その船は久米島西約六十キロを北西に進んでいた。船の形は少し大きめの漁船といったところ。漁船と言っても特に漁をしている様子は無く、経済速度で母港へ戻っている最中に見えた。
数年前までこの海域では、違法操業を行う大亜連合の漁船を日本の巡視船が追い回し、その内両国の戦闘艦がやって来て火器管制レーダーを浴びせ合うというチキンレースが頻繁に演じられていた。
しかし五年前の沖縄侵攻事件以降、大亜連合の挑発行為はぴたりと影を潜めた。そして去年の講和条約締結後は、大亜連合の船も表面上紳士的に海上を行き交っている。
「中尉殿、本当に行かれるのでありますか? 我々ではお迎えに上がれませんが」
「後の事はなんとでもなる。まずは作戦を成功させることだ」
そう言ってブラッドリー・チャン中尉は魚雷のようなカプセルに入り、腹這いになった。チャンは大亜連合脱走部隊のナンバーツー。ナンバーワンのダニエル・リウ少校が日本軍に捕らえられた現状では、彼がリーダーだ。チャン自ら片道切符の作戦に出撃すると言われれば、反論出来るものはいなかった。破壊工作が成功すれば、それだけで人工島は沈められなくても、大混乱は必至。パニックが生じた中で長距離航行が可能な船を強奪するのは、それほど難しい事ではないはずだ。
「ハッチを閉めろ」
「ハッ」
チャンの命令で背中の上のハッチが閉ざされる。一瞬、完全な闇がチャンの視界を閉ざしたが、すぐに仄かな照明が点った。魚雷型カプセルの数は五本。チャンは一人で入っているが、他の四本には二人ずつ乗り込んでいる。この九人が最後の作戦に携わる決死隊だ。
カプセルが船底の穴から海中に放り出される。魚雷型カプセルのスクリューには、後ろまですっぽり覆う金属のカバーが取り付けられている。スクリュー音で接近を探知されないための措置だ。
五本のカプセルは、乗り込んだ人間の魔法だけで海中を人工島『西果新島』へ進み始めたのだった。
人工島地下第一層のホテル宴会場では、挨拶が終わりフリートークの時間になっていた。ここに集った上流階級の人たちはやっと調子を取り戻したようで、深雪を盗み見る視線も少なくなった。卒業生組も多少緊張から解放された顔で料理に手を伸ばしていた。
「五十里先輩も壇上に上がられるのかと思っていました」
「さっきも話したけど、お断りさせていただいたんだよ。誰も僕の話なんか聞いても、喜ぶ人なんていないからね」
オードブルを摘まみながら達也が五十里に話しかけ、五十里は達也と同じ料理を手に持って、笑いながら頭を振る。
「そんなことないわよ! 啓の格好良いところ、見たかったのに!」
「ところで先輩、少しお時間をいただけませんか?」
「達也様?」
花音の噛み付きを無視して五十里に話しかける達也に驚いたのは、五十里ではなく深雪の方だった。実は五十里も驚いていたのだが、深雪に先を越されてそれを露わにするタイミングを逃したのだった。
「……何かあったの?」
驚く代わりに五十里は厄介ごとの臭いを嗅ぎ付けた。達也の表情から、自分の推理が的を射ていると悟ったのだろう。
「分かった。こっちへ」
五十里の家はこの人工島の設計に関わっている。今いる宴会場に近接した小部屋の位置も把握していた。お色直しなどの為に用意されている部屋だが、今日は使っていないはずだ。
「深雪はここで待っていてくれ。水波、深雪を頼む」
「……かしこまりました」
「はい、達也さま」
「花音も待っていて」
「……分かった」
ついて来ようとした深雪を達也が、花音を五十里が制して、二人はこっそり隣の部屋へ移った。
「それで、いったい何が起こるのかな?」
「このパーティーが大亜連合の脱走兵に狙われています」
五十里は立ったまま囁き声で達也に話しかけ、達也も立ったままで、五十里の質問に正直な答えを返した。五十里の喉が鳴る。彼が呑み込んだのは「息」でも「唾」でもなく「悲鳴」だったに違いない。
「何故今頃……」
「誤解しないでください」
達也が右手を前に軽く上げて、押しとどめるようなジェスチャーで五十里を宥める。
「大亜連合の脱走兵による襲撃が計画されていますが、対策は完了しています。彼らは何も出来ません。破壊工作員は海中からこの人工島に接近し、爆弾を仕掛けフロートに穴を空けるつもりです」
「……その程度じゃこの西果新島は沈まないよ」
「ですが、今日のパーティーは中止になるでしょうね。実行出来れば、ですが」
「随分自信がありそうだけど……だったら、何故僕にこの事を話したんだい?」
「戦闘が始まっても、自重していただく為です」
「言われなくても、危ない真似に手を出すつもりは無いけど?」
「この人工の島に仕掛けられた刻印魔法の防御システムの事は存じております。その魔法を先輩が自由に発動させられることも」
五十里が大きく目を見開いたが、すぐに納得した顔で頷いた。
「司波君の立場なら知り得るだろうね。じゃあ国防軍に助けてもらわなくても、爆弾を仕掛けられることは無いという事も分かってるね?」
「そもそも近づけないでしょう。大型海洋生物を近づけないために、フロート表面に発生する斥力場は人間にも作用します。怪我をすることは無いでしょうが、生体電流を持っている限りフロートや採掘施設に接触出来ません」
「御名答。ついでに言えば、付着物も超音波洗浄の原理で剥がしてしまう。僕じゃなくても、家の刻印魔法を発動させられる魔法師がいる限り、爆弾を仕掛けるなんて無理だ」
「そうですね。そしてその事は、破壊工作員も知っています」
「……僕が、狙われると?」
「そうです。正確には、先輩も狙われている、ですね。ご安心ください。会場には先輩の護衛を務めてくださる国防軍の魔法師を手配してあります。その方です」
達也がそう言った瞬間、五十里の背後に人の気配が生じる。慌てて振り返る五十里に、ウェイターの制服を着た魔法師が敬礼する。
「何時の間に……」
「国防陸軍、南風原曹長であります。軍規の為、所属部隊を名乗らぬ事についてはご容赦ください」
「曹長は護衛のスペシャリストです。個人を対象とする防御魔法に優れ、また格闘戦にも長けています。移動する場合は、曹長に声を掛けてください。では、戻りましょう」
達也は五十里が頷くのを確認してから、花音たちの許に戻るよう五十里を促したのだった。
南風原って確か、達也に一撃で沈められたような……