達也の手許に克人からのメールが届いたのは、水曜日の夕方の事だった。日曜日の都合を尋ねるメール。それが四葉本家から転送されてきたのは、この面会が一高の先輩・後輩の関係に基づくのではなく、十師族・四葉家に対する十師族・十文字家の申し入れという事を意味している。
「達也兄さん、急なご用事ですか?」
ソファに戻ってきた達也に、ついさっきこの別荘にやってきた黒羽文弥が尋ねる。そこへピクシーが二人分のコーヒーを運んできた。彼女に構わず、達也は文弥の問いかけに答える。
「いや、十文字家の当主が日曜日にここへ来たいと言ってきた。本家を経由したメールだ。文弥、何か聞いているか?」
「いえ、何も……」
達也がコーヒーカップに手を伸ばし、文弥にも「冷めないうちに」と勧める。文弥はマニキュアを塗った指をテーブルに伸ばし、頬に掛かるセミロングの髪を片手でかき上げ、ルージュを引いた唇をカップにつけた。
「そうか。しかし、文弥と亜夜子が別行動をしているのは珍しいな」
「姉さんも達也兄さんに会いたがっていましたが、命令ですから」
「では、どんな命令でここに来たのか聞かせてくれ。わざわざそんな恰好をしているのも、命令の一部なんだろう?」
「僕は、その、顔を知られていますから……」
「ああ、なるほど。今の俺に素顔で接触するのはマズいか」
言われてみれば合理的な理由だった。文弥は去年の九校戦で顔が売れてしまっている。彼が四葉一族の人間だという事も既に公然の秘密みたいなものだが、本家はまだ文弥の存在を公に認めるつもりは無いらしい。女装趣味の無い文弥には、たいそう気の毒な事だが。
文弥に同情的な視線を向けていた達也が、頭を切り替え文弥を見詰めると、文弥も居住まいを正して見つめ返した。
「それで?」
「この別荘が襲撃される可能性が高まりました」
「国防軍か?」
「そうです」
眉一つ動かさずに問い返してきた達也とは違い、文弥の可愛らしくメイクした顔は、緊張に強張っていた。
「文弥、お前は伝言を持ってきただけだ」
「……四葉家から、援軍は出せない……との事です」
文弥がスカートの上に置いた両手をキュッと握る。彼は達也から罵られるのを覚悟していた。
「当然の判断だろうな」
「はっ?」
「十師族内部の抗争とはわけが違う。今、国防軍と事を構えるのは得策ではない。俺一人の為に、一族丸ごと地下生活を強いられるのは明らかに収支がマイナスだ」
「達也兄さんはそれで良いんですか!?」
「何を動揺している。俺一人で、全員を返り討ちにすればいいだけだ」
達也はさらりと、初歩的な数学の公式を述べるように、そういった。文弥が大きく目を見開き、上下の唇を少しだけ離す。彼にとっては不本意だろうが、ルージュが映える唇の隙間から覗く白い歯とピンクの舌は、男を誘っているように見えた。
「幸いな事にスーツもバイクもある。それに、トーラスもトライデントもランス・ヘッドも持ってきている。人目が無い山林の中は俺のフィールドだ。『今果心』や『大天狗』クラスの敵が出てくれば話は別だが、そうでない限り後れを取るつもりは無い」
達也が口にした『トーラス』とは腕輪形態の完全思考操作型CAD『シルバートーラス』のこと。トライデントは愛用の拳銃形態CAD『シルバー・ホーン・カスタム・トライデント』。『ランス・ヘッド』は『バリオン・ランス』専用のCADアタッチメントだ。
確かにそれだけの装備を身に着けた達也ならば『今果心』=九重八雲や『大天狗』=風間玄信クラスの敵が現れない限り、確実に勝利する。文弥はそう確信し、自分の震えが止まっているのを自覚したのだった。
別荘の外には、タクシーが一台駐まっていた。文弥が利用した車で、運転手は黒羽家の黒服だ。達也はつばの広い帽子を被った文弥を見送りに、玄関先まで出た。
「盗撮のデータは潰しておいたが、気を付けて帰れよ」
「お手数をお掛けしてすみません」
文弥が恐縮の態で一礼する。その仕草は、着ている物に全く違和感が無かった。なお達也が言った「データを潰す」というのは、彼の『分解』で辺りに潜んでいる出歯亀の――おそらく、軍の情報部員――盗撮カメラのデータを消去したという意味だ。写真を骨格照合すれば、いくら女装していても本人だと分かってしまう。
文弥の女装は、あくまでも肉眼を欺くもの。彼がつばの広い帽子を被っているのも、偵察衛星や成層圏プラットフォームのカメラを避けるためだった。
「先程のメールだが、本家から転送されてきたものだから母上も内容は知っていると思う。一応本家にも回答のコピーを送るが、お前の口からも俺が十文字家との面会に応じるつもりだと伝えてくれないか」
「分かりました。達也兄さん、それではこれで」
「ああ。わざわざご苦労だったな」
「いえ。達也兄さんの方こそ、次期当主だというのにこんな所で生活させられて、お疲れではないのですか?」
「慣れれば快適だ。まぁ、監視の目は鬱陶しいがな」
達也のねぎらいの言葉と、肩を竦めてみせる仕草に、文弥がニッコリと笑った。彼はもう一度丁寧に頭を下げてから、黒服が運転するタクシーに乗り込み、別荘から去っていたのだった。
文弥には気の毒だが、あの挿絵は完全に女の子だった