午前九時。国防軍小松基地を、男子高校生と女子中学生の二人組が訪れた。一条将輝と一条茜。一条家の兄妹である。父親であり一条家の当主である一条剛毅は同行していない。だが将輝の態度は堂々としていて、保護者不在を気に掛けている様子はない。彼はまだ高校生だが、その戦歴は既に百戦錬磨と言って良い、基地のゲートを通り抜けるくらいで、今更ビビったりしない。――妹の茜は、少し不安げな素振りを見せていたが、将輝はそんな事気にしない。
彼らが身分証を見せながら名乗ると、すぐに迎えの車が来た。今日の訪問は軍の要請によるもの。当たり前だが、話は通っていたようだ。
「……どんな子だと思う? 話は通じるのかな?」
沈黙に耐えられなくなった茜が、小声で将輝に話しかける。普段憎まれ口ばかり叩いているようでも、茜は将輝を嫌っているわけではない。軽んじてもいない。家族感情としては特別なものではないが、彼女は両親の次に兄を頼りにしていた。
「劉少尉は日本語が堪能ですよ」
茜の疑問に答えを返したのは運転席の軍人だった。茜をリラックスさせようとしているのだろうか。まだ若い兵士なので、女子中学生に対して単に気安いだけだという可能性もある。
「日常会話は全く違和感がありません。戦略級魔法への適性が判明するまでは、対日工作員として育成されていたのかもしれません」
だが言っている事が剣呑すぎて、茜の緊張を解すには至らない――どころか、余計に緊張させている結果になっていた。
「では不用意な発言をしないよう、注意しなければなりませんね」
兵士の話にこう応じたのは将輝。彼は対日工作員である可能性を最初から考えていたので、この程度の話で緊張感を増す事は無かった。
「あまり警戒し過ぎるのも、逆効果かもしれませんが」
そういう自分が将輝と茜の警戒を煽るセリフを連発しながら、兵士は二人を文官用の宿泊棟へ連れて行った。
劉麗蕾一行が保護されている宿泊棟は、一応「ホテル」と呼べる設備が整っていた。将輝と茜が劉麗蕾に引き合わされたのは一階のロビーだ。当然だが、ロビーの内外を多くの士卒が見張っている。将輝の感覚では、十人以上の魔法師が確認された。
「初めまして、劉麗蕾です」
基地のスタッフが将輝、茜、劉麗蕾、林護衛隊長の順に紹介した後、劉麗蕾は通訳を遣わずそう名乗った。案内の兵士が言っていたように、全く不自然さの無い日本語だ。
「初めまして、一条将輝です」
劉麗蕾に対して、将輝は無難に名乗り返す。だが茜は呆然と、場にそぐわぬ呟きを漏らした。
「うわっ、可愛い……」
「おいっ」
将輝が慌てて小声で叱りつけると、茜はハッと我を取り戻し、慌てて挨拶を返した。
「――将輝の妹の一条茜です。よろしくお願いします」
ペコリとお辞儀をしてから、今更のようにじわじわと頬が赤らむ。そんな茜の姿を前にして、痛々しい程気を張っていた劉麗蕾の表情がフッと緩んだように見えた。
この日、吉祥寺真紅郎が目を覚ましたのは午前九時二十分。睡眠時間は三時間三十分。いうまでもなく寝不足だが、彼は起きるや否やカフェイン錠剤を飲み込み、洗顔もそこそこにテレビを点けた。チャンネルは軍事情報のオンデマンド型データ放送。新ソ連艦隊がまだ動いていないことを知り、吉祥寺は安堵の息を吐いた。
「よし、まだ間に合う」
彼は自分に対して言い聞かせるよう独り言ち、今日の未明、漸く完成した魔法式の起動式を保存した大型スーツケースサイズのCADの、移動用ハンドルを握った。
このCADはレーダー、光学センサー、空撮情報と連動して対象範囲を起動式に追加する為の機能と、対象範囲に応じて百分の一秒刻みでスケジューリングされた数千から数万の魔法式の制御を起動式の中に書き込むための機能を担う、中型コンピューターと一体化している。スーツケースサイズの大部分が、電源を含めたコンピューターの為のスペースだ。
幸運だったのは、コンピューター連動型のCAD自体が今回の新魔法とは無関係に、この研究所で完成していた事。お陰で吉祥寺はソフトウェアの開発に専念する事が出来た。
ソフトウェアは出来た。ハードウェアへの実装も終わった。だがこれで開発完了ではない。魔法は魔法師が使うものだ。理論上完璧な起動式を造り上げても、それを魔法師が発動出来なければ意味はない。
「将輝なら使えるはずだ」
再び、自分に聞かせるための独り言。吉祥寺は自分が完成させた新戦略級魔法を将輝が使いこなせると確信している。
「とにかく、すぐにテストだ。新ソ連が攻めてくる前に」
吉祥寺には「新ソ連艦隊の南下」に対するトラウマがある。彼が中学一年の夏まで住んでいた佐渡島は、新ソ連の小規模覆面艦隊によって破壊され、両親は殺された。未だに新ソ連は五年前の佐渡侵攻を認めていないが、そんな事は吉祥寺が抱えるトラウマには関係ない。
「(今度はやらせない)」
彼は一刻も早く確かめたかった。親友が、この魔法を使ってくれることを。吉祥寺は、将輝の予定を確かめようともせず――そこまで気が回らず――一条家に突撃するつもりだった。
彼は独身寮の玄関に置かれていた鏡で自分がパジャマのままだった事に漸く気付いて、顔を真っ赤にしながら慌てて自室に戻った。
この落ち着きの無さが達也との差