僕が小学生になってから一週間が経過した。また寝て起きたら研修医に戻っているかと思ったけど、そうはなっていない。でも、もうそれはどうでもいい。どうしてこうなったのかを考えるより、やらなくちゃいけない事ができたから。
もしかしたら、いつかどこかのタイミングで元に戻るかもしれない。でも、関係ない。僕はこの世界でやれる限りの事を精一杯やるって決めたんだ!
一度経験した小学生の授業は聞かなくても解る。大人な精神の僕が子供に交じって真面目に授業を受ける事は辱めに近い。だから担任の先生には申し訳ないけど、授業中は僕のプランを練る時間に充てさせて貰う。
先週はちょっと先走り過ぎてしまったけど、僕はまだ小学一年生だ。負荷をかけたトレーニングなんかは必要ない。この年代は神経系の発達が著しい時期だから、今はアジリティー(俊敏性)とコーディネーション(協調性)を重点的に鍛えるつもりだ。
簡単に言うと、運動神経や反射神経を養うって事さ。目や耳から得た刺激は神経を通って脳へと伝わり、そこから脳が出した指令をまた神経を通って筋肉を動かす。この神経伝達速度が速ければ速いほど、運動神経や反射神経がいいって言われるんだ。
その所要時間が人類にとっては極限ともいえる0.11秒で反応出来る『神速のインパルス』を持つ阿含君はまさに天才だよね。きっと彼はイメージした通りに体が動かせるはずさ。
じゃあ何をすればこの神経系が鍛えられるとか言うと……実はこれと言ったトレーニングはない。敢えて言うなら、色んな運動を実践する事かな。鬼ごっこ、キャッチボール、サッカーのジグザグドリブル、なわとびや鉄棒なんかも良いね。お風呂上りの柔軟も大事だ。
――アメフトはやらないのかって?
勿論、アメフトもやるよ。でも今からアメフトだけをやってもそれなりの技術と経験は身につくだろうけど、本当の意味でアメフトを続けていく体は作れない。高校で終わりにするならそれでもいいだろう。
でも、僕の夢はそこで終わりじゃない。大学時代に味わったあの悔しさ……5年も待たせた高見さんの期待に、とうとう応えられなかった歯痒さ。高校の時もそうだけど、僕はまた同じ思いをするつもりはない。
今はアメフトを軸に多種多様なスポーツや運動を通して神経を発育させる大事な時期だ。そう言えば、以前の僕はこの時期から塾に通い始めたんだっけ?
――運動神経ないはずだよ……。
まだ入学して日が浅かったおかげか、クラスメイトはすんなり僕を受け入れてくれた。人見知りで緊張していたという言い訳も、皆は素直に信じてくれて少し胸が痛む。でもこれで昼休みや放課後に体を動かす事が出来る。一人でも出来る事は家に帰ってからやればいい。せっかく学校にいるのなら、学校でしか出来ない事をやろうと思う。
思えばあんなに無邪気に校庭を駆け回ったのは初めてだった。夢中になり過ぎて午後の授業に遅刻して先生に怒られるという貴重な経験も出来たし……以前の優等生な僕とは明らかに違って来ている。怒られておいて不謹慎かもしれないけど、それがとても楽しいと感じた。窓越しにしか見た事のなかった世界、僕は今確かにそこにいる。
――ごめんね、先生。反省はしているけど……どうしても口角が上がっちゃうんだ。
もしかしたら僕はクラスの問題児に認定されたかもしれない。授業中話は聞いていないし、休み時間は外で走り回っている。なるほど、そう思われても仕方ないか。
書き連ねたジャポニカ学習帳はすでに二冊目に突入している。書いている内容はアメフト関連ばかりじゃない。日本国内だけじゃなく世界中でテレビやネットを騒がせた事件や出来事を思い出せる限り正確に記しておく。オリンピックの結果や政権交代、超有名人のスキャンダルなどはよく覚えていた。これによって予知夢か未来体験か判らない記憶の信憑性を確かめるつもりだ。僕が違う行動を取っている時点で、全く同じになるとは思っていない。あくまでも目安と言うか、参考程度に考えている。
小学生を始めて二週間、とうとうその日は訪れた。最初にして最大の難関と言っても過言ではない。そう、塾へ行けと言う母親の説得だ。以前の僕なら断ろうなんて考えもしなかっただろう。でも、今の僕は違う。
――だって、僕には夢がある!
「ごめん、ママ。僕は……塾には行かない。そう、決めたから」
「な、何を言っているの? 学ちゃん!?」
ニコニコしていたママから笑みが消えた。僕が逆らうなんて思いもしなかっただろうからね。でも、ここは譲れない。
「僕の将来を考えて言ってくれているのは判るよ。それと僕が我が儘を言っている事も……だから、条件付きで免除じゃダメかな?」
「そんなの、ダメに決まってるじゃない! 受験勉強は一日でも早く始めた方が有利なのよ」
「僕は公立の中学と高校に通うつもりだよ」
「ど、どうしちゃったのよ!?」
「でも、大学は集英医大に行く。そして将来は医者になるよ」
ママの顔は徐々に赤みを帯びて小刻みに震え出す。多分、怒ってるんだろうなァ。呆れられても仕方のない事を言っているのに、ママはちっとも変わらない。
「遊びじゃないのよ、学ちゃん! そんな簡単に行けるものなら誰も苦労はしません!」
「僕は真剣だよ。口じゃ何ともでも言えるから、行動で証明して見せる」
「証明って何を……?」
「僕はこれからテストで一番を取り続けます。もし一度でも二番以下になれば、その時は塾へでもどこでも行きます。それまでは……僕の好きにさせて下さい。お願いします!」
そう言って僕は頭を下げた。ママの顔を直視するのが少し怖かったのもある。ママはしばらく黙って考えていたけど、やっぱり認めてくれない。
「いい加減にしてちょうだい。これは一生に関わる問題なのよ? 悪い事は言わないから塾に通いなさい」
強い口調だった。以前もこんな感じで部活動を禁止されたっけ。だったら、やっぱり譲れない。
「行かないよ。無理矢理入塾させたって、僕は通わないからね」
「……はぁ、困ったわね。そこまでして一体何をやりたいと言うの、学ちゃん?」
ママの声色がこれまでと違って聞こえた。なんて言うか、少し優しくなった感じ。僕は顔を上げてママを見た。笑顔じゃないけど、怒っているワケでもなさそうだ。
「アメフトって知ってる?」
「アメ……フト?」
そこから僕はプレゼンテーションを始めた。
――僕がスポーツをやる事にどれだけの意味があるのか。
――大会に勝ち抜く事でどれだけの価値が生まれるのか。
――それらが就職に関してどれほど有益に働くのか。
僕のプレゼンを聞き終えて、ママは口を開けたまま固まっている。小一の子供が大手企業でも通用しそうな内容を語ったのだから当然だろう。半分近くはヒル魔君の受け売りだけど……。
最終的にママは僕の提示した条件で納得してくれた。かなり渋々だったけどね。でも、これで心置きなくアメフトに集中できる。お手本となるプレーは山ほど見て来た。ベンチ要員だった僕は誰よりも人のプレーを見てきたという自負がある。今の内から正しいフォームを真似た走り方や捕球の仕方を徹底すれば、僕はもっと速くもっと強くなるはず……いや、必ずそうなって見せる。
ある程度体が大きくなるまでは焦らずゆっくりやろう。骨格が出来てない内に無理をして筋や関節を痛めたら元も子もない。今の僕に出来る事と出来ない事を見極める必要がある。
以前の僕に出来た事、それはパスルートを使わずに瞬時の状況判断でクォーターバックの投げる場所を察知して走る速選(オプション)ルート走行だ。でもこれは必殺技と呼べる技術じゃない。アメフトをよく理解して観察力と判断力があれば誰にでも出来てしまう。これを対処困難な必殺技に進化させるには、僕の身体能力向上が不可欠だろう。
レシーバーは多くを求められる。マークを振り切るスピード、確実なキャッチ力、空中戦を制するジャンプ力、他にも正確にパスルートを走る安定性や当たりに負けない柔軟性など挙げればキリがない。
スピードならバック走の一休君、ジャンプ力なら鷹君や桜庭君、キャッチ力ならモンタ君、安定性なら鉄馬君、皆がずば抜けていた。どれ一つとして以前の僕に勝てる要素は無かった。それでも僕がレシーバーとして彼らと戦う為には、以前の僕にはなかった新たな武器が必要だ。
オプションルートだけでは不十分。元々細身の僕は筋肉が太りにくく、体格で勝負をするのも難しい。やるとしたら速さと高さだ。身長が伸びる事は分かっている。それでもジャンプ力で彼らに勝てるとは思えない。ならば方法は一つしかない。
――スピードで勝つ!
40ヤードでは勝てなくてもいい。僕は5ヤードで勝ちたい。5ヤードだけでいい。5ヤードだけ勝てる疾さが欲しい。絶対的な5ヤードの疾さとオプションルートがあれば、僕は彼らと戦える。その為なら、どんな犠牲も厭わない。僕は必ずその5ヤードを見つけ出す。
――さぁ、始めよう。凡才の、凡才による、凡才の為アメフトの開幕だ!
そして早朝のラジオ体操に始まって、夜の柔軟体操に終わる生活がスタートしたのだった。
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