余計な真似かもしれないと懸念した手作りお菓子が予想以上に好評で、校舎を後にした詩奈の足取りは軽かった。深雪に会うまでは緊張と不安に満たされていた彼女の意識も、今では「案外うまくやっていけるのではないか」という楽観に傾いている。
最初からそんなに怯える必要も無かったのかもしれないが、何といってもあの生徒会長は四葉の直系で、しかも後継者の婚約者なのだ。同じ十師族であっても四葉は別格。別格に恐ろしい。
世間では四葉家と七草家が日本魔法界の双璧と評価されているが、魔法の実力は四葉家が抜きん出ている。七草家は数に物を言わせた政治力で、四葉家と肩を並べているように見せかけているだけだ。――と、詩奈は兄から聞いていた。
だから彼女は、初めて会う深雪がどんなに恐ろしい魔女なのか、次期当主である達也がどれほど恐ろしい魔法師なのかと、内心ビクビクしていた。
深雪の容姿は、詩奈も前から知っていた。九校戦は去年、一昨年と両方とも見に行っている。だが美しすぎる姿形は、詩奈に「人間とは思えない」という印象を与えていた。強すぎる魔法は、彼女に「人間を超えている」という恐れを植え付けたのだ。
一方の達也の方は、一昨年臨時でモノリス・コードに参加していたのを見ているが、どちらかと言えばエンジニアとしての達也の評価を詩奈は聞いている。担当した選手が実質無敗、しかも二年間その記録が継続しているという事実が、入学前の少女の耳にも届いているのだ。
その二人が実は四葉の直系で、直前まで深雪が当主候補であったと聞かされて、詩奈は一片の意外感も覚えなかったが、達也が実力を封印されていたにもかかわらず将輝に勝ったという事にも納得出来たのだった。「極東の魔女」の後継者は、やはり「魔の王」だった、そんな思いを自然に抱いたのだった。
「気にし過ぎだったんだね、やっぱり」
実際に会ってみて、深雪からも達也からも恐ろしさは感じなかった。深雪の桁外れに美しく、桁外れに強いという点を除けば、驚くほど普通だった。強い力を持つ魔法師にありがちなエキセントリックさが見られず、少し拍子抜けしたくらいだ。
「むしろ驚いたのは泉美さんと香澄さんの方でしたね……」
噂には聞いていたが、泉美は深雪に心酔しており、ぜひ姉にと昨年の入学式で頼み込んだらしいし、香澄は婚約者として達也に心底惚れているという事だったが、今日見ただけでその噂が事実だと理解出来た。
「だけど、司波先輩の方は完全に私の事を信じているって感じでは無かったな……」
達也から正体不明の威圧感と底知れぬ不気味さを感じていたが、それもパンケーキサンドを食べてもらってからは薄らいだと詩奈は感じていたし、同じ十師族として、他の家の魔法師を警戒するのは当然だと考えるようになっていた。
「詩奈!」
「侍郎くん……!」
校門を出る時に声を掛けられて、彼女は跳び上がりそうになったが、辛うじて自ら奇行を演じるのは避けたが、声が上ずることまでは止められなかった。
「詩奈、お疲れ」
「こんな時間まで待っていてくれたの? 先に帰って良いって言ったのに」
「予想より早かった。それに護衛の俺が、主人のお前を置いて帰れるわけないだろ」
「護衛とか、もういいのに……」
詩奈に声を掛けてきた少年の名は矢車侍郎。詩奈とは誕生日が二日違いで、生まれた時からの付き合いという筋金入りの幼馴染である。
矢車家は古式魔法師の家系だが、三十年以上前から三矢家とは雇用関係にあり、年が近いという好条件もあって侍郎少年は詩奈の護衛になるはずだったのだが、彼の魔法力が思うように伸びなかったのでその予定は取り消されたのだった。
「あっ……」
「ん? どうかしたのか?」
「ううん、何でもない」
侍郎に会って、詩奈は達也から感じていたプレッシャーの正体に気付いた気がした。あれは主人を守ろうとする護衛の雰囲気のそれと似ていたのだ。
「(直前まで司波会長が次期当主候補だったなら、司波先輩はなんだったのかしら……? もしかして司波会長の護衛として過ごしていたのかも)」
「それで、どうだった?」
「どうって?」
「どうって……だから」
考え事をしていたのと、侍郎の質問が抽象的過ぎて、詩奈は何を尋ねられているのか分からなかった。侍郎は細かい事まで言葉にしなくても当然理解してもらえると思っていたようで、酷くもどかしそうだった。
「ええと……四葉家の人に会ってみてどうだった、って事だよ。詩奈、今朝は凄く不安そうにしてただろ」
「うん、それなら大丈夫。司波先輩の方は兎も角、司波会長の方は優しそうな人だったよ」
「兎も角って……それ、大丈夫なのか?」
「大丈夫かって、司波先輩の事?」
「そうだよ。危なそうな人だったら、一人で会わない方が……」
「侍郎くん、私、司波先輩じゃなくても男の人と二人だけで会ったりしないよ?」
詩奈の言葉に、侍郎は「そういう事じゃない!」とムキになって反論しようとしたが、詩奈が囁きかけるような声で付け加えた。
「でも、心配してくれているのね、ありがと」
「お、俺が詩奈の事を心配するのは当たり前の事だ。俺はお前の、護衛なんだからな」
照れくさそうに目を逸らしながら、侍郎はぶっきらぼうな口調でそう答えた。詩奈は彼が護衛を自称している事については何もコメントしなかった。
原作より少し詩奈の勘を鋭くしてみました