劣等生の兄は人気者   作:猫林13世

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茶番劇にしか見えない


必要な演技

 七月二十七日土曜日。達也は巳焼島の病院を退院した。ちょうど一週間前、乗っていた船に沿岸警備隊の警備艦が衝突し、彼は大怪我を負った。その治療の為、ずっと入院していた――ということになっている。事実は異なるのだが、この偽装入院は達也のアリバイ作りを目的としたものだったので、最後まで手を抜くことはできなかった。部外者を病院から完全に締め出しているにも拘わらず、彼はわざわざ前日の夜にベッドの身代わり人形――生体と同じ素材を使った精緻な物だ――と入れ替わり、朝起きて病室を出るところから始める、そこまで徹底した。

 

「達也様、御退院おめでとうございます」

 

 

 病院の玄関ロビーには、花束を抱えた深雪が待ち構えていた。いうまでもなく深雪は達也の入院が偽装だと知っている。だが花束を差し出す満面の笑顔は、偽装工作を徹底する為というより達也の退院を――人目を気にせず一緒にいられるようになったことを、心から喜んでいるように見えた。

 

「ありがとう、深雪」

 

 

 達也は笑いながら花束を受け取った。その笑顔は「仕方がないな……」というニュアンスのものだったが、苦笑いというよりも深雪に対する深い愛情が滲みだしていた。深雪の隣にはリーナが同行していたが、今日ばかりは彼女もため息や呆れ顔は見せなかった。

 

「おめでとう、達也。これでようやく、自由に動けるわね」

 

「ああ。リーナにも不自由な思いをさせたな」

 

「仕方がないわ。怪我人を放っておけないもの」

 

 

 リーナのセリフはカムフラージュの為のものだ。だが、全く実質が無いわけではなかった。達也の退院を待って、リーナも新たな行動に移る予定になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 達也が退院したという情報は、その日の内に海を渡った。病院内は部外者の立ち入りを禁止してあったが、島への出入りまでは禁じられていない。この島の恒星炉プラントは非軍事的魔法利用のモデルケースという性格が強く、その成功は世界に広く報じられることが好ましい。マスコミとの絶縁は、達也としても好ましくなかった。

 それにそもそも達也が退院を演じてみせたのは、彼がこの一週間のアリバイを国防軍やUSNAに印象付ける為だ。ジャーナリストを装う諜報員や諜報組織の協力者になっている記者には、きちんと雇い主に報告してもらわなければ演技の甲斐が無かった。――司波達也の退院の情報をベゾブラゾフは当日中にハバロフスクで、クラークは一日遅れでハワイへ向かう輸送機の中で受け取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巳焼島が重犯罪魔法師用刑務所だった頃の管理スタッフ居住施設は、今も引き続き四葉家スタッフ用の宿舎として使用されている。リーナがこの島に匿われていた時も、旧管理スタッフ居住棟を利用していた。新たに巳焼島の管理者として赴任した新発田勝成も、この八階建てのビルの一階に婚約者の堤琴鳴と共に住んでいる。

 そして最上階の八階には、真夜が島を訪問した際の専用宿泊室と、達也と深雪が別宅として使用する部屋が新たに用意されていた。

 

「お帰りなさいませ、達也さま、深雪様」

 

「ただいま」

 

「ただいま、水波ちゃん」

 

「いらっしゃいませ、リーナ様」

 

「お邪魔するわね、水波」

 

 

 その別宅で達也たちを待っていたのは、三日前に連れ戻した水波だった。彼女はそのまま達也と深雪のメイドに復帰している。最初深雪は水波に、病院でしっかり検査を受けた方が良いと勧めたが、水波は当日からの復帰を強く望み、最終的に深雪の方が折れた。達也は二人の押し問答に口を挿まなかった。

 口を出さなかったと言えば、光宣と行動を共にしていた時のことを、二人は水波に尋ねなかった。水波は告白衝動に見舞われているような素振りが時々見られたが、その都度深雪が別の話題を振ったり達也が簡単だが手間のかかる用事を言い付けたりして、逃避行には触れないようにしている。達也、深雪、水波の三人は、表面上以前と変わらない生活を取り戻していた。

 

「食事の用意ができております」

 

 

 水波に案内され四人で食事摂り終え、食後のお茶の用意を水波がする為に席を立ったタイミングで、リーナが口を開いた。

 

「明日、行くことにするわ」

 

「予定通りだな。了解した」

 

 

 達也が応えた通りリーナが明日、七月二十八日にカノープスを保護している原子力潜水空母『バージニア』に向かうのは、一昨日から計画されていたことだった。

 

「出発は?」

 

「夜明け前に発つつもり」

 

「分かった。こちらも準備しておこう。地下ポートに四時で構わないか?」

 

「……やっぱり悪いわ。スラストスーツまで用意してもらったんだし、独りでも大丈夫よ」

 

 

 リーナが遠慮して見せているのは、達也が途中までエアカーで送っていくという話になっているからだ。

 

「こちらの都合もあることだ」

 

 

 達也が言うように、単なる親切心で送っていこうとしているのではない。スラストスーツやムーバルスーツのように小さな物でも軍事衛星の監視網には捉えられてしまう。『バージニア』には海中で乗り込むから搭乗する姿は衛星のカメラに映らないが、巳焼島を飛び立った魔法師が西太平洋の真ん中に飛び込む姿を見られたら、達也と『バージニア』の協力関係が暴かれてしまうかもしれない。高度なステルス機能を備えたエアカーを使うのは、秘密を守る為だった。

 

「カーティス上院議員に迷惑はかけられないからな。リーナが気に病む必要は無い」

 

「そうね……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらう」

 

 

 隠密行動の必要性はリーナも理解している。彼女は殊勝な顔で頷いた。




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