しっかりと手を洗い食堂に向かうと、既に人の気配が中にあった。黒沢女史だろうと思っていたレオと幹比古は、その予想が外れて驚きの声を上げた。
「んっ? 早かったか?」
「みんなで準備してるの? 黒沢さんは?」
「大事な事を頼んでるの」
幹比古の質問に答える雫の声は、少し弾んでいた。残念ながら幹比古には、その微妙な違いを自分の錯覚ではないと言い切ることは出来なかったが。
「大事な事?」
レオが雫に鸚鵡返しに尋ねる。達也は深雪の準備を手伝い始めたが、レオと幹比古は「大事な事」が意識に引っ掛かってそれどころではないようだ。
「ふふっ、実は……」
その様子が微笑ましかったのか、それともこの後に起こる「サプライズ」が楽しみなのか、美月が軽やかに笑いながら口を挿もうとした。だがドアが開く音に、美月のセリフが中断する。美月だけではなく、全員の注意がそちらの方へ引き寄せられた。
開いたドアの向こうには、前髪を切り、髪型を整え、カラフルなサマードレスに着替えた九亜が立っていた。全員の視線を浴びて、九亜が恥ずかしそうに身動ぎ、ドレスの裾がひらりと揺れる。
「とっても素敵よ、九亜ちゃん」
美月の瞳が、ハートマークになっている。九亜の後ろでは、付き添っていたほのかが我がことのように喜んでいる。
「黒沢さん、グッジョブ」
雫が右手をギュッと握って親指を立てる。まったくに合っていないが、それだけ心を打たれたのだろう。
「恐れ入ります」
出来た家政婦である黒沢は、無論そんなツッコミを入れなかった。
「服のサイズもピッタリだね。よかった。じゃあ、夕食にしようか」
「かしこまりました」
黒沢がキッチンに引っ込んだことで、漸く解放されたと思っているのか、九亜は少し肩の力が抜けた様子だ。そして何かを思い出したように、キョロキョロと室内を見回している。すぐ後ろにいて、擦れに気付いたほのかが九亜に声をかける。
「九亜ちゃん、どうかした?」
「さえぐさまゆみさんは、何処にいる、です?」
九亜の答えはまるで予想していなかったもので、ほのかは一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。
「七草真由美さんって、あの七草先輩?」
「ここにはいらっしゃらないわ。七草先輩に何かご用なの?」
エリカが訝しげに問い返し、食器を並べ終えた深雪が、近寄ってきて九亜に尋ねた。
「盛永さんが、『七草真由美さんに助けてもらいなさい』と言ってた、です」
「七草先輩に?」
深雪が軽く、首を傾げる。真由美が小笠原に来ている事を知らない深雪にしてみれば、当然の反応だった。しかし九亜にしてみれば、深雪の反応こそが思いがけないものだった。
「あの飛行機は、真由美さんの物では無かったの、です? ……でも、写真とそっくりだった、です」
キョトンとした表情で深雪に尋ね、しょんぼりと俯いてしまった九亜。そんな反応を見てから、レオが何かを思い出したように手を叩いた。
「……そういや、飛行場に同じ型のティルトローター機が駐まってたな」
「そういう事はもっと早く言いなさいよ!」
「無茶いうな!」
「なに? 文句あんの?」
エリカの理不尽に負けじと言い返したレオだが、エリカにぎろりと睨まれてそれ以上の反論を控えた。
「つまり、レオくんが見たその飛行機が、七草先輩の自家用機だったということですか?」
「多分そうだね。卒業旅行に来ているんじゃないかな。魔法師は海外旅行が出来ないから、沖縄や小笠原を旅行先に選ぶケースが多いって聞くよ」
美月がエリカを窘めるように口を挿み、更に幹比古が美月に続いたことで、エリカとレオの諍いはうやむやになった。
「じゃあ、九亜ちゃんは私たちの飛行機に、間違えて駆け込んだということ?」
「ほのか。迷う必要は無いよ」
戸惑いを隠せないほのかに、雫が絶妙のタイミングでフォローを入れる。
「うん……そうだよね。その盛永さんっていう人に頼まれたからじゃない。私たちが九亜ちゃんを助けたいって決めたんだもんね」
「そういうこと」
頷きあったのは、ほのかと雫だけでは無かった。美月とエリカが、レオと幹比古が顔を見合わせ、決意を確かめ合う。ただ深雪が達也の顔を見上げたのは、別の理由からだった。
「お兄様。九亜ちゃんが七草家の飛行機で脱出する手筈だったとすれば、行き違いになって先輩も心配されていると思います。お電話をいただけるよう、私から七草先輩にメッセージを打っておきたいと思いますが」
「そうだな。九亜を示唆するような事は、メッセージに入れない方が良いだろう。深雪、頼む」
「かしこまりました、お兄様」
短く命令する達也だったが、命じられた深雪の方は、何処か嬉しそうだと、二人の関係をよく知らない九亜にもそんな風に感じられた。そこへ黒沢が料理を運んでくる。彩り鮮やかなパエリアの大皿だ。
「皆様、どうぞ御席に」
「おっ、うまそー!」
黒沢の言葉に、というより両手に抱えているパエリアに、レオは歓声を上げた。
「黒沢さん。後でお話ししておきたい事がありますので、お時間よろしいでしょうか?」
「はい、私は何時でも構いません」
「では食事の後。バルコニーで」
全員の興味がパエリアに向けられているところに、達也が小声で黒沢に話しかける。黒沢も少し驚いた様子だったが、それでも料理を落としたりなどのヘマをしない辺り、優秀な家政婦と称される理由の一つなのだろう。
何故一回目は平仮名で、後は漢字になったんだ?