少年提督と野獣提督   作:ココアライオン

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短編 2

 今回の作戦は規模の大きさも然ることながら、作戦海域に於ける敵の強さも尋常では無かった。

深海棲艦の上位体達は、確実に進化し、強くなって来ている。人類が優位であっても、“海”が弱体化している訳では無いということを思い知らされた。

この鎮守府に所属している艦娘達にも、多くの負傷者が出ることになったものの、前線に居る者達からの報告で、全員の生存が確認出来ている。

轟沈など、艦娘達の被害が大きかった鎮守府もあるが、結果から言えば作戦は成功だった。新種の深海棲艦の鹵獲にあわせて、海域の開放など。

戦果も十分であり、戦線からの報告を見れば勝利と言える結果だろう。各地の鎮守府の提督達も、あとは前線に出ている艦娘達が帰って来るのを待つだけであった筈だ。

ただ、少女提督を始め、彼女が召還した大井は、それを手放しで喜べない深刻な状況に置かれていた。作戦の最終段階で、北上が大破、半轟沈し、昏睡状態に陥ったのだ。

意識を失い、沈みかけた北上を死に物狂いで曳航、撤退してきた大井の御蔭で、何とか轟沈は免れ、北上は母港まで還ってくる事が出来た。しかし、悲劇は此処からだった。

 

 

 

 鎮守府の中に設立された特別医務庁舎の儀礼施術室は、天井や壁、床を、特殊な金属で強化コーティングされた儀礼室である。

窓は無く、幾層にも重ねられた扉は重厚で、壁と床に沈むようにして開閉するタイプである。仮に何か事故が在っても、外界との隔絶が可能なように設計されてある様だ。

窓が無い分、高機能な空調設備は在るものの、部屋はやけに寒く感じた。寒い。寒い。大井は歯を食い縛り、肩を震わせていた。

無理な航行をしてきた大井は、入渠もせずに此処に居る。おかげで、北上と御揃いのセーラー服型の艦娘装束もボロボロで、所々が焼け焦げている。

はっきり言って、澱の様に身体に溜まった疲労は、限界を超えつつある。赤疲労などという呼ばれる状態には慣れているつもりだったが、今回は違う。駄目だ。

体の中で泥でも詰っているような感覚だ。腕も脚も、頭も意識も、何もかも重い。それでも、眠気は全く無い。大井の肉体は休息を求めているが、意識がそれを拒む。

顔を上げた大井の視線の先。すぐ傍には大掛かりな施術ベッドが鎮座しており、縁には複雑な計測機類、投薬装置が多数備え付けられている。

その仰々しさの所為か、傍からでは何かの儀礼祭壇の様にすら見えるその施術ベッドに、北上が寝かされていた。

 

 帰投してからすぐに此処に運びこまれたから、北上のセーラー服型の艦娘装束は、やはりボロボロである。まだ意識は戻らない。

北上の手首と足首には術陣拘束が嵌っている。これは先程、少年提督が施してくれたものだ。治癒施術も行ってくれた御蔭で、北上の肌には火傷や傷跡は無い。

ただ、その腕や喉首、胸元、脚には、多数のプラグが差し込まれており、生体データの採取と、投薬が行われていた。肉体は回復しているものの、痛ましい姿だった。

 

 泣きそうな貌の大井は施術ベッドの左側に佇み、拘束されてある北上の左手を握り締めている。窮屈そうなこの拘束は外してあげて欲しい。

北上さんが可哀相だ。でも、きっと外すことは出来無い。北上の右腕と右肩、それから、首の右下、顎の下あたりまでを、仄暗い装甲外骨格が覆っているからだ。

その装甲と装甲の間から覗く肌も青白く変質し、濁った碧色の微光が明滅しながら脈打ち、漏れ出してきている。死死死死。忌忌忌忌。怨怨怨怨。卦卦卦卦。

肉の声では無い“声”が聞こえる。北上の右上半身を覆う、生きた金属が唱っている。嗤い声か。呻きか。泣き声か。その全てであり、どれでも無い様にも聞こえる。

ただ、此方の心を揺さぶってくる声だ。北上の右上半身を覆う金属は、かなりの硬さが在る筈なのに、不気味の蠕動しながらその表情を変え続けている。

 

 儀礼施術室の一角には、施術ベッドの計測器からのデータを表示するモニター、そして操作パネルが備えられており、少女提督が苦しい表情でコンソールを操作している。

「やっぱり……北上の身体から、もう深海棲艦と同じ反応が出始めてるわ」少女提督はコンソールを操作する手を止めて俯き、悔しげに唇を噛みしめながら、拳を握った。

 

 少女提督の声に振り返り、北上もモニターへと視線を向けて歯噛みした。

北上の身体の状態を表示しているグラフと数値が、ゆっくり、ゆっくりと変わっている。

深海棲艦の反応を表すパーセンテージだ。17……18……19……18……19……17、と不安定な揺らぎにありながらも、拘束施術と鎮静剤により、何とか小康状態を保っている。

当たり前だが、普通は0%だ。艦娘は、深海棲艦では無いからである。だが、今の北上からは、20%近くの深海棲艦反応が出ている。

これが意味するものは、一つしか無い。いや、最早データやグラフなど必要無い。北上の様子を見れば、誰だって一目で分かる。

モニターを睨み着けた少女提督は、無念そうに項垂れて、唇を噛む。「深海棲艦化なんて、何でこんな形で……」

 

 

 

 本来、轟沈した艦娘が海の底で遂げるであろう、その再誕と変質の神秘が、今目の前で起ころうとしている。

望まれない奇跡は、悲劇と変わらない。この現象を観測した前例が無く、資料も例も無い為、対処法が全く分からない状況である。絶望的だ。

この鎮守府の傍に在る、深海棲艦研究施設に運び込むのは有効に思える。しかし、今の北上の状態が知れれば、本営が北上を寄越せと命令してくるのは目に見えている。

貴重な現象の検体である北上を、間違い無く少女提督から剥奪しようとするだろう。そうなれば、北上を売り渡すことになる。ふざけるなと思う。それだけは避けたい。

今の状況が重大な隠匿行為であろうことは、軍属の身である大井も理解しているつもりだ。少女提督だってそうだろう。

だが、大井達には何も出来ないというのが現実だ。出来るのは、徒に本営への報告を遅らせているだけに過ぎない。

ただ、少年提督と野獣には、何か考えが在るのだろう。北上の容態を伏せておきたいと願う大井達に、何も言わず協力してくれた。

戦場海域から撤退してきたのは北上と大井だけで無く、他の艦娘達も、何人か帰投していたのだが、これには野獣が対処してくれた。

今の北上の状態を伏せる為、『瘴気の濃い海に中てられたという事で、北上と大井には特殊な治療施術が必要である』と、こうした艦娘達にも伝え、入渠状況を管理してくれている。

 

 ありがたい。感謝せねばならない。しかし、光明は見えない。

北上のすぐ傍に居る大井は、携帯端末を取り出し、今は戦場からの帰路に居るであろう姉妹艦達、球磨や多摩、木曾に連絡をしようとする。しかし、どうしても躊躇う。

何と伝えれば良い。何と言えば良い。怖い。恐ろしい。今の状況を言葉にして、誰かに伝えた瞬間。北上が、全く別の何かになってしまう様な気がするのだ。

姉妹艦達にも伝えるべきなのに、何も言えない。端末を持つ手に力が上手く入らない。この葛藤も何度目だろう。その間にも、北上の身体は変質を続けているのに。

 

 宇宇宇宇。禍禍禍禍。啞啞啞啞。声が響いている。

喘ぐように嗤いながら、呻いて、啜り泣いている。うるさい。うるさいうるさい。

携帯端末を仕舞い込み、北上の左手を握る大井が、自分の唇を噛んだ時だった。

…………。お……。……お。……いっ。ち……。……。擦れ擦れて、今にも消えそうな小さな声が聞こえた。大井が聞き間違う筈が無い、聞き慣れた声だった。

 

 大井はガバッと顔を上げて、更に強く北上の左手を両手で握りつつ、その貌を覗き込む。

青白い顔をした北上は、重そうに瞼を上げる。それから、天井を暫く見詰めたあとに、視線を周囲に巡らせた。

それから大井を見て、微笑みを浮かべて見せた。大井を心配させない為だろうその笑みには、全然力が篭っていない。

今にも消そうな、蝋燭の細い細い灯を思わせる笑みだった。大井は、涙で視界がぐちゃぐちゃになった。

 

「北上さんっ! 北上さんっ!! 

私が分かりますかっ!? 声が……、声が聞こえますかっ!?」

 

 嗚咽が漏れそうになるの堪える。呼吸と声が震える。北上は大井を見上げながら、本当に小さく頷いた。

う。ん……。聞こ、え。て。る……。よー…。大。井、っち……。吐息に乗せるような、か細い声だった。少女提督も、操作パネルの前から此方へと駆け寄って来る。

視線だけを動かした北上は、自身の右半身を見遣る。参ったねー……、みたいに北上は可笑しそうに、小さく、本当に小さく笑った。

その北上の右瞳からは、濁った碧色の光が漏れ始めている。深海棲艦の瞳。その色と耀きだった。あぁ。あぁ……。大井は、へなへなと崩れ落ちそうになる。

二、人……。共……、何て。貌。し……て。る、の。さ……。その弱々しくも健気な声に、何も言えなかった。少女提督も、黙ったままで苦しげに顔を歪めている。寒い。金属の部屋が、寒い。

恐らくは北上自身も、自分の身に何が起きているかぐらいは理解できている筈だ。外骨格とも装甲とも着かない金属で覆われた己の身体を見れば、嫌でも察しはつくだろう。

『沈んだ艦娘は、金属と海水に還り、深海棲艦へと成る』 。少年提督と野獣の報告によって、この仮説は、此処最近で現在もっとも有力な説として挙げられる様になった。

今の北上の姿は、その説の証明と補強として申し分無い現象の中に在る。大井達が言葉を失っていると、重厚な駆動音と共に、儀礼施術室の扉が開いた。

 

 

 

「……意識が戻られました様ですね」

 

「最近、どうなん?(レ)」

 

 その外見に似つかわしく無い、落ち着き払った声音で言いながら入って来たのは少年提督だった。顔の右上半分を覆う黒の眼帯と、右手に嵌められた黒の手袋が目を引く。

彼について入って来たのは、彼の臨時秘書艦の戦艦レ級である。艦娘達が作戦に出払っている今は、深海棲艦達が順に彼の傍に控えている状況だった筈だ。

レ級の格好はラフなもので、黒のホットパンツに、黒のTシャツ。黒のパーカーを羽織り、フードを被っている。

金属獣の巨大な尻尾も、今は召還されていない。ただ、普段とは少し様子が違う。

何時も無駄に明るくてやかましい癖に、今は無表情と言うか、表情が引き締まっている。お馬鹿っぽい振る舞いも無く、その紫水晶の瞳には、理知と熟慮が見える。

 

 

 大井と少女提督は咄嗟に降り返り、少年提督とレ級に向き直る。

儀礼施術室の空気が、重く沈んでいくのを感じた。彼が纏う、普段とは少し違う独特の雰囲気の所為だろう。

初めて会った時の事を思い出す雰囲気だ。今の彼の静穏な表情には、得体の知れない不気味さが在る。

 

「ええ、でも……」

少女提督は施術室端のモニターをチラリと見てから、苦しげに顔を歪ませ、搾り出すようにして言う。

その視線の先。モニターのグラフでは、ゆっくりと、しかし、確実に、北上が深海棲艦となりつつある事を示している。

少年提督もゆっくりとモニターを一瞥した後、大井と少女提督を順番に見た。

 

「……本営への報告は、如何しますか?」

 

「絶対にしません……っ!」 

 

 何か言おうとした少女提督よりも先に、震える声で大井が叫んだ。突然の大声に、レ級がビクッと肩を震わせるのが見えた。

重い沈黙が、暫し降りる。頭では理解しているのだ。救う手立ての無いままで北上を匿い続けて、一体どうするのか。

今でこそ深海棲艦化を食い止めているものの、制御施術や鎮静剤を北上に使い続ける負担を考えれば、必ず限界は来る。

強烈な活性と乱動の中にある北上の肉体は、このままではいずれ深海棲艦へと変貌を遂げるだろう。

沈黙の中。「良、い……よ。そ、ん……な、の」と、掠れた声が答えた。ベッドに横たわる北上だった。

 

 

「自、分の、身体……だ、か。……らね。分、か。るん……だ。

 多、分……。もう、じ、き。なん、に。も。分か、ん……なく、なりそうだし……」

北上は首だけを動かして、緩く微笑んで少年提督を見詰めている。

 

「今、の、内に、破。棄でも、解。体でも、し。て、欲し。いな……。お、願い。だ、よ」

何とか力を振り絞り、其処まで言葉を紡いだ北上は、細く息を吐き出して微笑んだ。

 

 途切れ途切れに紡がれる小さな声に、ゴリゴリっと音がした。

険しい貌の少女提督が奥歯を噛み締めたのだろう。大井は、何も言えないままだ。

何を言っても、状況は好転しない。理解出来るからこそ、辛い。

大井は、その場に蹲りそうになる。眩暈がした。涙が溢れてくる。身体が震える。

もしも大井が、人格を破壊された兵器としての艦娘であれば、絶対に持ち得ない感情だ。

失う怖さ。凄まじい喪失感。耐え難い。本当に、身も心も粉々になるような想いだ。

人の持つ心の強さを、こんな形で知るとは思っていなかった。

絶望にも似たこの悲哀に打ちのめされても、人はそれを乗り越える事が出来るらしい。

だが、大井には、そんな自信は無かった。ただただ、怯えるだけだ。

身体から、生きていく為に大切な何かが、抜け落ちて行くような錯覚を覚える。

少女提督は泣きそうな貌のままで、ベッドに横たわる北上に一度振り返った。

 

 北上は、やっぱり力なく小さく笑う。こんな時でも北上は自然体で、苦笑しているみたいだ。

提、督。なん、て、貌、して。……んの、さ。生、意。気……そ。う。……な。可、愛い貌が、……台、無。し……じゃん。「うっさい、ばか」

え……へ、へ。うん。……ゴメ、ン……ねぇ。ヘマ、し……ちゃっ、て……。提、督。今ま、で……、あ、り。が……と、ね。「うっさい、ばか」

滑稽なくらい震える声で言う少女提督に、北上は可笑しそうに笑おうとしたに違い無いが、そんな力も残って居ないのか。細く息を吐き出しただけだった。

少女提督と北上のやりとりに、大井も振り返る。また北上の左手を握る。少女提督も、大井の手に重ねるようにして、北上の左手を握った。

その温もりが伝わったのだろう。北上は、己が己で無くなろうとする瀬戸際にあっても、幸せそうに微笑んでいた。碧色の光が漏れる瞳に、涙が浮かんでいる。

少女提督は、泣き笑うみたいな貌になって、少年提督とレ級に向き直った。大井も、無言でそれに倣う。

 

「私じゃ無理だから、お願い。……北上を、北上のままで楽にさせてあげて」

 

少女提督のその言葉は、北上の深海棲艦貌化を、良しとしない事を意味している。

しかし、レ級の方は気を悪くした風でも無い。寧ろ、神妙な貌で頷きを返していた。

恐らくレ級自身が、艦娘と深海棲艦を善悪で区別していないからだろう。

今のレ級にとって艦娘は敵で無く、深海棲艦は説き伏せるべき交渉相手だ。

 

 

 

 

 

「……分かりました」

少年提督は穏やかな貌で言いながらレ級を従え、静かな足取りで施術ベッドの傍へと歩み寄る。

 

「それじゃあ、……北上を工廠へ連れて行くわ」

 

北上を移動させるため、施術ベッドに備え付けられた投薬装置や、データ採取のプラグの電源を落とすべく、少女提督は俯きながら操作パネルへと向う。

「いえ、その必要はありません。……施術は此処で行います」と、落ち着いた声で呼び止める。少女提督が、訝しげな貌で振り返った。

 

「此処でって……、妖精も居ないし、設備も何にも無いのよ?」

 

「はい。……これから行う施術は、レ級さんの協力と、僕の身体が在れば可能です」

彼の声に抑揚は無い。ただ、その底を見せない静謐な表情が恐ろしく見える。

「おうよ!(レ)」 レ級が、任せとけみたいな貌で、彼の言葉続いて頷いた。

大井は無意識のうちに、彼から北上を庇うような位置に立っていた。

「何をする気なの?」 少女提督は、彼を睨むようにして問う。

 

「北上さんの身に宿っている、深海棲艦化の種を摘出します」

 

 彼がそう言い終わった瞬間だった。ガキン……ッ! と。錠が外れるような音がした。

重い音だった。それでいて、硝子細工が砕け散ったような、澄み切った音だったと思う。

背後からだ。疲労の所為か、反応が遅れた。あっ……! という、悲鳴に少女提督の声も聞こえた。

大井は振り返ろうとした。その途中で、ベッドの上に片膝立ちになった北上と目が合った。

何もかもが、スローモーションに見えた。操作パネルの警報音が、ワンテンポ遅れて響く。

北上は完全な無表情で右腕を振り上げている。変質したその右腕の装甲腕には、金属獣の大顎が口を開けている。

深海棲艦化しつつある北上の肉体と再活性が、その意識を凌駕し、支配したのだ。

煙霧にも似た碧色の微光を灯した北上の瞳が、大井を見下ろしていた。北上は、大井を喰い殺す気だ。金属獣が吼えた。

大井は、かわす事も出来なかった。ただ、垣間見たその光景に、心が折れる音が聞こえた気がした。だから、振り返りながら回避行動も取れなかった。

驚愕と呆然の刹那。大井の目の前に、大口を開けた金属獣の顎が在った。北上は無感動な表情のままで、大井を見下ろしたままだ。

咄嗟に踏み込んで来た少年提督が大井の腰を抱え、庇うように飛び退ってくれていなければ、大井の首から上は無くなっていた事だろう。

レ級の超反応は流石だった。北上の襲撃と、前へ出た少年提督の動きを眼で追っていたレ級は、すぐさま少女提督の前へと飛び退り、盾になるべく陣取っている。

 

 

 とにかく。周囲の状況は把握出来きているものの、大井自身の意識や感覚に、疲労した体が上手く反応してくれない。

「大井っ!!」少女提督に呼ばれ、はっとする。大井は、施術ベッドに片膝立ちになった北上から少し離れた位置で、少年提督の左腕で横抱きにされていた。

痛みは無い。怪我も無い。しかし、大井を庇う姿勢だった少年提督の右の肩口は、黒い提督服が破けて、大量に血が流れている。肩の肉を少し持っていかれた様だ。

大井が何かを言おうとした。だが同時に、施術ベッドの上で片膝立ちになっていた北上も動いた。艤装も召還せずにベッドの縁から飛び降りて、此方に迫ってくる。

いや、この距離だ。飛び道具など必要無い。今の北上の武器は、右腕を覆う金属獣と、その分厚い装甲だ。北上は大井達に踊りかかり、取っ組み合うつもりか。

 

 

 大井は艤装を召還しつつ、泣く様な声で北上の名前を呼んだ。

しかし疲労困憊の大井の身体は、自身の鋭い反応について来ない。動きが鈍い。

上手く立ち上がる事すら出来無い。その大井の代わりに、彼が、何か文言を唱えていた。

いや、今度は唱えるだけで無く、大井を守る為、更に前へ出る。

疾い。極端に体を前に倒した彼は、音も無く一瞬で北上との間合いを潰す。

 

 無表情なままの北上は、右腕の金属獣を真上から被せるように振り下ろした。

不用意に距離を詰めた彼を、そのままパックンチョと行こうとしたに違い無い。

しかし。出来なかった。彼が更に体勢を低く倒し、すっと横に身体の軸をずらしたのだ。

金属獣の大顎が、ガキィンッ!!、と空を噛んだ瞬間には、彼は北上の懐に入った。

密着距離。超クロスレンジだ。北上は、振り下ろした右腕を避けられ、身体が泳いでいる。

大き過ぎる隙だった。「失礼します」 彼は手袋をした右掌を、金属獣の横合いに添えた。

そして、左掌をそっと北上の喉首に添える。彼の両掌に一瞬、深紫の陣が浮かんだ。

 

 同時だった。金属獣が砕け散り、音も無く爆ぜて、光の粒となって霧散する。

右掌で編まれた術式は“解体”と “破砕”。左掌で編まれた術式は “沈黙化”。

僅かに貌を歪めた北上が、よろめく。その喉首には、複雑な黒紋様が首輪のように浮かんでいる。

 

 彼は、よろめき後ずさる北上を見据えながら、左手で右手袋と眼帯を外した。

彼の右眼は深海棲艦の姫達と同じく、深い暗紅を湛えて、くゆる鬼火を宿している。

右の掌には幾何学的な術紋がびっしりと刻まれており、回路図の様に深紫の微光が明滅していた。

僅か数秒。瞬く間の攻防を制した彼は、北上に向けて、すっと両腕を広げて微笑んで見せた。自身の小さな身体と隙を、北上へと曝す。

 

「アンタっ! 大丈夫なの!!」 

 

 少し離れたところで、レ級の背後から少女提督が叫んだ。

一方、切羽詰った声で言う少女提督とは打って変わり、レ級は静かに彼と北上を見ている。

彼ならば心配無いと、信頼しきっているからこその静観だろう。

現状、最も非力であるのは少女提督だ。今の北上が、彼女を狙わないとも限らない。

その危機に備えるレ級は、自分の役割をよく理解し、実践している。

レ級が居ることにより、彼女が安全であることを確認した彼は微笑んだ。

 

「掠り傷です。……これから行う施術中、モニターの数値確認をお願い出来ますか?」

 

「モニターって……! こんな時に何言ってんの!?」

 

 少女提督が唾を飛ばして言う。確かに、北上の身体には、まだプラグが差し込まれたままだ。

データ自体は、リアルタイムで管理されている状態である。霞む視界に頭を振り、大井もチラリと視線だけでモニターを見遣る。

北上の深海棲艦化は、すでに50%を超えている。それに、まだ上がっている。もうじき、60%だ。北上は、もう半分以上、北上では無い。

軋む体に力を込め、大井は床に手をついて何とか身体を起こす。

そんな大井と同じ様な様子で、よろめきから体勢を立て直した北上は、殺意を込めた眼で彼を睨む。そして、再び彼に飛び掛った。

北上は右腕の金属獣を破壊され、生きた装甲を召ぶ力を沈黙化されている。

それでも、その眼に灯る碧色は揺らぎは、更に深みを増していた。

彼は腕を広げたまま、動かない。まるで、北上を受け入れるように佇んでいる。

 

 少女提督の、危ない、という声が聞こえた気がした。

武装を纏えない北上は、彼を抱きすくめた。少なくとも、何とか立ち上がったばかりで、身動きすら出来なかった大井にはそう見えた。そんな訳が無かった。

北上はガッチリと彼を捕まえて、その黒い提督服を引き裂いた。「AAHHHhhhh……!」そして、顕わになった彼の左の首下へと、力任せに噛みついたのだ。

深海棲艦としての力を振るう北上に噛み付かれたりなんかしたら、無事では済まない。今の北上は、弱体化している訳では無いのだ。

猛獣を超える力を以って文字通り、北上は彼を喰い殺す気で歯を立てる。口の周りを真っ赤にして、彼の左の肩口と首下をグシャグシャにしていく。

ギチギチギチ、ミチミチ、ブチブチブチ、という嫌な音が、施術室に残響を残している。背筋が凍るような音だった。「北上さんっ! もう止めて!!」

叫ぶ大井は、上手く動かない身体を推して、召還した連装砲を向けようとした。「僕は大丈夫です……」だが、大井が北上に艤装を向けずとも良い様に、彼が大井に微笑んでくれた。

そこで気付く。彼の小さな体は、半分ほど深海棲艦化した北上に噛み付かれても、巌のようにビクともしていない。彼は、自身の肉体を強化しているのか。いや、そうとしか思えない。

 

「艤装を解いて、北上さんを呼んであげて下さい。今ならまだ、大井さんの声が届くはずです」

 

 こんな状況でも落ち着き払った声音で言いながら、彼は子供をあやすように、北上をそっと抱き締める。よしよしと宥めるように、北上の背をやさしく撫でた。

痛みも、苦しみも感じる素振りも見せない。いや、見せないだけで、穏やかな貌のままで、激痛に耐えているのだろうか。

 

「もう大丈夫です。……怯えることはありません。ただ、諦めないで下さい」 

 

 北上に優しく言いながら、彼は目許を緩めた。

その彼の体からは、深紫の微光が揺らぎ始めていた。

微光は捩れて昇り、縺れ合うようにして立ち上っていく。

窓の無い施術室に空気の流れが生まれ、うねる様にして微光の帯が廻る。

大井は、その眩さに腕で顔を庇いながら眼を細めた。デジャブだ。

初めて彼と出会った時も、彼は微光を纏っていた。

 

「あー、もうっ!! 

何をする気か知らないけど、北上を頼むわよ!! 大井は彼のフォローお願い!!」

 

 微光が漏れて、流れる施術室の中で、少女提督のヤケクソ気味な声が響いた。

彼女は腕で顔を庇いながらも、操作パネルの前に移動して、乱暴な手付きでコンソールを操作し始める。

それを確認した彼は、己に噛み付いて来ている北上を抱いたままで、更に文言を唱えた。巨大な術陣が、少年提督を中心にして、金属の床に刻まれていく。

奔る深紫の力線で描かれた術陣は、おぞましくも美しく、澄んだ霊光を灯しながら、北上では無く、少年提督の肉体を変質させ始める。思わず、眼を奪われた。

「恐ろしいぞ……(レ)」 場を見守っていたレ級も、眼を細めて見入っている。

 

 

 彼の肌が、白く、白く、透き通るように白くなっていく。

そして頭髪も、黒から白へと変わり始め、右眼に灯る暗紅の鬼火も、墨色へと濁る。

ボロボロだった彼の提督服に、真っ黒な炎が燃え移ったようだった。

雰囲気が一変する。彼が纏う深紫の微光にも影が濃く滲んで、仄暗い墨火に染まった。

艦娘達にも馴染みのある色だ。あれは、徒波を月暈に濡らした、小夜に沈む海界の色だ。

深海棲艦。姫。鬼。そんな言葉が、呆然とする大井の脳裏を過ぎる。

さすがに、北上も異常に気付いた様だ。飛び退ろうとしたに違い無い。

彼は微笑み、呆気なく北上を放した。しかし、今度は別のものが北上の動きを捉える。

 

 少女提督が悲鳴を上げた。大井も、危うく悲鳴を上げるところだった。

彼が、戦艦棲姫と同型の大型艤装獣を召還し、使役できることは知っている。

しかし、彼が呼び出したものは艤装獣では無かった。あれは、非実在に在るものだ。

煙霧にも似た墨色の微光が召び象ったのは、幾条にも連なった、錨を繋いだ鎖の束。

その鎖に絡まり、縛られたような姿で現れたのは、膨大な数の黒い髑髏だった。

ギャリギャリギャリギャリ……と、鎖の擦れる音が、鋭く響いた。

髑髏達は、彼の足元や背後から立ち昇り、伸びて這いずり、引き摺られて、溢れ出す。

幾条もの縛鎖に数珠繋ぎになった黒い髑髏達は、狂濤にも似た勢いで北上に迫る。

息せぬままに、北上の腕や脚や胴や喉首にしがみつき、雁字搦めにする。

「GGGUUUuuuuuuuuAAAHHHHHHhhhhhhhhh……!!!」 

北上は、もがく。髑髏達を振り払おうとする。

 

 其処に、彼が唱える経が、施術室に残響する。

墨色の煙霧が、証明に翳りを産む。暗がりが落ちる。

部屋を覆う金属が、彼の経に応える。信じられない。床が。液状になった。

それだけじゃない。これは、波だ。銀の波濤だ。遠く、近くから漣の音がする。

艦娘の大井が聞き間違う筈が無い。混乱しそうになる。そんな馬鹿な。

彼を囲う大術陣の内側が、液鋼の海になっていた。共に陣の上に居る大井は、言葉を失う。

足元に在り、踏みしめた“海”の感触は、普段の海と変わらない。室内なのに風が吹いた。

ぬくみの在る海風だ。暗がりに落ちた施術室の空間が、神話の領域へと変貌していく。

「何よ……これ……」と、モニター前で絶句している少女提督の声は、酷く遠くに聞こえた。

 

「全てはチャンス!(レ)」 

 

冷静なのは、彼とレ級だけだ。

北上が捉えられ、一応の脅威は去ったと判断したようだ。

レ級も琥珀色の微光を纏いつつ文言を唱え、彼の傍へと悠々と歩み寄って行く。

そんなレ級に視線を寄越した彼も、静かな笑みを浮かべてから、また北上へと向き直った。

 

彼のその視線の先。

無数の髑髏達が半裸に近い北上を捉えている姿は、まるでおどろおどろしいオブジェの様だ。

 

「北上さん、僕が分かりますか。……大井さんの声が聞こえますか?」

 

 微笑んだ彼は静かに言いながら、北上の前へ。鋼液の海を徒歩渡る。

彼が歩く度に、その足元の液鋼は波の飛沫を固め、芽吹き、人の掌ほどの花が無数に咲いた。

それは黒い水蓮だ。彼の歩く跡を追うように、黒鋼の蓮が連なり咲いていく。

まるで液体金属の海が、彼に祝等を送っているかのようだ。非現実的で、神秘的な光景だ。

黒瘴の髑髏達に拘束された北上の傍で彼は立ち止まり、大井を振り返った。

彼の、蒼みがかった昏い左眼と、暗紅の揺らぎを湛えた右眼が、大井を見詰めて居る。

 

 息を呑む。大井は、少し離れた場所で此方を見守る少女提督へと、一度視線を向ける。

さすがは“元帥”と言うべきか。少女提督は、もう冷静さを取り戻している様子だった。

北上の生体データの動きをチェックする為だろう。

彼女はモニターを一瞥してから、短くコンソールを操作し、軽く息をついていた。

沈着な貌で、大井と、彼と、そして、髑髏達に捕らえられている北上を順番に見遣る。

そして最後にもう一度、視線を大井へと寄越して、頷いて見せた。波と海風の音が聞こえる。

大井も頷きを返してから、彼を真っ直ぐに見詰めて、唇を引き結ぶ。

震える脚に力を込めて、北上の元へと延びる黒蓮の道を、疲労と消耗でふらつく足取りで歩く。

 

 正直、これから彼とレ級が何を行おうとしているのかなど、まるで分からない。

深海棲艦化の種を摘出するなどと彼は言っていた。大井には理解の及ばない範囲である。

しかし。今のこの状況では、彼を信じるしかない。彼の傍まで行くと、北上が此方を見た。

変わらず、その右眼には碧の灯が揺れている。

北上は無表情のままだ。大井を見ても、何の反応も示さない。

ただ、己を拘束している髑髏達から逃れるべく、身を捩り、低い呻りを零している。

加えて、深海棲艦化も更に進行している様だ。再び、北上の体を、碧の揺らぎが包み始めている。

揺らぎは鈍色の装甲として凝り固まり、北上の外見はチ級にも似た姿に変わろうとしていた。

もう、時間に猶予は無さそうだ。「私は、何をすれば……!」 ギリッと奥歯を噛んだ大井は、傍にいる彼に向き直る。

 

縋るような眼差しの大井に、彼は微笑みを返した。

「北上さんが自分自身を思い出せるよう、大井さんの声で、名を呼んで上げて下さい」

 

 そんな切羽詰った大井を落ち着かせるように、彼は白い髪を揺らしながら、ゆっくりと言う。

「深海棲艦化、現在70%を越えたわ! もうじき80%よ!」 モニターを睨む少女提督の報告が聞こえた。彼女の声には緊張が滲んでいるものの、取り乱したりはしていない。

彼は少女提督に頷いてから、深海棲艦化を続ける北上の前で両腕を広げた。その両掌の狭間、彼の胸の前に、墨色の微光が渦を巻く。

 

 彼の詠唱に寄り添うように、レ級も人の言葉では無い言語を唱える。レ級が紡ぐ詠唱は、北上の足元に琥珀色の術陣を編み上げる。

大井にだって、その術陣が北上の肉体に大きく干渉する為のものなのだという事は、直感で理解出来た。だが何故、レ級がそんな高度な施術式を扱えるのか。

そもそも、艦娘への肉体干渉の術式とは、“提督”資質が在る者達が扱う、“人間側”の力だ。それを、深海棲艦が扱えるものなのか。

一方、彼が使役する今の力は、施術室に金属海を模して創るなど、完全に生物の規を越えている。これは、恐らく“海”側の力だ。艦娘である大井には、そうとしか見えない。

朗々と文言を唱えるレ級は、慄然として震える大井の方へと顔を向けて、また、子供っぽくニカッと笑う。まるで、『心配すんな』とでも言う様だ。

 

 こんな小柄な姿の癖に、今はもの凄く頼もしく見える。波音がより深く重なり始めた。

その瞬間だった。足元に浮かぶ術陣の中に、更に無数の蓮の花が、次々に咲き誇り始めた。

黒い水蓮の花達は、互いを呼び合う様に力線を結び合い、新たな陣を幾重にも重ねていく。

髑髏達に捕らえられている北上の体が、ビクンと跳ねた。

 

 レ級が縫う術陣が明滅し、北上の肉体を覆う煙霧を払い、濯ぐ。

霧散する碧の揺らぎに代わり、レ級の言葉に伝い耀く、澄んだ薄琥珀が北上を包んだ。

深海棲艦化しつつあった北上の肉体から、鈍色の装甲が剥がれて、光の粒へと還って行く。

同時に、血色と生気が宿り始める。北上は身を強く捩りながら、苦しげに呻き始めた。

「70%……、60%……、深海棲艦化の、減退なんて……」 驚愕する少女提督の声が聞こえた。

大井も、北上のすぐ傍まで寄って、拘束されたまま呻く北上の頬に両手で触れる。北上の顔を覗き込む。名前を呼ぶ。帰ってきてと、声を掛ける。

声が震える。涙声になる。どうでも良い。北上に届けば良い。届け。届いて。帰ってきて。また私に笑いかけて。声を聞かせて。置いて行かないで。此処に居て。

 

 必死に呼びかける大井の隣に、詠唱を続ける少年提督が歩み寄る。

彼の両掌に宿る、墨火の渦。その熱の無い炎に召ばれ、身を捩る北上の体から、黒い靄のようなものが立ち上り始めた。

さっきまでの碧色とは全く違う。澱み燻る、黒い濁り火だった。濁り火は、次第に形を持ち始め、人型を象る。それは、黒い北上とでも言えば良いのか。

まるで着色も何もされていないマネキン人形の様だ。ただ、その眼だけが、赫灼として紅く燃えている。大井は一瞬だけ怯んだ。

彼が、大井に頷く。「北上さんの魂は、今は彼女が持っています。……彼女の内にも、呼び掛けてあげてください」

大井は、唾を飲んでから頷く。もう躊躇は無かった。左手で北上の頬に触れながら、黒い北上にも右手を伸ばす。躊躇は無かった。

黒い北上は、すぐに伸ばされた大井の右手を引っ掴んで来た。まるで黒い北上の居る場所に、大井を引き摺り込もうとするかのようだった。

熱を感じた。それなのに、酷く冷たくて、重い。熱した真砂の山に、腕を埋めたような感覚だった。

細かい感触はあるのに、掬うことが出来ず、掌から零れていく。実体の無い、魂という概念への接触だった。その影響か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 意味不明な激情が、大井の胸中に吹き荒れた。

涙が溢れてくる。黒い北上の内に潜むものが、大井に流れ込んでくる。

視界が白く塗り潰された。非実在の領域に、大井の意識が引きずり込まれた。

唐突に視界が開けた。大井は、何も無い、真っ黒な空間に居た。

ただ、遙か頭上に、眼が在った。縦に裂けた、大きな眼だ。此方をじっと見ている。

菩薩のように凪いだ眼差しだ。見下ろされている。

 

 次第に、暗がりの中から、何かが見えてくる。聞こえてくる。

場面が切り替わるように、大井の視界が目まぐるしく変わっていく。

これは、記憶と感情だ。苦痛。苦悩。海の底より呼ぶ。暗い声だ。垣間見る。

無数の艦娘達の死際。人格を破壊される間際。

遣い捨てられた彼女達が、冥漠の底へ沈んでいく瀬戸際。

黒い北上を象るのは、そんな彼女達の、怨嗟か、憎悪か、敵意か、害意か。

或いはその全てを、魂の原形質として“海が”与え、沈んだ者達を徴兵しているのか。

その力を以って、半轟沈した北上へと“海”が手を伸ばしたのだろうか。

大井には分からない。別に良い。今は。そんな事はどうでも良い。

 

 記憶と視界の共有の中へ。この無涯の果てに向けて、大井は北上の名を叫び呼ぶ。

北上の魂は、きっと此処に在る。呼ぶ。喉を焼き、なけなしの力を振り絞り、声を枯らす。

届けと願う。届け。届いて。届いて。届けて。どうか。誰か。すると、居た。

見覚えの在る姿だ。真っ暗闇に乱反射する、数多の艦娘達の絶望の光景。

その向こう側へと歩み行こうとする、北上の後ろ姿が見えた。

大井は駆け出す。全力で走る。途中でコケる。すぐに起き上がって、また走る。

追い掛けて、追い縋る。北上の名前を叫ぶ。北上はこっちを見ない。見ようとしない。

それでも大井は諦めない。前へ。前へ。暗鬱の中を走る。暗愁の中を駆ける。悲愁の中で叫び呼ぶ。

此処は、この世に非ず。此処は、意思と魂と記憶と感情の狭間だ。大井の想いの強さだって、ものを言う筈だ。

だから、大井は自分自身を信じる。必ず届く。もうすぐだ。北上の背中が近づいて来る。

追いつきそうだ。だが、北上を追う大井に、更に追い縋るものが現れた。

黒い北上達だ。湧いて来る。足元から。横合いから。背後から。息を切らす大井を捕まえに来る。迫ってくる。

怨嗟の塊である黒い北上達は、大井に縋りつく。大井を、深海棲艦へと変えようとする。

感情を塗り潰そうとする。人への憎悪を、大井へと塗りたくって来る。

でも、それがどうしたという感じだった。邪魔なのよ。退いてくれない? 魚雷撃つわよ?

ランナーズハイにも似た強気のテンションの大井は、意地と精神力にものを言わせて、黒い北上達を振り切る。

力を振り絞って北上の名を呼んだ。今度こそ届いた。

ちょっと驚いた様な貌をした北上が此方を振り返った。

大井は、そんな北上を押し倒すように抱き締める。もう放さない。放すもんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……もう大丈夫です」

 

 彼に名を呼ばれて、唐突に意識が戻って来た。五感の全てが還ってくる。

夢から醒めたような感覚だった。顔を上げると、黒い髑髏の群れは消えていた。

金属の海も、蜃気楼の様に消え失せている。此処にあるのは、ただの施術室だった。

その代わり。煙霧のように揺らぐ黒い北上は、未だに其処に居て、大井を見下ろしている。

宙に佇み、黙したままのその黒い北上に、今度はひっそりと微笑んだ彼が右手を差し出す。

黒い北上は少しの間、彼をじっと見詰めてから、そっと紋様が刻まれた彼の手を取った。

ほんの少しの静寂の後。その体の輪郭を暈しながら、黒い北上は、彼が纏う墨色の揺らぎへと融けていく。

彼女はもしかしたら、瞋恚の念で象られた、海からの彼への使者だったのだろうか。

彼は文言を唱えながら、人類に差し向けられた復讐心や悪意を飲み干すかのようだった。

 

 ぼんやりとそんな事を思っていた所為だろう。

自分がへたり込んで居る事に気付くのに、数秒掛かった。

ぎょっとした。心臓が止まるかと思った。安らかな貌をした北上が、腕の中に居る。

大井は、北上を横抱きにして、しっかりと抱きとめている姿勢だった。

北上の顔色も良く、健やかな寝息を立てている。怪我も無い。傷も消えている。

 

 大井は、体全体から力が抜けるのを感じた。

駄目だ。緊張が切れてしまった。消耗していた所為もあって、一気に来た。

何と言うか、堰き止めていたものがドバーっと来て、もう顔中、洟水と涙塗れになった。

嗚咽で呼吸が上手く出来ないくらいだった。涙で前が見えない。

ただただ、手の中、腕の中にある愛しいぬくもりに、みっともなく泣き声を上げてしまう。

そんな大井の隣で、施術を終えたレ級も嬉しそうに「シシシシシッ」と笑っている。

この数十分は、本当に無茶苦茶な時間だった。

レ級が北上の肉体変質を塑行させ、深海棲艦化を防ぐ。

続いて彼が、北上の魂に植え込まれた黒い北上を……いや、深海棲艦化の種を取り除く。

そして最後に。大井が、北上の魂の内へと呼びかけて、記憶や人格を取り戻したのだ。

 

 

「信じられない、4%、3%……、0……、嘘でしょ……」

施術室のモニターを見詰めて居た少女提督は、驚愕の表情を浮かべている。

でも、その声は半泣きで震えていた。明らかに、安堵と喜びが滲んでいた。

 

 黒い北上を鋳潰し、身の内へと鋳込んだ彼は、大井に向き直り微笑んだ。

北上に繋がれたプラグからは、生体データが出力されたままだが、もう必要無い。

そう判断したのだろう。大井のすぐ傍まで歩み寄った彼は、北上の体からプラグを優しく外していく。

 

 その途中だった。「げほっ……!」と、彼が咳き込み、血の塊を吐き出した。

胸を右手で押さえ、蹲る。右眼からも血が流れ、彼の右頬に紅の流線が引いている。

苦しげに呼吸を乱す彼の体からも、墨火の揺らぎが霧散していく。

白過ぎる肌に、血色が戻ってくる。変身していた彼も、元の姿に戻ろうとしているのだ。

だが、泰然自若とした様子の彼も、流石に今回は負担が大きかった様だ。

北上を取り戻す為、巨大な奇跡と言う造形を象り、彼は人としての魂を全て賭けた。

その代償として、とうとう後戻りできない場所へと、彼が脚を踏み入れたからだろうか。

彼の身体に血色が戻りつつあるものの、白い頭髪はそのままだ。戻っていない。

「おぉっ!? しっかりしとき!(レ)」 もう一度血の塊を吐き出した彼に、レ級が駆け寄る。

少女提督も、彼に駆け寄ろうとした。しかし、それより先に、彼は口許の血を腕で拭いながら、すぐに立ち上がる。

「いえ、大丈夫ですよ。慣れない術式を編んだので、少々疲れただけです」

彼のその微笑は、少女提督や大井、レ級を心配させない為だろう。

 

 彼は、大井の腕の中に眠る、北上を覗き込んだ。そして、大井を見た。

歳相応の子供っぽさの在る笑顔を浮かべていて、大井達が此処へ来て、初めて見る表情だった。

感謝と安堵で溢れる胸が、強く締め付けられた。初めて感じる感覚だった。息が苦しい。頭の芯が痺れるような感じだった。

きっと、疲れているからだ。今は、正常じゃない。涙と洟水で顔なんてぐちゃぐちゃだし。何故か、そんな自分を見られたくないと思う。

きっと疲れてるんだ。色々在りすぎて、本当に参ってる。ホッとし過ぎて力が入らない。なのに、体温が上がったような気がする。

「大井さんの御蔭で、北上さんを無事に迎えることが出来ました。有り難う御座います」

その真っ直ぐで優しい声音は、大井の心の中に深く響いた。多分、ずっと消えない場所に響いて、残るような気がした。

熱い気持ちが溢れてくる。顔が熱くなってくる。大井も礼を述べねばと思った。ズビビビーーッと洟を啜る。

『ありがとうございます』と言おうとしたら、また洟水と嗚咽で、声と言葉が潰れてしまう。

おかげで、ヴゥゥォェエエ……!、みたいな声しか出なかった。それでも、伝わったんだと思う。

彼は微笑んだままで、ゆっくりと頷いてくれた。大井は北上を抱いたまま、歩み寄って来てくれた彼に額を預けて、暫く泣き続けた。

 










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