ドッペルゲンガーという言葉がある。鏡から出てきた虚像、平行世界から現れたもうひとりの自分、将又誰かが作ったクローン。諸説あれど所謂超常現象と位置づけされているのが、現状における一般的な解釈だ。自己像幻視、影の病、影患い、離魂病。呼び名はさまざまでありながら、起こる現象は総じて同じものだった。
雪山。何度も登らされたタツミはその場所を覚えていた。彼の師匠やサヨ、イエヤスと共に雪が降ろうと振らずとも、ただ只管に昇り降りを繰り返す作業を修行だといって、今では懐かしさも感じる村近辺に聳える雪を被った平坦な頂。修行の際はへとへとになるまで走り続けたため、体中が火照って寒さなど感じなかったが、いま感じるのは気温からくる寒気ではなく、まるで本能が叫ぶように蠢く恐怖からくるものだろう。
寥廓たる頂に同じ姿をした男が、片膝を立ててこちらを見つめていた。その成、その姿、その形、紛れも無くタツミと酷似しているにも拘らず、全身は真っ白に染められている。酷く鋭い、それこそ人を射る眼光が、タツミの心臓を踊らせていた。喧々囂々と静まらない心の臓をよそに、今し方聞こえた言葉を頭のなかで反芻する。
(王…?というか俺に言ったのか?)
居乍らにして黙視を続ける目の前の男。訝しげなタツミを見据えてから鼻で笑うと、愈々口を開いた。
「どうした。王よ。何ビビってるんだ?あの餓鬼共が殺されるのが怖いか、それともこの世界が怖いか、それとも…俺が怖いか?」
喉を突かれたように固唾を呑むタツミは、心臓を握られ無理やりに落ち着かされる。
「自分と同じ姿をしたやつを見て驚かない人はいないだろ…お前、誰だ?」
「素っ惚けるなよ。手前には分かってるはずだろ?俺はお前だ」
「は?ふざけたことぬかしてんじゃねえぞ。俺は俺だ。お前なんかじゃない」
「らしくねえじゃねえか。言葉遣いが荒くなってるぜ。あっちが余程気になるらしいな」
白い男は虚空を見つめる、猛吹雪の向こうには何もない。どこかの枝の積雪が垂るも、吹雪の音で掻き消される。白い男は再びタツミを見ると、ゆっくりと立ち上がる。
双方、この場に立つ意味も、何故相反するのかも、吹雪くわけも何となくだが掴めている。
「気づいてるか?」
「ああ」
問答はそれで十分。交える言葉は一つだが、交える刃は万を超す。まさにそれは、運命という他なかった。
「だったら…押し通るぜ」
タツミは鞘から抜いた剣を、頭の上から地面まで真逆様に下ろし突き刺す。両腕で祈るように柄を握るも、視線は前を睨み続ける。
「そいつは…無理な相談だな」
白い男も、腰に携えた剣を逆手に抜くと、積もる雪と垂直に落とし、地に着くやいなや両手で押し付ける。
ドッペルゲンガーには奇妙な噂がある。それは運命であり、宿命であり、必然であり、抗う事なく、死を迎える。最後に抗える時があるとすれば―――
「「インクルシオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」」
今だ。
◆ ◆
殷殷たる轟きが起こる。心の乾きを持て余し、聊かの退屈凌ぎに最寄りの村でも襲おうかと思い、サウロンが足を運ぼうとした時だった。
「…馬鹿な」
サウロンが振り返ると、吹き惑う風の中には歪なフォルムをしたインクルシオと思しきものだった。尾骶骨から生えた尾に鋭利な爪、四つに増えた左右の目に以前のような十字の紋章は見当たらない。
「なるほどな、主が目に掛けるわけだ」
何やら納得したようにサウロンは距離を詰める。一歩、二歩、じりじりと狭まる間合い。
「ヴォオオオオオオオオオオオオ!!」
声にならない声を上げたソレに、サウロンの足は止められる。二人の距離はおよそ五十メートル。
(音圧…!?ここまで届くのか…!)
片腕を前に出して音を遮るも、彼女は足を止めざるを得ない状況に立たされていた。三秒ほど声を出し続けたソレが口を閉じると、猛スピードでサウロンへと近寄る。宛ら弾丸のような一度の跳躍。
間合いが一メートルに差し掛かった時、彼らの時間間隔が狂わせられる。ほんの一瞬の出来事だというのに、泡沫は二人の神経を研ぎ澄まし行く末を見守る。
(食らったら…さすがの私も無事には済まんだろうな)
サウロンの頬が緩む。単に戦闘狂というわけではなく、遊具で戯れる稚児の如く楽しんでいた。喩えこの身が果てようとも然もあればあれ、然もなければそれもよし。最大級の賛辞を力に変え、雪のように白い手を異形へと向かわせる。
正体不明の怪物に思いはなく、考えはなく、誇りもなく、ただあるとすれば本能を牙へと変える器のみ。空っぽの幽鬼は現を彷徨う。
鎧を纏う獣を、人の紛い物が捕らえる。
「捕まえたぞ…」
勢いを足で押し殺し両腕の握り拳共々、サウロンは小さな手のひらで押さえ込めた。
「そら、逃げてみろよクソガキ」
ほくそ笑む少女の手が朧朧と辺りを霞ませる。彼女は勝ちを確信した。
だが、そうはならなかった。
彼女の腹に尻尾が突き刺さった。
「ほう…」
痛みに声を漏らすわけでもなく、サウロンはただ関心する。化け物は容赦もなく尻尾を引っこ抜くと、付着した血を舐めると不気味に笑い声を上げる。恐怖を煽る金切り声を空へと向ける。
「勝利の雄叫びのつもりか?敵を前にして随分余裕じゃないか」
化け物が視線を戻すと、血だらけのはずのサウロンはあっという間に完治していた。
「ククク。感情はあるみたいだな。そう驚くなよ、クソガキ。単純に治癒能力がずば抜けて高いだけだ」
「ガアアアアアアアアアアアア!!」
「叫ぶだけしか能がないのか?本当に獣にでもなったつもりか、まあいい」
依然として余裕綽々と振る舞う彼女の顔半分吹っ飛ぶ。正確に言えば上半分。人間であれば脳を潰され即死だというのに、少女は微笑みを崩さない。
「さて、ここで問題だ。私の弱点はどこでしょう?」
サウロンの言葉に耳を傾けず化け物はひたすら殴り続ける。両足が折れてもなお、倒れた少女は一方的な暴力によって笑い声も掻き消される。
それから一分経った頃には、辺りには肉片と血と骨と極彩色の何か。鳴り止んでいた笑い声が再び一面から聞こえ始める。
「時間切れだ。正解者はいない。不正解者には、細やかなプレゼントを」
爆発、再生、また爆発、また再生。誘発させあうサウロンの体は爆発と再生を繰り返し、周りを壊し続けた。山の向こうまで聞こえる音は激しさを増し、木々や川はなすがまま。
漸く爆発音が止まったかと思うと、爆煙の中に少女の姿が映し出される。サウロンだった。延々と辺りを壊しながらも彼女の再生力はその爆発力を上回り、破壊と創造を同時にこなしていた。
悠々と歩くサウロンの目の先には、ボロボロの鎧を纏う化け物だったもの。
「人間にしてはよくやったよ、だが今度こそ終わりだ」
どこか悲しそうに、右手を顔に近づける。そのとき。
パリン、とガラスが割れるような音と共に、インクルシオらしきものは砕け散り中からタツミが現れる。
「…ククク。これはまだ期待できそうだな。また会おう少年よ」
気を失っているタツミにとどめを刺さず、サウロンは笑いながら去っていった。
◆ ◆
雪山に雫が垂れる。真っ赤な血だ。腹にノインテーターが刺さる黒い鎧を纏った白い男は、口からも血を漏らし背中から溢れる血で染まると、その姿を白銀へと変えていく。
「…やればできるじゃねえか」
「……………」
その男が話しかけているタツミは、ただ彼をじっと見つめたまま視線を揺るがせずに沈黙を続ける。
「てめぇの目が気に入らなかった、その生き方も、何もかもだ」
「…俺を選んだのはお前だろ」
「へへっ。そうだったな。だが悪くねえ」
白銀へと染まった鎧は、染まった先から彼の体を消し去っていく。
「最後に忠告だ、王よ。本能に打ち勝ったてめぇへのな。あっちの世界にはてめぇの目を濁らせるものがわんさかある。だがそれでも歩みを止めるな、てめぇの後ろに、てめぇの横に何も残ってなくても前を見て戦い続けろ。でねえと俺が引きずり下ろしちまうからよ」
「……ああ、わかってる」
それだけ言うと二人は己の握り拳をぶつけあう。片方は塵になって消えていく。
「もしてめぇに少しでも隙があれば、俺がてめぇを乗っ取るからよ」
白い男の姿が、その世界からなくなった。
「言われなくてもわかってるよ、タイラント」
ついに藍染復活しましたね。久々にジャンプみてニヤつきました。
幕間にでも卍解を披露させたいけど…