妖魔の本体を視認する知覚を持たないリーナにも、ソレの滅びる様が感じ取れた。凍結し砕け散る「情報」の塊。情報次元における想子情報体を操作できる事が魔法師の条件であるならば、最高レベルの魔法師である「シリウス」が本体の崩壊と共に撒き散らされた大量の想子に気づかないはずが無かった。
「ルナ・マジック……?」
そして自身では精神に干渉する魔法を使えなくても、引き起こされた結果から使われた魔法を推測する事も、リーナの魔法感受性を以ってすれば可能だ。
ルナ・ストライクは精神干渉系の系統外魔法には珍しくプロセスが定式化されている魔法であり、スターズの「一等星」クラスはこの魔法を使う魔法師と相対した時、これをどう防ぐか、その対処法を習得する目的でルナ・ストライクの術式を学ぶ。当然リーナもルナ・ストライクを何度も目にしており、その経験故に初見のコキュートスをそのメカニズムは理解出来ずとも、精神に直接、致命的なダメージを与える魔法だと正しく推測した。そして、それを繰り出したのが深雪であると言う事も。
「こんな強力なルナ・マジックを……ミユキ、アナタ……いえ、アナタたち兄妹はいったい」
「リーナ、今見た事は他言無用だ」
険悪ムードだった二人が正気を失っているこの状況はチャンスだった。達也は耳から通信機を外してスイッチを切り、リーナを見下ろすように視線を向け、何時もより低めの声を出し、威圧する口調でそう言った。
「な、なによ、いきなり……」
普段の彼女なら、こういう高圧的な物言いは逆効果だっただろうが、達也が予想した通り、リーナは何時もの彼女では無かった。
「その代わり、アンジー・シリウスの正体について、沈黙を守ると誓おう。この誓約は俺と深雪だけでなく、今日この件に関わったこちら側全員に適応される」
「……ワタシに拒否権は無いんでしょう?」
「そんな事は無い」
それほど長くは無い葛藤を終えて出たリーナの諦念の滲むセリフを達也は否定した。だが彼女が拒否した場合にどうなるか、彼は語らなかった。
「いいわよ……黙っていてもらえるなら、ワタシにとっても悪い話じゃないし。タツヤとミユキの事は黙ってるわよ……どうせ誰にも取り合ってもらえないだろうし」
最後のフレーズは口の中で呟かれたもので、達也には聞き取れなかった。聞き返す事もしなかった。彼は、まだ足に力が入らない深雪の身体を横抱きに抱え上げ、いきなり我に返ってじたばたと腕の中で暴れ出した妹に「大人しくしていろ」と命じて、リーナに背を向けた。
背を向けただけで歩きださなかったのを不審に思ったリーナが達也に声を掛けようとしたその直前、逆に達也から声がかけられた。
「リーナ」
「まだ何かあるの?」
言葉面だけで判断すれば苛立っているようにも解釈出来るセリフだったが、リーナの声は言葉ほど不機嫌では無かった。
「もしリーナがスターズを退役したければ……」
「えっ?」
「もし軍人である事を辞めたければ、力になれると思うぞ。いや、俺自身には大した力も無いが、力を貸してくれそうな知り合いに心当たりがある」
「タツヤ? アナタ、何を言ってるの? ワタシは別に、スターズを抜けたいなんて……『シリウス』を辞めたいだなんて思って無いわよ」
「そうか」
「待って、タツヤ! 何故そんな事を訊くの!?」
「悪かったな、変な事を言って」
達也は振り返らぬまま短く返事をして歩き始めた。大声で呼び止めるリーナへ振り返る事は無く、達也は遠ざかって行く。彼に付き従う機械人形は、当たり前だがリーナに見向きもしない。ただ達也に抱き上げられた深雪だけが、兄の肩越しに気遣わしげな眼差しをリーナへ送っていた。
達也の姿が夜の木陰の闇に消えて、リーナはハッと我に返った。自分が身動ぎもせず達也の後ろ姿を見詰めていた事に気がついて、慌てて地べたから立ち上がる。
何故自分の瞳は達也の背中を追いかけていたのか……そんな思いが脳裏に浮かんで、リーナは勢い良く頭を振った。
「(タツヤが変な事を言うからよ。そうに決まってる)」
在りもしない「恋心」から意識を逸らす為に、リーナは何でもいいから別の事を考えようとした。その結果、自然と思考が直近の疑問に吸い寄せられる。
「(何故タツヤはあんなことを言ったのだろう……)」
魔物に侵された同胞を処分する自分の顔が、自分の姿が、辛そうに見えたのだろうか。だとしたらとんだ誤解だとリーナは思った。
「(魔物になって生きるよりは、安らかな眠りを与えてやる方が)」
辛い仕事だが、誰かがやらなければならない務めであり、自分はそこから逃げ出すつもりは無かった。強い魔法力を持つ魔法師が魔道に落ちたなら、それを討伐する仕事は最強の魔法師たるシリウス、つまり自分にしか出来ないのだから……
「(……自分にしか?)」
思いがけないところでリーナの思考は躓いた。新たな犠牲者を出す事無く、正気を失った魔法師を処分する。その任務は確かに最強の魔法師である彼女が最も適していた。その事に疑いは無かった――今までは。
今は必ずしもそうでない事を知っている。彼女がやらなくても、あの二人がやってくれる。彼女が辛い思いをしなくても、同胞殺しの罪悪感に苦しまなくても、異邦人であるあの二人が――
「(そうか……だからワタシ、迷って、焦ってたんだ)」
この一ヶ月近く、頭の中にずっと居座っていたモヤモヤが急に晴れたような気がした。
自分がやらなくても誰かがやってくれる。
それはリーナにとって思いもよらない発見だった。決まっていると思っていた、変えられないと思っていた未来が、実は選べるものだと分かった。ずっと一本だと思っていた道が、目の前で急に枝分かれした――例えるならそんな期待と不安。一つの迷いからようやく抜け出したばかりだというのに、リーナの意識はすっかり混乱してしまっていた。
放心状態なので、リーナはツッコめませんでした……