エスデスは自らの鼓膜を揺らす玲瓏たる声に聞き覚えがあった。万物を見下すような目線でこちらを見据え、偽りの微笑みを剥いだ素顔には見た目とは裏腹に神色自若といった面持ちを保っている。服装はいつもと異なり黒い袴の上に白衣を着用している。両の手は白衣のポケットに入れられているが歩みには微塵の隙も垣間見えず、その男以外が空間ごと凍ったように呆気に取られて、彼がエスデスから10m離れたところで歩みは止まった。
忌々しげに見つめ唇を噛むエスデスが確信したように血が滲んだ口を開く。
「お前は…!そうか。やはり危険種の件もドクターを取り込んだのも貴様の仕業か…!」
「まったく…何度言えばいいのかい?危険種には私は関していない」
「ドクターを取り込んだのは否定しないのだな…」
答えは返ってこず、男は沈黙を続けている。
「いつからだ…いつから手を組んでいた?」
「最初からさ」
「貴様が私の前に表れた時からか…」
「理解が遅いな、最初からだよ。ドクターがイェーガーズに入ってからただの一度も、彼を敵だと思ったことはない」
エスデスは瞬時に理解した。男が聳え立つ忌むべき敵だと。
彼女は間髪を容れず先手を打った。湧き出るように土を押し退け姿を現す氷の膜は男を覆う様に生成され、瞬く間に蕾状に幾重にも重なり彼を包み込む。天狗礫も跳ね返す頑丈な檻は並の人間には壊せず、内側からはまともに身動きもできない。
しかし、やはりと言うべきかピキピキという亀裂音と共に罅割れ、それが蕾全体を走った直後に男が現れ、相も変わらず涼しげにこちらを見つめている。信じられないことに、彼は片手を薙ぎ払う動作のみで破壊に及んだのだ。
剣術、走力までならある程度知っていたエスデスだが、膂力までもがここまで化け物染みてるとは思いもしなかったため目を疑ったが、見紛うことなき現が彼女の目を通して佇んでいる。若輩ながらも二十年近く生きてきた彼女にとって圧倒的強者は自ずと自身が成る者であって、決して対する者が成ることはなかった。いつの間にか常識となっていた驕りは束の間に崩され、絶対的強者として目の前に男が君臨していた。
他者を虐げ蹂躙する毎日に飽き飽きして、潤いを求め恋に現を抜かしていた彼女を本能が目覚めさせる。部下が殺されたというのに心の奥底で高揚している自分を感じ諌める。
本能を理性で固め、セリューの仇を取るために剣を抜く。
「貴様…名前は何という?」
「…アイゼン」
「そうか、アイゼン。私は貴様を殺す…!」
憎しみを含んだその言葉に、思わず藍染は頬を緩める。
「…あまり強い言葉を遣うなよ。弱く見えるぞ」
刹那。エスデスが怒声を轟かせ藍染との距離を詰める。いつの間にか藍染の腕と下半身を氷が覆い動きを妨げる。自身に纏わりつく夥しいまでの氷に注意を払っている合間に、エスデスの刃が刺突される。激情に任せた一撃は周囲一帯を凍てつかせ、一寸の狂いもなく心臓を貫き、命の灯火が消えゆくかのように思われた藍染の体が霧散する。
鍔音が耳を打つ。
返り血かと思われた血は、星に手を伸ばすようにエスデスから離れていく。それはまるで届きえぬ地位を求める彼女の意志に体が追い付けずにいる様を表している。
藍染は振り向きもせずに周囲に迸る氷の激流を眺め呟く。
「…いい眺めだな。季節じゃあないが、この時期に見る氷も悪くない」
周囲の人影を気にも留めず、這い蹲っているタツミの方へと向かう。
(しかし妙な気分だね、私が檻に入るとは)
かつて反旗を翻し大逆無道を歩んだ藍染は、制裁を下そうと対峙した護廷十三隊をも退けさせたにもかかわらず、たった一人の少年に死の瀬戸際まで追い込まれた事があった。
(黒崎一護…あの時の私では歯が立たずにいたが、はたして今もそうだろうか)
先程エスデスが藍染を封じようと作り出した氷の檻を砕くように、藍染の完全詠唱した黒棺を壊した彼をいまなら超えられるだろうか。
そんなことを考えてた矢先、静止していたナジェンダが叫ぶ。
「アイゼン、避けろ!」
いつの間にかデスタグールは口に光を集め、ナジェンダの叫び声と共にそれが放たれる。大地を揺らし、地形を変える一撃は真っ直ぐ藍染へと向かって進む。にもかかわらず彼は振り返りもせずに歩み続けながら呟く。
「縛道の八十一、"断空"」
言い終えてから口を閉じるまでの僅かな間に、透明な薄い壁が地面と垂直に作り出される。薄氷のような脆さはなく、世界を二つに遮断するかの如くデスタグールの砲撃をいともたやすく防いだ。
砂埃が舞う中、声色ひとつ変えずに澄んだ声が響く。
「…超級危険種デスタグールか。情報通り八房で操られているようだね。残念だが使い物にならないなら不要だ」
続けざまに手を胸の前に出して呟く。
「破道の九十、"黒棺"」
掌に浮かび上がった黒い球状の物質が弾け、デスタグールの全身を包み込む程大きな箱が覆い姿を隠す。外からは感じ取れないが中は身を潰される程の重力の奔流が流れており、呑まれたデスタグールが箱の消滅に伴い姿を現すが、強靭な骨の体は面影無く胴体が辛うじて原型を保っている程度だ。
呆けて言葉を発しないナイトレイド及びイェーガーズに関せずにドクターが藍染に問う。
「九十番台詠唱破棄。相変わらず化け物染みてるわね、手加減って言葉を知らないのかしら?」
「死者に情けなどいらないよ。それにいまのは失敗だ、本来の破壊力の二分の一しか出せていない。やはり九十番台は扱いが難しいよ」
さて、と再びドクターに背を向けてタツミの傍によりじっと見つめる。
「…悪くない兆候だ」
「ゲホッ!ゲホッ!…アイ…ゼン…?」
「やあ、おはようタツミくん。そのままでいいから聞いておくといい」
いつものように藍染が懇々と諭す。
「君は危険種というものについてどこまで知っている?大衆が知らされる事実としての危険種という存在は超級、特級、一級、二級、三級とのように各々の危険度によって階級分けされる。それくらいしか知らないはずだ。だがこれは彼らのほんの一部の情報でしかなく、全貌を知っているのは帝国でも上層部の数人くらいだろう。私は宮殿内の書庫を漁り、秘蔵されていた一冊の本を見つけた。君に書かれていたことを教えてあげよう。危険種の中には人間を食さない種がいる。彼らは今でこそ希少な扱いをされており愛玩動物として撫育する人もいるが、それは生まれてから人の手で育てられたもののみだ。育てられたと言えば聞こえはいいかもしれないが、悪逆非道な実験の産物でしかない。そして野生の危険種は例外なく人を襲い、それは太古の昔からの史実でもある。元来人間と危険種は相反する存在であり、互いに襲い襲われる事は神によって決められた定めだった。これは危険種の本能でもあり彼らの行動が雄弁に物語っているね。しかし、次第に知識を得て優勢に立ちこのバランスを崩したのが他ならない人間だった。人の躍進は留まることを知らずに次々と危険種を滅ぼしていった。生物の危機に陥った危険種は超越的な進化によって身を守ろうとする。だがこれを利用した人間がいた。もうわかるだろう?その人間こそ、この大帝国を築き上げた始皇帝だった」
「なん…だと…?」
驚愕の事実にタツミは驚きの声を上げ、藍染は続ける。
「彼は帝国の未来など微塵も案じていなかったのだよ。危険種の性能を武器という器に収めたのが恐れ戦かれ、俗に帝具と呼ばれた。その性能は君も知っての通り驚異的なもので他国の追随を許さず危険種は瞬く間にその数を減らし、もはや人間にとって危険種は脅威に値しないといっても過言ではなかった。しかしそれこそが驕りだった。数は減ったものの脅威性は衰えるどころか危機に瀕して急上昇している危険種を野放しにして、人間は愚かにも紛争を始め大帝国と呼ばれたこの国も徐々に衰退していき今ではこの有様だ。人間は彼らに時間を与えすぎたんだ。そして機は熟した」
そこでタツミとの話を終え、漸くナジェンダの方へ向く。
「ナジェンダ、君も今の話を聞いていただろう?」
「…」
返事はないが沈黙を肯定と踏んだ藍染が彼女に告げる。
「私はナイトレイドを抜けるよ。やることができたんでね」
「なっ…!」
思わず驚嘆の声を漏らすナジェンダ。他のナイトレイドも驚いているが、我関せずと藍染はドクターの元へと向かう。
「恐れる必要はない。千年前のように優劣が逆転するだけさ。直にこの国は終え、新しい時代がやってくるにすぎない」
「ほら撤収よ撤収!移動するわよ『危道衆』」
ドクターがそう叫ぶと空から黒衣を纏った大小ばらばら顔を隠した人間のようなものが着地した。藍染のような黒い袴とは異なり所謂黒子と呼ばれるような服を着ている。
藍染、ドクター、そしてセリュー・ユビキタスの死体を中心に、四方にしゃがみ込み何やら力を注いでいる。すると急に新緑の光が彼らを囲い正方形を成す。
光が増す傍ら、藍染がナジェンダに話しかける。
「…最後に褒めておこうか。仲間と認めながら私を警戒し続け失踪を離反と見做し、探し続けたのはさすがはナイトレイドのボス。見事だった」
「…スタイリッシュとまで手を組んだか。何のためにだ」
「高みを求めて」
「地に堕ちたか…藍染!」
「…驕りが過ぎるぞナジェンダ。最初から誰も、天に立ってなどいない。君も、僕も、皇帝も、神すらも。だがその耐え難い天の座の空白も終わる。これからは―――」
「私が天に立つ」
「さようなら、ナイトレイドの諸君。そしてさようならタツミ君。人間にしては君は実に面白かった」