機動戦士ガンダムSEED~Forgotten War ~ 作:caribou
突然ですが、今回は番外編というこで友人が書いた話になります。
番外編なので本編には直接関わりはありませんが、個人的に凄く面白いと思うのでよろしければ読んでみてください。
ボブの夏休み
極東日本は、四季折々の風情が特徴だ。季節ごとにがらりと顔色を変える気候は長期に滞在する外国人観光客の楽しみの一つと言って良い。春になれば咲く桜の華は日本の象徴だ。あと飯が美味い。夏は汗ばむ気候で、日本特有の夏祭りは賑わいを見せる。あと飯が美味い。秋は旺盛な夏の後と言うこともあって物悲しい気候だが、その物寂しさもまた日本に根付く、古風な味わいの風采であろう。「わびさび」の概念を打ち立てたのは、茶の湯で名高い千利休であるわけだが、その始原は脈絡と続く日本神道と仏教の厳かな交わりにあるのではなかろうか、と思う。あと飯が美味い。冬は冬で寒さ厳しい季節だが、深々と降り積もる冷たい雪の鳴き声もまた趣深いことこの上ない。日本ではないが、エスキモーたちは雪を表現する言葉を100以上持っているとか。どのようなものにせよ、妙趣というものはあるのだろう。あと、飯が美味い。
―――ともあれ、日本の気候というのは素晴らしいものである。特に、ボブ・アブドゥルは夏以外の季節が好きだった。その理由はいたって単純で、暑くないからである。デブにとって、というか世界中の養分の肥えた人間たちにとって、暑い季節というのは地獄以外の何物でもなく、ただ存在しているだけで滝のように身体中から汗が噴き出すという見苦しさには自分自身で不愉快になるほどだ。そして何より、そうして汗まみれになることで余計に女の子が遠ざかることが残念でならなかった。痩せろという指摘は論外である。できぬものはできぬ。
そんなボブにとって、この沖縄という日本の地方は最悪だった。何せ暑い。日本の本州はまだ春で、やや熱気を持ち始めたとはいえ麗らかな天気と穏やかな風に満たされている筈なのに、沖縄はもう摂氏20度後半を優に超していた。阿呆か。
ぽたぽたと路面に滴が垂れ落ちる。デフォルメされたアニメキャラクターのTシャツは、もう汗で滲んで黒い染みを作っていた。というかもう染みそれ自体である。汗まみれの腕で顔を拭ったボブは、タブレット端末と周囲の市街の建物を見比べながら、とあるビルの前に立ち尽くした。
顔を上げる。恨めしいほどに晴天の空には雲一つも無いだが、もちろんボブの視線はそんな自然の様子にあるわけでもなく、7階ほどの小さなビルの6階に向けられていた。
青い看板に何かのキャラクターがでかでかと描かれたそれこそ、ボブにとって沖縄という地獄に射した一筋の光に他ならない―――のだが。
意気揚々とエレベーターに乗り込もうとして、そうしてエレベーターの看板の工事中の張り紙に絶句し、そうして一瞥した階段の急さにげんなりした。
「ったくよー、もう今日はいいこと無しだ」
所々塗料が剥げた狭い階段をひーこら言いながら登りつつ、2階の踊場で壁に寄りかかったボブがぽつり呟く。観上げた天上は知らない天井だが白いなんてことは無く煤けていた。
Tシャツで顔を拭いつつ、ボブは溜息を吐く。黒人の巨漢の脳裏に過るのは、沖縄国際通りに繰り出す前の友人たちとのやり取りだった。
例1:あ? いいよ面倒くせぇ。あぁ? だから彼女じゃねーって言ってんだろ!(腹パンの音) 殴るぞ!(カナダ生まれの旧友 22歳)
例2:アニメぇ? 俺は遠慮しとくよ。そっちは趣味じゃないんでね。(最近できた日本の友人 23歳)
例3:え? えーとまぁ行ってもいいけど……え? 街に? あ、ごめんなさいね、ちょっとオペレーターの子たちと街に行くことになっちゃって。ごめんね。(ユーラシアが生んだ清楚系ナイスバディ。 23歳)
例4:なんだそれは?………………お前は何を言っているんだ? いや、何を言っているのかよくわからなかったのだが。そうか、なんでもないか。(フランスのやさぐれ系クールなイケメンこの野郎 26歳)
畢竟、全部断られたのである。なんて薄情な連中なのだろう。(※ミーリャはいい人だったと注釈しておく)
重力に叛逆し、己の位置エネルギーを高める作業をすること数分。なおのこと汗の量を増やし、膝が軋んだ悲鳴を上げ始めた時に、ボブはようやく目的の階へとたどり着いた。
広さで言えば、ボブを含めてあと人が一人か二人ほどしか居られないであろう狭い踊場に差し込む電光。修理中の張り紙が無表情に佇むエレベーターの入り口も、この際置いておこう。心を鷹揚に保つことも大事なのである。
「おぉ、これが……」
両腰に手をついて、感歎の一言。ボブ・アブドゥルの視線の先には、ボブ一人が通れるかほどの入り口を挟んで、只管に漫画だけを陳列した本棚が当然のように存在していた。店頭には最近発売されたばかりと思われるサブカルチャーの―――正確にはアニメのみを取り扱った―――雑誌が積まれ、つい先日発売の新刊の漫画の表紙がずらりとボブを見返す。店の奥を眺めれば同人誌を販売しているコーナーがあり、左の方を向けばレジスターとともに何かしらのアニメのグッズを陳列されている。店は決して広くはない。奥行は6mと無いし、通路は人がすれ違うだけで精一杯だ。だが、広さなど全き些末な問題である。広かろうが、狭かろうが、どちらにせよボブにとってこの狭い空間は天国であることに異論を挟む余地は欠片も無い。
C.Eという新たな世紀を迎えて既に70年。それでも尚、極東日本の地はアニメオタクにとって聖地である。なるほど確かにアニメ文化は地球を超え、プラントにまで広がりを見せている。だがそれでも、祖なるものに対して尊敬の念を込めた崇拝を持つのは当然だ。かつてのキリスト教が、仏教が、イスラームが開祖を神聖視したのと左程の質的差異は無い……と思う。多分。
イケてはいないがニューヨーカーでもあるボブにとって、日本のアニメや漫画の商品販売店という存在は遠い存在なのだ。ボブの黒々とした瞳には、イデアの如き眩しさを放つ商品の形がありありと刻み込まれている。
まぁ、専門的なことはともかくとして、ボブははしゃいでいるのである。デカい図体を揺すぶりながら店に入って店内を見回してみると、流石に日本人客がほとんどだが、今更にボブの姿に驚くといった様子も無いようだった。
知らず、口角が上がる。右を見ても左を見てもサブカルチャーしか目に入らぬこの位相をユートピアと言わずなんと言うのか。惜しむらくは、ボブ独りだけという点である。そりゃ独りだって楽しめる。だが仲間がいてこそ、友人がいてこそ楽しみはより深まる筈ではないか。アリストテレスの言葉を引くのは大仰であろうが、人はポリティカルな動物なのである。
「ウォルトみてーに彼女でも出来りゃいいんだがな。友人でもいいけど」
漫画の背表紙を眺めながら虚しく呟く。溜息交じりに下に目を落とせば、何やら蟹のような髪型の漫画のキャラクターの笑みがボブを見返した。ボブの知らない漫画だった。
……漫然と、ボブがその漫画に手を伸ばして―――。
ボブの真っ黒な腕とは別な、浅黒い肌の腕が伸びて、ぐいとその漫画を引っ張った。
「ん?」
顔を上げる。
目が逢った。
ネフライトの瞳はどこまでも透けるようだ。浅黒い肌と対比されるような純銀のロングヘアーに、切れ上がった目尻は勝気というよりどこか気品を感じさせた。
モスグリーンのタンクトップに黒のショートパンツといった出で立ちで、腰に巻いたゴツい白無垢のベルトが目を引く。真黒のサイハイソックスに包まれた足はすらりと長く、にもかかわらず程よい肉質の、黒い嫦娥の匂い立つ妖艶が露出した太股と肩口と腹部と、そうして胸元から覗いていた。
全てを純白に染め上げる純白のイデー、存在の煌めきが全を無化していくようだ。わがままボディ。
―――なにはともあれ、おしつけがましい、けしからんおっぱいだ、ということはボブの貧困なボキャブラリーでも理解し得た。なんともポエティッシュである。もちろん22歳と彼女いない歴がイコールの記号で結びつけられてしまいボブにとってそんな女性が眼前に居るだけで視姦―――じゃなくて、つい見惚れてしまうのは当然だが、ボブがついその姿をまじまじと見つめたのは、その顔つきと雰囲気が誰かに似ている気がしたからだった。そう、この形は―――。
「む、なんだ?」
眼前の褐色肌の女性が眉を微かに顰める。漫画から手を離した女性は、ぱっちりしているがキツそうな目もとを細めた
「何をさっきからそんなにじろじろ見ているんだ?」
あぁ、いや、申し訳ないです。慌てて漫画から手を離して身を縮めた。ずれた漫画が本棚から迫り出したためにそれを直しながら、ボブは変に汗が出始めたのを意識して、愛想笑いを浮かべた。
「他意はないのですが―――」全く嘘である。「最近知り合った人に良く似ておられまして。ついその人かと思っただけですよ」
「ふーん?」
怪訝そうな顔つきのまま、腕組みした女性は思案気に腕組みして、その翡翠の瞳でボブを見返した。腕組みで強調されたナニが気になったのは当為である。
「なるほど、私は理解したぞ」
腕組みしたまま、にやりと奇妙な微笑を浮かべる。銀髪の女性は、どこぞの髭の名探偵が緑色の瞳を光らせるがごとくに得意げに微笑と共に瞳を閃かせた。
「君は今、私に古典主義的なナンパのテクネーを行使しわけだな?」
ボブの顔面に勢いよく指を突き出して、満面のどや顔で言い放つ。
「――――――……はい?」
「簡単な推理だ。男という生物は綺麗な異性に見惚れるものであろう。君の行動を分析すれば、まず出会ったばかりの私をガン見することから始まったわけだ。私は美人だからな。見惚れるのも無理はない。まぁそれはいいか、そうして、その言い訳に使ったのが『最近の知り合いに似ていて』というものだな。所謂ナンパの古典的な手法として、まず獲物に話しかける切っ掛けとして用いられた『昔どこかで会ったことあります?』法があるわけだ。君の使った手法はその応用編と言える。どうだ?」
「えぇー……」
「私にナンパしようとはいい心意気だな。普段なら断るところだが、今日は気分が良いし暇だから受けてやろう」
「――――――……はい?」
この目の前の生き物は何を言っているのだろう。ただでさえ思考能力が若干鈍くなっている気がするのに、そう難しいことを言われては何が何だかよくわからない。
自信満々な様子の女性の顔をまじまじと見返した。天井から酷く冷たい人工の光が降っているのに、やけに身体が熱かった。
彼女の言うことをとにかく頭に並べる。
取りあえず、彼女は自分がナンパしたと思っているらしい。もちろんした覚えはないが。というか人生で一度もナンパしたことなど無い。悲しい。
それで勝手にナンパと理解したこの女性は、なんだかよくわからないがそれを快諾していた。まるで意味が解らない。
「なんだ、全然嬉しそうじゃないな。こんな美人が君の誘いを受けると言っているのだぞ? もっと喜ぶのが筋というものだろう」
呆れたように肩を落とす眼前の女性。
「今日は夜に用事があるんだがそれまで暇なんだ。それまでどう過ごしたものかと思っていたのだが」
「それで、その相手が俺だと」
「そうだが。だって君、その英語の喋り方からしてアメリカの人間だろう? ここの人間じゃないのか?」
もちろんボブは沖縄に来たのは人生で初めてのニューヨーカーなの。だが、どちにせよこれは好機ではなかろうか。わけがわからない展開になっているが、単純に考えてこれは人生初の異性との初デートになるのではなかろーか。
ボブは改めて眼前の異性を目にする。
――――――何も異論はない。というかスペック高すぎ問題。
「いや、僕も最近ここに来たばかりなんですけど」
ボブは愛想笑いを絶やさなかった。照れるように後頭部を右手の人差し指と中指と薬指で掻き、爪の間にゴミが溜まるのを感じながら、彼は己の脳内FCSを起動させ、この戦場に適する最優の武装をなんとかひっぱりだそうとした。そうして、自分の経験のなさに呆れた。
「でもまぁ行きたい場所なんかは結構計画練ってきたんで、良かったら一緒に行きませんか」
「いいな。じゃあ、早速行こうか」
女性がどこか無邪気に破顔する。大人びているだけに、その子どもっぽい笑みがなんとも言えなかった。無論、いい意味で。
「そう言えば名前はなんていうんでしょう。僕はボブ・アブドゥルって言います」
「私か?」
彼女は何か言いかけた後、咳払いした。噎せでもしたのだろう。人間とはよく噎せる生き物である。ほら、向こうのレジでもやはり店員が噎せている。この店に来てよかったと思った。エアコンが涼しい。
「私はジェーンだ。ジェーン・メント。素敵な名前だろう?」
※
「あまりこういう所に来ないんだが」しっかり握りしめた飴色の缶を呑込む。昼下がりの国際通りでは祭りのようなものをやっており、「こう、観光というのはどういうところに行けばいいのだろうか」
「さぁ。俺も縁遠い人間なもんで」
ボブも右手に握った缶ジュースをいつもの習慣で口に運びかけ、口についた瞬間に中身の液体を体内に流し込むのを停止した。缶の口に少しだけ付着した真っ白の液が舌に着き、杏仁豆腐のような薬のような奇怪な味が舌を痺れさせ、思わず身体を震わせた。
おずおずと飴色の―――というかまだ成体になっていないゴキブリみたいな色の缶を視線の高さまで掲げる。白い文字で、でかでかと「DOCTORSALT」と描かれていた。
これの何が美味しいのだろう。ボブには全く理解不能だ。
「うーん、流石はDOCTORSALTだ。香りが違う。そうだろ?」
「え? あ、そうですね」
うんうん感動したように唸りながら、右手の飴色の缶を呑込んでは、左手のコンビーフをむしゃむしゃ食べるジェーン。どう見ても食べ合わせが良いとは思えないのだが。というか、なんで観光に来てコンビニで物を買って食べているのだろうか。国際通りの両側をふと眺めれば、それなりに食事処はあるようにも見受けられるのだが。むしろ、ボブ・アブドゥルという存在様式からして、観光に来たら何か美味しい物を食べるというのが常識なはずである。ほら、ちょうど300m先には美味しそうなオムライスのお店があるじゃないのさ。
渋々自分の手許を見る。右手にはゴキブリ―――じゃなくて銅色の缶に、左手にはチョコでコーティングされたドーナッツが。
眉毛同士が悩まし気に相談しながらも、ボブは隣を見た。
「これこれ、これだよ。やっぱり私の知っているコンビーフは馬肉入りだ」
ほくほくと笑みを浮かべながら、コンビーフ2つ目を食べ始める彼女の顔は、その暴力的な肉体と鋭い目つきに反して幸せそうだ。目つきは鋭いが。
「まぁ、いっか」
ドーナッツにかぶりつく。コンビニの癖に、結構おいしいではないか。
それにしても、いつまでも通りをぶらぶら歩いているだけというのは如何なものか。そろそろ何か観光らしい観光をだ。
2口目でドーナッツを食い切り、ティッシュで口元を拭きながら周囲を見回す。隣では、ジェーンが指先を舐めてはジュースを飲んでいた。ボブもジュースを口にし、そうして噎せた。
「どうした?」
「いや……」
「そうか? しかしこの素晴らしい香り、流石は私の見こんだ清涼飲料水だ。のど越しも―――」
滔々と己の愛するジュースの熱弁を振るう姿を、複雑な気分で眺める。やっぱり、ボブにはその良さはさっぱりだった。
「あ!」ジェーンが奇声を挙げる。拍子に、彼女が握っていた缶がぐしゃぐしゃに潰れる。「なぁ、あそこに入ってみないか?」
ジェーンが指さす先を見る。
ゲームセンター。看板ではネオン光がやかましいくらいに光を燈らせていた。明らかに周囲の雰囲気とズレているようにしか見えないが、見ていれば結構人が出入りしている。自分の予定には無かったが、まぁ、リゾームにスケジュールを消化するのも観光の醍醐味だろう。いや、出入りする人の具合を分析すれば、それ以上のことがわかる。まず、案外老人が多いこと。これは関係ないからいい。次に、敢然と独りで突入していく人がぱらぱらいること。これはゲーマーであるため除外する。ちなみに、ボブは普段この第二グループに該当する。大事なのは、三つ目だ。キャッキャウフフしてそうな雰囲気を纏った異性あるいは同性の連れが中に入っていく組み合わせである。
ボブは、戦慄と共に催促するかの如く小首を傾げるジェーンを見た。
勝ち組への光指す道が啓けている。朧な光に照らされながら、確かな軌跡が未来へと続いているはずである。
「行きましょう!」
「あぁ!」
共に不敵な笑みを浮かべる。堅く手を握り合うや、そのままゲームセンターへと向かっていく。途中、手を繋いでいることに気が付いたボブは、子どもみたいな単なる変態みたいな奇怪で愉快な笑みを浮かべていた。未来はやはり明るそうである。
「何? 金を入れればいいのではないのか?」
「まずコインに替えるんですよ」
小さい、赤いバケツのようなものに入った銀色のコインを興味深げに眺めては、ジェーンはコインを手に取って天上のライトに翳してたり、親指で弾いたりしている。エキゾチックな茶褐色の肌、鼻筋の通った聡明な顔立ち、容赦なく生命を懊悩の坩堝に叩き込む女性的なる肉体に反しての、その無邪気そうな仕草がチグハグで、むしろ反則級だ。
ボブは優越の眼差しを周囲に向けた。なるほど、女づれの野郎が居る。背のデカい野郎は大したことが無い。女の子は―――くそう、結構カワイイぞ。あの野郎……。
虚しいことを感じるも、ボブはすぐにドクサを打ち消した。明らかに、あのちんちくりんよりも今ボブの身近に居る方が上位種である。
「ねー、これもう一回やりたいな」
「えっと、良いですよ。飽きるまでやってください。金はありますし」
「やったー」
大男に抱き付くジュニアハイスクールくらいの女の子―――羨ましくなんかない。絶対に。
そう言えば、肝心のジェーンはどこに居るのだろう。既にボブの隣りに彼女の影は無く、きょろきょろと視線を動かしてみる。すぐその姿は見つかった。
何をやっているのだろう。ジェーンのもとに行こうとした時、不意にジェーンが拳を振り上げるや、「Damm it!」の罵声を挙げながら台を殴りつけた。そうして、赤いバケツみたいな入れ物からコインを取り出しては投入口に叩き込む。「あ゛あ゛あ゛!?」
「ど、どうしました」慌てて駆け寄る最中にも、再び台を痛めつけていた。
「なんてクソッタレなマシーンなんだ」がんがんと台を叩いては涙目を浮かべて、再びコインを投入していた。
クレーンが上の方でゆらゆらと揺れている。そうして、彼女が狙っているであろう戦車のぬいぐるみを掴まんと下に降りていく。クレーンゲームという奴だ。巧妙に操作されたクレーンは、丁度戦車のぬいぐるみの真上から下降し、しっかりと加え込む。ジェーンが嬉々とした表情とともにガッツポーズを取る―――が、戦車のぬいぐるみが宙に浮き、大きく揺れた拍子にぬいぐるみは元の位置に綺麗に落ちていった。というか、最初の位置より取りづらい位置になっているような……。
「がおー!」
ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き毟り、一睨みで生物を死滅させられるほどに睨みつける。まぁ、その気持ちはよくわかるなぁ、とジェーンとクレーンゲームを交互に見比べた。コイン入れの中を見れば、もう後3枚しかないではないか。
「あうー……」沈鬱な面持でコイン入れに目を落として、大きく肩を落としていた。入って早々、ゲームセンターに入ったことを後悔し始めているようにすら見えるではないか。
これでは、彼女が嫌な気分になって終わってしまう。それは断じて否。拒否しなければならないことである。そうして、危機の時にこそその危機を活用して最大のチャンスとしなければならない。
「ジェーン」
「なんだ」ジェーンはむすっとしたまま、翡翠色のジト目で観上げる
守ったら負けるのである。ここは果敢に攻める時だ。
「ちょっと僕に任せてくださいよ」
「何? お前はこういうのが得意なのか?」
にやりと口角を挙げて、サムズアップを見せつける。沈鬱な表情から一転、期待に目を輝かせるジェーンにいい気分になりつつ、自分のコイン入れから一枚コインを投入する。狙いは、二本の棒の上に鎮座するパンツァー一機。俆るるに足らない雑魚だ。
つらつらとクレーンが移動し、ぬいぐるみを掴む。緩慢な動作で持ち上がる最中、クレーンから外れた深緑色のぬいぐるみが地面に接触して大きくバウンドする。
「ダメじゃないか」ぷー、と頬を丸く膨らませて、非難するように腕組みする。
「慌てるのはまだ早い」
「ど、どういうことだ?」
「あれを」中を指さす。目を凝らしたジェーンの顔が、ボブのすぐ隣に依る。良い匂いですありがとうございました。
「……そうか。クレーンゲームは一見単純なゲームに見えて、戦略的なゲームというわけだな?」
「えぇ。敵を一撃で撃沈せずとも良い。波状攻撃でじわじわ追い詰めて、最後に仕留めるんですよ。ほら、隣の人を」
ボブとジェーンの隣では、壮年の厳つい顔をしたスーツ姿の男がクレーンゲームに臨んでいるところだった。ジェーンのやっているタイプと違って、大きいぬいぐるみがあってそれを下に落とすのではなく、小さいぬいぐるみが床に大量に散らばっており、手前のスペースに落とすというものだった。大工の棟梁か軍で部隊指揮でもしているんじゃないかと思う程に厳めしい面持で、男が投入口にコインを入れる。
手前には小さめのぬいぐるみの山。男の戦術予報には寸分の狂いも無い。迅速且つ的確なクレーンのオペレーションでクレーンはその山の中に突入し、黄色い蜂蜜好きなクマのぬいぐるみの群れを一息に持ち上げる。途中、クレーンからぼろぼろと擬音語みたいな名前のクマが零れていくが、最終的に落とし口には3つほどが落ちていった。
今度は奥の方の、やや大きめのぬいぐるみへ。やはり男の操作に迷いはない。素早くクレーンを蜂蜜のツボを抱えたクマの頭上に移動させる。下に降りたクレーンはぬいぐるみではなく、空を掠る。だがそれで終わりではない。クマの頭についた白い紐をつかみ取ると、ぶらぶらと揺れながらもしっかりとクマが飛翔した。
「流石はジャパニーズサラリーマン。卓越した名人芸だ」
「じゃあこっちも速攻で仕留めましょうか」
もう一度、ボブは自分の―――ではなく、ジェーンの獲物をしっかりと眼差した。あと2回―――いや、1回で轟沈させる。判断するより早くコインを突っ込む。人を馬鹿にしたような音を鳴らして、クレーンが頭上を彷徨う。
まず一撃目でタンクにずらしを行った。どうやらアームの力が弱いようで、一発で紐通しをしても取れそうにはなかった。だが、もう下準備は整った。後は華麗な手腕でアームを紐を通せばいい。ゲーマー:ボブ・アブドゥルにしてみれば児戯に等しい。クレーンを止める。降下ポイントはジャストフィット、後は己の戦術予報が如何にパーフェクトであったかをじっくり観想するまでだ。
「おお!」
クレーンは当然に戦車のマズルブレーキに取り付けられた紐を潜る。ジェーンが無垢そうな笑みを浮かべて透明なプラスチックに張り付いて、その事の行方をきらきらした目で見つめていた。大丈夫だ、問題ない。きっと彼女の渇いた胸の内を癒すことはできる。
クレーンに紐がひっかかり、ゆっくりと抱えるほどもある戦車が上昇していく。だが、そのまま順調にいかないことは十分に承知している。なぜなら、クレーンのアームがぴったりくっついているわけではないからだ。このままでは、紐は隙間から抜けていくだろう。
丁度戦車が宙づりになったところで、輪っかがクレーンのアームからすっぽ抜ける。ジェーンの失望にも似た悲鳴があがるのも今は気にせず、内心のハラハラもやはり気にせず、ボブは口を噤んだまま、大きく弧を描きながら戦車が落下していく姿を血眼で凝視した。
戦車が二本の棒の上で大きくバウンドする。勢いのまま戦車はもう一度小さくバウンドし、後方が棒の支えを失う。尻から墜落していくように、巨大な戦車は下の落下口に落ちていった。
まるで自動販売機で買うみたいに、下の口から戦車のぬいぐるみを取り出す。大柄なボブでようやく抱えて持つくらいにデカい。いや、そんなことよりも、戦車のぬいぐるみというのは何なのだろう。誰に売れるのだこれは。いやまぁ、事実自分の隣に居る人はこれを欲しているわけだけれども。
「はい、取れましたよ」言って、旧時代の見た目の戦車を渡そうとした時だった。
どすん、という鈍い振動が身体の前面を叩いた。
「すごいぞボブ! 本当に嬉しいぞ!」
耳元で、嫌に大きく聞こえる彼女の声。なんだか身体に柔らかい物体の感触が―――。
―――もう、説明するまでもあるまい。ボブ・アブドゥルは、人生で最も幸福な、穏やかな笑みを浮かべた。死んでもいい。いや、むしろ殺してください。
※
「あの、僕、初めてで……」
「私だって初めてだ。何事も初めての時があるだろう」
「でも……僕恥ずかしいですよ」
「あーもう、いいから! 速く中に」
「―――まさか人生でプリクラに入ることがあるなんて」
※
ゲームセンターから出たのは、結果として5時間後だった。空には夜の帳がかかりはじめ、瑠璃色と茜色が混在する黄昏の時間だ。流石沖縄と言うべきか、夕暮れだというのにまだ肌に熱がまとわりついている。ボブは途中のコンビニで買ったミネラルウォーターのペットボトルを呷った。ジェーンはカツサンドを頬張っていた。脇には、例の戦車が大事そうに抱えられていた。
「よく食べますね」ペットボトルのキャップを締める。ジェーンはカツサンドの一切れを口の中に入れて、もう一つを手に取っているところだった。
「今日は腹がペコちゃんなんだ」
もう一切れのカツサンドをつまみながら、ゴミをコンビニの袋に入れて別なものを取り出していた。こんなことなら、やっぱりしっかりしたところで何か食べるんだったか。というか、ただゲーセンに行くだけって観光か? 微かに疑問を浮かべたが、至極ジェーンは楽しそうだったから、問題はないだろう。
「そうだ」思い出したように呟く。「ちょっと待っていてくれ」カツサンドを丸呑みしたジェーンが、不意に道沿いの店に入っていく。
なんだろう。追うべきなんだろうか。だが待っていろと言っていたし。
やっぱり行った方が良いかなぁ、と腕時計を見始めた頃に、彼女が店から顔を出した。ずいと紙袋を差し出す。ジェーンから受け取って、中を見れば白い箱が入っていた。
「これ、貰ってしまったからな。受け取ってくれよ」
「そんな、悪いですよ。大したものでもないのに」
「私は、嬉しかったから」腰に手を当てて、ジェーンは少しの頓着も無い少年のような笑みを浮かべた。
「今日は、楽しかったよ」風が吹く。ジェーンが前髪をかき上げた。「今日一日、お前と一緒で良かった」
はっきりと響きながらも、じっとりと輪郭が熔解していき頭蓋の中で何度も反復される高級和牛のような言葉が肌を撫でていく。
―――あ。やばい。ボブはその瞬間、確かに何かが胸の奥で凝るのを感じた。暴力的で、それでも何故か大切にしたくなるような、心地よい疼きの拘束感。
夜の到来、神々の到来を前にした一瞬の陽の煌めき。黄金の風を孕んだジェーンの髪がふわりと夢幻に広がり、彼女のさらさらした甘い匂いが一直線に鼻孔を貫き、身体中の隅々を吹き抜けていく。ボブを見つめるエメラルドグリーンの影は、どこか鬼神のような妖艶を指し示している。顔のない黄金の趣味を惹起させる、匂い香る日本人風の存在と時間の結合点の古代の想念。ニューヨーク育ちのヤンキーの胸の中に震えたのは、荘厳な古典の甘いドキドキのイデアだった。突如遭ったばかりの相手だ。だが、一目見て運命の人だと悟ることも巷には溢れているらしい。この胸のキュンキュンの名前を、自分は知っている。これって。これって。
「ジェーン!」何から言えばいい? ここでいきなり? いや、最初は連絡先?
「なんだ?」逆光のせいで、ジェーンの顔はよく見えない。
「あの、僕……いや、俺は!」
「あ」
―――俄かに、酷く間延びしたジェーンの呟きが耳朶を打った。
「おーい、ジェーン!」
遠くの方で、やっぱり気の抜けたような、奇妙な男の声がする。戦慄とともに背後を見れば、酷く目つきの悪い男が手を振っていた。
「よお、待ったか?」
「いや、全然」
ジェーンと気さくに―――ではなくどこかぎこちないが、それでも自然に会話する不健康そうな男が目を合わせる。目つきがとにかく悪い。睨まれている。あまり暴力沙汰が好きでもないボブにしてみれば、その淀んだ一瞥だけで十分震えあがってしまった。
「だれだ?」男が眉間に皺を寄せる。
「今日お前が来るまでの時間一緒に居た奴だ。イイ奴だぞ」
「そ、そうか」動揺したように、安堵したように肯いていた。
「えーっと、その人は?」
「言っていただろう。人と待ち合わせてるって」言いながら、ジェーンは男を指さす。指の先の男は、とんでもなく深い皺を眉間に刻みながら、何故か動揺しているという奇妙な相貌を返していた。
「今日は本当楽しかったよ。じゃあな、ボブ」
踵を返して、ジェーンが通りを進んでいく。待ち人だという男も、一度指すような視線をボブに投げつけた後、慌ててジェーンの背中を負った。
国際通りには人通りが多い。そのやかましいはずの喧騒が、何故か遥か彼方で起きているかのようだ。
「ねー、今度はオムライスたべたいな」
「えぇ、良いですよ。今日は、君のための日だから」
「ほんと? やたー」
イチャコラしてる野郎と女の声だけはやたらと鼓膜を突き刺していく。
ぽつねんと、騒音に包まれた孤独の中、ボブは右手に握っていた紙袋の存在に気が付いた。赤銅色の外見で、中身はモダンな土色の、小ぶりな紙袋である。紙袋の中には、何故か無ではなく白い箱が存在していた。放心したまま、紙袋の白い箱の蓋を開けてみた。
「鏡?」
手のひらサイズの、小さな四角い鏡だった。蓋を開ければ、この世界に存在する意味を半分削り取られて、奇妙に歪んだ、肥満の黒人の、冴えない面が映っている―――。
「―――うわあああぁぁぁぁあん!!」
野太い悲鳴が、逢魔に浸された妙趣の空に破裂した。
※
「なぁ、本当になんでもないのか?」
「いい加減しつこい。ボブは単に知り合った男で、時間を潰すのに付き合ってくれていた優しい紳士だ。予定の時間に遅れてくるような、どっかの誰かとは大違いのな」
左手につけた腕時計の時計盤をありありと見せつける。目もとにくまが出来ている細身の男は、委縮したように身を縮めてはぶつぶつと独り言を言っていた。「あんなデカくて恐そうな奴が……」
ジェーンはそんな湿っぽい話には一切耳を傾けず、いや、存在していることすら認知せずに、一人で大きく伸びをした。沖縄は気温が高いとは言うが、流石にお腹が寒い。晩御飯は、温かい汁ものの料理でも胃に入れたいところだ。きょろきょろと通りを見回すと、丁度ラーメン屋のおどろおどろしい英語の看板が目に入る。ソーキそばなんていいかもしれない。
「お腹が空いたのだが、あの店に行かないか」ジェーンが指で示す。念仏を唱えるみたいにぶつくさ言っていた男が慌てたように身体を震わせて顔を上げた。
「えー。麺類?」
「問題か?」
「いや、なんでもない。じゃあ、行くか」
くたびれた様子で、カットソーのポケットに手を入れて歩き出す疲労気味の男。ジェーンを名乗る女は、釣り目気味の目つきを穏やかに緩ませる。
「言っておくが、お前の奢りだからな。Show must go on!」
「えぇ……」
気の抜けたような悲鳴は、麗らかな雑踏に呑まれて、掻き消えていった。
お楽しみいただけましたでしょうか?
色々あり友人が書いてみたいというこでお願いした今回の話ですが、予想以上に面白く私も驚きました。そして文章が上手い。
本編の方も引き続き更新していくのでよろしくお願いします。