもないから、だから愛の全てを奪う。

その子供の癇癪のような理由がマキは愛に喧嘩を叩きつけた原因だ。

マキ自身も破綻している理論になっていることは理解している。

それでも、それを見て見てないふりをしなければどうしようもない所まできていたのだ。

 

「辛いだけで、私を束縛する約束も、それに関わるお前らも全部台無しになっちまえ!

 私はお前から全てを奪う、ダイが悲しもうと、もう私は我慢できないんだ!」

 

マキは顔を歪め、涙を僅かに零す。

それは愛に殴られた痛みによるものではない。

取り戻せない居場所、変わらない現実。

自分らしく在れない自分を悲観しこぼす涙。

 

しかし愛はその涙を見て、それでも尚拳を止めない。

 

「アタシを倒そうと思えば、チャンスなんて何度かあっただろう!

 本当にそう思ってるならどうしてその時にアタシを仕留めなかった!?」

 

愛は気づいていた。

マキの真意に。マキ本人すら気づいていないその気持ちに。

 

「・・・・・・黙れ」

 

子供のように言うマキ。

 

「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!」

 

泣き喚くように叫び、愛を殴る。

 

「お前に何がわかる!

 今が幸せで、未来だってきっと満ち足りてるお前に私の何がわかる!?」

 

完全に嫉妬に狂ったマキ。

だが愛はそのマキの姿を一笑に伏す事など出来るはずもなかった。

 

「わかるよ。だって、もしかしたらアタシとお前の立場は逆だったかもしれないんだから」

 

愛は僅かに歯を食いしばり、必死に足と腰に力を込め殴り返す。

既に意識は鮮明ではなく、いつ倒れてもおかしくはない。

ただ、想いの強さと大への執着する執念だけで立っていた。

 

「アタシだって二度大に別れを切り出した。

 もしその時、お前に大が靡いていたらそこでお前とアタシは逆転してたんだ」

 

あの嵐の日。

初めて愛が大に別れを切り出したあの日。

そこで大が別れを持ち出した愛に頷いていた場合、恐らく傷心した大をマキは放っては置かなかった。

二度目の喧嘩別れした日、大はその後もマキの誘惑を振り切っていたが、

大が愛に未練を残していなかったらマキの物になっていた。

 

愛とマキの立場が逆になる機会なんていくらでもあった。

だから愛はマキの吐き出した言葉を切って捨てることなどできない。

 

「もしお前が大と付き合っていて、アタシがそれを見せられる側になった時アタシはどうするんだろうな」

 

想像つかない。

マキも今が余りにも辛すぎてその光景が見えない。

 

「今がこんなに幸せで、胸が張り裂けそうなくらい満たされるこの気持ちはどんなものに変わるんだろうな」

「・・・・・・辻堂」

 

愛は自分の胸を握り締める。

その想像した光景は余りにも辛い。

 

「だからアタシはそんな事になりたくない。

 アタシは今いるこの場所にしがみつく。それがどんなにみっともなくて惨めに見えても」

 

歯を食いしばり、拳を握る。

対してマキは手を解き、力なくただ立っているだけ。

あえてそうした。

マキはもう、既に闘志など残っていない。

 

もとより、自身の我侭以上に大へ幸せになって欲しいという願いの方が強かった。

だからこそ最初は極楽院の名を出さず、腰越マキとして喧嘩をし、そこで負けたら大人しく引き下がるつもりだったのだ。

それが突然大が過去の話を切り出したから、だから引けなくなった。

 

「・・・・・・辻堂、この辛さはお前が思っているより凄いぜ。

 この私が私らしくなくなるくらいなんだ、想像できるかよ」

 

まだ体は動く。

やろうと思えばもう一度リミッターを外せる。

けれどマキはそうしない。

 

ただ、涙を堪え、いつものように暴虐舞人のような態度で笑ってみせた。

 

「想像できねぇよ。そんな痛みに耐えるお前を心底尊敬する」

 

相手の心を汲み取ったのはマキだった。

愛には今、居場所を取り戻すことのできなくなったマキの気持ちなど完璧に理解できるはずもない。

例え愛自身がその気持ちを汲み取ろうとしたところでそれを完全に把握できるわけもない。

今が幸せな者に、不幸せな者の気持ちなど全て汲み取れるとは思えない。

 

だが、得られなかったマキは違う。

得られなかった者だからこそ、失う事を恐れる愛の気持ちを理解できる。

失ったとき、どんな気持ちになるかを理解できる。

 

だからマキはもう拳を上げない。

 

「あ~あ、しゃあねえ。じゃあ今回は私の負けにしといてやるよ」

 

マキは辛い感情を全て打ち壊し、精一杯の空元気で笑ってみせた。

 

「・・・・・・ありがとな、姉ちゃん」

「ちっ、まだテメェは長谷愛じゃねぇだろうが」

 

愛の渾身の一撃を、マキは一切避けようとせず甘んじて受けた。

そして意志の力すら捨て、そのまま倒された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意識が飛ぶ瞬間、マキは昔の事を思い出す。

 

『ばあちゃんたちが許してくれたら、うちにおいでよ。

 一緒に家族になろう』

 

その言葉は何よりも嬉しかった。

 

『いいの?』

『もちろん』

 

だから私は喜んで頷く。

大切な家族が増える。

自分を理解してくれて、大切に思ってくれて、一緒にいて幸せだった彼とずっと一緒にいられるのなら。

それはきっと幸せなことなのだ。

 

『うん。約束、ね』

『うん。

 ・・・・・・あ、手を貸して』

『なぁに?』

『私、長谷大は、あなたを姉とし・・・・・・』

 

ここで少年は思い出す。

 

『そうだ。

 姉ちゃん以外とは姉弟になっちゃダメなんだっけ』

 

少年は困ったようにマキに質問した。

 

『姉以外で家族って何がある?』

『んー?

 お嫁さんとか』

『じゃあそれで。私、長谷大は―――』

『マキちゃんをお嫁さんとし、良い時も悪い時も、

 富めるときも貧しいときも、病めるときもまた健やかなる時も、

 マキちゃんを愛すると誓います』

 

その約束は何よりも暖かくて、幸せな気持ちをもたらしてくれる筈だった。

けれど、その約束を忘れ、思い出した時には既にそこには別の人間がいた。

 

それはとても辛いことで、マキを思いつめさせるものだった。

しかしマキは愛との喧嘩でようやく踏ん切りをつけた。

納得なんて出来るはずない。

だけどそれでもその約束に縛られて誰かを不幸にするつもりもなくなった。

 

自分の好意を諦めるつもりもない。

ましてや愛の恋路を応援するつもりなんて欠片もない。

 

「ダイ、私は・・・・・・」

 

ただ、約束に縛られず、新しい席を自分で作ろう。

マキはそうやって踏ん切りをつけた。

 

「・・・・・・畜生」

 

もう涙は出ない。

吐き出すものもない。

 

約束に囚われた今までの自分がいるのなら、別の自分を作ればいい。

でもそれは簡単な事ではなくて、未だ納得しかねる自分には辛くて。

 

「マキさん!」

 

不意に、泣き出しそうになるマキに聞きなれた声が聞こえた。

 

既にマキには長谷大の声に反応する体力すらない。

そもそも今自分が夢の中にいるのか起きているのかすらわからないのだ。

 

けれど何故だろう。

彼の声を聞いた瞬間、あまりに辛かった気持ちもどこかに吹き飛んだ。

こちらに駆け寄る必死な彼の姿がなんだかおかしくて、泣きたい気持ちもどこかへ行った。

 

マキはそんな彼の姿から目を外して空を見る。

 

その空はどこまでも澄み切っていて。

また新しい飛行機が通った後なのだろう、濃くて綺麗な飛行機雲が一本あった。

 

ああ、そうだ。

昔、ダイと約束したときもこんなワクワクして幸せな気持ちだったな。

 

そうマキは思って、それがとてもおかしくて。

マキは少し笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




これでようやくマキ編も終わりました。
次回はエピローグとなります。

思えばこれを連載し始めて五ヶ月。大分経ったなぁ。
最初は愛さんとただイチャイチャするだけの話にする予定だったけれど、気がつけば大幅に方針転換。
今一話とか見ると凄く書き直したくなってきますね。

それでは、次回エピローグの後はしばらく不定期更新で短編などを書こうと思います。
ここまで読んでくれた方々、本当にありがとうございます。
あと一話残っていますが、それに付き合っていただけると光栄です。

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