少年提督と野獣提督   作:ココアライオン

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第3章

 ソファに深く腰掛けた鈴谷は、退屈そうに息を一つ吐き出しながら、野獣の執務室の天井を仰いでいた。今日は一応非番である。別に、邪魔さえしなければ何処に居ても良い。此処に足を運んだのは、熊野が秘書艦を務める事になったからだ。その理由も単純である。長門と陸奥、赤城と加賀が演習に出ているからである。別に珍しい事でも何でも無い。

 

 大規模な作戦に於いては、この鎮守府からでも大量の戦力が投入されることになるし、大破、中破して帰ってくる艦娘も少なく無い。人類が優位に立ってから、深海棲艦の動きは小さくなってはいるものの、戦艦レ級等の様な、より強力な固体の発生が目立つようになった。“エリート”などと呼ばれる個体や、“鬼”、“姫”、の名で呼ばれる、深海棲艦の人型の中でも、更に上位の個体の確認も増えて来ている。前の作戦でも、こうした強大な力を持った深海棲艦の特殊体との戦闘、討伐に重きが置かれていた。かつての激戦期には及ばないにしても、激しい戦闘だった。勝利こそしたものの、当然、沈んだ艦娘も少なくは無い。錬度の低さや判断ミス、不運が重なったりすれば、どんな瑣末な事でも轟沈に直結する。そんな厳しい戦いだったが、この鎮守府では誰も沈むこと無く、無事に作戦を遂行し、終えることが出来た。この戦果も、艦娘一人一人の錬度の高さと、それを支える“提督”の指揮があってこそだろう。どちらが欠けても、駄目なのだ。

 

 こうした艦隊の強さを構築、維持する為には、それなりの規模の演習も、どうしても必要になってくる。その為、大和や武蔵、長門や陸奥の居るこの鎮守府には、かなり本気の演習依頼が入る事もしばしばである。今回は野獣が編成した艦隊が演習に出ることになった。ちなみに、この戦艦と空母だけの編成は、相手方の希望である。戦艦枠は別に誰でも良かったのだが、長門の“どうしても”という強い希望が在り、陸奥との出撃となったのだ。

 

 まぁ、勝ち負けについて言えば、まず負けて帰ってくるだろう。“元帥”クラスの提督が演習を受けるという事は、胸を貸すというか。相手方に花を持たせてやるという意味合いが強い。錬度の低い艦隊に、戦闘の経験と、勝利の経験を与えることを目的としているのが、実際のところである。意義深い演習にするのも当然神経を使うし、楽な任務という訳でも無い。

 

 演習から帰還してきた長門達の負担を軽減させる為に秘書艦を買って出る、真面目な熊野の気配り上手なところは、やっぱりお嬢様だなぁ、とか思ってしまう。鈴谷も何か手伝おうと思って執務室を訪れたものの、何でもテキパキとこなしてしまう熊野の御蔭で、出る幕は無いのであった。まぁ、秘書艦用の執務机も一つしか無いし、手持ち無沙汰になるのも仕方無い。おやつでも用意してあげようかな、とも思った。だが鈴谷が動くよりも先に、鳳翔さんがお茶と茶菓子を持って来てくれた。えらく高価そうな羊羹だった。凄く美味しそうなのだが、ソファテーブルに置かれた羊羹に、まだ鈴谷は手をつけて居ない。こういう穏やかな時間を感じる機会が増えたせいか。つい先程の鳳翔さんの微笑みが、嫌に印象に残っているからだ。

 

 前の作戦に、鳳翔さんは出撃していない。それを責めるつもりは毛頭無い。と言うよりも、本当に頭の下がる思いである。鎮守府に残り、戦場へ向う艦娘達を笑顔で見送り、無事を祈りながらじっと待ち続けなければならない苦しさは、果たして如何ほどか。帰って来た艦娘達に、いつも通りの、ホッとするような笑顔を向けられる、その芯の強さには本当に敵わない。作戦発動中はじっと待つしか無い提督や野獣も、鳳翔さんのそういう心の強さに救われている筈だ。彼女が居なければ、この鎮守府はもっとピリピリしている事だろう。そんな事をつらつらと考えてから、ふと思う。或いは。鳳翔さんの強さも、提督や野獣が居るからこそなのかもしれない。鈴谷は少しだけ体を起こし、視線だけで野獣を見た。

 

 

「アー吐キソ……(弱音先輩)」

 

 野獣は、参った様な貌でボリボリと頭を掻きながら、書類の束に眼を落としている。

 

「少し休憩に致しましょうか。丁度、折角淹れて頂いたお茶も冷めてしまいますし……」

 

 熊野の方は、捌き終わった書類をトントンと束ねながら、鈴谷と野獣を交互に見た。執務も一段落着いたと言うことだろう。「お疲れー」と、鈴谷は熊野に軽く笑って見せてから、ソファに浅く座り直す。

 

 野獣の方も、溜息を吐き出しながら持っていた書類を執務机に乱暴に置く。傍に置かれた湯吞みを引っ掴み、勢い良く飲もうとして「アツゥイ!」火傷していた。鳳翔さんが淹れてくれたお茶なんだから、もっと味わって飲めば良いのに。少しだけ可笑しそうに笑う熊野に釣られて、鈴谷もちょっとだけ頬が緩んだ。誰かと微笑みを交し合う様な、こういう穏やかな時間の中に居ると、出撃中に味わう緊張感を思い出せなくなりそうだ。まぁ、別に忘れても良いじゃん、とか思う。どうと言う事は無いだろう。頭で思い出せなくても良い。

艦娘である鈴谷を“鈴谷”たらしめている、あの五感が研ぎ澄まされていく感覚は、ちょっと言葉では表すことが出来ない。

 

 しかし、戦いの感覚は無意識の部分に刻まれている。いざ艤装を纏って海に出れば、鈴谷の身体は勝手に戦闘体勢に入ってくれるのだ。極端に言ってしまえば、緊張感とか、覚悟とか、気合とか、絆とか、感情とか、そんなものは必要無い。艤装を纏えば、鈴谷は“兵器”なのだ。習い性とか、癖とか、そんなものじゃない。鈴谷の魂に、誇りと共に刻まれた感覚なのだ。ある意味で、それが艦娘の正体なんだろうとか思う。“鈴谷”から余計なものを全部削ぎ落とした時。其処に残るのは、深海棲艦と戦う為の艤装と、その艤装にひっついた、肉で出来た人型の部品だ。

 

 ソファテーブルに置かれた羊羹を竹楊枝で一口サイズに切り分けて、鈴谷は一つ口に放り込んだ。溜息が出るくらい美味しい。湯吞みを傾けて茶を啜れば、五臓六腑に染み渡る様な、安らぎとも何とも言い難い、幸福感の様なものを感じる。こういう艦娘の感覚や感情を無駄と斬り捨てるか、尊重して育もうとするかで、“提督”というものが二種類に分かれているのが現状と言える。前の作戦海域にて、大破にも関わらず進撃を命じられた、別の鎮守府の“鈴谷”の貌が脳裏を過ぎる。

 

 情動が欠落した様な青い顔。光の消えた虚ろな眼。生気が感じられないのに、不気味な程に瑞々しい、応答の声。思い出すと、背筋に寒いものが走った。野獣に召還された私は、まだ恵まれてるんだなぁ…とか、しみじみと思ってしまう。やっぱり彼女は、沈んだんだろうなぁ。“ロック”、掛けられて無かったもんなぁ……。捨て艦だったのかなぁ。そんな思考が、ずっと頭から離れずにこびりついたままだった。

 

 

 鈴谷は緩く息を吐き出しながら、野獣と熊野を見比べる。野獣は、苦虫を噛み潰すと言うか、便所コオロギをしゃぶっているみたいな貌で、書類に眼を通していた。熊野は、やっぱり上品な仕種で湯吞みを傾けて、鳳翔さんが淹れてくれたお茶を味わっている。空調の修理が終わった執務室は、過ごし易い涼しさが保たれているし、外から聞こえる蝉の声も、心地よく感じる。窓から外を見遣ると、羊雲が揺れる晴れた空が広がっていた。「ねぇ、野獣提督」窓の外を眺めてから、別に用も無いのに、何となく声を掛けてみる。野獣は黙ったまま、鈴谷の方へと視線だけ向けた。鈴谷は冗談っぽく笑った。

 

「さっきからしんどそうな貌してるけど、お腹でも痛いの?」

 

「別に腹の調子は悪く無いけど、具合悪いのはこのJNYUの報告書なんだよなぁ…(憔悴)」

 

 野獣は万年筆を走らせて、書類にチェックを付けて居る。それも、かなりの頻度である。その手元を横から覗き込んだ熊野が、ふすっ……、と変な息の吐き方をした。多分、笑いを堪えようとしたのだろう。ちょっと気になった。「どんな事書いて在るの?」ソファからじゃ見えない。鈴谷はちょっとだけ首を伸ばした。隼鷹が出撃から帰って来て、酒を煽りながら報告書を作成するのはいつもの事だし、割りと有名だ。

 

「出撃海域=E364364―1919810って何処だよ(未知のエリア)」

 

「えぇ……、宇宙……かな?」 

 

「平行世界かもしれませんわね」

 

「何で一人だけ時空を超えてるのか、理解に苦しむね…(万年筆ペチペチ)。そもそも、地球上に存在しない海域に出撃するのは流石にNGなんだよなぁ。こんなモン修正するこっちの身にもなってよ……。お仕置きほらいくどー(無慈悲/no mercy)」

 

ふふっ、と、上品そうに笑った熊野は、一口茶を啜った。それから、野獣に向き直る。

 

「そう言えば今日の夜、先の作戦の成功と、私達の慰労を兼ねて、何か余興を開いて下さる予定だとお聞きしましたが、そろそろ教えてくれても宜しいのでは無くて?」

 

 ちょっと楽しそうな熊野の言葉を聞いて、あぁ、そう言えばと思い出した。そんな事を言っていた気がする。あれは確か、作戦が始まる前。山向こうの夏祭りに、鎮守府の艦娘達がボランティアやらパトロールに出張った時だった筈だ。祭りを楽しみ来ていた街の人々からも割りと好評を貰い、提督と野獣の試みは好感触だったので、打ち上げ代わりに鎮守府で何かやろう。確か、そんなノリだった様に記憶している。苛烈な作戦をこなした後だったので、すっかり忘れていた。熊野の視線を受け止めた野獣は、言うか言わまいか迷うように視線を泳がせてから、“まぁ、もう言っちまっても良いだろう”みたいに、肩を竦めて見せた。

 

「間宮の無料券を景品にぃ、肝試し大会みたいなの、やるらしいっすよ。じゃけん、夜までにやる事は全部片付けちまいましょうね~(仕方無し)」

 

「へぇ~、そんなの企画してくれてたんだ」 

 

作戦を挟んだせいで、ちょっと季節的にはヒットしていないかもしれないが、まだまだ熱いし、丁度良いだろう。鈴谷は、野獣の事をちょっと見直し掛けた時だ。「あっ……」と、熊野が何かを察したみたいに声を漏らすのが聞こえた。

 

「どうしたの、熊野?」

 

「い、いえ、野獣提督が今日の演習メンバーを選ばれる際、長門さんが妙に食い下がっていらした理由が分かった気がしまして……」

 

 鈴谷も、あっ(察し)、と言いそうになるのを堪えた。

 

 凛然とした実直さと不屈の闘志を備え、戦場では修羅の如き強さを発揮する、戦艦長門。かつての激戦期を野獣と共に戦い抜いて、数多の深海棲艦を撃破した、百戦錬磨の“艦娘”である。戦場では味方を守り、鼓舞し、敵を討ち斃す。大和や武蔵、陸奥と共に、彼女は現在の護国の化身だ。しかし、そんな強大な力を持った彼女にも、どうやら苦手と言うか。これだけは駄目だと言うものが在るらしい。それが、幽霊やお化けと言った、オカルトやホラーの類いだという事も、噂では聞いた事があるのだが。

 

「入渠時間稼ぐ為に、NGTは大破して帰って来ますね。クォレェハ……(確信)。ついでにKGも中破あたりですね……間違い無い。MTとAKGは……普通だな!」

 

「流石にそこまでは……。長門さんが旗艦で大破までいくかなぁ? と言うか、加賀さんもお化けとか駄目なんだ?」

 

「意外ですわ」

 

「NGTとKGは、夜中にトイレ行く時に艤装展開してるから、ま、多少はね?(いじめっ子特有の暴露)」

 

 何だか。こういう馬鹿な話をするのも、何だか凄く久しぶりな気がして来た。ふっと、あの“鈴谷”の貌が過ぎった。鈴谷は、自分の首に掛かったネックレス型の野獣の“ロック”を確認するみたいに触れる。ただそれだけで、奇妙な程安心している自分に気付いて、苦笑が漏れそうだった。確かなものってなんだろう。誇りだろうか。勝利だろうか。分かんないや。

 

「野獣提督。鈴谷が好きだって告白したら、ケッコンしてくれる?(唐突)」

 

 何となく聞いてみた。茶を啜っていた熊野が盛大に噴出し、激しく噎せ返り過ぎて椅子から転げ落ちた。その様子を横目で見ていた野獣の方はと言うと、疲れた様な顔になった後、ひらひらと手を振って見せた。

 

「冗談は後にして、どうぞ(無関心)。そろそろ執務に戻らないと、夜までに終わらなくなっちゃう、ヤバイヤバイ……」

 

 隼鷹の報告書を脇に退けた野獣は、また別の分厚い書類に眼を通している。先程とは違う、妙に真剣味な様子だ。何か深刻なことが記されているのだろうか。また鈴谷が書類について聞こうとしたが、出来なかった。咳き込みながら猛然と立ち上がった熊野が、凄い勢いで詰め寄って来たからだ。ずんずんと凄い剣幕で迫ってくる熊野に、思わず身を引こうとしたところを、熊野に優しく、強く抱きしめられた。

 

「気を確かに! さぁ、今から本営の医務機関に向いますわよ!!」

 

ぐいっと腕を引っ張られ、無理矢理立たされる。熊野の眼はマジだった。

 

「ちょ、ちょっち落ち着いてよ、熊野! 私はへ、平気だから! 正気だから!」

 

何とか宥めようとするが、親友の身を案じる熊野は止まらない。というか、大粒の涙をポロポロ零して泣き出した。

 

「ごめんなさい鈴谷……。貴女の心の悲鳴に気付いて上げられなくて……」

 

慙愧に耐えないと言った様子の熊野の言葉は、真剣そのものだ。

 

「く、熊野! 冗談! 冗談だから、ね!? 冗談に決まってるでしょって! 野獣とケッコンとか有り得ないって、それ艦娘達の中で一番言われてるじゃん!」

 

 本人が此処にいるんだよなぁ……。書類に眼を落としたままの野獣が、耳を小指でほじりながら呟くのが聞こえたが、まぁ良い。鈴谷は超笑顔で、熊野を安心させるようにハグを返す。その御蔭か、何とか熊野の眼に冷静さが戻り始めた。「大丈夫だってー、安心してよー」と、割りと必死な鈴谷の呼びかけに、熊野は洟を啜って、鈴谷と野獣を見比べた。何かもう、マジで困ってるのに笑うしか無いみたいな鈴谷と、醒めた様な貌の野獣の様子に、冗談だと理解してくれたらしい。

 

「ぅ、うぅ……羽毛(?)!!」

 

 たぶん、“もう……!”と言おうとしたのだろうが、勘違いした恥ずかしさからか、舌が縺れたのだろう。熊野はスカートポケットからハンカチを取り出しながら、秘書艦用の執務机に足早に戻った。こけた椅子を立たせて座り、ハンカチで顔を拭いながら拗ねたみたいにそっぽを向いた。

 

「そういう冗談は感心しませんわ! 吃驚するでしょう!? 御蔭でもう顔中、お茶と涙まみれですわ!! 御覧にならないでっ! この無残な私の姿!!」

 

「ごめんって、熊野~。ね、許して。今度何か奢るからさ~」

 

 別に、鈴谷が熊野に何か直接悪い事をした訳でも無いのに、何だか鈴谷が悪いみたいな雰囲気になったので、取りあえず熊野に謝った時だった。秘書艦用の執務机の上に置かれていた、通話機能を備えた携帯端末が電子音を鳴らした。ディスプレイには、“艦隊帰還”の文字が点滅しているが見える。ついでに、“敗北”の文字。更に言うと、“長門、大破”“加賀、中破”の文字が交互に点滅している。野獣の予想が的中した。「ドックからですわね……」熊野はまた洟を啜ってから、端末を野獣に渡した。それを受け取った野獣は、手にした書類を置いて、端末を耳にあてる。

 

 

「ちょっと遅かったんちゃう?(クレーマー)」

 

『……予定通りの時間だろうが』

 

「あのさぁ……。予想はしてたけど、本当に大破して帰ってこられたら資材が吹き飛ぶんだよなぁ。相手に花持たせてやるのも良いけど、クソデカ作戦の後の後やで? どうしてくれんのコレ?(ネチネチ)」

 

『……あぁ、その事については……私も反省している。……今日の私には、何処か迷いが在った。入渠している間、少し頭を冷やしたい。己を見詰め直す時間が欲しいんだ』

 

「んにゃぴ、……真の敵は、いつも自分の中にあるからね。仕方無いね(適当)」

 

『!……あぁ、だから今日は……、“バケツ”を使わないでくれ。私が、私自身の弱さに打ち勝つ為の、時間をくれないか。……“バケツ”は必要無い』

 

 

 念、押すなぁ……。端末から漏れてくる長門の音声は、鈴谷と熊野にも聞こえていた。長門の凛として芯の通った力強い声は、それだけで周りに居る者達の気持ちを引き締める。しかし、今はちょっと違う。何だろう。この違和感と言うか、可愛らしさと言うか。この真面目くさった長門の台詞が、芝居がかっていると言うか、嫌に必死に聞こえてくるのだ。普段の勇猛果敢さや、苛烈、熾烈な彼女の面影は無い。

 

 あれ? 長門さんって、こんな親しみ易そうな人だったかな? 彼女のその強さ故か、近付き難い、無骨な印象を持っていただけに、軽い衝撃を受けているのが正直なところだ。野獣にしても、すっとぼけた様な遣り取りを続けているし、ちょっと笑いそうになる。見れば、さっきまで涙を拭って洟を啜っていた熊野も、俯いて肩を震わせていた。笑うのを堪えているんだろう。というか、長門さん、そんなに肝試しに参加するの嫌なんだ。

 

「一応確認するけど、MTとAKGは小破、KGは中破でOK? OK牧場?」

 

 野獣の執務机には、工廠や母港、編成、改装、補給などの指示を行える板状の端末が置かれている。ディスプレイに触れて操作するタイプのものだ。他にも、戦績やら任務などの情報の確認も可能である。野獣は、ディスプレイに触れて操作しながら、面倒そうに聞いた。

 

『あぁ。それと、加賀も自分を見詰め直す時間が欲しいそうだ』

 

『……はい。私もバケツは要りません。今日の余興は、私抜きで行ってくれて結構よ』

 

 長門の音声に続いて、少し遠くから響くような形で、加賀の声が聞こえた。その音声の背後の方で『あらあら』『ふふふ……』と、可笑しそうに小さく笑っているのは赤城と陸奥だ。まぁ、其々のドッグは一人用だけど声も響くから、このやりとりも筒抜けなのだろう。

 

『すまんな……。私の我が侭を聞いてくれるか(熱い言葉)』

 

「お、そうだな(端末ディスプレイのバケツ使用指示を連タップしながら)」

 

『…………ん? お、おい! 妖精達が“バケツ”を用意し始めたぞ!? 要らんと言っただろう!』

 

「あ~、もう一回言ってくれ(連タップしながら)」

 

『だ、だからっ!! お、オイ! ヤメロォ(絶叫)!! ヤメぼばばばば(高速修復)!!』

 

 野獣の持つ端末から、ザバァァァ!!と、盛大に何かをぶっ掛ける様な音が聞こえた。きっと、妖精さん達が“バケツ”を使って、一生懸命に長門達を治そうと頑張ってくれているのだろう。

 

「Fooooo↑! 気持ちィィ↑! 修復剤まみれで気持ち良いかNGTァ!!? 入渠に25時間とか甘ぇんだよ! 任せろォ、25秒で治してやるからなぁ(優しさ)!?」

 

『や、やめ、やめてくれ(懇願)! あばばばば(高速修復)! い、行かんぞ! 私は! ごぼごぼごぼ(高速修復)! 肝試しなど! 絶対に行ばばぼぼぼ!!(高速ry 溺れる!! 溺れる!!』

 

野獣の持つ端末から、バッシャアアア!! ザッバァアアア!! みたいな轟音が繰り返し聞こえてくる。“バケツ”使うにしたって、妖精さんもやり過ぎだろう。嵐が来た時の波浪音みたいだぁ……(直喩)。入渠ドッグこわれちゃ↑~う。阿鼻叫喚のドックの様子に、鈴谷と熊野は戦慄した。

 

「どうしてお前はそう、ホラーに対して根性が無ぇんだ? バミューダトライアングル一周して、土産に幽霊船10隻ぐらい曳航してくる勢いでIKEA! 序にグラ○ドラインも制覇して、海賊王も目指したれや! ウェア!(麦藁帽子並感)」

 

『そんな事出来る訳無いだろ!! いい加減にしぼぼぼぼぼばば!!(溺れ気味)あ~^傷が癒えるぅ↓! 癒えてしまう~↑! む、陸奥ぅ! 私を撃てぇ(錯乱)!!』

 

「更なる高速修復、イクゾォォォォォォオオオオ!!! オエッ!!(ガンギマリ)」

 

 

 

 

 

 海から見て鎮守府の裏手には、街に続く広い道路が通っている。その道路を挟み、向かいの山裾へは茫々と森林が広がっており、割りと自然が豊かだったりする。単純に、この沿岸一帯に人が寄り付かないだけなのだが、深海棲艦が現れるまでは、それなりに人が訪れていた様だ。鎮守府内に建てられた艦娘寮の屋上などからは、手入れなどまるでされていない茂みの先に、こじんまりした廃旅館も見て取れた。その他にも、ポツポツと建物らしきものが見えていたので、廃村と言わずとも、あの規模では廃集落とでも言うべきか。そうした建物を再利用しようという動きが在ったのは、つい最近だ。

 

 本営が手配したのだろうが、いかつい軍用作業着を着込んだ男達が多数の重機と共にやって来て、鎮守府裏手の山裾に広がる茂みを整備してくれたのである。無秩序に生えまくった木を切り倒し木材に変え、荒れ果てた獣道を舗装して、廃集落へと入り込めるだけの道を整備してくれたのだ。投入された作業員の数や範囲から見ても、かなり大掛かりな工事だった。“元帥”クラスの提督を二人抱えるこの鎮守府の傍に、本営は何か特別な設備を設けたいのだろう事は、誰の眼にも明らかだった。

 

 本営が何を拵えようとしているのかも、すぐに分かった。提督の下に、『深海棲艦鹵獲計画』の文字が記された、分厚い書類が送られて来たからだ。以前の様な大規模な作戦に備える為、或いは、人類優位を更に磐石にする為だろうが、どうもキナ臭い。とは言え、本営が何を考えているのかなど、ただの艦娘には関係の無い事だ。そう割り切る。考えたってしょうがない。まぁ間違い無いのは、深海棲艦を捕まえて来て、研究の為に飼うとなれば、相当な準備が必要になるという事だ。

 

 ただ立地確保は済ませても、鹵獲が計画の段階にある以上、重機や資材を持ち込んでいきなり着工という訳では無いようだった。取りあえずの地ならしが終わった時点で、軍用作業着の男達の部隊は、提督や野獣に最敬礼をして帰って行った。あとに残された廃集落の建物については、着工までの間、一般人は立ち入り禁止だ。しかし、艦娘や提督の様な、軍部関係者なら別に良いとの事だ。

 

 野獣から聞いた話だが、軍用作業着達を率いていた男に、『この建物が残ってる辺り、肝試しに良さそう……肝試しに良さそうじゃない? ですよねぇ(自己完結)』と、野獣が訳の分からない事を聞いたらしい。そしたら、施設建設が始まるまでは、この土地は自由に使っても良いという、本営からの指示が出たと言うのだ。“元帥”である野獣に対するご機嫌取りか。はたまた、この土地に対する執着が、やましいものでは無いことをアピールする為か。本営が何を企んでいるのかは理解出来ないのは何時ものことだが、まぁ野獣の考えていることも大概分からない。

 

 

 ちなみに廃集落については、補強すればまだ使えるレベルで残っているものから、朽ちて傾いているものまで様々だ。獣道や雑木が整備されたおかげか。狭くても平穏で、長閑な田舎みたいな、ちょっとした風情が在る処だった。ただ、夜になると一変する。むっちゃ暗い。やばい。雰囲気出過ぎ。

 

 昼間に、肝試しを楽しみにしていた駆逐艦の子達が、道沿いにいくつか電気ランプを立ててくれていなければ、まずゲームにならないレベルで怖い。鎮守府から一番近い位置にあった廃旅館は、割りとしっかりとした建物のようで、壁の崩れや傾きも見られない。此処が、取り合えずの拠点だ。かなり広い駐車場も在るし、キャンプファイヤーみたいに焚火を起こしても、燃え広がったりする心配も無い。

 

 肝試しのゲームが始まって、2時間程が経過した。長門含む脱落者多数。クリア者は無し。脅かし役は野獣と、艦娘が何人か。悲鳴が遠くで聞こえた。ビクッとしてしまう。山奥へと延びる道を歩きながら、叢雲は自分を落ち着かせる様に深く息を吸い込んだ。蒸し暑い筈なのに急に寒くなったような気がして、両腕で自分を抱くようにして腕を擦る。「み、みんなビビリ過ぎなんだよなぁ(震え声)」 叢雲の隣を、懐中電灯を持って歩く天龍は、手と脚が同時に出ていた。その天龍を挟む格好で、並んで歩いている摩耶は無言のまま。しきりに下唇を噛んでキョロキョロしている。

 

 この三人で1チーム。肝試しのルールは簡単だ。廃旅館を三~五人組でスタートし、山奥へ入り込んでいく道を登っていく。山道を登っていくと、道沿いに廃集落の建物が疎らに残っている。その中には、昼間に用意しておいたスタンプが在るから、それを押して帰って来るだけだ。崩れかけた納屋や小屋にはスタンプは置かれていない。あくまで対象は、中まで入っても大丈夫な建物に限定されている。

 

 各スタンプには数字がふられていて、山の奥の建物へ行けば行くほど、数字が大きくなる。押せるスタンプは一種類のみ。スタンプを押して帰ってくればクリアである。そして、廃旅館まで帰って来た時点で、スタンプの数字が大きい者が優勝という流れだ。得点が同じなら、帰って来るまでのタイムで優劣を付ける。天龍達は今の所は順調に坂道を登っている。ただ、未だクリアしている者が居ないのは、少々不気味であった。それに、いくら道として整えられたとは言え、急ピッチでの工事だ。完全にという訳では無いし、茂みや打ち捨てられた納屋などの存在感はなかなかである。

 

「参加賞品が間宮のタダ券じゃなかったら、絶対参加してないわ」

 

生温い風が背筋を寒くさせる。しかし、結構昇って来たなぁ……。叢雲はボソッと言いながら振り返り、下の方に見える廃旅館駐車場の焚火を見遣った。「そりゃあな」と、相槌を打った天龍の声は相変わらず震えている。

 

「あと、不参加ペナルティがデカ過ぎる」

 

続いてそう呟いた摩耶が、今どんな表情をしているのかは、叢雲からはよく見えない。だが、平常とは言い難い状態だということは明らかだ。こんな平たい声で摩耶が喋るのを初めて聞いた。

 

「何だよ、摩耶。トイレでも我慢してんのかよ(強がり)」 

 

 若干裏返った声で煽って来る天龍の声にも、摩耶は応えない。不参加のペナルティは、最近、焼き飯に嵌っているらしい夕立と、カレーを極めようとする比叡の料理練習に付き合う、というものだった。比叡の方は言わずもがなだが、夕立にもいくつか逸話が在る。食堂にて、時雨を含む8人程が大破した、通称“ぽいぽいチャーハン事件”は記憶に新しい。流石に夕立もショックだった様だが、失敗は誰にでもあるよ(大天使)、という時雨の暖かな慰めにより、夕立は時雨に料理上達を誓ったと言う。

 

 ちなみに。泥酔状態で報告書を作成した罰として、隼鷹の今日の夕食は、“ぽいぽいチャーハン”に“比叡カレー”をかけた“ソロモンの悪夢セット”だった。再起不能に陥った隼鷹の姿は、特に理由も無く肝試しに参加しなかった者の末路を示していた。

 

 あんな状態になる位なら、ちょっと怖いのを我慢して、パパパッとスタンプ押して来て、終わりッ! そう思って参加した者も少なくないだろう。しかし、そう上手くは行っていないのが現在である。スタンプが設置された建物の中には、ご丁寧に脅かし役が潜んでいるからだ。クリア者が出ていないのは、脅かし役達に相当気合が入っているせいか。叢雲はそんな事を考えながら山道を登っていると、スタンプが設置されている筈の長屋が見えて来た。簡単なマップを取り出して確認する。スタンプのポイント的に、上から二つ目だ。

 

 「此処らで手ぇ打つか……」 

 

 天龍は言いながら、懐中電灯と一緒に、頭に装備してある艤装の照明を点けた。その明かりで山道の上を照らすと、やはり、上には一軒家の廃墟がポツンと立っているのみだ。何だよ、俺ら凄ぇ高得点じゃん(強がり)。冗談めかして言う天龍の言葉に、「……行くのか」と、摩耶が相変わらず平たい声で言う。次の瞬間だった。

 

「うわぁぁああああああああああ!!!!」

「………………………………っっっ!!!!!!!!!」

「お、おい!? はぶっ!? ま、待てぇ!! 私を置いて行くなぁ(涙声)!!」

 

 悲鳴を上げる皐月と、無言のままで涙を堪える霰が、長屋の廃墟から飛び出して来て、叢雲達の脇を走り去って行き、玄関ですっ転んで涙目になった長月が、その二人を追うようにして、また叢雲達の脇を走り去って行った。その三人組の背中を見送った後。ゆっくりと顔を見合わせた叢雲、天龍、摩耶は、同時に廃墟へと視線を向けた。何が起こったんだろう。と言うか、あの怖がり方からして、脅かし役は本当に“艦娘”なのか。本当に……? あの勇敢な皐月達、駆逐艦の怯えっぷりに、叢雲達は暫く、誰も何も言わなかった。沈黙の後。天龍が咳払いをした。

 

「別に怖く無ぇけど、もう一個上行くか? 此処じゃ無くても良いしな。いや、別に怖く無ぇけど、せっかくだしな。最高点で帰ろうぜ(努めて明るい声)」

 

「お、そうだな(即便乗)」摩耶が頷いた。叢雲も無言で頷いた。

 

 そうと決まれば、さっさと行ってさっさと帰ろう。生温い風が強さを増している。いやな感じだ。悪寒がする。叢雲達が早足で山道を登り、見えていた日本家屋の廃墟の庭へと踏み込んだ。丁度そのタイミングで、天龍の持っていた懐中電灯の明かりが、弱々しく点滅し始めた。肝試しに参加した艦娘達が使い廻していたから、電池切れか。「マジかよ……」と、天龍は廃墟に入ったところで立ち止まり、懐中電灯を振ったり揺すったりし始めた。艤装の照明装置も在るから、其処まで深刻では無いし、暗がりに眼も慣れて来ている。

 

 月明かりもあるから、まだ見える。天龍を置いて少し中に入ってみると、座敷に縁側、朽ちた仏壇が在った。和室か。埃塗れの畳机の上に、スタンプが置かれてあるのが、暗がりの中に見えた。ほっとした。何だ。脅かし役なんて誰も居ないじゃないか。なるほど、此処は当たりだ。思い出す。確か野獣は、一軒だけ脅かし役を配置しないと言っていた筈である。“人員が少ないなりに、まぁボーナスステージは必要だよなぁ?(意味深)”。野獣はそんな事を言っていた様に思う。

 

「な、何だよ! 拍子抜けだな! 何も無ぇじゃん(確認)!」

 

 叢雲と一緒に和室に踏み入った摩耶は、あからさまに安堵した声音で笑った。良かった。取り合えず、後はスタンプを押して帰れば良いだけだ。クリア者もまだ居ないし、賞品も貰ったも同然だろう。作戦明けだし、叢雲にも明日からちょっと長めの休暇も出る。せっかくだ。鱈腹になるまで、間宮で甘味を楽しもう。充実した休みになりそうだ。そんな風に油断していた時だった。違和感を覚える。次に、油断した自分を恨む事になった。叢雲は呼吸が止まり、全身に鳥肌が立つのを感じた。

 

「ま、摩耶……、摩耶」と、言いながら、一歩、ゆっくりと下がる。

その動きに合わせて、暗がりの和室で何かが動くのを感じた。いや、正確には蠢いている。

 

「ん? 何だよ? 急に震えた声出して」

 

「ゆっくり……、ゆっくり出よう。ヤバイ……。此処ヤバイ……」

 

「何がヤバイんだよ? 何も居ねぇし、崩れる心配も無ぇだろ。床とかもすっげぇしっかりして……」

 

 其処まで言葉を紡いだ摩耶が、全身を強張らせた。気付いた様だ。顔を引き攣らせた摩耶が一歩後ずさると、また暗がりが蠢いた。カサカサ……、ともガサガサ……とも付かない音がした。漣みたいな音だが、ちょっと違う。まるで、硬い物が細かく擦れ合うみたいな音だ。ねぇ、もうホント無理……(絶望)

 

 和室の床や壁、天井に、びっしりと黒い楕円形の物体が引っ付いている。アーモンドのチョコレートかな? とか思いたいが、そんな訳が無い。絶対違う。触覚が在るし、微かにキーキー言ってるし、カサカサ動いている。糞デカゴキブリだ。仄かな甘い匂いは、餌か何かを壁に塗ってあるのか。野獣の言っていたボーナスステージの意味を理解した。アーキレソ……。だが、キレてる場合じゃない。逃げなきゃ……(使命感) 

 

 そう思った時だ。止める間もなかった。「悪い悪い、遅くなったな! 懐中電灯も復活だ! やったぜ!」

明かりを持った天龍が、和室に勢いよく走りこんで来た。そして、こけた。「げっ……!!」天龍も気付いた様だが、もう遅い。叢雲、摩耶、天龍は見た。暗がりがこっちに向かって来る。照らされた和室の中で、夜よりも暗い闇が起き上がり、無数の羽音を響かせる。月の枯れ明かりに濡れた翼を広げて、大粒の闇が群れを成し、叢雲達を優しく包みこんだのだ(ノムリッシュ)。

 

「ぎゃああああああああああああああああああああああああ(叢雲)!!!!」

 

「だぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああ(摩耶)!!!!」

 

「びゃあああああああああああああああもあもあもあもあもあも(天龍@精神崩壊)!!!」

 

 三人は絶叫しながら、転がるみたいにして外に飛び出る。

 

 バサバサバサという硬い羽音が耳元で聞こえる。もう轟音だ。気が狂いそうだ。叢雲は気絶しそうになる。服の中に闇が入って来てる。スカートの中もだ。最悪過ぎる。もう服を脱ぎ捨てながら、逃げる。上着も下着もへったくれも無い。脱ぐしかないし、逃げるしかない。正直、喰われるかと思った。凄い恐怖だった。漏らさなかった自分を褒めてやりたい。服を脱ぎ散らかしながら山道まで走り戻って、一目散に駆け下りる。

 

 三人とも身に付けて居るものはブーツと“ロック”のネックレスだけだ。何てことよ。少し走って、頭の片隅に冷静さが帰って来る。流石にこのまま、拠点となっていう廃旅館まで戻るのは流石に不味い。誰かと擦れ違ってもキツイ。肝試しどころの騒ぎじゃなくなってしまう。咄嗟に、叢雲は走る方向を変えた。考えることは、摩耶や天龍も同じだったらしい。三人は先程、皐月達が泣いて出て来た長屋の廃墟に走り込んだ。

 

 

「ファッ!!? 何だお前ら(素)!?」 

 

 長屋の中には、野獣が足を投げ出して座っていた。裸を見られる羞恥よりも、怒りが勝ったのだろう。摩耶は距離を詰めて、立ち上がろうとする野獣に延髄切りをぶち込んだ。「ヌッ!?(昏倒)」野獣が倒れた隙に、叢雲と天龍は、長屋の戸の影に身を隠す。ペッと唾を吐いた摩耶も、腕で身体を隠して、叢雲達と同じように、襖の陰に身を隠した。ちょっと気が晴れたが、状況が好転する訳でも無い。何故自分は、こんな山奥で裸なのか。それを思うと、羞恥と絶望を通り越して、悲しみが胸中に広がりつつある。叢雲はお尻を床に着けない姿勢で、膝を抱えるようにして座り込む。溜息しか出ない。

 

「オォン、アオォン、ハーイッタ……。あのさぁ、三人はどういう集まりなんだっけ?(インタビュー)」

 

 摩耶の延髄切りを喰らって、首を擦りながらでもすぐに起き上がって見せる辺り、野獣も大概タフだ。

 

「盛り合うのは勝手だけど、場所と時間を弁えてくれよなー。頼むよー(KNGU並感)」

 

「これが盛り合ってる様に見えんのか!? テメェのせいで、ゴキブリに喰われそうになっただろうが!!」

 

 天龍も叢雲と同じように身体を隠すように蹲り、野獣を睨んだ。女性の裸を前にしても、えらく冷めた様な貌の野獣は、とぼけた様に肩を竦めて見せる。

 

「イベントにハプニングは付き物だし、ま、多少はね? というか、全裸になって走り込んで来るとか、予想不可能だから(半笑い)」 

 

 「……この野郎」

 

 呻くみたいに呟いた摩耶は、飛び出そうとした様だが、動かなかった。そりゃあ、裸だし……。冷静になればなる程、身動きが取れないのだ。自分も裸だから分かる。恥ずかしいのは当たり前だが、服を着ていないだけで大分に心細い。……もう帰りたい。だが、何か着るものも無ければそれも無理だ。野獣に噛み付いてばかりいても埒が明かない。ずっと此処に居るわけにもいかないし、そんなのは絶対に嫌だ。

 

「……野獣提督。お願いがあるんだけど」 

 

しゃがみ込む姿勢のままで、長屋戸に隠れたままで叢雲は真面目な声で言う。

 

「ん? 今なんでもするって言ったよね?(幻聴)」

 

「言ってない。ふざけないで。何か着るもの持って来て」

 

 叢雲は、隠れた戸から顔だけ出して、野獣を睨む。摩耶や天龍も、黙ったままで、野獣の言葉を待っている。

 

「ふーん……。(思案顔先輩) じゃあこれ」

 

 似合わない真面目な貌になった野獣は、海パンの尻部分から何かを取り出して、叢雲に放ってパスした。

戸から隠れたまま腕を伸ばして、叢雲はそれを受け取る。可愛いキャラクターがプリントされた、10枚入りの絆創膏の箱だった。叢雲は久しぶりにブチ切れた。

 

「ちょっとォ!! 殺っちゃうわよ!? 殺っちゃうわよ!!?」 

 

「良いだろお前、プリ○ュアの絆創膏だぞお前(意味不明)。一人三枚使っても一枚余るダルルォ!」

 

「あ、そっかぁ……(分析)、あったまきた……(怒髪天)」 

 

「は~~~、しょうがねぇなぁ(悟空)。俺が(お前らの服)拾って来てやるか」

 

 最初からそう言えよ……。低く呟いた天龍の声がいやに良く通った。あく行けよ。続いて呟いた摩耶の声には、ほんのりと殺意が滲んでいた。叢雲も、舌打ちをしてから鼻を鳴らす。何とかなりそうだ。ちょっとホッとする。脅かし役の野獣が居なくなるが、まぁ良いだろう。それがどうしたと言った感じだ。

 

「こ↑こ↓は、ラッキーポイントで脅かし役とか誰も居ないからさ。スタンプでも押して、安心して隠れてて、どうぞ(申し訳程度の優しさ)」 

 

 煙草を咥えた野獣が、出口に向かう。

 

「……えっ?」 上擦った声が出た。

 

 叢雲は、隣で座り込む天龍と、顔を見合わせた。見れば、摩耶も真顔になっている。だって。おかしい。さっきは、皐月達が泣きながらこの長屋から飛び出して来たのだ。てっきり、野獣か、他の艦娘が脅かし役で、中に潜んでいるとばかり思っていた。

 

「その手は喰わねぇぞ、野獣! 皐月達をビビらせたのって、どうせお前なんだろ!? ……お前、だよな?」

 

「STKくんには会って無いゾ。カリに此処に来てたとしたら、さっき俺が裏に花摘み(大の方)に行ってた時だと思うんですけど……(名推理)」

 

 そんな馬鹿な。此処が、脅かし役無しのボーナスポイント? それマジ? 野獣は何もしていないと言う。じゃあ。皐月達は。此処で何と遭遇したのか。何を見てあんなに怯えていたのか。艦娘でも野獣でも無い、何かが。此処に居るのか。

 

「やべぇよ、やべぇよ……」

 

 天龍が半泣きでソワソワし始めた。摩耶の表情も凍り付いている。動くことも出来ない辺り、摩耶の方が若干重症だ。唇が震えてくる叢雲も、暗がりの長屋の中を見回す。何も無い。誰も居ない。その筈だ。逃げ出したくてたまらないのに、裸なのでそれも出来ない。そんな叢雲達を、野獣は鼻で笑う。

 

「ちょっと昔の事調べてみたら、この辺にぃ、“一つの鍵”って書いて、“ピンキー”って呼ばれた魔物が居たらしいっすよ。でも今じゃ廃集落になってるし、そんなモン居ないってはっきり分かんだね(先輩風)」

 

 だから何も無ぇって、安心しろよー。そう言いながら、くわえた煙草に、野獣はライターで火を点けた。ライターが灯した火の明かり。その瞬きに。野獣のすぐ傍。背後に。“女”の姿が浮かび上がった。「クぅーン……(子犬)」天龍が失神して、「ポッチャマ……(ポケモン)」摩耶が卒倒した。叢雲は、心臓が一瞬止まるのを感じた。巨大な眼に。巨大な口。顔を隠す程の長い髪。井戸の其処から聞こえる様な、澱んだ声。イチマンエンクレタラシャブッテアゲルヨ。確かに聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何かが聞こえたのだろうか。書類から顔を上げた提督は、何も言わず窓の外を眺めた。雷も、それに釣られて、窓の外を見遣った。黒い空には星が瞬いているのが見える。後は、欠けて瘦せた月が、黙に冴える様な柔らかな光を湛えているだけだ。特に何も無い。いつも通りと言うか。何の変哲も無い、夜の空だ。現在。暁、響、電の三人は、肝試しに駆り出されている。雷は、今日の秘書艦という事で、まぁ難を逃れたと言うか、何と言うか。緊急時に備え、大和と武蔵は鎮守府に残っているが、それでも今日の鎮守府は静かだ。

 

 

「どうしたの、司令官? ぼーっとしちゃって」

 

「いえ……。先輩と、叢雲さんの悲鳴が聞こえた気がして……」

 

「あー……。今日は肝試しやってるものね。あそこの土地利用って、やっぱり司令官達でも口出し出来ないの?」

 

「工事が本格的に始まれば、僕達の立ち入りも制限されるでしょうね。だから、今のうちに、艦娘の皆さんの慰労に利用しておこうと、先輩は言っていました」

 

 鎮守府裏手の山裾に、大々的に人の手が入る事は雷も知っている。廃集落を包んでいた茂みや木々を開いて土地造成が行われたのも、軍事施設の為だ。それもかなり特殊と言うか、人の眼に着かせたく無い様な、そういう施設なのだろう。“元帥”二人を抱えた鎮守府に干渉してくる以上、そう勘繰ってしまう。

 

「偉そうな人が来るの、ちょっと嫌だなー。違う処に建ててくれれば良いのに」

 

「街から外れて、人の気配が遠いこの土地は、本営にとっても魅力なのでしょうね」

 

 提督の言葉には、確かに憂いが含まれていた。それを気取られまいとする様に、提督は雷に、ほんの少しだけ微笑んで見せる。彼の言葉は、確かに信じられる。今までも、彼は本営からの無茶な指示には、絶対に首を縦には振らなかった。それが原因で、彼自身が煙たがられることもあった。前の作戦でもそうだ。艦娘を兵器として運用する諸提督から、彼は糾弾の声を浴びている。だが、いざ作戦が始まってみれば、艦娘を沈めることなく挙げられた貴重な彼の戦果が、その正当性を物語っていた。

 

 艦娘は、ただの兵器では無い。一人の兵であり、其処には意思が在る。そう主張するかのように、彼は前の作戦でも徹底して、慎重さを貫いた。惜しむ事なく資材を溶かし、“バケツ”を使い、艦娘一人一人の疲労に気を配っていた。激しい戦いが続いた前の作戦では、轟沈まで行かずとも、自身の母港へ戻ることすら出来ない程に負傷した艦娘が多数いた。当たり前だが、そう言った艦娘達は、修復が受けられない状態が続けば沈むしか無い。治せる傷も、時間が経てば手遅れになる。故に彼は、必要であれば他の提督が召還した艦娘にも、ドックを解放した。勿論、修復に掛かる資材は自腹だ。彼は作戦中、脇目も振らず、ただ只管に艦娘達を支え続けた。愚直なまでのその姿勢を、笑うものも大勢居た。

 

 挙句の果てには、ワザと疲弊した艦隊をこの鎮守府に送ってくる者も居た。彼は何も言わず、ただ微笑んで傷付いた艦娘達を受け入れた。各6桁まで在った資材は現在、もう底をつき掛けていた。おかげで、出撃もままならないから、本営からの支援待ちの状態だ。野獣の演習がギリギリだった。本来、此処まで窮すれば、提督の作戦指揮の責任になるところだが、本営からのお咎めは無しだった。その実情を、向こうも知っているからだ。

 

 本営は、彼を絶対に手放したく無い筈だ。同時に。最大限、彼や野獣を使い潰す腹積もりだ。間違い無い。きっと、彼自身も理解している。それを案じる艦娘達の声を聞いても、彼はやっぱり、困った様に薄く微笑むだけだ。どれだけ心配しても、どれだけ訴えかけても、彼には届かない。凄く歯痒い。今だってそうだ。彼は自分の心配なんて全然していない。艦娘達の事ばかり気に掛けている。その所為で、自分を痛めつけるみたいに苦労ばっかり抱え込んだりしている。

 

「もし誰が来ても、艦娘の皆さんへ余計な干渉はさせませんから。安心して下さい」

 

「……うん」

 

 そう短く答えて、雷は彼に造って貰った“ロック”のネックレスをぎゅっと握った。もっと私を頼って良いのよ。その言葉を飲み込んで、にっこりと笑う。

 

「ね、司令官。ちょっと休憩しない?」

 

「えぇ、少し肩が凝りましたね。一息入れましょう。……それじゃあ、今日は、僕が飲み物を用意しますね」

 

「えっ!? そんなの駄目よ! 私が淹れるって決まってるんだから!」

 

「えっ、そ、そうなんですか?」

 

「そうよ! 今は私が居るんだもの!」

 

 訳が分かるような、分からない様な理論で彼を黙らせて、雷はせっせとお茶の準備をする。彼の視線を背中に感じ、ちょっとだけドキドキした。こういう時の為に、雷はお茶の淹れ方を練習してきた。鳳翔には美味しい緑茶の淹れ方を教わり、金剛には美味しい紅茶の淹れ方を教わった。暁や響、電を相手に、自分でも美味しいと思えるまで練習した。その成果を見せる時だ。チラリと、彼を肩越しに見た。彼は雷の視線に気付き、ひっそりと静かに微笑んでくれた。慌てて眼を逸らしてから、深呼吸して、集中する。

 

「司令官は何が良い?」

 

「では、コーヒーをお願いしても良いですか?」

 

「え゜っ!?(スタッカート)」

 

「えっ?」

 

「にゃ、な、何でも無いわ! 任せといて!」

 

 せっかく練習したのだが、コーヒーと言われては仕方無い。しかも、提督はインスタントの方が好きのようで、コーヒー瓶が置かれてあった。お湯を入れるだけで手間も掛からないのだが、やっぱり残念だった。まぁ、練習が無駄になった訳では無い。次に活かせば良い。

 

 気を取り直して、雷もコーヒーにした。彼は砂糖もミルクも入れない。ブラックのままの熱いコーヒーをチビチビ飲んでいる。雷もブラックのまま啜ってみた。……にが。文字通り苦い貌で、ペロっと舌を出したら、彼と眼が合った。彼は、ふふ……と、少しだけ可笑しそうに笑った。いつもの静かな微笑みでは無い、少しだけ弾んだ笑みだった。ドッキーン☆とした。そんな風に彼が笑うのを初めて見た。視線を慌てて逸らして、逃げるみたいにコーヒーをまた啜ったら、うぇ……、ってなった。やっぱり苦かった。顔の赤さを誤魔化す為に立ち上がって、砂糖とミルクを取って来て、いっぱい入れた。

 

「こんな苦いの良く飲めるわね……」

 

「……僕は、少し大人ぶっているだけですよ」

 

「あ、それ嘘ね。だって、美味しそうに飲んでるもの」

 

「ふふ、もう言い掛かりですね」

 

 彼が、また少し微笑んだ時だった。扉がノックされた。彼がどうぞと言い終わる前に、扉が開かれた。のそっと入って来たのは武蔵だった。眠たそうと言うか、気の緩んだ様な貌をしていた。普段の番長的な威圧感は全然無い。失礼かもしれないが、凄く大きい猫みたいだ。「む……」と。入って来た武蔵は、今更な驚いた様な貌をして、提督と雷を見比べた。それから、いつもの真剣な貌に戻って、「……邪魔をしたな」と、帰っていこうとした。何をしに来たんだろう。もしかすると、提督と二人だけでする様な話でもしに来たのだろうか。ただ、先程の気の抜けた様な武蔵の様子からすると、どうもそんな深刻な話では無い筈だ。

 

「……海に、何か異常でも在りましたか?」

 

 そう言った彼の声音に、また驚かされた。

雷には絶対に見せない様な、信頼というか、親しみの様なものが込められた声音だった。先程までの胸の高鳴りは、今度は一転して雷の胸をきつく締め付けた。苦しい。口の中に残ったコーヒーの苦味が、強くなった気がした。

 

「いや、何も無くてな。大和が番をしてくれている間は、余りに退屈だったんで此処に来たんだが、執務中だという事を失念していた」

 

「……すみません。苦労をお掛けします」

 

「何を言う。私などより、雷の方が余程苦労をしているぞ。すまんな、雷。こいつは部下の管理も下手だが、自己管理はもっと下手とかいう、どうしようもない奴だろう」

 

 昔からつるんでいる悪友の欠点を笑うみたいに、武蔵は楽しげに言う。彼も、擽ったそうにそれを聞いている。この二人の間に在る、特別な何かを感じた。雷は何とか笑みを浮かべて見せて、「えぇ、私もそう思うわ」と、冗談で返す。そうだろう、と。武蔵は、喉を低く鳴らすみたいに笑ってから、彼と雷を見比べた。そして、安心したと言うか、何処か満足したみたいに頷いて、雷の肩を叩いてくれた。

 

「……戦う事しか知らん私の代わりに、皆でこいつの事を支えてやってくれ」

 

 頼んだぞ。最後にそう言い残して、武蔵は執務室を後にしようとした時だ。執務机に置かれた携帯端末が、電子音を響かせた。ディスプレイには、“大和”の文字。武蔵は扉に手を掛けていたが立ち止まり、提督に向き直った。

 

「……大和からか?」

 

「はい」と、提督は短く頷き、端末を耳にあてる。

 

「僕です。大和さん。何か在りましたか?」

 

 彼は、短い遣り取りの後、瞑目し、深く息を吐きだした。雷は何も言わず、ただ彼の言葉を待つ。武蔵も同じだ。彼は椅子から立ち上がった。

 

「……航行不能に陥っていた艦娘の方が一人、埠頭脇の浅瀬に漂着したとの事です。埠頭に行って参ります。雷さんは、此処で待っていて頂けますか?」

 

「え、わ、私は秘書艦よ! 勿論行くわ!」

 

「……分かりました」

 

食い下がる雷に、彼は特に何も言わなかった。

 

 

 

 

 彼が何故、雷を執務室に残そうとしたのか。それは埠頭に付いて、すぐに分かった。少しだけ、着いて来た事を後悔しそうになった。手が、脚が震えた。動けなかった。ただ、見詰めている事しか出来なかった。

埠頭にて、大和に抱きかかえられた彼女は、艤装を装備していなかった。小柄な少女だった。右腕が無い。左脚の膝から先が無い。欠損している。駆逐艦だ。ボロボロだけど見覚えのある、血が滲んだセーラー服。濡れて、その頬に張り付いている、明るい茶色の髪。人間の肉体と違い、艦娘の身体は水を必要以上に吸わない為、顔も判別出来る。

 

 前の大戦で大破轟沈の寸前まで行って、何とか生き延びようと足掻いたに違い無い。彼女は大海原の果てから、右腕と左脚を失って尚、もがくようにして陸を目指し泳いで来たのだ。そして作戦が終了し、轟沈した艦娘達のカウントが終わって暫く経って、ようやく。ようやく辿り着いたのが、この鎮守府だったのだ。彼女は。“雷”は、立派に作戦を遂行したのだ。それは間違いなく、彼女が握り閉めた、生きようとする執念の“勝利”だった。その勝利を祝う者は居ない。代わりに、“雷”の体からは、微かに光の粒子が漏れていた。艦娘である“雷”が、“雷”として生きるための大切な何かが、零れ落ちている。

 

「……助かるでしょうか?」

 

 “雷”を海から引き上げてくれた大和は、不安げに言いながら、そっと提督に“雷”を抱き渡した。提督は腕の中の“雷”の様子を見て、苦しげに眼を細めてから、ゆっくりと瞑目する。そして、息を吐き出した。

 

「……肉体と精神の消散が始まっています。もう、修復ではどうしようもありません」

 

「救えんのは、お前の所為じゃない」

 

 武蔵は“雷”を見詰めながら、彼女を抱える提督の頭をぐしぐしと乱暴に撫でた。提督は何も言わない。じっと、身じろぎ一つしない“雷”を見詰めている。

 

「では……。せめて、皆で送ってあげましょう」

 

悲しげな貌をした大和が、提督を慰めるように言った時だ。夜の海と、暗がりの埠頭に融けて消えてしまいそうな程に、小さな声がした。“雷”が、喘ぐように何かを呟いたのだ。雷も、思わず駆け寄って、顔を覗きこむ。青白い唇に、濃い隈。やつれた頬に、痛んだ髪。潮水に濡れた肌。それらが、光の粒となって融け出していく中で、“雷”は、薄っすらと眼を空けた。大和や武蔵、提督の声に反応したのだろう。

 

 し。れ。……い。か、ん。……ど。こ。

 

 今にも消えてしまいそうな程に掠れ、罅割れた声で。うわごとの様に呟いた。“雷”は、視線を彷徨わせる。しかし彼女の濁った眼は、もう何も映していない。何処も見ていない。だが、“雷”は、残った左腕を、何かを掴もうとしする様に持ち上げた。提督は彼女を横抱きするような形で、そっと“雷”を地面に横たえ、右腕でその右肩を支える。そして左腕で、彷徨う“雷”の左手を、しっかりと握った。彼は、「此処に居ます」と、優しく声を掛けた。

 

 彼の掌のその感触と声に、“雷”が、心から安心した様に、細く、本当にか細く、息を吐き出した。何も視えていないだろう瞳に、涙がゆっくりと満ちていくのが分かった。それは“雷”の頬を伝ったが、すぐに光の粒に還ってしまう。黙ったまま、その“雷”の様子を静かな表情で聞いていた提督は、何かに気付いた様だ。「雷さん」と。不意に名前を呼ばれた。彼は、怖いくらいに凪いだ穏やかな表情で、雷を見詰めていた。

 

「彼女には、“ロック”が掛かっていません。……今ならまだ、“改修”が間に合います」

 

「他所の艦を“改修”するのは久しぶりだな。中へ連れて行くか。開けてくるぞ」 

 

「いえ、準備をしていたのでは間に合いません。この場で行います」

 

 武蔵が踵を返そうとしたが、それを提督が呼び止めた。

 

「ただ、設備も何も無いので、大和さん、武蔵さんへの“改修”は出来ません。僕が対象に取る事が可能なのは、事実上の同型である雷さんのみになりますが……」

 

 そして再び、彼は雷に向き直る。真剣とも、狂気とも違う。穏やかで、静かな眼差しだった。“改修”とはつまり、一人の艦娘に、別の艦娘の魂を鋳込む、高等施術の事だ。本来なら、妖精さんの協力のもと、十分な設備が無ければ不可能な施術である。それを、ただ一人で彼は行うと言う。言っている意味が、いまいち理解出来なかった。 だが、かなり危険な行動だと言う事は、顔色を変えた武蔵の様子ですぐに察する事が出来た。 

 

「提督よ……。一応聞くが、自分の寿命をどれだけ縮めるつもりだ」 

 

その武蔵の声を聞き流した彼は、雷に向き直る。

 

「雷さんが、彼女の魂を受け取ってくれるのならば、“改修”を行います。もしも不安なのであれば、……行いません。海に還る彼女を、見送ってあげましょう」

 

無理強いはしません。提督は、そう言って微笑んでくれた。雷は、大和と武蔵を、順番に見た。大和は、深く頷いてくれた。武蔵も同じだった。

 

「司令官。お願い」

 

「分かりました……」

 

 提督は頷いてから大和を見て、「眼鏡を取って貰えませんか」と、“雷”の微かな声を消してしまわない様に、小さく言葉を紡いだ。神妙に頷いた大和は、提督が掛けている眼鏡をそっと外し、大事そうに畳んで、手に持った。有り難う御座います、と。提督は微笑んでから、今度は雷に向き直った。

 

「彼女の左手を握ってあげてくれますか」

 

 雷は言われるまま彼の傍に屈んだ。そして、彼の腕の中で消えようとしている“雷”の左手を、両手で握った。それを確認した彼は、空いた左手で、提督服のポケットにしまっていた携帯端末を操作する。これから行う“改修”を記録する為だろう。今度は、その端末を武蔵に手渡した。その束の間に雷は、“雷”に小さく声を掛ける。

 

「司令官は大丈夫よ。私が居るし、“貴女”が居るじゃない」 

 

 言葉が、“雷”に届いたかどうかは定かでは無い。だが、彼女は、応えてくれた。消滅の最中に在りながらでも“雷”は、なけなしの力を振り絞って、雷の手を握り返したのだ。

 

あ。の……。ね。し、れ。い。か。……ん、ご。め、ん。ね。

 

 波音に攫われてしまいそうな程に、小さな声だった。しかし間違い無く、“雷”の声だった。それを聞いて、雷の視界がぐちゃぐちゃに歪んだ。涙で、前が見えなくなった。滂沱として溢れてくる。嗚咽を堪えるので必死だった。

 

み。ん。な、し。ず、ん……。じゃ……、った……。ん。だ。

あ。か。つ。き……。…も。……、……、ひ、び。き、も……。……い。な、づ……ま…も。……わ。た、し……。も。

で。も……、わ、た、し……。が。い。な、い。と、……、し。れ、い。……か。ん、は。……だ。め……だ、も……ん、ね。

だ、か。ら。……か……え……っ……て。き。た。の……。

 し。れ。い。……か。ん。……ど。こ……。……。も、う。こ。え。……が……き。こ。え……な……。

………………………………。…………………………。

……………………。………………。…………。

 

 雷の声が、遠い波音に攫われた。何も聞こえなくなった。無慈悲に零れていく光の粒子は、まるで嫌味みたいに綺麗だった。雷は、“雷”の手をずっと握っていた。“雷”の手から力が抜けていくのを感じた。自分の掌から、“雷”の命が零れていく感触が確かに在った。掬い直すことも出来ない。だが雷の代わりに、彼が“雷”から零れる光を、優しく掬い直してくれた。

 

 淡い蒼色の微光が、提督と雷、そして“雷”を包むようにして渦を巻く。複雑な紋様が、力線として編まれてコンクリートに奔って、陣を描きだした。海からの波や、風の音が消えた。代わりに、地面に走った力線が、蒼い明滅を始める。夜空の星と月を含む全てが、息を潜めて彼の施術を見守っているかの様だ。澄んだ蒼い光は、右手で“雷”の身体を横抱きにした、提督の右掌から伝い、溢れている。優しくて、何処か悲しい、暖かくて、少しだけ冷たい、蒼色だ。風ならぬ風が、傍で見守る大和と武蔵の髪を靡かせた。“改修”施術”が始まったのだ。

 

 蒼い微光は帯の様に編まれて、消散を続けていた“雷”の体を優しく包んだ。それに合わせて、微光編みの帯がゆっくりと解けるようにして、“雷”から雷へ。繋がれた小さな手を伝うようにして、流れ始める。“雷”の孤独な戦いと、比類無い献身を分かち合い、その魂を雷へと鋳込み、弔うべく、彼は無表情のまま朗々と文言を紡いでいく。

 

 優れた芸術家は、石柱の中に居る天使を、外の世界へと解放している。昔の詩にて、そう表現されたらしい。故に“造形”とは、その精密さを上げるにつれて、削られた石としての、その質量が減るのだと。艦娘も同じだ。“艦”という造形から、“艦娘”としての造形を召ぶ“召還”のとき、その質量は大きく減少する。生きていないものを生かす為だ。故に、艦娘には、“死”という概念が生まれ、“魂”という概念が生まれる。肉体と共に、意識や自我や精神が発生する。それらを抜き取り、また別の造形へと移し変える事が出来る者のことを、この時代では“提督”と呼ぶ。つまり提督とは、職業軍人である以前に、生命鍛冶と金属儀礼の“シャーマン”である。それをほんの少し、彼は分かり易くしているに過ぎない。

 

 彼が編んだ光は、光の粒として消え去ろうとする“雷”の魂を、雷へと注いで手渡した。蒼い光が消えていく。同時に、力線も薄れるようにして消えて行き、渦を巻いていた微光は、潮風に塗され、攫われて行く。

彼の腕の中に横たわっていた“雷”も、もう消えていた。代わりに、海風と波の音が還って来た。月と星が、語らいを始める様に瞬いている。生り零された光は、全て雷へと託された。“改修”が終わったのだ。妖精の助けも設備も無く、此処まで完璧に施術を行える者など、“元帥”クラスでも数人だ。

 

 性能を上げる為でも何でも無い、この施術はしかし、決して無意味では無い。確かに、雷の中に、暖かな何かを感じた。とても尊い、大事な何かが、雷の中で実を結ぶ。意味不明な激情と共に、嗚咽が漏れそうになった。それを堪えていると、提督が手を優しく握って、立ち上がらせてくれた。彼は、雷を抱きしめるでもなく、頭を撫でるでもなく、いつも通りひっそりと微笑んだ。

 

 きっと、激戦期を乗り越えて来た彼は、こんな経験なんて山ほどしてきたのだろう。慣れてしまって、麻痺しているのだ。雷は何も言えず、彼の眼を見詰めた。黒い彼の瞳は、何処までも澄んでいる。宝石みたいにも見えるし、安っぽいビー玉にも見えた。彼の微笑みの裏に累々と積み上げられた、壮絶な苦悩と自責を垣間見た気がした。大和と武蔵も黙ったまま、彼と雷の様子を見守っている。彼は、微笑を崩すことなく雷に小さく頷いた。

 

「彼女の分まで、生きてあげて下さい」

 

 それだけ言って、彼は提督服のポケットから、“ロック”のネックレスを一つ取り出し、雷の手に握らせてくれた。きっと、さっきの“雷”の分だろう。それを握り閉めてから、雷は服の裾で、ぐいっと涙を拭った。息を吸い込んで吐いた。彼のいつも通りの微笑みの御蔭で、心が落ち着いた。

 

「うん。任せといて、司令官。もっと頑張っちゃうんだから」 

 

 そう言って、いつもみたいに笑う事が出来た。……出来たと思う。見れば、こちらを見守っていてくれた大和と武蔵も、安心したみたいに微笑んでいた。この鎮守府に召還されて、本当に幸せだと思った。せっかく笑ったのに、ちょっとだけ泣いてしまった。


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