七月二十九日、月曜日。ハワイでは伊豆諸島・巳焼島攻撃準備が着々と進み、新ソ連でもこの機に乗じて日本とUSNAに対し同時に打撃を加えるべく水面下で戦力が展開していた。しかし危機はまだ表面化していない。達也もまだ、USNAと新ソ連の火遊びに気付いていない。
この日、彼は久々に朝から自室で寛いでいた。この平和がほんの短い一時の物だと、達也は理解している。水波は取り戻したが、光宣は行方不明。ディオーネー計画は無害化しているが、黒幕のエドワード・クラークは健在なままだ。いったんは大ダメージを与えて撃退したベゾブラゾフも、このまま黙ってはいないだろう。遠からず決着の時が訪れると分かっているから尚更、休める時に休んでおこうと達也はかんがえたのだった。
もっとも今の達也を他人が見れば「休んでいないじゃないか」とツッコミが入るに違いなかった。彼が向かっている机の上には、起動式編集用ワークステーションのコンソールと大型モニター。部屋にBGMこそ流れているが、彼の指は絶え間なくキーボードの上を移動している。達也は来たるべき決戦に備えて、新魔法の開発に取り組んでいるのだった。
開発は、開始というより再開だ。ベースとなっているのはベゾブラゾフの『トゥマーン・ボンバ』に使われていた『チェイン・キャスト』。吉祥寺真紅郎を通じて一条将輝に渡した戦略級魔法『海爆』の開発と並行して進めていた大規模魔法の起動式作成。光宣に攫われた水波を取り戻す為に中断していたそれに、達也は改めて取り組んでいた。
他人から見れば仕事かもしれないが、達也にとってはあくまでも余暇の有効活用でしかない。だから他の用事が入れば、すぐに中断できる。
『……達也様。もしよろしければ、少しお時間を頂戴できないでしょうか』
例えばこんな風に深雪のリクエストがあれば、迷うことなくそちらが優先される。
「良いよ」
『恐縮ですが、私の部屋までご足労いただけませんか……』
「分かった。今行く」
彼は内線通信機にそう答えて作業結果を保存し、椅子から立ち上がった。
達也にとって深雪からのリクエストと余暇の有効活用、比べるまでもなく深雪からのリクエストが大事であり、そこで悩むことなど無い。深雪も自分が一時の平和をどのように使っているか察しはついているはず。それでも自分を呼びつけることをしたのだから、余程重要なことなのだろうと、達也は深雪の用件をさほど気にすることもなく彼女の部屋へと向かう。
のちに少しくらいは用件を聞いておけばよかったと悔いるのだが、今の彼にそのような思考は一切なかった。
深雪の部屋は、ツインベッドの寝室を挟んだ奥にある。寝室を通り抜けていくこともできるが、達也はいったん廊下に出て深雪の私室のドアをノックした。
「どうぞ、お入りください」
深雪の返事と共に、外開きの扉が開いた。返事をしたのは深雪だが、扉を開けたのは半袖のシャツとショートパンツの上からエプロンを着けた水波だった。深雪は部屋のほぼ中央で、恥ずかしそうに頬を赤らめて達也を迎えた。――全身を映し出す大きな鏡の前で、下着と見間違うような、真っ白なビキニだけを身に着けて。
「………」
達也は一歩下がった水波の横をすり抜けるようにして、素早く部屋に入った。そのまま後ろ手に扉を閉める。床面積百四十平方メートル、4LDKのこの別宅にいるのはここにいる三人だけだと彼には分かっていたが、それでもすぐに扉を締めなければいけ無いような気がしたのである。
「あの、ブラのサイズが合わなくなりまして……、下着を買い替えるついでに水着も新調しようかと」
達也に怪訝な顔を向けられて、深雪は目を泳がせながら言い訳のように説明する。
「――そうか」
達也は狼狽こそ見せなかったが、応える言葉はそれだけだった。
「それで、その……、選んでいただけませんか」
「……分かった」
達也の顔色に変化はない。だが微妙な表情の動きが、彼も気恥ずかしさと無縁でないことを示していた。水波が達也の前に進み出て、ARグラスを差し出す。それでようやく、達也は深雪が何故あんな恰好をしていたのか理解した。
深雪の前に置かれている、彼女自身よりも大きな姿見。あれはただの鏡ではない。鏡としても機能するARディスプレイ。鏡の中が客の鏡像に商品を重ねて映し出す、仮装試着室になっているのだ。
達也に渡されたARグラスは姿見の形をしたディスプレイとは別の角度から試着した姿を合成する。ARディスプレイが鏡に映った姿を映し出す物であるに対して、ARグラスはそれを掛けている者が見ることができることになる姿がリアルな視界に投影される仕組みだ。
白のビキニならば重なった映像の色や形を歪めてしまうことはない。着心地までは無理だが見た目だけなら、実物が無くても、いくらでも試着が可能だ。これはアパレル製品のオンライン通販用に開発された、最新のツールだった。
「えっと……水波ちゃん、始めてもらえる?」
「かしこまりました」
深雪の、まだ少し恥ずかしそうな声に応えて、水波が八インチのタッチパネルを操作する。
深雪は永遠に慣れないだろうな