―――――我々が岩壁の花を美しく思うのは
我々が岩壁に足を止めてしまうからだ
悚れ無き その花のように
空へと踏み出せずにいるからだ―――――
BLEACH 12巻より抜粋
馬酔木の花が開花期は過ぎたというのに力強く咲き乱れる。複総状花序をした花穂は壷、または釣鐘のような形をしており、秋には立派な炸果状の果実を付ける。乾燥した山地などで自生している。
掌にそっと花弁を添え、藍染が呟く。
「まだ早い…」
実るにはまだ早い。彼の思惑通りに実が成るかは誰にもわからない。そして何が実るかは、彼にしかわからない。
荒れ果てた大地に異彩を放つ一輪の花が咲いている。空も土も乾ききっているというのに根はしっかりと下ろし、環境に屈せず咲き誇る。風と共に舞う砂煙を浴びるが、砂を被ってもなお美しく凛としている。
地を踏む音と風を切る音が反響する。タツミはエスデスと熾烈な攻防を繰り広げていた。平行線を辿るかのように思えた応酬だが、内心タツミは肝を冷やしていた。
(迅えぇ…殲景ってのになってからどんどんスピードが昇がってやがる…!けどまだついていけねえ速さじゃねえ。俺ももう少し速くでき―――
刹那、視界がぼやけたと思ったのかと錯覚するが本能が叫ぶ。
『避けろ』
咄嗟に首を体ごと無理やり左に遠退けると、先刻いた場所を刀の鋩が辛うじて捕捉できる速度で抜けていく。流れるような空色の髪が目尻を掠めると、首元に冷気を感じ反射的にノインテーターの柄で押し退けようとするが、完全には振り払えず力が拮抗したまま睨み合う。
「どうした?随分と動きが鈍くなってきたぞ」
「…うるせえ…よっ!」
一瞬だけ弾いた隙にエスデスとの間合いを取る。炎天下のせいでサウナのように蒸し暑い鎧はタツミの体力を搾り取るように消耗させ、束の間の衝突は息をするのも忘れるほどに研ぎ澄まされた精神は実戦でしか生み出せぬ緊張感によりさらに磨き上げられる。
肺が自我でもあるかのように酸素を欲し、それに応え息を整える。すぐにでも動ける準備を怠らず相手から目を離さない。エスデスの攻撃は辛うじて受けきれる程度だというのにタツミは自分でも驚くほど冷静で、あと一歩狂えばあっという間に胴体が真っ二つになるがそれすらも楽しんでるのを僅かながら感じていた。
そう、まるで自分が自分でないような感覚を―――
ドクン。
心臓が飛び跳ねる。死闘の真最中に動揺を隠しきれずに、ノインテーターを持つ手を緩め足が縺れる。
瞬く間にまるで針に糸を通すように氷の刃を槍頭に滑り込ませ、力のままに薙ぎ払われノインテーターはタツミの手から離れ空を舞う。神業のような手捌きに感心する暇はなく、刀は切っ先を向けたままタツミの肩を鎧ごと貫いた。
思わず声を漏らし片膝をつく。だがエスデスは999本の氷の刃から1つ手元へ呼び、容赦なく足裏がまだ地面についている方の太腿に突き刺す。
「うっ…がああああ!」
「もう動けないのか?つまらんな…」
部下の仇とはいえもう少しは抗ってくれると感じていたエスデスは急に闘志を見せなくなったインクルシオに酷く落胆していた。あとは甚振って拷問にかけ惨たらしい殺し方を選ぶだけなのだが、試してみたかった事を思い出しタツミの首を掴みぶら下げる。
「なぁ…鎧ってのは地面と接していることで衝撃を外へ逃がしているらしいな」
「…!」
これから起こる惨劇を察して手足をバタつかせ足掻く。抵抗も功をなさず勢いよくタツミの体が空に投げられる。
「地面や壁と接していない空中なら食らった衝撃はどこにも逃げられない」
大の字でエスデスの真下に落ちていき、握り拳を作ったまま狙いを定めている所に吸い込まれていく。タイミングぴったりに振るわれた拳はタツミを腹を抉るように渾身の一撃を入れる。衝撃が鎧全体を走り、同時に中にいるタツミも襲う。
続いてもう片方の手による二撃目が故意にずらされ油断を撃滅するかの如く放り込まれる。口から血を噴き出し、エスデスにかかるが水を浴びた花のように笑みを浮かべる。
「さらにもう一発!」
最後の一撃が腹のど真ん中を貫くように入れる。タツミの意志など抹殺するように突き出した拳はさすがに痛みを感じるがそんなことは気にせずにタツミの体を浮かせ、回し蹴りで岩壁へと押しやる。血反吐をぶちまけながら背中を強打して薄れゆく意識を痛みで浮かび上がらせ、死にもの狂いで岩壁を背凭れ代わりに体を起こす。
タツミはなんとか立ち上がれたものの衝撃の残滓が膝を笑わせ、至る所に激痛が迸っている。視界がぼやけて頭が働かず歯軋りの音だけが耳にこだまする。
「限界だな…そこで見ておけ。お前の仲間が蹂躙される様をな」
その場を後にしてデスタグールを圧倒しているスサノオを狩るためにタツミに背を向ける。
(まだだ…俺は…まだ…)
意識だけは辛うじて残っていたタツミはエスデスに手を伸ばすが、その距離は月よりも遠く感じた。
マインはシェーレの仇であるセリューとコロ呼ばれる帝具『ヘカトンケイル』に苦戦を強いられていた。
(さすがにきっついわね…)
Dr.スタイリッシュが開発した『十王の裁き』をコロに右手を差し出し、武器に換装させる。名の通り十ある武器を入れ替えて戦闘するため対処を間違えると厄介だ。おまけにコロには奥の手である"狂化"を有するため、無闇に攻めきれずにいた。
対してこちらは身一つに銃一丁。ヒットアンドアウェイで対応しながら生じた隙にパンプキンによる精神力に左右されるエネルギー弾を撃ち込む。これにより十王の裁きのうち、秦広球、初江飛翔体、変成弾道弾、泰山砲、平等魚雷は避けたり壊したりで使用不可まで追い込んだが十ということはまだ半分あるということ。折り返し地点だというのにもう息が切れ体に負担がかかる。正義の味方を自称し、悪を滅するという大義名分であらゆる手を用いて敵を滅ぼすセリューが小康状態の戦闘を許さずコロを向かわせる。骨をも砕く一撃を交互に打ち出すラッシュはマインとの距離を徐々に詰めていく。
まさに、ピンチ。
「でかいだけの的だってんのよおおおお!」
追い込まれるほど強くなるパンプキンがマインの心意気を感じ取り、金色のレーザーを放出する。コロは手をクロスさせて抵抗するが手が溶け、次第に核が露見する。
「…!コロ、狂化!」
瞬く間に赤色に染め上げられたコロは筋骨隆々の体に血管が浮き出ている。熱膨張して口から蒸気を逃がすように息をする。肉壁に覆われた核は再び姿を隠し危機を脱する。
飼い主に似たのか飼い犬に似たのかは不明瞭だがセリューとコロが浮かべた笑みは瓜二つだった。策などないごり押しだが、双方から迫る猪突猛進の猛獣が二頭。ピンチではあるがパンプキンはしばらく使えず逃げるしかない。近距離での戦闘は狂化したコロが本体よりも厄介だろうと踏んだマインは最優先にコロのラッシュを避ける。彼女が下した判断は概ね的確だと言えるだろう。現にコロの一撃はまともに食らうと再起不能になってもおかしくない程強烈で容赦など欠片ほども持っていない。獰猛な息遣いは正義の権化というには烏滸がましく、危険種のそれに近い。
マインが見落としたのはセリューの動き。攻撃のみに徹しているコロから武器は取り出せずに隻腕のままでいたので攻めてはこないと侮っていた。だが彼女の異常性は留まることを知らず、ラッシュの雨を凌ぐマインの脇腹に握り拳を作り、腸を抉り取る。
「んぐ…はぁっ!」
咄嗟に躱そうとはしたものの幸か不幸か肋骨にあたり、どうやら幾らか罅が入ったようだ。痛みに耐えながらマインは必死に頭を働かす。
(ちょっとまずいわね…短期決戦を望みたいとこだけどあの帝具邪魔なのよねぇ…)
マインは一先ず距離は取ったもののすぐさま襲い掛かるセリューとコロ。ここが正念場。生き残って勝ち組になるという彼女の野望を叶える為に地獄を潜ろうとしていたそんなとき、思わぬ方向から声がかかる。
「あら?セリューじゃない」
「え…?」
彼女らの横から人影が現れる。マインは聞いたことのある形に思わず顔を歪ませ、セリューは驚き、喜び、怒り、いろんな感情が混淆してどう顔に表したらいいのかわからずその人物の名を呼ぶ。
「ドクター…?」
「何よその反応は。私の美貌に言葉を失ったのかしら?」
その男は彼女の体を改造して武器を与え、イェーガーズの一人でもあり恩人のDr.スタイリッシュその人であった。いつものようにオカマ口調でウインクを送り、片手で顔を覆い右膝を腰まで上げて背ける背骨で弧を描くように反らす決めポーズ。テンションが高いときはセリューでも若干引くくらいのスタイリッシュなその行動は彼の存在証明には十分で、セリューはその懐に飛びつき泣きじゃくる。
「ドクター!…ドクター…心配したんですよ…もう死んだのかと思って、私……!」
「…悪かったわね。でも私がそんな簡単に死ぬはずないでしょ?まったく…馬鹿なんだから」
貶しながらもセリューを慰める表情は自分の娘を可愛がるように穏やかで優しい顔つきだった。セリューの嗚咽に気付き、イェーガーズはもちろんナイトレイドも驚いたような面持ちでそちらを見つめている。
「あなたが仲間で本当に良かった…。ありがとうセリュー、本当にありがとう…」
「さよなら」
赤、赤、赤、赤。何度瞬きをしても同じ色にしか世界は染まらず、ほかの色は目に入らない。何が起きているかはドクターにしかわからない。いや、何が起きているかはわかっている、何故起きているかがわからないのだ。
血だ。血が流れている。セリューの胸にドクターの腕が刺さっている。そして彼の手には一定の速度で脈を打つ何かが掴まれ、それが彼の手で四散される。そのまま手を引き抜き、腕を振るうことで血を飛ばす。
「嘘」
セリューは重力に逆らわず、逆らえず、まるで押し潰されるように前に倒れ、動くことはなかった。
止まった時計の針が再び動いたように振るわれたエスデスのレイピアは、ドクターにあたることなく空を切り、当の本人は跳躍を終え地に足を乗せ飄々としている。
「随分乱暴なことするじゃない、エスデス隊長」
「貴様に隊長と呼ばれる筋合いはない。殺す前に聞いといてやる、何故裏切った?」
スタイリッシュからの返事はない。風向きが変わり、どこか懐かしい凛とした声が響く。
「裏切ってなどいませんよ」
「彼は忠実だ。ただ忠実に私の命令に従ったに過ぎない」
「どうか彼を責めないでやって下さいませんか―――エスデス将軍」
どこかで馬酔木の花が風に靡いている。