克人からの書状は、司波家とほぼ同時刻に三矢家にも届けられた。だが詩奈には直接関係は無く、対応に慌てているのは一番上の姉と三人の兄だった。
夕食が終わり、しばらく自室でだらだらしていた詩奈ではあったが、魔法の練習をしようと思い立った。三矢家の屋敷と、現在も稼働中の第三研は地理的に少し離れている。と言っても車で十分ちょっとの距離なのだが、もう時間も遅いので詩奈は第三研に出かけるのではなく、屋敷の練習場へと向かった。
いうまでもなく、屋敷内の訓練場は屋敷に住んでいる人間しか使わない。かつ、三矢家の家族優先なので、使用人は遠慮して、第三研まで出かけて訓練する者が多い。その結果、誰も訓練場を使っていない時間が結構ある。誰もいない場内を見て、こんな立派な設備を遊ばせておくのはもったいないと詩奈はしばしば思うのだが、今夜は先客がいた。侍郎が格闘技用マットの上で転げまわっていたのだ。
「……侍郎くん、なにしてるの?」
「見りゃ、分かる、だろ」
詩奈の声に、マットから起き上がった侍朗が動きを止めたが、彼は詩奈の顔をチラリと見ただけで、すぐに詩奈にとっては不可解な運動を再開した。
マットを蹴って跳び上がり、背中から落ちる。すぐに起き上がり、今度は空中で前に一回転半して腹から落下する。落ちる度に呻き声をあげているから、痛みは感じているはずだ。
「……全然分からないんだけど」
詩奈はすぐに白旗を揚げた。彼女は幼馴染の奇行について行けず、考える事を放棄した。侍郎はマットの上で身体を起こし、足を投げ出した状態で座って、詩奈の顔を見上げた。
「投げられる練習だよ。詩奈も合気道やってたから分かるはずじゃないか」
「そんな小学生の時の事を言われても……それに侍郎くん、受け身を取っていなかったじゃない」
詩奈が合気道をやっていたのは、耳を塞がなくても何とか我慢出来ていた十歳の頃までだ。頭にイヤーマフを着けた状態で格闘技は出来ない。仮に経験が全くなくても、兄や侍郎が鍛錬しているところをずっと見てきたから、そのくらいの事は分かる。彼女の指摘を、侍郎は否定しなかった。
「何時も受け身を取らせてもらえるとは限らないからな。怪我をする心配がないマットの上で、ダメージを少なくする投げられ方を研究しているんだ」
「何でいきなりこんなことを始めたの?」
詩奈が呆れ声で問うと、侍郎は口惜しそうな表情を浮かべた。それでいながら、何処か楽しそうな雰囲気を詩奈は感じ取った。
「今日、剣術部の相津部長に稽古をつけてもらったんだけど……散々床に叩きつけられて、反撃どころじゃなかった。屋外では殴られたり蹴られたりするより、投げられる方がダメージが大きいというのは教官から散々言われてきたけど、今日はそれを改めて実感した」
「剣術、だよね……?」
「剣を使った戦闘術の中でも、居合術には柔道由来の技が上級者向けに比較的多く含まれているそうだ。特に相津部長は居合術が得意みたいだから」
詩奈の疑問に解説してくれた侍郎だが、当の詩奈は頭の中で別の事を考えていた。
「侍朗くん」
「なんだ? 言いにくい事なのか? 俺に遠慮なんかいらないぞ」
「……千葉先輩をナンパして小体育館で部活デートしたって、本当?」
「……は? いやいや、待て待て! そんなデマ、どっから聞いた。俺に司波先輩に殺されろと言うのか!? てか、詩奈は放課後は生徒会室にずっといたんだよな?」
「うん……香澄さんと泉美さんが噂していた」
「……あの性悪小悪魔ども」
詩奈があっさり犯人を打ち明けたので、侍郎は瓜二つな顔を思い浮かべ、そっくりな笑みを思い浮かべて頭を抱えた。
「侍朗くん、泉美さんたちの事をそんな風に言っちゃ駄目だよ。仮にも先輩だよ?」
「……とにかく、その話は出鱈目だ」
本当は「詩奈、お前はあの二人に騙されているんだ!」と声を大にして言いたかったのだが、そんなことを口に出来るはずがない。実の姉、兄とは年が大きく離れている詩奈が、一つ違いの香澄と泉美の事を姉のように慕っている事は彼も良く知っている。だからその代わりに、侍郎は呼吸を落ち着けて、どうしても訂正しておかなければならない事だけを告げる事にした。
しかしそれは、残念ながら詩奈にとって納得出来る答えでは無かった。
「でも、第二小体育館でお稽古したんでしょう?」
「……ありゃ『お稽古』じゃなくて手合わせだ。さっきも言ったように、稽古をつけてくれたのは部長の相津先輩だからな」
「千葉先輩と一緒だったのは事実なんだよね?」
「……そうだ」
「小体育館に来たのも一緒だったって聞いてるけど」
「……それも事実だ。だが断じてデートじゃないぞ!」
「じゃあどうして千葉先輩と小体育館へ行くことになったの? 侍朗くん、千葉先輩と全然接点が無かったよね?」
「屋上で偶然会って……」
「偶然会っただけで稽古しようって誘われたの?」
「いや、それは……俺がお願いしたんだ。だけどナンパじゃないぞ! 純粋にあの人の腕を見込んで指導をお願いしたんだ!」
「でも、千葉先輩って美人だよね」
「いや、確かにそうかもしれないけど……それとこれとは話が別だ! そもそもあの人は司波先輩の婚約者の一人だって、詩奈だって知ってるだろうが!」
「何でそんなに慌ててるの?」
必死な顔で言い訳を続ける侍郎だったが、詩奈の視線は冷めたままだった。
互いに気づいてないのかなぁ……