少年提督と野獣提督   作:ココアライオン

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短編 番外編

 艦娘は産声を上げるかわりに、艤装の顕現を行いながら、物質として成る。

人の赤子のように、小さく弱く生まれてくるのではない。今在る姿を持って生まれてくる。

金属に宿る魂は戦闘の為に形成され、兵器の擬人と成り、戦力として招き入れられる。

だから、己が纏う艤装の使い方や海での戦い方は、その躯体に染み付いていた。

卵から孵った鳥達が、空を飛べるように生まれてきているのと同じく、それは種としての機能だ。

艦娘としてこの現世に召ばれ、肉体を持ったときの感覚は今でも覚えている。

呼吸をする事も、声を出す事も、肌を撫でていく風を感じるのも、全てが新鮮だった。

五感だけでなく、思考、認識も、それらが全て、己のものだと理解出来た。

 

 肉体的な頑強さは、軍艦としての強さを反映してのものだろう。

艦娘達は皆、生まれた瞬間から、無意識レベルで戦闘をこなす程に完成している。

しかし一方で、意識や精神を得たが故に、兵器としての不安定さを抱える事にもなった。

感情を持つが故の、人類に対する反感、疑念、不信、不和など。

また特殊な例として、かつての軍艦の記憶、その影響を大きく受けてしまう艦娘達も居た。

激戦期の中、野獣によって召還された赤城がそうだった。

 

 

 野獣がまだ“元帥”の称号を得ていない時。人間が存亡の危機に瀕するレベルで、深海棲艦達との戦いの中にあった時の事だ。

大きな戦力として迎えられた赤城は、その期待に徹底して応えた。己自身も一航戦・赤城の分霊であることに誇りを持っていたし、自身の持つ強さも理解していた。

自分の中にある、戦える喜びも自覚していた。激戦期の最中は、戦場に困ることは無かった。赤城は進んで戦闘海域に出撃し、深海棲艦達を沈めて回った。

まだ、長門や陸奥が居ない頃だった。赤城のLvも見る見るうちに上がり、海で出会う誰よりも錬度の高い空母として、戦力の要としてあり続けた。赤城は、強くなった。

それが、赤城にとっての正しいことだった。慢心など微塵もせずに、出撃する先々で深海棲艦を沈めまくった。容赦無く、執拗に、入念に、飽く事も無く沈めた。

共に作戦海域に赴いた他所の艦娘が沈んでも、すぐに気にならなくなった。敵を殲滅する。それこそが、赤城にとっての正しいことだった。間違ってなどいない筈だった。

沈着であり苛烈な戦いぶりから、戦闘マシーンなどと呼ばれ、他所の艦娘からは畏れられる様になった。赤城は、己のすべき事をするだけで、気にはしなかった。

赤城はより錬度を上げていき、勝利を通り越した殺戮を繰り返しながら、人類に貢献していった。それこそが、赤城にとっての正しいことだった。

そんな己を、誰かに理解して貰おうとは思わなかった。自身を召還した野獣と言う男が、どんな人間なのかすら、どうでも良かった。正直なところ、本当に誰でも良かった。

一航戦・赤城として戦場に向かい、敵を殺しまくって、勝利を持ち帰って来られるのならば。提督など、豚でも犬でも猫でも鼠でも虫でも良い。赤城の正義には関係無かった。

激戦期の中に身を置いていた頃の赤城には、野獣の印象など殆ど残って居ない。作戦について話をする事も在った筈だが、赤城自身が気にも留めなかったからだ。

 

 

 

 

 

 

 赤城の精神に変調が訪れたのは突然だった。何の前触れも無かった。大規模な作戦を終えた戦闘海域。余波に揺れる、艦娘と深海棲艦の無数の屍と残骸を眺めている時だった。

頭の中に声が聞こえた。自分の声だった。語りかけて来るような声だった。同時に、叫び出しそうな頭痛が来て、赤城は海の真ん中で、頭を抱えて蹲った。動けない。眼が回る。

同じ艦隊に居た艦娘達が、何かを大声で言いながら寄って来るのが分かった。心配しなくても良い。大丈夫だと。何でもないと言おうとするものの、舌が動かない。

 

 いつもなら痛みに耐える事など容易いはずなのに、この時は無理だった。何かが、赤城の精神に語りかけて来ている。しかし、痛みが激し過ぎて聞き取れない。

一体、何が。何が起きているのか。分からないまま、激痛に翻弄される。意識が飛びそうになる。また、声が聞こえた。微かに、『索敵』『先制』という単語が聞こえた。

やはり、赤城の声だ。だが、質が変わった。外からの声ではない。赤城の内から、自らに語りかけて来る。何かが、赤城の中に入り込んだような、そんな感覚だった。

痛みに悶え、抵抗する事も出来ない。身体だけでなく、魂が動揺していた。震えが来る。恐怖だった。絶叫しようとするも、声も出ない。眼や、耳、鼻から血が出てくる。

鉄の味がした。千切れ飛びそうな意識を、何とか縫いとめる。此処で、止まっている訳にはいかない。次の戦場が在る。このままでは、出撃出来なくなる。

嫌だ。正義を。存在意義を。失ってしまう。己が、己で無くなってしまう。恐ろしかった。血の泡を吹きながら、赤城は何とか立ち上がる。帰らねば。次の戦いの為に。

勝利を。勝利を。勝利を。勝利を。うわ言の様に言いながら、赤城は母港を目指す。ノイズの走る視界は、血に染まっていた。周りに居た艦娘達も息を呑んでいた。

そうだ。私は大丈夫だ。まだまだ戦える。もっと殺せる。思考が暴走し掛けた時だ。『見えているか』と声がして、脳裏に別世界の光景が、怒涛の勢いで流れ込んで来た。

断片として継ぎ接ぎされたその光景の坩堝は、軍艦であった頃の赤城が垣間見てきた、かつての記憶だった。建造されてから、ミッドウェーで沈むまでの記憶だ。

 

 人。溺れる人。人。燃える人。人。浮かぶ人。人。死んだ。人。

空。高い。空。波。喰らう。波。風。荒ぶ。風。蒼。深い。蒼。碧。陽を返す。碧。

沈む。赤城。私。沈む。熟視する。記憶。看視する。経験した事の無い。記憶。

重い。重くて。熱い。手に余る。抱えきれない。悪夢の様な光景が、渦を巻く。

“軍艦である赤城”が、“艦娘である赤城”を呼んでいる。聞こえているか、見えているかと。

その“声”は、天心の深さに比類する彼方より届き、咫尺にて響き、赤城の内にて声と成る。

自我が圧壊しそうなほどの情報量と痛みに、視界が暗転する。とうとう赤城は気を失った。

“見誤るべからず”。消えていく意識の端に、短い言葉が微かに聞こえた。

 

 

 

 

 意識を取り戻したのは、鎮守府内に設けられていた艦娘用の特別医務室だった。

個室として区切られた、狭い病室の様な風情である。赤城は、暫く天井を眺めていた。

清潔なベッド。柔らかな羽毛布団の感触。窓が開いていて、そよ風が吹いている。

肉体の感覚は鈍い。腕や指は動く。脚にも感覚は在る。動かせる。視線を動かす。

赤城は、いつもの艦娘装束を着ていない。白い、薄手の被術衣を着ていた。

狭い病室は酷く殺風景だった。ものが殆ど無い。薬を置く為の棚と、椅子くらいだ。

くすんだ白色の床。壁。天井。まるで監獄の中の様な寒々しさが在った。

静穏の中で、赤城は記憶を辿る。何故、自分は此処に居るのか。

そうだ。海で。声を聞いて。蹲り。立ち上がったものの、気を失ったのではなかったか。

次の戦場に向うために、勝利を持ち帰ろうとした時の出来事ではなかったか。

思い出すと、震えが来た。赤城はベッドから身体を起こす。裸足で、立ち上がる。

自分の両手をじっと見詰める。妙だ。身体は動くのに。違和感が在る。寒い。

 

 嫌な予感がした。赤城は、艤装を召還する為、意識を集中する。

普段なら、艤装はすぐに顕現出来る。その筈だった。しかし、現れない。

赤城の肉体に宿る筈の力が、赤城に応えない。沈黙したままだ。そんな馬鹿な。

心臓が冷たくなるのを感じた。こんな事が在って良い筈が無い。赤城は、大いに狼狽した。

頭を抱えて蹲る。両目をきつく閉じて、念じる。艤装を召ぼうとする。

一心不乱に。祈り、縋る様にして、艤装を顕現しようとする。だが、無駄だった。

赤城の内にある筈の“力”は、赤城に応えない。沈黙だけだ。赤城は叫んだ。

生まれて初めて、恐怖を感じた。己が己で無くなると言う恐怖だった。

 

 赤城は、一航戦としての己を正義とした。

艦娘としての身に宿る、艤装の“力”を崇拝していた。

その“力”を持って掴む、“戦果”を渇仰した。

戦力としての己だけを正義とし、それを善しとして来た。

赤城という存在意義を、戦力としての己にのみ見出していた。

艤装が召べないという機能不全により、それら全てが、根底から崩れ去ろうとしていた。

あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。

死ぬ事も、痛みも、深海棲艦の群れにも動揺しなかった筈の赤城は、のたうち回る。

耐え難い恐怖だった。赤城は、諦めずに艤装を召ぶ。己の内へと念じる。念じる。念じる。

すると、また、“声”がした。赤城の声だった。同時に、意識が霞むほどの頭痛が来た。

赤城は翻弄される。痛みの余り、“声”が何を言っているのかすら聞こえない。

 

 それでも、赤城は念じる。己の内から響く声に、言う。返せ、と。返せ。返せ。返せ。

ふらふらと立ち上がった赤城は、壁まで近寄って、手をつく。そして、額を打ち付けた。

何度も何度も打ち付ける。私の中から出て行け。出て行けと。“声”を追い払おうとする。

返せ。返せ。艤装を返せ。返せ。私を返せ。鬼気と共に、額を打ちつける壁に、血が飛ぶ。

紅い花が咲いたようだった。赤城は、壁に手をついたまま、頽れて、膝を付く。

血溜りを躙り蹲りながら、血に染まる視界で天井を仰いだ。“声”と共に。視界が滲む。

赤城の五感は再び、古いフィルムを移したような、暈けて滲んだ光景に飲み込まれる。

 

 コマ送りのように、歪に刻まれ、揺れて、継ぎ接ぎされ、支離滅裂な光景だった。

歴史の中にあるはずの光景だ。古い古い映像だ。早回しで流れていく。

それらが円融し、衝合し、流れ伸び、潮境となって捩れ、歴史の断片として過去を映す。

艦載機が飛んでいく。着艦する。手を振る人。笑う人。旗を振る人。戦う、人。

前世の記憶だ。燃え盛る艦。軋む艦。昇る黒煙。沈む。沈んで。沈んでいく。

波濤に飲まれて、溺れている。咳き喘ぐ。泥の海へ、消えていく。赤城が。消えていく。

燃えている。熱い。此処は、熱い。熱くて、息が出来ない。苦しい。苦しくは無い。

背中が燃えている。肩に振る火の粉が、宿業である、宿報であると、嘯いている。

焼かれる瞼で見上げた、一天の遥か先。深海と紛う程の碧落と、的然として白日の下。

透くほどに薄い雲が、ゆっくりと浮いていた。その空に。夜が来て、朝が来る。

時は廻り遷され、今へと貫く。晴れて、曇り、雨が降る。“艦娘である赤城”へと成り代る。

豁然として、此処に在る。「おいAKGィ、しっかりしろぉ!! はい返事ィ!!」

茫遥と過去の記憶に呑み込まれていた赤城は、その声で意識を掬い上げられた。

そして、すぐにまた意識を失った。“おころりよ”。

道連れの海だけが、波を揺らして笑って居た。

 

 

 

 

 再び眼を覚ますと、やはり赤城はベッドの上に居た。手狭な病室には見覚えが在る。此処が何処かはすぐに分かった。私は、また気を失ったのか。なんと出来損ないなのか。

身体を起こそうとするも、上手く動かない。重くて怠い。疲弊し、消耗しているようだ。仰向けに寝ている赤城は、額に包帯が巻かれ、血塗れになった被術衣も替えられていた。

視線だけを動かす。白い病室だ。壁や床には、何かを拭いた様な跡が見て取れた。赤城の血だろう。奇怪な体験をして、半狂乱になった事を思い出す。

今は、もう“声”は聞こえない。静かだ。頭に痛みも無い。血塗れになった赤城を介抱し、治療してくれたのであろう。視線を横にずらすと、野獣がベッドの傍に居た。

丸椅子に腰掛けて、足を組んだ姿勢で、分厚い書類の束を睨んでいる。疲れた様な貌をしているものの、その眼の光は鋭い。ギラギラというより、深々とした冷静さが在った。

赤城は、声を掛けようとしたが出来なかった。言葉が出なかった。何というべきか。狂乱した赤城の様子に、野獣だって何かを感じた事だろう。この男は馬鹿では無い。

赤城の身に起きている変調にも勘付いている筈だ。艤装召還能力の不全。これは、艦娘にとって致命的だ。結果としては、解体施術を受けたに等しい。

艦娘としての“力”とは、艤装にこそ宿っているのだ。それを失った艦娘など、軍の戦力としては無いも同然である。赤城は、死んだ。生きたまま、沈んだのだ。

 

 赤城の胸は痛むのではなく、強い虚無感に襲われた。心の内を苛むのは、無力感だった。抵抗しようの無い悪寒だった。

赤城は、強かった。強くなった。艦隊の要として、無数の勝利を齎し、貢献して来た。それ故に、無力感というものについて、免疫が無かった。

これも、人格があるが故の弱点であろう。強い震えが来た。赤城は、賞賛や武勲が欲しいのでは無い。勝ち誇りたい訳でも、野獣という男に気に入られたい訳でも無かった。

ただ、在るべき己であろうとした。その為に必要だった。だから、赤城は飽く事無く戦果を求め、倦む事も無く戦火を求めていた。その焦りは、常に赤城の背中を焼いていた。

もう殆ど、それは呪いだった。最早、赤城は何のために戦っているのかすら解からなくなっていて、そんな自分自身の歪な在り方に今頃気付いて、呆然とする。これは、呪いだ。私は、呪われている。

でも、それしか知らない。どうしようも無い。“疲れたか”。不意に。脳裏に“声”が響く。息を呑んだ。そうかもしれない。横たわったまま、赤城は軽く息を吐きだした。

 

 野獣が、赤城に気付いた。眼が合う。赤城は何も言わず、野獣を見つめた。

勢いよく立ち上がった野獣は手にしていた書類を放りだして、ベッドの傍へと寄った。

赤城の貌を覗き込んでくる。その眼差しは真剣であり、心配そうだった。

同時に、ホッとしているような、緊張が緩む寸前の様でもあった。

 

「あのさぁ……。ちゃんと身体を休ませといてくれよなー。

いきなり病室が血塗れとかになってると、びっくりしちゃうんだよね……(HC並感)」

 

 そんな野獣の反応が、赤城にとっては意外だった。赤城にとって野獣という男は、補給と命令を受け、戦果を報告するだけの存在だった。

少なくとも、赤城は今までそんな風に接して来たし、作戦確認についての会議でも、多くを語った事は無い。

綿密に立てられた作戦については文句も無く、イレギュラーな事態であっても、赤城は臨機応変に戦況へと対応してきた。

それ故に、赤城は野獣という男との接点は殆ど無かった。赤城自身も、必要としていなかった。提督と艦娘という立場でしかなかった。それで十分だった。

赤城にとって必要なのものは戦場だったし、野獣は提督として、戦力としての赤城を必要としていた。それだけの事だ。ただ、状況は変わった。赤城は、もう戦力では無い。

意識が戻ると、艤装を召還できなくなっていた事。そして、頭に響く“声”の事を説明し、正直に告げた赤城は、ベッドに身を起こした姿勢のままで深く頭を下げた。

この激戦期の中、戦えない艦娘を置いておく余裕は無い筈だ。赤城は自身を解体・破棄してくれと野獣に願った。赤城は、自分の言葉が震えている事に気付く。恐ろしいのだ。

 

 今のままで解体・破棄されて、この身が消えた時。何が残るのか。

艤装を召還出来るうちは、赤城は赤城として、戦う事も出来て、死ぬ事も出来た。

しかし、今は違う。今の赤城は、何者でも無いまま、消えていく。それが恐ろしい。

だが、仕方が無い。どうしようも無い。赤城は強かったが、戦う事しか知らなかった。

呪われていた。己の価値を殺戮の果てに求め、己を失った。其処には何も無かった。

それだけの事だ。赤城は、蛻の殻となった自身に、自嘲の笑みを浮かべようとした。

出来なかった。息が詰まる。空っぽの筈の自分の内から、何かがせり上がってくる。

呼吸が震える。横隔膜まで震えて来た。とうとう、私は壊れてしまったのか。

「おい、AKG」と、ぶっきらぼうに名を呼ばれた。顔を上げる。

すると、椅子に腰掛けたままの野獣は、軽く伸びしながら笑って居た。

 

「今さぁ、割と夜中なんだけど……腹減らないっすか? ですよねぇ?(自問自答)」

 

 嫌味の無い笑みだった。この男が、こんな風に笑うことを初めて知った。

野獣は腕時計を一瞥して立ち上がり、片手で首下を押さえて、コキコキと首を鳴らした。

書類を睨んでいて凝ったのだろう。首や肩をゆっくりと回しつつ、赤城に背を向ける。

「じゃけん、真面目な話をする前に、ちょっと腹拵えでもしねぇか?(夜食先輩)」

肩越しに赤城を見た野獣は、軽く手を振って病室を後にしようとした。

出て行く際に、「あっ、そうだ!」と振り返り、冗談めかして笑って見せた。

「もう暴れたりせず、大人しくしといてくれよな~(心配)」

赤城は、何も言わず、ただ頷きを返した。野獣は満足そうに頷いていた。

 

 

 一人病室に残された赤城は、少しだけ呆然としていた。

野獣という男が提督として優秀であることは知っているつもりだ。

しかし一方で、どんな人間なのという事に関しては、赤城は殆ど理解していない。

だから、面食らった。破天荒な男だ。こんな時に食事を作るなどと。

だがどういう訳か、言動や態度の割には、軽佻浮薄といった印象を抱けなかった。

何だか、不思議なひとだ。赤城が、そんな事を暫く考えていると野獣は帰って来た。

手には大きめの木の盆を持っていて、小振りな鍋が二つ載っていた。

 

「お ま た せ」

 

 野獣は言いながら、病室の隅に置いてあった、テーブルを引いて来た。ベッドに座ったまま食べられるように造られた、ベッドテーブルである。

その上に、小振りな鍋を置いて、赤城の前に寄せてくれた。赤城が少し困惑しつつも頭を下げると、野獣は木で彫ったスプーンを渡してくれた。

「冷めない内に食べてみて、どうぞ(シェフ先輩)」と言われ、やはり困惑する。赤城は今まで、何かを食した事が全く無かったからだ。

野獣の下に居る他の艦娘達は、食事によって肉体のコンディションを整えつつも、それを大切な娯楽と潤いとして楽しんでいた。仲間との食事は、ガス抜きの意味もあっただろう。

しかし赤城は食事の代わりに、妖精達でも扱える範囲である、肉体の活力を維持する施術だけを受けていた。他所の鎮守府では、人格を破壊された艦娘達が受けている施術でもある。

艦娘には、水も食料も必要ない。戦えれば良い。それで十分だと、赤城も思っていたからだ。無論、だからと言って他の艦娘を見下したり、侮蔑することも無かった。ただ、在り様が違うのだと考えていた。故に赤城は、他の艦娘達とも深い繋がりを持っていない。

鎮守府内ですれ違えば短く言葉を交わしあうし、作戦行動中は、互いに信頼しあい、名を呼び交わしあった。しかし、それ以上では決してなかった。赤城が、自ら距離を置いていたからだ。己が赤城である為に。赤城にとって食事は、不要な行為だった。

 

 

 赤城は緊張した。空腹感という感覚もよくわからないまま、赤城はゆっくりと鍋の蓋を開ける。

ふわりと湯気が昇る。鍋の中身は、薬膳粥だ。白い粥と、瑞々しい薬草の緑が美しい。

他にも、赤みのある木の実が入っていて、彩りも良い。良い香りがする。

赤城は無意識の内に、唾を飲み込んでいた。渡された木のスプーンで、掬う。

そのまま口に入れようとして、「ふーふーしないのか……(困惑)」と野獣に言われた。

何だか気恥ずかしくて、俯いて唇を噛んだ。気を取り直し、ふー、ふーと息を吹きかける。

少しだけ冷まして、一口食べてみる。思わず、溜息が漏れた。これが、そうか、美味という感覚か。

ホッとするような、優しい味だった。初めての食事だったが、感動した。

視線を上げると、「あぁ^~、うめぇな!」と、野獣も粥をガツガツと食べていた。

赤城も、もくもくとスプーンを動かす。本当に、美味しい。美味しいなぁ。

気が緩んだ所為だろう。また自分の心の内に、何かがせり上がって来た。

何かが溢れそうだ。息が苦しくなった。野獣が作ってくれた粥は、こんなに美味しいのに。

スプーンを持つ手が、微かに震えて来る。いや、手だけでなく、唇まで震えて来た。

少しの間、赤城はじっとして、自分の内に吹き荒れる何かが去るのを待った。

 

 

「悪かったゾ……」と。不意に声を掛けられた。

赤城が顔を上げると、丁度、野獣が粥を食べ終わっていた。

野獣は食べ終わった鍋を、傍にあったベッドテーブルの端に置いた。

そして、おもむろに立ち上がり、両手に膝をついて、赤城に頭を下げて見せた。

いきなりの事に、赤城は一瞬、反応が遅れる。いや、上手く反応ができなかった。

 

「お前に甘え過ぎた。……無理させちまったなぁ(深謝)」

 

「い、え……、そのような、ことは……」

 

「お前が鎮守府の中でも、強過ぎる程に自分を律してるのは知ってたんだよなぁ……。

 SGRにも言われたゾ。もっと早くお前を休ませてやって、緊張を抜いてやるべきだった」

 

 野獣は、本当にすまなさそうに言いながら、顔を上げた。

その表情には、確かに後悔と自責の色があった。野獣は、また椅子に座った。

居住まいを正し、「すまない」と零した野獣の眼は、やはり真剣な眼差しだった。

野獣の視線を真っ直ぐに受け止める事が出来ず、赤城は首を振る。

 

「謝らないで下さい。私は、私が一航戦である為に、私の意志で戦ってきました。

 野獣提督に強いられた結果ではありません。……気に病まれる事などありませんよ」

 

 其処まで言ってから、赤城は微笑もうとしたが、頬が強張って無理だった。

顔を引き攣らせるみたいにして、口許を歪めるのが精一杯だ。謝られると、惨めだ。

優しくされた所為で、もう、そろそろ限界だ。いや、何が限界なのかも分からないが、とにかく限界だ。

己の内に、水位として上がってくるものを誤魔化そうと、赤城は一度視線を落とした。

ベッドの上で居住まいを正し、深く息を吸い込んでから顔を上げて、また野獣を見詰める。

 

「先程もお願い申し上げましたが……、どうか私を破棄して下さい。

 艤装を失った身であります。最早、無用の長物でしょう。どうか、お慈悲を。

 また金属へと還り、他の艦娘達の血肉となり、以って報国としたいと思います」

 

 静々と紡がれた赤城の言葉を、野獣は神妙な貌のままで聞いていた。

だが少ししてから、瞑目しつつ、ゆっくりと、細く息を吐き出した。

「おっ、そうだな……(苦渋の選択)」と頷いてくれた野獣は、少しだけ微笑んで居た。

赤城はベッドに座ったままで、再び、深く頭を下げる。これで良いのだ。

己に言い聞かせる。赤城が顔を上げる。「……もう腹一杯か?」と。

野獣が聞いて来た。ベッドテーブルに置かれた赤城の小鍋には、まだ少し粥が残っている。

小さく笑って、赤城は首を横に振った。「いえ、全部頂きます。美味しいです」

短く応えて、また粥を木スプーンで掬った。やはり、とても美味しかった。暖かかった。

こんな感覚ならば、もっと早くに知っておいても良かったかもしれない。

自嘲気味に思っていると、野獣が椅子から立ち上がり、ベッドの傍へと歩み寄って来た。

野獣は提督服の懐から、何かを取り出した。ハート型を模した錠を象ったあれは、ネックレスか。

淡く、蒼い微光を宿したそのアクセサリーを、野獣はそっと赤城の首に掛けてくれた。

何か武道の心得があるのだろう。余りに静かな所作だったので、赤城は反応が遅れる。

 

「あの、……こ、此れは?」

 

「精神プロテクトの為の、まぁ、お守りみてぇなモンだから」

 

 そう軽く言いながら、野獣は何らかの術式を編みつつ、短く文言を唱えた。

すると、ガチンッ、と錠が落ちる様な音がした。このネックレスからだった。

 

「艦娘達の人格を保護する術式理論が、ようやく構築されたんだよなぁ。

 まだまだ不完全な部分もあるけど、多少はね?」

 

赤城は困惑しつつ、首に掛けられたハート型の錠と、野獣の顔を見比べる。

 

「な、何故、このようなものを私に……。

 もう破棄を待つだけの私には、人格の保護など必要ありません」

 

「あのさぁ……解体破棄するにしても、まずは出来る事を全部やり尽くすに決まってるだルルォ?」

 

自身の事を破棄してくれと願う赤城を前にしても、野獣は怒るでも声を荒げるでも無い。

落ち着いた様子で、動揺している赤城の視線をしっかりと受け止め、頷いて見せる。

 

「もうどうにも出来ない最後の最後の時になって、

お前が本気で心の底から破棄されたいって思ってるんなら、もう何も言わないゾ。

 でも取り合えず、諦めるのはまだ早いんだよね。それ一番言われてるから」

 

 赤城は俯きながら下唇を噛み、ベッドのシーツを掴み、ぎゅうぎゅうと握り締めた。どんな貌をすれば良いのか、分からない。ただ顔を伏せたまま、黙っていた。

そんな赤城を見て、野獣は少しだけ笑った。「お前が帰って来るのを、他の奴らも待ってるんだからさ(諭す声)」と言われ、赤城は下を向いたまま、呆然としたのを覚えている。

この時の野獣の下には、隼鷲と飛龍が居り、戦艦である比叡と榛名達も居た。赤城が居ない事で大きく戦力が落ちるものの、皆の錬度も高く、決して弱い艦隊ではなかった。

しかし、すぐには信じられなかった。赤城は、今まで、深い交流を築こうとはしなかった。交わらず遠ざかり、ただ、己は己であろうとした。そんな自分を、心配している……?

赤城は顔を上げると、野獣が緩く笑っていた。説教臭さや気障ったらしさは感じなかった。喉を低く鳴らして、眉尻を下げた笑顔には愛嬌があって、不思議と優しかった。

 

 野獣は、まるで父親のように赤城の頭をわしわしと撫でて来た。

ちっとも遠慮しない手付きだったが、決して乱暴な手付きでもなかった。

そんな風に優しくされたら、急に怖くなった。己が己では無い、今の自分が。

今まで触れた事の無い“ぬくもり”とでも呼ぶべき何かに、怯む。全てを委ねてしまいそうになる。

感情を、上手くコントロール出来ない。不安定になる。今の赤城は冷静では無い。

優しくしないでください。そう短く零して、再び俯いた赤城の言葉は、滑稽なほど弱々しくて、掠れて震えていた。

そうだ。自分は疲れているのだ。疲れた。戦ってばかりだから、疲れてしまった。

己を失う程に戦って疲れているんだ。普通じゃない。今は、冷静じゃない。

だから、もう駄目だった。溢れてしまった。俯いていた視界が、滅茶苦茶に歪んだ。

涙だ。初めて流した。泣いたのも初めてだった。止まらない。ボロボロと零れた。

堰き止めていたものが、一気に流れ出てしまった。委ねてしまった。そんな感じだった。

誰にも見せたくない、弱い自分を曝け出してしまった。取り繕う事なんて、もう出来ない。

今の私を、どうか見ないで下さい。嗚咽に揺れた声で言う。一航戦赤城。その分霊として在ろうと必死だった。

何処までも追い求め、己の存在価値として信じ、それを失った喪失感と恐怖も一気に来た。

今まで我慢出来ていたのに。そんな風に優しくするから。堪えられなくなってしまった。

 

こうして誰かが、一緒に受け止めてくるからなのだろうか。

必死に拭い、考えないようにして、見ない振りをしているものを、見せてしまう。

一緒に背負って欲しいと甘えてしまうからだろうか。赤城には分からなかった。

怖かった。身体も心も千切れて、涙といっしょに崩れてしまいそうだ。

そんな赤城を、頭を撫でてくる野獣の手の感触が、繋ぎとめてくれていた。

声も呼吸も震わせた赤城は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってしまった顔を上げる。

「……助けて、ください」と涙声で請うと、「あ、良いっすよ(不屈)」と。

野獣は、やはり緩い笑みを浮かべたままで、赤城に頷いて見せた。

 

 

 

 

 

 その後。野獣は激戦期の中に在っても勝利を重ねながら、赤城の治療法を探した。執務をこなして精査を重ね、赤城の身に起きた現象を、昼も夜も無く調べてくれた。

戦況が激しさを増す中でも、他の艦娘達が、赤城の様子を見に来てくれることもあった。驚いたと同時に、暖かいものが胸の内を満たしていくのを感じた。

それは感情だ。赤城が持つ人格に起因する。意識とは、触れえぬものを感知する。追憶により、魂は過去に触れる。その過去から呼ぶ者と、己の内で対話する。

野獣が召還した赤城が、軍艦としての記憶をより強く受け継いでいる、特殊な体質であることも精査で分かった。やはり赤城の中には、もう一人の赤城が居るのだ。そんな風に、漠然とした確信も生まれた。

錬度を大きく高め、戦闘へと傾倒した赤城の精神構造が、軍艦としての記憶との親和率を極端に高めてしまった。それ故に、赤城の肉体機能に悪影響を与えている。

そう仮説を立てた野獣は、一人の少年提督を鎮守府に招き、赤城に会わせてくれた。初めて病室で出会った時、少年提督は、眼鏡の奥でひっそりとした微笑を浮かべていた。

 

 少年であるという事を事前に聞いていなければ、女の子と思ったかもしれない。

整った顔立ちや小柄な体躯も相まって、明るく、腕白なイメージは全く抱かなかった。

その代わり、仮面の様な静かな微笑みだけは、今でも強烈に印象に残っている。

「失礼しますね」と、全く子供らしく無い笑みを浮かべた彼は、ベッドに身を起こす赤城の手を取った。

小さくて、やけに冷たい手だった。文言を短く唱えた彼は、その手に深紫の微光を灯し、赤城の眼を見詰めて来た。

いや。正確には、赤城を見ていない。赤城の中に在る、何かを見ている。何処までも冷静で、静かな眼だった。

赤城も、その眼を逸らすことが出来なかった。

 

「どう? 治せそう?(信頼の眼差し)」野獣は、落ち着き払ったままの少年提督に問う。

彼は、赤城から視線を外して、野獣へと向き直った。

 

「赤城さんの肉体や精神状態に、大きな異常も見られません。

個としての人格も形成されていますし、施術を行う分には問題無いと思います。

すぐにでも治療を行う事は可能ですが……もう、此処で行いますか?」

 

 彼の言葉に、野獣はらしくもなく硬い表情で頷いた。それから、赤城のベッドまで歩み寄って来る。少年提督の隣に立って、右手で赤城の左肩を掴んだ。

痛い程力が入って居た。自力で赤城を救えない、己の不甲斐無さに憤っていたのかもしれない。「コイツはこんなナリだけど、信用出来るから」野獣は其処まで言ってから、へーきへーきと、赤城に笑って見せた。赤城も、その言葉を疑うつもりは無かった。

赤城の肉体に宿る、艤装召還の能力。その機能不全を修復する為、野獣が奔走してくれている事は知っている。野獣は、艤装を召還できなくて良いとは言わない。

野獣が召還した赤城にとって、艤装とは己自身であり、証明する為に戦火を求め、それを己の拠り所としていた事を知っているからだ。

 

 狂信的、盲信的でさえある戦果崇拝を是としてくれた。

この赤城にとっての救いとは、復活と再活性であるということを、理解してくれている。

他の赤城では無く、“野獣が召還した赤城”が、己自身を救えるよう手を尽くしてくれている。

野獣は正しく、目の前に居る赤城を理解していた。

そんな野獣に、いつしか赤城は惹かれていた。感情に、大きな起伏が生まれた。

初めて美味しいと感じた日。初めて泣いた日。助けて、と。野獣に言ったあの日から。

切っ掛けだった。何時の間にか、上手く眼を合わせる事ができなくなっていた。

病室に野獣が来てくれると、呼吸や、心拍が乱れた。心地よい息苦しさのようなものがあった。

病室に篭っている間もリハビリとして、赤城は毎日、一人病室で艤装召還を試みていた。“声”を聞き、意識を押し潰されて。過去に引きずり込まれて。

血反吐と鼻血をぶちまけて、気を失う程の頭痛に見舞われて、気を失っても。何故か、怖くは無かった。もう、一人では無かった。仲間も居る。待ってくれている。

それに野獣も、何とかしようとしてくれている。そんな自分が、現金で、単純で、子供っぽく思えた。心の中で、自分で自分を笑っていた。でも、仕方が無い。

今まで気付かなかった自分が、ただそうであっただけの事だ。艤装を失っている間に、赤城の視野は、ほんの少しだけ広くなった。

赤城は少年提督とは初対面だったが、野獣が此処までの信頼を寄せる人物ならばと、そう思った。

 

 

 左肩に置かれた野獣の手に、赤城は両手で触れながら、そっと左頬を寄せた。

暖かい手だった。しばしの沈黙の後。「……はい」と。短く答えた赤城は微笑んで、野獣に小さく答えた。

野獣も、ほんの少しだけ不安そうに眼を細めただけで、すぐに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 少年提督の治療施術は、大掛かりな装置や儀礼場を用いるようなものでは無かった。

ベッドの傍に歩み寄った彼は眼鏡を外し、懐からケースを取りだしてしまった。

彼の黒い瞳は、いやに昏くて深い。それでいて何処か無機質で、感情や思考を読ませない。

身を起こした赤城の手を取り、赤城の眼を彼が見据えるだけで、準備は整った。

いや、やはり彼は赤城を見ていない。赤城の内へと視線を向けている。

赤城も、彼の眼を見詰め返す。彼は文言を朗々と唱え、複雑な術式を編んでいく。

深紫の光の帯は、光輪となってその形を成して、赤城の頭の上に浮かんだ。

同時に、幾何学的な術陣が、更にその上に描かれて、病室を深い紫色で染め上げる。

赤城の髪や、ベッドのシーツやカーテンが激しく靡いた。目に見えぬ力の潮流だ。

少年提督の声が響くたび、その小柄な身体から、深紫の滲みが揺らいでいる。

傍で見守っていた野獣も、象られた術陣を見上げて、感歎とも驚愕ともつかない呻きを零していた。

「準備も無しでこんな規模とか、ウッソだろお前……(慄然)」という野獣の声が聞こえた。

赤城も気付く。彼は、赤城に施された精神プロテクトを無視して、術式効果を顕現させつつある。

彼にとっては、他者が構築したプロテクトなど無いも同然なのか。赤城も息を呑んだ。

 

 同時だったろうか。

彼の昏い双眸を見詰めていた筈の赤城の視界が、突然、ブラックアウトした。

一秒。二秒。三秒。それから、また数秒。無音、無明の世界に、赤城は立っていた。

暗い。何も見えない。さっきまでの病室とは、全く違う場所だ。此処は、何処だ。

辺りを見回す。天地の感覚は在った。少しずつ、五感が還って来る。

薄っすらと、暗がりの中に、景色が浮かび上がる。暗い。海だ。

無限遠の遥か彼方に、薄ぼんやりとした明かりが差した。水平線が見える。

赤城は、自分の姿を見た。艦娘装束を纏っていた。やはり、此処は海だ。

いや。違う。波の音が無い。薄暗がりが、また明るくなる。彼方の光が強くなる。

景色が、現れる。何だ。此処は。何処だ。此処は。蒼い。碧い。茫々とした砂漠だ。

赤城は艦娘装束のままで、海色をした、渺然たる砂漠の上に立っている。

濃い陰影が落ちた、暗がりの砂漠だ。風の無い。広大無辺の砂漠だった。

赤城は、呆然として立ち尽くす。向こうの方で、何かが埋まっている。沈んでいる。

巨大な艦だ。傾き埋もれ、砂の上に鎮座している。あれは。見間違える筈が無い。

空母だ。赤城。一航戦・赤城だ。堂々とした鋼の巨躯を、黙したままで曝している。

赤城は、砂の上を歩いた。感覚を確かめるように、真砂の上をゆっくりと歩いた。

蒼い砂を踏み、碧い砂を躙り、歩いた。無限遠の彼方から、強い光が差してきた。

空が現れた。雲の無い。不自然なほど青い空だ。赤城は、また呆然と見上げた。

 

 視線を降ろす。すると、もう一人の赤城が、目の前に立って居た。

もうひとりの赤城も艦娘装束を纏っており、飛行甲板と大弓、艤装を装備していた。

肌はいやに白い。眼には、煌々と紅い光を湛えていた。赤城を見詰めてくる。

表情も殆ど無い上に、その眼にも感情らしいものは窺えなかった。

まるで鏡を覗き込んでいるかのような、奇妙な感覚だった。

「正直、驚きました」 不意に、興味深そうな声が聞こえた。

 

 背後からだ。赤城が慌てて振り返る。

其処に、少年提督が、提督帽を目深に被って佇んでいた。

彼は、赤城と、もう一人の赤城を見比べたが、すぐに視線を外して、周囲を見回した。

彼が纏う深紫の滲みは、足元に積もる紺碧の真砂に、複雑な術陣を描いている。

 

「僕は、多くの艦娘の方の心象風景を垣間見て来ました。

 工廠で、自身が建造される光景。海原を駆け、勇猛に戦った光景。沈んでいく光景。

 共に在った、人々との光景。そう言ったものが、皆さんの中にはありました」

 

しかし……、と。少年提督は砂漠を見渡しながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

そして遠くに見え、砂に身を横たえつつある、“艦である赤城”を眺め遣った。

彼は眼を細めながら、緩く息を吐き出した。「このような心象世界は、見た事がありません」

赤城は少しだけ息を呑んで、彼の視線に倣う。艦である、赤城を見遣る。

 

 そうか。此処は。この世界は。赤城の魂の深層。心象風景の世界なのか。だが何となくだが、赤城自身は、何処か納得してもいた。

この何も無い世界は、確かに己を映しているとも思う。そうだ。この世界には、私と、艤装を纏った私と、艦である私しかいない。確かに。此処は、私の世界だ。

戦う事しか知らず、それで良いと思っていた、今までの私の心象の世界だ。赤城は、艦では無い方の、もうひとりの赤城へと向き直る。彼女の紅い瞳が、此方を見た。

 

その瞳を真っ直ぐに見詰め返し、言葉を紡ぐ。

「貴方の力をもう一度、私に貸して下さい……」

 

 赤城の言葉に、もう一人の赤城は此方を見据えながら、ようやく口を開いた。

索敵……。先制……。と。うわ言にように繰り返し呟きながら、ゆらりと一歩。

音も無く、此方へと歩み寄る。赤城は退かず、立ち止まったまま、その紅い眼を見詰め続ける。

戦果を……。反攻を……。もう一人の赤城は、更に一歩近付いてくる。

その声は大きく掠れていた。金属を擦り合わせるように、歪で、不調和な声だった。

しかし、紅い瞳だけは爛々として燃え、そこに映る赤城自身を焼いている。

無表情だったもう一人の赤城の貌に、表情が浮かんだ。大きく歪ませた。

“……無念である”。もう一人の赤城の声に、今までに無い力が宿った。

向かい合う赤城は息を詰まらせる。“……未練である”。もう一人の赤城は、紅い涙を流した。

“……慙愧に堪えぬ”。血を吐くように、もう一人の赤城は、言葉を紡ぐ。

 

 

 これは。彼女は。赤城の肉体に宿り、魂を成し、その深層に住まう彼女は、艦の記憶だ。

敗北に遭いて沈んだ、かつての艦。其処に遺された激しい余執を、野獣に召還された赤城は、特に大きく受け継いでしまったのだ。

その影響を大きく受け、赤城は己の存在価値を戦果に求め、心水を戦火に染めて、その消耗をもって機能不全に陥った。

まさにこれは、宿業だ。生まれながらにして、傷だらけの魂を受け継いでいた。

だから赤城は、徹底して戦力としてあろうとしたのだ。しかし、それは愚に非ず。赤城は、そう信じている。

全ては無意識であり、その深層に在る無念を埋め、未練を断ち、慙愧を払う為だったとしても。

その執念の御蔭で、赤城は“野獣が召還した赤城”とし、個を確立できた。

 

 赤城はゆっくりと頷いて、自分から、もう一人の赤城へと歩み寄った。

その魂の在り様を受け入れるべく、そっと微笑んで、艤装ごと彼女を抱き締めた。

艤装の召還不全にまで赤城を焼いた、その激しい無念を引き受ける。

赤城は何も言わなかった。それでも、その覚悟や信念は、きっと通じたのだろう。

冥契の中で、もう一人の赤城が、赤城を抱き返して来た。彼女は泣いていた。

彼女の身体は次第に解け、輪郭を暈しながら滔々と揺れて、煙霧のように薄れ始める。

もう、泣き声は聞こえない。艤装も消えていく。赤城の腕の中には、何も残らなかった。

赤城は静かに深呼吸をして、空を見上げた。異様に青い空から、雨が降って来た。

蒼くて碧い、海色の砂漠を潅ぐように。細く、優しい雨が降る。暗雲の無い、静かな雨だ。

赤城は濡れるに任せ、空を見上げながらもう一つ息を吐き出した。

 

「やはり、艦娘の皆さんは心の何処かに、かつての戦塵の傷を残しているのですね……」

 

 消えていく彼女を見送っていた少年提督は、雨に打たれる赤城を見ていた。

彼は、全く濡れて居ない。此処に在りながらも、此処に居ない。意識と記憶の共有である。

同時に、赤城の精神への干渉でもある。此処は、赤城の世界である。

其処に平然とありながら、彼は赤城から視線を外した。「僕は、恐ろしく思います」

彼は小さく言いながら、深い憂いを帯びた眼で空を見上げる。

 

「一切の瑕疵も、そして瑕瑾も無い魂など無く、

艦娘の皆さんの心身がそれに深く揄伽しているのであれば……。

皆等しく、誰も救われないのではないのかと……、そう思う時があるのです」

 

赤城は、空から彼へと視線を移す。彼もまた、赤城を見た。

 

「そんな事は無いと思います。

少なくとも、私は救っていただきました」

 

 彼へと言いながら、赤城は少しだけ微笑んだ。念じると、艤装が応えた。召還出来る。

現世では無いが、確かに感覚が在る。慣れ親しんだ、戦闘への感覚だ。

この感覚と艤装をもって、艦娘としての赤城とは完成している。そう確信した。

“野獣に召還された赤城”は、個として、己の意味を見出した。

ただその己の捉え方が代わった。この“力”を、誰の為とするか。

ふと、野獣の貌が脳裏に浮かんだ。仲間達の貌が、瞼の裏を過ぎった。

今までのように、戦う為に戦うのでは無く。この力は、在るべき場所に在れば良い。

そうすれば自ずと、野獣という男は、善い方向へと導いてくれるだろう。

艤装を召還した赤城を見た彼は、少しだけ驚いたような貌をしていた。

しかし、すぐに頷き、眩しいものを見る様な眼で、赤城を見た。

 

「いえ……、僕は何もしていませんよ。

 ただ、赤城さんの精神を、この深層までお連れしただけに過ぎません。

 自身の内に在るものを克服したのは、赤城さん自身です」

 

 彼の言葉に深い礼を返した後、赤城は遠くに鎮座する艦としての赤城を見遣る。

彼女もまた、静かに雨に濡れていた。誰の心象の底にも、“艦”が在るのだろう。

強さと誇りと、無念と執念を受け継いでいるのならば。

赤城がそこまで考えて視線を戻すと、彼は赤城を見詰めて、微笑んで居た。

 

「……では、そろそろ戻りましょう。先輩も、心配していると思います」

 

 彼は両掌の上に、深紫の微光で編まれた術陣を象り、短く文言を唱えた。

昇り雨のようにくゆり、煙霧のように揺らぐ微光は、彼の足元にも術陣を描いている。

ひっそりと頷きつつ、彼は赤城へと左手を差し出して来た。あれは、回帰の為の術陣か。

赤城は彼に頷き、その手を取る。気付けば、赤城の身体は、もう雨に濡れてはいなかった。

彼の手を取った赤城は、少しだけ名残惜しそうに、この砂漠の世界を眺める。

その視線に、彼が気づく。「如何されました?」と聞かれた。

いえ……、と赤城は緩く首を振った。

 

「この雨が上がる頃には、この世界はどうなっているのだろうと……。

 ただ薄ぼんやりと、そう思いました」

 

 馬鹿な事を言っているのは重々承知だった。ただ茫々とした思考の中に浮かんだ言葉だ。

微かな笑みを浮かべた赤城の言葉に、しかし彼は、少しだけ真剣な貌になって周りの光景を見遣った。

雨が降っている。蒼く碧い砂を濡らしている。遠くに見える艦は。私は。砂漠と同じく黙したまま、ずぶぬれだ。

艤装を取り戻し、赤城は己の確たるものを再び得た。どう在るべきかを、己を中に答えを出した。人格を得た艦娘として、間違いなく救われている筈だった。

しかし、だ。自身の心象世界としての、この雨が止むのかすら分からない。雨のち、また雨かもしれない。己の心すら、ままならない。

賢そうな彼には、今の赤城は酷く不器用で、さぞ滑稽に見えるだろう。赤城は自嘲するみたいに、伏し目がちになって彼と肩を並べた。足元に伸びる、不揃いな跛の影を見遣る。

すると、彼が此方を見上げているのに気付く。気遣わしげという訳でも、赤城の言葉を嗤うでも無い。ほんの少しだけ、悪戯っぽく笑って居た。

もしも雨が続いたとしても、先輩が虹を掛けてくれると思いますよ。彼は言う。お願いしてみますと、赤城も少しだけ笑って頷いた。

 

 自身の魂の深層から、赤城の意識が帰って来た時には、もう少年提督の姿は無かった。

病室に居たのは野獣と、仲間の艦娘達だった。どうやら、また丸1日程眠っていたらしい。

その間に、少年提督は自身が所属する鎮守府へと帰って行ったのだという。礼を述べたかったが、残念だった。

赤城はベッドから身を起こして立ち上がり、心配を掛けたことを野獣や仲間達に詫びてから、艤装を召還して見せた。戦線に、海に戻ることが出来ると宣言した。

仲間達は大笑いして、大泣きして赤城の復活を喜んでくれた。野獣も、ホッとしたような貌で頷いてくれた。ほんの少しだけ頬が熱くなって、すぐに礼をして誤魔化した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今思い出してみると、何だかとても懐かしい気分になる。赤城は野獣の執務室のソファで、お茶をゆっくりと啜りながら、のんびりとした追慕の中に居た。

大きな作戦が終了し、今日は出撃、遠征に出ている艦隊も無かった。今は夕刻前。一応の非番であった赤城は、執務の手伝いでもと思い、足を運んでいたのだ。

今日の秘書官が加賀という事もあり、きっと喧嘩でもして執務が滞っていると思っていた。だが、野獣はさっさと仕事を終わらせて、加賀を帰してしまったと言うのだから、ちょっと意外だった。

空いた時間でレ級を資料室まで案内し、その帰り道に間宮へと寄ったらしい。お土産に羊羹を持って帰って来ていた。丁度良いタイミングと言うやつで、赤城が執務室へと訪れた時には、野獣はオヤツとして羊羹を食べようとしているところだった。

別にオヤツの時間を見計らっていた訳では無い。同じようなタイミングで、鈴谷と時雨まで執務室に現れたのには、きっと深い意味は無い筈だ。そう。野獣と一緒に過ごしたいと思った結果である。

考えることが一緒だっただけのこと。偶然だ。赤城も、鈴谷達も、時雨も、お互いに目を合わせて、可笑しくて笑った。あのさぁ……、みたいな貌をしていた野獣も、なんだかんだでお茶を用意してくれて、羊羹を切り分けてくれた。

今はみんなで羊羹を食べ終わり、珍しく、まったりとした時間を過ごしている。ソファには、野獣と鈴谷、時雨達も其々腰掛けて、他愛も無い話をしている。

 

 

ちょっと目に入ったんだけどさ。

この予算関係の書類さぁ、これマジ……? 

なんか中庭に池とか造るって書いてあるんだけど……。

 

おっ、そうだな!(肯定)

 

そうだなって……。何する気なの、コレ?

 

新しく執務室を造る計画を立ててるんだよね。

此処もちょっと物が増えて来たし、仕事するスペースを確保しようと思って(適当)。

 

ちょっと何言ってるのか良く分かんない感じなんだけど……。

じゃあ、この池って何? 関係無くない? 執務室でしょ?

 

平安時代を意識して、寝殿造りにする予定なんだよ(和の心)。

だから一応、日本庭園チックな景色造りも、まぁ多少はね?(風流人の風格)

もののあわれ! いとおかし! 徒然に! って感じでぇ……。

 

要するに勢いだけじゃん。馬鹿じゃないの……?  

そんなマイン●ラフトみたいなノリじゃ、申請以前の問題だよ。

って言うか、コレも本営に対する嫌がらせの一つなの?

 

まぁ、そうなるな。

予算は本営に出して貰うから、安心!(屑)

 

いや出してくれる訳無いじゃん!

ちょっとさぁ、時雨も何か言ってやってよ……。

 

鈴谷の言うとおりだよ。

それに予算云々じゃなくて、まず施工許可が下りないと思うな(名推理)。

 

やってみなきゃ分からないだルォ!?(挑戦者)

 

そんな事しなくていいって……(良心)。

また長門さんに無茶苦茶怒られちゃうよ?

 

大丈夫だって、安心しろよー!

新しい執務室(茶室)の名前は、猥々庵(レ)で、決まりっ!!

池が出来たら、お前らも浮かべてやるからさ!(優しさ)

 

もう名前からしてタダ者じゃないって言うか、風流もへったくれも無いと思うんだけど(呆れ)。

 

そんな笹舟を浮かべるみたいな軽い感じで言われても……。

 

 

 

 野獣の馬鹿話に振り回される鈴谷と、冷静にツッコむ時雨達を眺めつつ、少しだけ微笑んだ赤城はもうひと啜り、お茶の入った湯呑みを傾けた。

平穏な時間の中に居て思う。鈴谷や時雨の中にも、其々の心の内に心象風景を持ち、其々に大切なものが在るのであろう。では、深海棲艦達も同じなのだろうか。

今の少年提督の右眼は、深海棲艦達の心象をすら覗くことが出来るのであろうか。そして、其処にこそ、深海棲艦が生まれてくる答えが在るのではないかと。まとまりのつかない思考が廻る。

 

 艦娘も深海棲艦も、人間と同じく、その生の始りにおいては自身の認識を持ちえない。

死に際しても、それは変わらない。意識や自我を失い、また認識の届かぬ内に、輪廻に飲まれる。

人間も、艦娘も、深海棲艦も、みな等しい。生に暗し、死に冥し。そんな言葉を残したのは、弘法大師だったか。

何処より生まれて、何処へ向かうのか。そんな魂の原形質の行方など、赤城には到底理解が及ばない。

だが、人でも艦娘でも深海棲艦でも無い、新たな血統の種父として、己を確立させた“彼”ならば。

その未踏の領域に乗り込むことも可能なのであろうか。

無論。其処には何も無いかもしれない。答えなど、存在しないのかもしれない。

であれば、とんだ笑い話だ。やはり、そんな時でも、“彼”は笑うのだろうか。

 

 

 












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