横浜・山手の丘の中程にある山小屋風デザインの喫茶店「ロッテルバルト」。物静かな雰囲気の店内に入ると、寿和は思わず誰かを探すように目を動かしてしまった。誰を探しているのか、彼も自覚している。
横浜事変の最中に桜木町駅の前で別れて以来、寿和は彼女――藤林響子に会っていない。あの時も別に男と女として付き合っていたのではなく、お互いの任務で協力関係にあっただけであり、現在彼女は、寿和の妹の同級生の婚約者候補なので、寿和の気持ちは届かないだろうが。
寿和が響子の事を思い出したのは、ここが彼女と初めて会った場所だからだ。自分でも女々しいと思いながら、寿和はカウンターに腰を下ろし、隣に稲垣が腰掛けたのを視界の端に捉えながらブレンドを二つ注文した。
この店のマスター相手に性急な真似は禁物だ。寿和はコーヒーを待つ間、ぼんやりと店の中を見回した。相変わらず客は多いが、満席でもない。視線を不快に思われないよう、寿和は見回すのを止めた。
扉の開閉を知らせるカウベルに振り向いたのも、不審者を警戒しての事ではなく、手持ちぶさただったので条件反射的に身体が動いただけだったのだ。
「あら、警部さん」
「藤林さん……」
その直後に立ち上がったのも、ほとんど無意識の行動だったが、最早寿和は気を抜いてなどいなかった。彼と同じ年頃の美女が寿和の顔を認めて軽く目を見開いたのだ。その相手は、彼が思いだしていた女性だったのだ。
「お久しぶりですね、千葉警部。こちら、よろしいですか?」
「あっ、はい、どうぞ」
稲垣が顔を顰めているのにも気づかず、寿和は響子の言葉に頷いた。響子が笑顔を浮かべたまま、寿和の隣に腰掛ける。
「マスター、ブレンドをお願いします」
脱いだコートを空いている隣の席に置いて、響子が寿和と同じものを注文する。
「警部さん、お変わり無さそうですね」
「はい、頑丈なだけが取り柄ですから」
「まあ、ご謙遜ですね」
「ところで、藤林さんは本日、お休みですか?」
頬の当たりが引き攣りながら、寿和が響子に尋ねる。彼女の職業柄、カジュアルな恰好をしているからといってオフとは限らない。寿和もそれは知っていたが、こんな誰が聞いているか分からない場所で「任務ですか」とは聞けなかった。
「ええ。マスターの淹れてくれるコーヒーは美味しいですから。警部さんはご休憩ですか?」
「ええ、まあ……そう言えば藤林さんは古式魔法にもお詳しいんですよね?」
少なからず浮き足立ってはいたが、寿和は捜査の事を忘れてはいなかった。彼が目の前の女性の素性を思い出したのは、男としてではなく刑事としての意識からだった。
「ええ、それなりには」
「もしお時間がお有りでしたら、少し教えていただきたい事があるんですが」
「お待たせしました」
響子が寿和の瞳を覗き込んだタイミングで、マスターの声が割って入った。コーヒーカップが寿和と稲垣の前に並べられる。
「構いませんよ。ですが警部さん、その前にマスターとお話があるのでは?」
響子の指摘を受けて、寿和はこの店に寄ったそもそもの目的を思い出した。残念ながら、任務を疎かにしていないとは言い切れないようである。
マスターに教えてほしい情報を貰い、響子が席を立ったのと同時に、寿和も立ち上がった。
「マスター、お勘定。こちらの方の分も一緒に。釣りは要らないよ」
響子が口を挿む前に、寿和は高額のマネーカードをマスターに渡した。寿和に一拍遅れて立ち上がった稲垣は、カードの金額に眉を上げて驚きを表す。情報料込みであるにしても、相場より大分高かったからだ。
「少し、頂き過ぎのようですが」
「では次に来た時の勘定に当ててくれ」
「またのお越しをお待ちしております」
マスターは押し問答をせず、軽く頭を下げ三人を見送ったのだった。
ロッテルバルトを出た寿和は、響子に誘われて彼女の車に乗った。響子が運転する車の後ろに稲垣の覆面パトカーがついて行く格好だ。
「それで警部さん、お聞きになりたい事というのは、箱根のテロ事件に関係した事ですか?」
「……仰る通りです。あのテロ事件には奇妙な点がありまして」
「奇妙、ですか?」
「ええ、実行犯に生存者がいないんです」
「……逃げたのではありませんか?」
「いえ、それはありません」
響子が呈した常識的な疑問を、寿和はきっぱり否定した。
「テロは的になったホテルにのみ集中していました。街路カメラは事故後も完全に作動しています」
「街路カメラにはテロ現場のホテルから逃亡する実行犯が映っていなかったと?」
「そうです。ホテルに侵入した実行犯は全てカメラに収められていました。身元も全員が判明しています。死体はまだ一部が発見されていませんが、生きて逃亡した犯人がいないと言う事は断言できます」
「犯人が街路カメラに映っていたのに、犯行を阻止出来なかったんですか?」
寿和が返答に詰まったが、めげずにすぐに言い訳を繰り出した。
「爆発物が探知機に引っ掛からなかったんですよ。身なりも普通でしたし、営業中のホテルに入っていくのを止める理由はありませんでした」
「……十師族が魔法協会の会議室を使うなり、ホテルを貸しきりにするなりしておけば、今回のテロ事件は起こらなかったということですか」
「テロ事件そのものは兎も角、これほどの負傷者を出す事は避けられたでしょうね……実はそれ以外にも不可解な点がありまして……結論だけ申し上げると、犯人たちは実行時点で既に死んでいたと考えられるんです」
「そうでしたか……それで『人形師』の所へ話を聞きに行かれるんですね」
「人形師?」
ロッテルバルトの店長に紹介されたのは「反魂術」に詳しいという魔法研究家の家である。人形制作者や人形操者を訪ねるつもりは無い。
「警部さんが訪ねようとされている人物は、単なる魔法研究家ではなく『人形師』と仇名される古式魔法師です。死体を操り人形に変える禁断の魔法を使うと噂され、魔法協会から要注意人物としてマークされている魔法師ですよ」
「それは……」
「確かに彼ならば死体を操る術について詳しく教えてもらえるでしょう。表向きは研究者ですからね。ですが警部さん、注意してください。『人形師』近江円麿は大漢出身の魔法師と浅からぬ交流があるとも言われています」
響子は正面を見ていた目を、寿和に向けて忠告する。寿和は顔を引き締め、響子の忠告に頷いたのだった。
一年が半分も終わってしまった……