松下陽斗(まつしたはると)の部屋は、陽斗の父親が経営するジャズ喫茶・
GROOVE(グルーヴ)の3階にあった。
GROOVE(グルーヴ)は、世田谷区代田6丁目の通(とお)りの、
下北沢(しもきたざわ)駅の北口から歩いて、3分くらいの場所にあった。
清楚(せいそ)で、おしゃれな、茶褐色のレンガ造(つく)りの、
表口(おもてぐち)で、全国的に知られている、老舗のジャズ喫茶だった。
清原美樹(きよはらみき)は、都立の芸術・高等学校の3年間、
美樹と同じ音楽科の、鍵盤楽器(ピアノ)で学(まな)ぶ、
松下陽斗(まつしたはると)と、よく待ち合わせをして、一緒に下校した。
駒場東大前(こまばとうだいまえ)駅から、電車に乗り、下北沢駅で下車する。
その帰り道、美樹は、陽斗の部屋に寄(よ)って、よく時間を過ごした。
それほど、ふたりは、おしゃべりするたび、信頼も深まってゆくような、
まるで恋人同士か、無二の親友のような仲であった。
それなのに、高校の卒業間際(まぎわ)のころ、
陽斗(はると)は、美樹に、美樹の姉の美咲(みさき)に、
好意を持っていることを、打ち明けた。
その陽斗の告白は、美樹にとって、陽斗がどのような存在であったのか、
あらためて考えさせられる、ショックな出来事だった。
およそ1年間くらい、失恋に似たような、大切にしていた何かを、
どこかに置き忘れてしまったような・・・、
魂が、どこかへ行ってしまったような、喪失感(そうしつかん)が、
美樹にはつづいた。
それが、やっと、妹思いの、姉の美咲の努力や協力もあって、
陽斗の気持ちも、美咲のことから、自然と離れて、
美樹と陽斗の親密な信頼関係も、高校のころと同じ状態に、
もどったのであった。
2012年の10月13日の、美樹の二十歳(はたち)の誕生日には、
松下陽斗(まつしたはると)が、「特別な誕生日だし・・・」といって、
数人の仲間と一緒(いっしょ)に、祝(いわ)ってくれた。
2013年の2月1日の陽斗の二十歳の誕生日には、こんどは、美樹が、
仲間を集めて、ささやかな誕生会を催(もよお)してあげた。
何人もの、男友だちのいる美樹ではあったが、
いつのまにか、知らず知らずのうちに、美樹の心の中には、
ふたりの男性が・・・、
同じ歳(とし)の松下陽斗(まつしたはると)と、
3つ年上の大学の先輩だった、川口信也(かわぐちしんや)が、
特別な存在になっているような感じだった。
陽斗(はると)から、
≪みーちゃん、映画でも見に行こうよ≫と、
美樹(みき)のケイタイにメールが来た。
≪いいよ。はるくん。いい映画やってるかな?≫
≪いまは、話題作とか、なさそうだけど、
なにか、いいのあるよ、きっと・・・≫
≪わかったわ。行こうよ。楽しみ!≫
と、ふたりは映画に行く約束をした。
2013年、4月、
松下陽斗(まつしたはると)は、東京・芸術・大学の、
音楽学部、ピアノ専攻の3年の20歳(はたち)。
美樹は、早瀬田(わせだ)大学の、教育学部の3年の20歳だった。
ふたりは、10時に、下北沢駅で待ち合わせをした。
高校のころからの、さわやかで、
いつもどこか照(て)れくさそうな、陽斗(はると)の笑顔が、
美樹には、高校のときと同じように、
ちょっと眩(まぶ)しくて、うれしかった。
ふたりが向かった映画館は、渋谷駅から、青山学院大学方向に、
500メートルほど歩いたところの、シアター・イメージ・フォーラムであった。
3月30日から始まったばかりの、
『グッバイ・ファースト・ラブ』という映画の、
午前11時30分からの上映を、
美樹(みき)と陽斗(はると)は、観(み)にいった。
この映画の監督(かんとく)と脚本(きゃくほん)は、
1981年生まれの、女優や批評活動をしてきた、
ミア・ハンセン=ラブという名の女性であった。
2007年に、1作目を発表して、2作目の作品で、
カンヌ国際映画祭で、審査員特別賞を受賞していた。
『グッバイ・ファースト・ラブ』は、自伝的な三部作の、
3作目の作品であった。
監督自身の、10代のころの初恋を、モチーフにした物語で、
繊細(せんさい)な、心と体が、揺(ゆ)れ動いてゆく、
そんな感受性ゆたかな、少女が、おとなへと成長してゆく過程、
その瞬間を、南フランスの、季節の移(うつ)ろいのなかを、
美しくとらえてゆく、そんな映画であった。
舞台は、1999年パリ。高校生のカミーユと、シュリヴァンは、
おたがいに愛しあっていた。シュリヴァンは、17歳、
ほとんど学校に行かず、9月に退学して南アメリカに行こうと考えていた。
カミーユは15歳、彼に夢中で、勉強もなかなか身が入らなかった。
夏になって、ふたりは、のんびりゆったり過(す)ごせる、
南フランスに、ヴァカンスにゆき、情熱的に愛しあう。
しかし、夏が終わると、スリヴァンは、カミーユのもとから去る。
数ヵ月後には、スリヴァンからの手紙も途絶えてしまう。悲しみに打ちひしがれた
カミーユは、次の春を迎える頃、自殺未遂を起こす。
その4年後、建築学に打ち込むようになったカミーユは、
著名な建築家、ロレンツと恋に落ちる。
ふたりは恋人同士となり、強い絆(きずな)で結ばれる。
しかし、カミーユの前には、かつて愛したスリヴァンが現(あらわ)れる。
「この映画は、人間の持つ矛盾(むじゅん)を積極的に容認しています。
そしてそうした矛盾こそが、人生の重要な構成要素だと思います。
ヒロインのカミーユは、同時に、ふたりの男を愛し、
そのアンバランスな関係に、バランスを見いだすのです」
ポップコーンやソフトドリンクといっしょに買ったパンフレットの
ミア・ハンセン監督のそんな言葉が、・・・オトナの世界って、
やっぱりそんなものなのかなあ・・・と、心にしみる、美樹だった。
ふたりの男性を、同時に愛してしまうなんて、特別なことでも
ないのよね、きっと。
わたしの場合は、はるくんと、しんちゃん・・・。
映画を観(み)ながら、ヒロインのカミーユと、
いまの自分の境遇(きょうぐう)が、
偶然の一致(いっち)にしても、不思議なくらい、
よく似ていると、感じる、美樹であった。
≪つづく≫