一人の修道女が銀色の髪を揺らしながら池のほとりをゆったりと歩いていました。池の周りをぐるりと取り囲むように、紫陽花の群れが緑と紫の鮮やかな茂みを作っています。紫陽花はどれもまるで大きな宝玉のように咲き誇っていて、その花びらから水滴が弾けて輝きます。この場所は今ちょうど「五日目」の朝の時間です。
修道女は紫陽花の茂みを掻き分け池の淵にでると、そこにたたずんで澄んだ水面から池の底を眺めました。この池の下には、とある街の様子が透けて見えるようになっているのです。その街はまるで地獄のような光景に包まれつつありました。水晶のような水を通して、屍が積み重なる針山、その山から一匹一匹目覚めて動き出す残骸のような怪物たち、彼らが放つ赤い光に浸食される街、残骸たちに覆われて終末を迎える世界が見えます。その世界は「四日間」だけしか持たない世界なのです。
その地獄のような街の中に身体中を刺青に覆われた黒い少年がいるのが見えました。少年の名はアンリマユといいました。彼は「この世の全ての悪」です。どこにでもいる普通の青年であり、他の誰とも大して変わらない幸福で退屈な生活を送るはずだった彼は、理由もなく生け贄に選ばれました。右目を潰され、舌を引き抜かれ、手足の指を切り落とされて、山の岩牢に放置されたのです。そして彼はあらゆる悪の象徴を体に刻みつけ、全ての欲望を肯定し、不条理を黙殺し、まるで呼吸をするように人を憎み続ける悪魔となりました。人間に降り掛かる悪事は全てこの「
このような非情な悪魔であるにもかかわらず、それでも彼はたった一つだけ善いことをしていました。彼は自分のちっぽけな望みのためだけにもがいて生きる、つまらない女を助けたのです。その女は死の間際においてすら、ただ死にたくない、消えたくない、と願っていました。彼は、嫌われたくないから良い人でいたい、悪事を働いておきながら善行も積み重ねたい、というその女の矛盾したみっともなさを憎みながら、それも好しとしたのです。
修道女は街の様子を見下ろしながら、この悪魔が女を助けたことがあるのを思い出しました。その善行の報いに、出来るなら、この終わっていく街から彼を救い出してやろうと考えました。ちょうど良いことにすぐ側の紫陽花の葉の下に一匹の
こちらは池の底に見えた、平凡な日々を繰り返して四日目の夜に必ず終わっていく街です。残骸たちに食いつぶされていく夜の街の中をアンリマユは一人で駆けていました。明かりの途絶えた暗闇から浮き上がってくるものがあると思えば、恐ろしい残骸の目が赤く光っているのですから、不気味で仕方ありません。その上あたりは墓場のように静まり返って、たまに聞こえるのはひどく耳障りな残骸の鳴き声ばかりです。今この街に存在しているのはもう果てしなく繰り返す失敗に疲れ果てて、もとの形をとどめることができなくなったモノたちばかりなのでしょう。アンリマユは残骸に飲まれないように、ただひたすら死んだ街で走り続けていました。
彼はこの街で一番高いビルの屋上にたどりつき、真っ黒な空を見上げると、遠い遠い天上の月から、銀色の蜘蛛の糸のように、一すじの細い階段が、するすると自分の目の前に降りてきました。アンリマユは思わず喜びました。この階段をどこまでも登っていけば、きっと虚しい願いによって作られた、終わっては繰り返すこの世界から抜け出せるに違いありません。いや、上手く行けば彼が見るはずのない「五日目」を迎えることができるかもしれません。そうすればここでの幸福で退屈な日々もなくなれば、四日目の夜に残骸に引き裂かれ、飲み込まれてしまうこともありません。
そこでアンリマユはさっそくその細い階段を両足でしっかりと踏みしめながら、一生懸命上へ上へと登り始めました。彼は本来はカタチのない「虚無」ですが、この街の一人の青年に憑依して体を得ていました。その青年は自身の欲望を殺し、世の不条理を許せない、歪んだ善人でしたので、このような無茶に日頃から慣れきっています。
しかし地上と月の間は三十八万キロもありますから、いくら焦って階段を登っても、簡単には上へは出られません。アンリマユが階段を登っていく間に徐々に彼の体は変質し、輪郭を失っていきます。視界は黒い欠片に埋められるように狭くなっていきます。月に近づくにつれて、彼はどんどんと、元々の姿である無に還ってゆくのです。
やがてアンリマユは人の形を失い、一歩も上へ登れなくなってしまいました。天上の月はあまりにも遠く、辿り着こうとする意志が揺らぎます。仕方がないので一休みするつもりで階段から遥かに眼下を見下ろしました。
すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた、死んだように不気味な街は、今ではもう暗闇の中ににいつの間にか隠れて居ります。それからあの残骸を吐き出す恐しい屍の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、この虚ろな揺り籠の世界からぬけ出すのも、案外わけがないかも知れません。アンリマユは既に薄くなった両手を階段につきながら、彼に与えられるはずだった退屈で幸福な世界が遠のいていくのを眺めていました。
ところが、ふと気がつくと彼のいるビルの真下が赤く染まっていました。針の山から吐き出された残骸の綿津見は街をすっかり飲み込み、ビルを這い上がり彼のいる階段まで殺到してきます。残骸たちはかつて自分であったモノを仲間に引きずり込もうと近づいてきます。
アンリマユは消え行く体をしゃにむに動かし階段を駆けあがりました。ここで奴らに、自分に捕まってしまったら、この間違った願いで作られた世界が終わらないのです。
彼の耳元でごう、と風の唸る音が聞こえました。
ハシッテ、何ヲシヨウッテイウンダイ?
風の音には残骸の、かつて彼であったモノの怨嗟が混じっていました。彼はその怨嗟に飲まれまいと、残りの力を振り絞って月に手を伸ばしました。
———ハシッテ……オレハ、コノ願いヲ、終ワラセナイ、ト———
ですが、彼の体はもう影でしかなくなっています。周囲の大気は淀み、時間が曖昧になり、意識が霧散していきます。いまだに階段は長く、月はあまりにも遠く、彼はついに辿り着く意志をなくしてしまいました。
視界が、触覚が、平衡感覚が、世界を認識する機能が消えて、彼はもとの無に戻っていきます。そして彼に呼びかけていた残骸の叫びはすでに彼の内側から響いて聞こえるようになっていました。
オマエダケ
オマエダケ
オマエダケ———
オマエダケ——————
残骸はビルを覆い、瞬く間に階段を埋め尽くし、その途中で立ち止まった彼をを捉え、飲み込んでしまいました。
オマエダケ抜出ソウナンテ、ユルサナイ———
いつの間にか彼も他の残骸と同じように怨嗟の鳴き声を上げていました。こうして彼は残骸の一部となりました。もはや他に誰も生者がいない無間の暗闇の中に残骸の呪いだけが響きます。
オレハ失敗シタ。オレハ失敗シタ。オレハ失敗シタ
オマエモ、
オマエモ同ジヨウニ失敗シテ怪物二ナレ———
修道女は池の淵でその一部始終をじっとながめていましたが、やげてアンリマユが残骸の海に跡形もなく飲み込まれてしまうと、池の底に蔑んだ一瞥をくれて、またゆらゆらと歩き出しました。彼がかつての自分自身であった残骸に打ち勝つことができずに再び取り込まれて、またしても繰り返す四日間に戻ってしまったのを、この修道女は浅ましく思ったのでしょう。
「あなたはまた失敗した。ここにくるのはまだ早かったようですね」
銀色の髪の修道女は池に背を向け立ち去っていきました。
しかし池の周りの紫陽花は、少しもそんなことに構いません。明るい日差しに紫の花弁を輝かせながらそよ風に揺れ、青々と広がる葉から瑞々しい香りが絶え間なくあたりにあふれています。今回も訪れなかった「五日目」はすでに昼近くになったのでしょう。
Fate/hollow atraxiaの「スパイダー・ラダー」のエピソードを
「蜘蛛の糸」http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html
風に解釈しました。