幹比古が教室に顔を見せたのは、二時限目が終わった後だった。遅刻ではない。保健室のお世話になっていたのだった。
「もう良いのか?」
「達也……恨むよ」
「おいおい、穏やかじゃないな」
「恨み事くらい言わせてよ。あの後、僕がどれだけ胃の痛い思いをしたことか……」
そう言いながら手で腹をさすっている。その時の痛みを思い出したのだろう。
「七草先輩は無言でニコニコ、ニコニコ笑うだけだし、エリカも不機嫌丸出しで黙っちゃうし……僕一人で喋り続けなきゃならなかったんだよ。あの空回り感は針の筵そのものだよ……」
「十文字先輩は何も仰らなかったのか?」
「あの人がそんな細かい事に口出しすると思う?」
「なるほど」
真由美も克人も、実に「らしい」行動だと、達也は納得してしまった。
「えっと……何だか良く分かりませんけど、大変だったんですね」
美月の示した心からの同情に、幹比古も少しは癒された様子だった。
「そうそう、保険医の安宿先生から達也に伝言なんだけど」
「……別に聞かなくても良いよな?」
「僕もそう思うけど、一応伝えないと次行く時気まずいでしょ?」
幹比古の言ってる事も一理あるので、達也はしぶしぶ怜美からの伝言を聞く事にした。
「えっと……『偶には保健室に来てほしい』って言ってたけど、達也と安宿先生って仲良かったの?」
「面識はあるが、会った回数で言えば幹比古より少ないはずなんだがな……」
ここ最近の幹比古の保健室使用回数は並々ならないほどだ。保険医である怜美が幹比古と会ってる回数もそれに比例するだろう。
「とにかく、伝えたからね」
それだけ言うと、幹比古は席に着いてエリカ同様突っ伏した。エリカと違うのは、授業になれば起きるという事だ。
「……エリカちゃんは大丈夫なんでしょうか?」
「後で美月が苦労するだろうな」
「えぇ!?」
達也の予言めいたセリフに、美月は大声を上げてしまった。まさかそれが現実に起こるなどと、その時は思ってなかったのだ……
昼休みになり、エリカが漸く復活した。そして目を覚ますや否や、美月に愚痴り始めた。
「聞いてる? それまでずっと一匹で逃げてたのに、いきなり三匹に増えたのよ。狡いと思わない?」
誰が聞いてるか分からない食堂でこういう話をするのは拙いと判断する分別はあったと見えて、エリカはお昼もとらずに美月を空き教室へ連れ込んでいた。
「えっと、そうかな (吸血鬼って一匹、二匹って数えるんだっけ?)」
エリカの話が吸血鬼の事だと辛うじて理解出来たが、実は何故エリカが怒ってるのか良く分かっていない美月。勢いに押されて頷いただけなのだ。
「……それより、早く食堂に行こうよ。お昼休み終わっちゃうよ?」
「あんまりお腹空いて無いのよね、あたし」
「(はぁ……仕方ないか)」
ずっと寝てたから、という指摘をしたかった美月だったが、それを言うとエリカが修復不能なまでに拗ねてしまいそうな気がして言えなかった。
気の弱い美月はお昼ご飯を諦める事にした、
「(今日のカリキュラムには体育も身体を動かす系の実習も入って無いし、一食くらい抜いても大丈夫)」
そう自分に言い聞かせながら、美月は気になってた事をエリカに訊ねた。
「ねぇ、エリカちゃん。何で達也さんと喧嘩してるの?」
「な、何言ってるのかな、美月は。喧嘩なんてしてないって。してないったらしてないって」
ブンブンと勢いよく首と両手を振るエリカ。春からずっと髪を伸ばしていた成果の、長めのポニーテールが、首の動きにつられてピョンピョン跳ねる。
「そんなに慌てなくても……別に、エリカちゃんが達也さんに何かしたなんて思ってないから。エリカちゃんが少しくらい羽目を外したって、達也さんなら笑って流しちゃうでしょ? だからエリカちゃんが原因なら喧嘩になんてなるはずないもん」
「そ、それは……褒められてるのか貶されてるのか、微妙……」
「褒めても無いし、貶してもないよ。単なる事実だから」
美月にバッサリと切り捨てられ、何処か納得してない感じだったが、エリカは達也と気まずくなっている原因を美月に話す。
その原因とは、エリカのチームの他に、真由美たちのチームにも協力してた事を、エリカが「二股」だと思い頭に来てた事だった。
「思い出したらまた恥ずかしくなってきちゃった……なに、その『心底呆れました』とでも言いたそうな溜め息は?」
「心底じゃないけど、呆れました。結局意地を張って自己嫌悪に嵌り込んでるだけじゃない……そう言うの『独り相撲』って言うんだと思うよ」
「グサッ! 美月の容赦ない一言があたしの胸を抉るぅ~」
「真面目な話なんだけど」
「……ごめんなさい」
心なしか、エリカの身体が小さく縮んで見えた気が、美月にはしていた。
「去る者は追わずじゃないけど『避けられてる』って思われたらずーっと放っとかれちゃうよ? ただでさえ達也さんの周りには達也さんを想ってる女性が多いんだから。せめて視界の中に居るようにしないと。深雪さんだけでも手ごわいんだから。断言しちゃうけど、達也さんはエリカちゃんが気にしてるような事なんて、全く気にしてないから。意識するだけ損だよ、きっと」
「ありえそうね……」
「あっ、やっぱり何も持ってない」
エリカが美月の指摘を受けて何かを決心したのとほぼ同時、幹比古が空き教室に入って来た。
「ミキ? 何か用事?」
「はい、エリカ、ニンジンツナポテト。柴田さんは玉子サンドだったよね?」
ビニールからサンドウィッチを取り出し手渡す。
「えっ、どうして?」
「あっ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
これは美月に対する返事。
「どうしてじゃないだろ。少しくらい食べないと、眠っていても腹は減るんだよ?」
「ミキにしては気が利くじゃない」
「これは達也からの差し入れ。『自分は避けられてるようだから』って僕に持たせたんだよ」
「忘れられてないようだけど……」
「早くも放っとかれちゃってるわね……」
幹比古の答えを聞いて、エリカと美月は顔を見合わせ、突然エリカが立ちあがった。
「な、なに?」
「そっちがその気ならコッチにも考えがあるよ、達也君。あたしを空気扱いなんて絶対にさせないんだから!」
「……構われたら逃げるクセに」
「ミキ、何か言った?」
「別に。早く食べた方が良いよ、と言ったのさ」
自分の分を取り出しながら、目を合わせずに答える幹比古。さすがに付き合いが長い幼馴染、偶に地雷を踏むとはいえ、エリカの扱い方は心得ていた。
彼女も成長してるんです、一応……