達也を困らせた原因、それは今から半日前、昨夜遅くに遡る。達也と深雪が夕食を食べ終わってすぐ、と言って良いタイミングで電話のベルが鳴った。電話が掛ってきておかしな時刻では無い。――電話を受ける方にとっては。
だがアメリカ西海岸は真夜中、日付が変わった刻限だ。何が起こったんだと達也が身構えても不思議は無い。
「もしもし、雫? 何かあったのか?」
画面に映ったのは予想通り雫だった。だが画面に映ったその姿は予想外のものだった。雫は寝間着姿だったのだ。しかもファッション性重視のネグリジェにガウンも着てない。
「雫っ? 貴女、なんて格好してるのよ!」
達也と一緒に画面を見ている同性の深雪が顔を赤らめている。かろうじて大事な部分は見えていないが、画面を見る限り雫は下着を着けていない。少しでもはだけたら見えてしまう、それくらいしどけない姿だったのだ。
『あっ、深雪。こんばんは』
「挨拶なんていいから! せめてガウンくらい羽織って!」
『……いいけど?』
「(リビングで受けたのは失敗だったかもな)」
別に達也には、雫のしどけない姿を堪能しよう、とか邪な感情は存在しない。だが、深雪がこういった反応をみせるかもと、雫の格好が画面に映し出された時に思ったのだ。ややこしい事になるのだけは避けたいと思っても仕方ないだろう。
一方の雫は、不思議そうな顔をしたが、それでも言われた通りにモソモソとガウンを羽織った。
『夜遅くにごめんなさい』
「こっちは別に遅くも無いが……もしかして、飲んでるのか?」
『何を?』
「いや……何でも無い。それよりどうしたんだ?」
少々思考力が低下しているようだが、会話をする分には問題無さそうだったので、達也は余計な質問をキャンセルした。
『んっ、出来るだけ早く、知らせた方が良いと思って』
「もう分かったのか? 凄いな」
『もっと褒めて』
平坦な口調で強請られて、達也は急激な脱力感を味わった。
「(誰だ、雫に飲ませたヤツは)いや、本当に凄いな、雫は。それで、何が分かったんだ?」
わざわざ真夜中に電話をくれた相手を急かすような真似は本意ではなかったが、早めに切り上げた方がお互いの為だろうと判断した。
『吸血鬼の発生原因なんだけど、余剰……なんだっけ、余剰なんとかの黒い穴の実験みたいだよ』
「黒い穴? 雫、それ、何の事?」
思った以上にセンセーショナルなニュースだったが、その後に予想外のちんぷんかんぷんなセリフが続いた所為で、深雪の頭上には大量の疑問符が舞い踊っていた。そう――深雪の頭上には。
『知らない。私も達也さんに訊こうと思ってた』
「余剰次元理論に基づくマイクロブラックホールの生成・消滅実験、じゃないか?」
『そう、それ』
低く、強張った声で達也が確認する。声の調子が変わったのを、雫は気にしなかったようだが、深雪は恐々と兄の表情を窺っていた。
「あれをやったのか……」
何時もと変わらぬ落ち着いた声。否、何時も以上に冷静な口調。だが達也は大きな衝撃を受けている事が、他ならぬ深雪には分かった。
『それ、なに?』
「詳しく説明するのは大変だから、簡単に言うと」
その時点で、深雪は電話を切ろうとしていた。「もう遅いから」とか言って会話を切り上げるつもりだった。だがその前に雫が短い質問をして、達也がそれに答えてしまった。
「ごく小さなブラックホールを人工的に作り出して、そこからエネルギーを取り出そうという実験だ。生成されたブラックホールが蒸発する過程で、質量が熱エネルギーに変換されることが予想されるからな」
『それが余剰次元理論? 異次元からエネルギーを取り出すの?』
「いや、エネルギーを取り出すプロセス自体に、余剰次元理論は関係ないよ。その生成過程に関係なく小さなブラックホールは蒸発する事が予測されているから。余剰次元理論というのは、この世界は高次元の世界に閉じ込められた三次元空間の薄い膜のようなもので、物理的な力では重力だけが次元の壁を越えられる、つまり重力はその力の大部分が別次元に漏れている為に、この次元では本来のものよりずっと小さな力しか観測出来ないという仮説だ。素粒子スケールの極小距離では重力が別次元に漏れだす前にこの次元の物体同士で作用するから、普通のスケールで観測するより遥かに強く引き合う事になる。だから余剰次元理論を考慮しない場合に比べて、桁違いに小さなエネルギーでブラックホールの生成が可能になる、というのが余剰次元理論に基づくブラックホール生成実験の倫理的な土台となる」
『……深雪、解った?』
「残念ながら、あまり理解出来なかったわ」
ユラユラと頭を左右に揺らしながら訊ねる雫に、苦笑いをしながら深雪は首を振った。
「ですがお兄様、今のお話の何処が吸血鬼発生につながるのでしょうか」
深雪の質問に答えようとした達也だったが、その出鼻を画面越しに雫が挫いた。
「たちゅにゃしゃん、私もきににゃる」
「雫? 大丈夫か?」
「らいひょーふ。しょれで、きゅーけつきはっしぇいのげーいんは?」
「仮に余剰次元理論が正しいとするならば、物理的な力の中で重力だけが次元の壁を越えて作用する事に何らかの意味があるはずだと考えられる。つまり異次元から魔法に必要なエネルギーが供給されているはずだ。ここから先は何の根拠もない、空想に近い仮説だが、別次元に作用している重力は、そうする事で次元の壁を支えているのではないだろうか。魔法は、その壁を崩さずに異次元からエネルギーを取り出しているのではないだろうか。確かに魔法はエネルギー供給を必要としない現象だけど、エネルギー収支と無関係というわけではない。観測可能な範囲に限っても、エネルギーの総収支がゼロに近い魔法の方が発動に失敗しにくい傾向にある」
その後も達也の説明は続き、深雪も雫も、ただ大人しく説明を聞いていた。口を挿もうにも、あまりにも高度な理論の話だったので、優等生である二人でも口を挿めるだけの知識が無かったのだ。
「お兄様、次元の壁が揺らぐと、どうなるのでしょう?」
『まほーしえきでコントロールしゃれない魔法的なエネルギーが漏れてきゅる……?』
「エネルギーは自然発生的に構造化し、情報体を形成する。そうでなきゃ、宇宙はとうに均質化してなにも無い世界になっているだろうからね。異次元の魔法的なエネルギーも同じように構造化するに違いない。そして次元の壁が揺らいだ瞬間、異次元で形成された魔法的エネルギーの情報体がこの世界に侵入する可能性はゼロじゃない、と思う」
達也の説明に、画面の向こうで雫がブルッと身体を震わせ、画面のこちら側では、深雪が縋りつくように達也の腕を抱きしめていたのだった。
呂律の回って無い雫、アニメで見たかった……