劣等生の兄は人気者   作:猫林13世

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焦ったところで


光宣の焦り

 光宣とレイモンドを乗せた小型クルーザーは、平均五十ノットのスピードで太平洋を西進していた。行き先は達也が予想した通り、日本。その船内で船を人目と観測機器から隠す『仮装行列』を使いながら、光宣は令牌を作成していた。周公瑾が東亜大陸の古式魔法を発動する媒体に使っていた黒い札だ。

 この札は紙製ではない。呪術的な加工で表面を黒鉛に変化させた薄い木の札に呪的な文字と図形を刻んで、そこに水銀を流し込み、水銀をやはり呪術加工で硫黄と反応させた辰砂(硫化水銀)に変える。辰砂は日本では『丹』と呼ばれ、ヨーロッパでは『賢者の石』と同一視されることもあった魔法素材。辰砂で魔法陣を刻んだ呪符、それが周公瑾の使っていた令牌だ。光宣は達也との戦いに備え、時間が掛かる令牌作成に、精力的に取り込んでいた。

 

「光宣」

 

 

 キャビンに入ってきたレイモンドに声を掛けられて、光宣は魔法陣を刻んでいた手を止めた。顔上げて、目でレイモンドに続きを促す。

 

「航路に狂いは無し。オートパイロットは正常に稼働中」

 

 

 このクルーザーに乗っているのは光宣とレイモンドの二人だけだ。航海は全て機械任せになっている。この時期、西太平洋では台風のリスクがあるのだが、二人とも全く気にしていない。これは二人が能天気というより、魔法を持つ者と持たない者の意識の違いだろう。高レベルの魔法師であれば、多少の自然災害は脅威にならない。災害自体を防ぐことはできなくても、自分の身と自分が乗っている小型船を守る程度なら何とでもなる。十師族でも上位の魔法力を持っていた光宣は言うに及ばず、レイモンドもスターズに採用される程の才能は無かったが、ハイスクールの魔法師用コースでトップクラスの成績を残す程度の実力はあった。その二人がパラサイト化しているのだ。遭難のリスクを甘く見るのも仕方が無いかもしれない。

 

「このままなら、現地の暦で十九日には日本の領海に入れるよ」

 

 

 レイモンドのセリフには、遭難の「そ」の字もリスクの「リ」の字も含まれていなかった。

 

「十九日か……。うん、最悪の事態は避けられそうだ」

 

 

 光宣が何処かホッとしたような面持ちで頷いた。光宣が想定している最悪の事態は、もちろんこの船が沈むことではない。彼は水波の治療の、最後の仕上げが間に合わないことを懸念していた。

 光宣の計算では、最終処置が必要になるのは二年後のはずだった。だが達也が自分を探していることから――捜索が達也の依頼によるものというのは何の根拠も無い光宣の推測だが正解だ――水波の容態が急変したと光宣は誤解した。応急処置として水波に取り憑かせたパラサイトを光宣は完全に支配している。水波の病状が悪化したら、それを抑えているパラサイトを通じて光宣にも分かるはずだ。同じ国内にいれば。

 理由は今のところ分かっていないが、パラサイト同士の精神感応は、国境を越えると通じなくなってしまう。どんなに距離が近くても、国境を越えた途端、不通になるのだ。光宣がレイモンドとの間で試したところ、同じ船で一人が舳先、もう一人が艫にいて、領海の境界線を舳先が越えた途端、念話が通じなくなった。

 実を言えばこれは、パラサイトに限らず妖魔――精神生命体に共通の現象だ。何故人ならざる者たちが、定めた人間ですら忘れがちになる「国境」に影響されるのか、確かな答えは出ていない。有力な仮説は、元々「国境」には妖魔による災禍が自国に及ばないようにする為の結界の性質が与えられているからだと説明しているが、実験で確かめられないから真実かどうかは分からない。

 理由は兎も角、日本を脱出した光宣には現在の水波の状態が分からない。水波の容態を確認する為にも、日本に戻らないという選択肢は光宣には無かった。

 選択肢と言えば、光宣の本音は空路で日本に入国したかったのだ。一刻も早く帰国したいという焦りは今でもある。しかし米軍の協力を得られなくなった光宣とレイモンドには、空港入国審査を誤魔化す手筈を調えられなかった。日本時間八月十九日まで、あと三日。それまでに水波の容態が致命的に悪化することはあり得ないと、光宣は自分に言い聞かせることで焦りに耐えていた。

 

「光宣」

 

「何だい?」

 

 

 自身に言い聞かせているのを見透かされたのかと一瞬焦ったが、レイモンドは別のことが気になっている様子だ。

 

「君は水波の容態が悪化したかもしれないと焦っているが、もしかしたら達也が別の方法で水波を治療し、君が取り憑かせたパラサイトを消し去る為に君を日本に誘き出しているという可能性は無いのか? 達也だって元々、水波の治療の為に研究していたのだろう?」

 

「それはないよ。僕が知る限り、今の技術で水波さんの病気を治す方法は無い。それは達也さんにだって分かっているはずだ。まして今の達也さんは、恒星炉プラント事業の責任者だ。水波さんの治療の為の研究に割ける時間は無いよ」

 

 

 光宣の言葉はレイモンドに向けてのもののはずだが、何処か自分に言い聞かせているようにも聞こえた。彼は自分が人間であることを捨ててまで選んだ道以外にも、水波を救える方法があるなんて信じたくないのではないかと、レイモンドにはそう思えてならなかった。




視野が狭い光宣……

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