一日の業務を終えた後。少女提督は彼の執務室に向けて廊下を歩いていた。時刻は、夕刻になろうとしている頃だ。
窓から差し込み、廊下の床に敷かれた夕陽の光を踏んでいく。その光に照らされた自身の影が、廊下の壁に伸びている。外を見遣ると、波の穏やかな海が見える。
疎らな雲。蒼と茜が混じり、滲みはじめた空。沈もうとする陽。ぬるい潮風。いつもの景色が広がっている。
軽く息を吐き出して、外に向けていた視線を手元へと戻した。其処には書類が在り、イタリア艦の“リットリオ”、“ローマ”、この二人の召還指示が記されていた。
これは少女提督にあてられたものでは無い。少年提督へ送られて来たものだ。少女提督の書類の中に混ざっていたので、届けに行く最中である。
今日の夜には、鎮守府祭での成功を祝った打ち上げをする予定だし、もうこの時間であれば、彼は今日の執務を片付けてしまっている頃だろうか。
今日の打ち上げには深海棲艦達も参加させるらしいし、どうせまた在り得ないくらいのドンチャン騒ぎになるんだろうと思う。
そういえば先程、携帯端末に野獣から連絡が在ったが、野獣はもう食堂でスタンバイしている様だ。既に缶ビールを何本か開けている様で、声はもう酔っていた。
相変わらず勝手というか天衣無縫な男だが、まぁ祝いたいという気持ちも分からないでも無かった。
とにかくハチャメチャで割とやりたい放題の会議だったにも関わらず、結果としての鎮守府祭は一応の成功を収めたと言えたからだ。
艦船模型や艤装の展示、深海棲艦達との戦史や資料などもそこそこに好評だった様だし、艦娘達と接する場を多く設けた事も在り、来客達の反応も上々だった。
艦娘達が給仕をする飲食系の出し物も大繁盛の大盛況であり、男性女性を問わず、各々の艦娘ファン達が殺到したのだ。他の鎮守府では無いような混み具合だった。
屋台なども容赦無く襲撃され、担当の艦娘達は眼が回る忙しさだったと言う。それでいて、怪我人が出るような騒動も無かったのは、大淀を中心にした運営・実行委員の御蔭だ。
パトロールのシフトや展示物の管理、鎮守府の案内などについても、大淀は“よどりん☆じゃんけん”と並行して、完璧に仕事をこなしてくれた。
勿論、大淀だけでなく、艦娘達一人一人が大きく貢献していた事は間違い無い。多くの人々と触れ合う機会に恵まれた、実りの多い、意味深い鎮守府祭だったと思う。
「祭りから数日経ってようやく全員の都合も付きそうだに、此処はひとつ打ち上げでもしねぇか?」という野獣の提案も在り、今日の夕刻からは宴会が開かれる予定だ。
ちなみに、テスト段階での余りの過激さに誰もクリア出来なかった、“明石屋敷”も、ver 1.20へとアップデートされ、演出などが全体的にマイルドになった。
流石にチャレンジした一般客の精神に傷を負わせる様な恐怖度はNGという事で、調整が入ったのだ。
難易度をグッと落とした明石屋敷では、一般来客者の中からでもクリア者が出ることになり、賞品として『間宮特製の甘味詰め合わせセット』が贈られた。
本来、クリア者には『ケッコン指輪(レプリカ)』が送られ、『ケッコンカッコカリ』体験コーナーに参加できる予定だと野獣が言っていたが、急遽変更の流れとなったのだ。
本営の公式ページからダウンロード配信予定だと言っていたアプリについても、開発を破棄したらしい。おかげで鎮守府祭は、それなりに健全な出し物で揃えられた。
時雨達に指輪を渡した野獣は、認可段階にあった無茶苦茶な企画の数々を実行するのでは無く、次々と廃案にして行った。
あとに残った割と“攻めの企画”は『ふれあい・ながもんコーナー』、『よどりん☆じゃんけん』ぐらいのもので、羽目を外し過ぎた悪ふざけでしか無い様な企画は一掃された。
鎮守府祭の当日も、鎮守府を訪れた本営の賓客達の相手に忙しそうだった野獣は、祭りの運営にちょっかいを掛けてくる事も無かった。
結局のところ。あれだけ馬鹿騒ぎをして会議を引っ掻き回していた野獣は、鎮守府祭当日には、訪れた賓客の相手をしながら、祭りを運営する艦娘達を見守るに留まっていた。
最初から蚊帳の外だった。今にして思えば、無茶苦茶なアプリ開発や、『ケッコンカッコカリ』体験コーナーなんていう企画自体も、野獣は実行する気が無かったに違い無い。
陸奥は途中で見破っていたようだが、要するに、時雨達に指輪を渡すタイミングと言うか、勢いと言うか、そういうのが欲しかったのだろう。
明石屋敷のテストプレイに参加させられた艦娘達からは散々に文句を言われていたが、参加賞としての間宮無料券など用意したりして労い、ちゃんとフォローしていた。
普段から戯けた言動を取り、自分から進んで艦娘達からの顰蹙を買いまくっている癖に完全に憎まれ切っていないのは、野獣のこういう所に理由が在る様に思う。
ピエロとしての野獣の裏側に在る、不器用とも臆病とも慎重とも言えない真摯さは、自分も感じる時は在る。時雨達が惹かれるのも、そういう部分が在るからこそだろうし。
捉えどころの無い、破天荒で傲岸不遜、唯我独尊なあの振る舞いも、他者との距離を調節する為の野獣なりの処世術と言うべきか。
のらりくらりと立ち回って本心を悟らせない、一種の孤高さにも似た思慮深さの中には、少年提督とも通じる何かが在ったのだろう。
其処まで考えたところで、少年提督の執務室の前に到着した。扉を軽くノックをすると、「はい、どうぞ」と、彼の良く通る声が聞こえた。
「失礼するわね」と、短く言いながら扉を開ける。良い香りがした。紅茶の香りだ。
何処と無く緩やかな雰囲気が漂っているし、どうやら一服していたところらしい。皆の手には、紅茶が注がれた豪奢なティーカップが在る。
拘束具めいた黒眼帯で右眼を覆っている少年提督は執務机では無く、ソファに腰掛けていた。彼は一旦カップを置いてから此方を見て立ち上がり、軽く礼をしてくれた。
彼の隣に座っていた今日の秘書艦である金剛もそれに倣い、敬礼の姿勢を取った。ただ、彼女の敬礼は堅い雰囲気では無く、その表情は此方を歓迎する様な笑顔だ。
金剛の反対隣。彼を挟むような位置でソファに座っていた戦艦水鬼と戦艦棲姫の二人も、一度立ち上がり、上品な仕種で静々と頭を下げて見せた。
二人は、戦艦ル級が着ていた様な、細身で黒色のボディスーツを纏っている。彼女達の白い肌と艶やかな黒髪に良く似合う、落ち着いた格好だった。
棲姫と水鬼の二人は今日の秘書艦見習いだったのだろうが、こうして恭しい態度で接してこられると、やはり妙な感じである。どうしても落ち着かない。
深海棲艦の上位種である彼女達は、かつて洋上では悪魔染みた存在だった筈だ。それが今では、鎮守府で秘書艦の仕事の一部を担っているというのだから、分からないものである。
「あぁ、そんな畏まらないで良いって。ちょっと書類を届けに来ただけだから」少女提督は軽く手を振ってみせて、少年提督や金剛達に腰掛けてくれるように促した。
少年提督が軽く頭を下げ、ソファに腰を下ろすのを確認してから扉を後ろ手に閉める。それから彼の傍に歩み寄って、薄い書類の束を手渡した。
棲姫と水鬼の二人は、少女提督にも紅茶をしようとしたのだろう。カップなどが置かれた執務室の一角へと向おうとしたが、其処は金剛が仕切る事になったようだ。
「おっと、此処はワタシの出番ネー! 折角いらしたんですカラ、美味しい紅茶を飲んで行って下サーイ!」金剛は棲姫達に片目を瞑って見せて、溌剌とした声音で言う。
棲姫と水鬼の二人も、微かに微笑んで金剛に目礼を返していた。その仕種からは、艦娘達とは互いに気遣う仲であるという事が窺えるし、鎮守府に馴染んでいるとも思える。
本当に、この鎮守府は不思議な場所だ。金剛達の短い遣り取りを見守っていた彼が、ソファに座ったままで此方に向き直る。
「そちらに混ざってしまっていたんですね。態々すみません」
「別に構わないわ。散歩ついでに持って来ただけだから。
……また艦娘を揃えろって感じの指示が来てるみたいだけど、適正が高いと大変ね」
うんざりした様な声音で言う少女提督に、彼は苦笑を浮かべて見せてから「どうぞ、掛けて下さい」と、自分の向かいのソファに手を差し出した。
丁度そのタイミングで、金剛が紅茶を注いだカップを持って来てくれた。此処まで用意して貰って断る理由など無い。礼を述べて素直にカップを受け取り、ソファに腰を下ろす。
金剛が用意してくれたのは、甘みの在るハーブティーだった。蜂蜜か何かを加えているのか。疲れの取れる優しい味で、思わずホッと息を漏らしてしまった。
「ホントに美味しいわ……。有り難う」 そんな少女提督の様子に、金剛も嬉しそうに頷いてから、ソファに腰掛ける彼の隣に腰を下ろす。
少女提督も腰を下ろしてしまうと、何だか肩の力が抜けて行って、自然と笑みが溢れて来た。
この場の緩い空気の所為だろうか。紅茶も美味しいし、雑談にも花が咲く。雑談とは言っても、基本的に金剛が軸である。
金剛が冗談を言い、少女提督がツッコんで、棲姫と水鬼は静々と話を聞いている。
少年提督は書類に目を通しつつ、皆を見て微笑んでいるといった感じだった。要するに、普段通りだった。
暫くしてからだった。
「そう言えば、今日は秘書艦の方を連れておられないのですね」
ざっと書類に視線を通し終えたのだろう。少年提督が顔を上げた。
「えぇ。今日中に片付けるものは全部終わっちゃったから。
最後の最後に見つけたのがその書類だったの。
結果的に届けるのが遅くなっちゃって、何かゴメン……」
「いえいえ、お気になさらないで下さい。
この指示についても、すぐにどうこうと言う内容ではありませんでしたし」
軽く笑みを浮かべた少年提督は、書類をソファテーブルの上にそっと置いた。
むふん♪ と、得意気に鼻を鳴らしたのは、上品に紅茶のカップを傾ける金剛だった。
「こうして戦力強化の為、New Faceを招き迎える指示が来るという事は、
テイトクが本営からも頼りにされている証拠ですネ。誇らしいことデスヨ」
金剛は満足そうに言い、紅茶を一口啜る。そんな御満悦な様子の金剛に軽く頷き、テーブルに置かれていた書類を手に取ったのは、穏やかな貌をしたままの水鬼だった。
隣に居る棲姫も横から覗いて、興味深そうに紙面を視線で追っている。こうした戦力強化の報告について、やはり彼女達の心境は穏やかなものでは無いのではないか。
新造艦を迎えるという事は、深海棲艦を討つための艦娘の数を更に増やすという意味に他ならない。しかし、彼女達の様子は落ち着いたままだ。
視線に気付いた水鬼と棲姫は、顔を上げて少女提督に向き直り、柔らかく微笑んだ。彼女達の紅の瞳に見据えられ、思わずギクッとしてしまう。
人ならざる者が持つ、特有の美貌と魔性の所為だろうか。眼を逸らせない。唾を飲み込む。そんな少女提督に、彼女達はまた静々と頭を下げて見せた。
「私達の事ハ、警戒なさらなくとも大丈夫デす」
棲姫は目許を緩めながら、不思議な響きを持つ声音で言う。
風の無い水面の様に凪いだあの眼差しは、恐らく此方の胸中を見透かしている事だろう。
「我々ハ既ニ彼ノ保有物ト言ウ状況ニ在リマス。
戦ウ“意思”、ソシテ、“力”ヲ彼ニ預ケテオリマス故、反逆ナド出来ヨウ筈モアリマセン」
その棲姫の言葉の後に続いたのは、紅茶カップをテーブルのソーサーに返した水鬼だ。
静謐な美貌に微かな笑みを湛えた水鬼は、何処か誇らし気に言葉を紡ぐ。不思議な覚悟の様なものを感じさせる声音だった。
優雅に紅茶のカップを傾けていた金剛が、棲姫と水鬼を横目でチラリと見た。
少年提督の方は、紅茶カップを持ったまま、僅かに俯いて瞑目している。
何かを思索しているという風でも無い彼は、少女提督か、それとも、棲姫か水鬼の言葉を待っているのか。彼は黙したままだ。
少女提督はそんな彼を一瞥して、軽く鼻を鳴らす。
相変わらず、何を考えているのか良くわからないんだから。
そう言ってやろうと思ったが、止めた。代わりに、棲姫と水鬼の二人に向き直る。
「別に、貴女達の反抗を危惧してる訳じゃないわ。
そもそも、精神制御と解体施術を受けてる以上、脅威になんてなりえないんだし。
ただ、……同じ深海棲艦達を攻撃する側に居て、辛くないのかなって……」
そう思っただけ。
其処までぶっきらぼうに言ってから、少女提督はそっぽを向いて紅茶を啜る。
棲姫と水鬼は、何だか意外そうな貌をして、少女提督を見ている。
少年提督は瞑目したままで緩く息を吐き出して、ほんの少し口許を緩めていた。
金剛も似た様な様子だ。……何よ二人とも。何か言いたいことでもあんの?
そう言おうとしたが、出来なかった。「はイ……」と、棲姫が此方に頷いたからだ。
「確かニ深海棲艦達ガ討たれていくノハ、心苦しく思いまス。
シカシ、深海棲艦達モ同じく、艦娘達を沈め、人類ヲ脅かそウとしているのも事実デす。
降りかかり、身を焦がす火の粉を払う事に、私達が何を言えましょうカ」
「深海棲艦ト艦娘ハ、未ダ縺レ合イ、殺シ殺サレル堂々巡リノ中ニ在リマス。
コノ連鎖ヲ断チ斬ルニハ、マダ時間ガ必要デス。機ガ熟ス迄ノ、多クノ犠牲モ……」
棲姫と水鬼の言葉には、聞く者を黙らせるだけの覚悟と言うか、迫力が在った。
深海棲艦が討たれるのであれば、それは同時に、艦娘達が討たれるという事も意味している。
当たり前だ。深海棲艦と艦娘は、捕食者と餌食という関係では無い。殺しあう関係なのだ。沈めもすれば、沈められもする。
延々と続いて来たこの構図を塗り替える為に必要な、偉大な激痛と大出血。それはお互い様であると言いたいのだろう。
「百ノ艦娘達ガ轟沈シ、千ノ深海棲艦ガ撃沈サレ、
万ノ憎悪ト金屑ト為ッテ海ニ融ケテ“一”ト成リ……、昇リ還ッテ来タ者ガ我等デス。
シカシ、我等ノ……私ノ内ニハ記憶ガ在リ、感情ガ在リマシタ」
此方を見据える水鬼は、訥々と言葉を紡ぎながら微笑んだ。
「ソシテ私ハ、“海”ト言ウ巨大ナ意思ニ抗ウ為ノ、“自我”ヲ取リ戻ス事ガ出来マシタ」
彼ノ御蔭デ……。そう言って水鬼は、少年提督を一瞥し、此方に向き直る。
まるで己の内にあるものを、ゆっくりと此方へ曝すかの様だった。
「私ハ、私ノ意志デ、深海棲艦達ガ討タレル現実ヲ受ケ入レテイルノデス。
貴女ガ気ヲ病マレル事ハ在リマセン」
「人ト海の争イを調停すること。それこソが肝要デす。
血と傷ヲ召び続ける“海”ニ交渉する為に、我等ハ彼の意志に従う事を決めまシた。
海に平穏が戻レば、討たれた深海棲艦達の手向ケにもなりまシょう」
水鬼と棲姫は、お互いの顔を見合わせてから、此方に微笑みを浮かべる。
眼の前に居る者を怯ませるほど、迷いや打算の無い、真っ直ぐな眼差しだった。
彼女達の紅の瞳。その奥に煌々と灯る光は熱を帯びて揺らぎ、激情として燃えている。
其処に宿るものは、縷々とした希望への渇望か。己を生み出した、“海”への怒りか。
或いは、深海棲艦と成り果てて尚、手を差し伸べてくれた彼への狂信、盲信か。
水鬼達に圧され、少女提督は言葉を呑みながら、僅かに身を引く。
だが、すぐに水鬼達をぐっと見詰め返す。「じゃあ、もしも……その理想の現実が無理だったら?」
少女提督は、敢えて声に抑揚を付けずに言い、彼をチラリと見遣る。彼はやはり、黙ったままだ。此方を見ない。
一方で、水鬼達は穏やかな微笑みを浮かべたままで、ゆるゆると首を振って見せた。
「例え未来ニ我等ガ生き残ル道が無くとモ、我等ハ彼の意志に従ウのみデス」
少しの沈黙。棲姫の短い答えを聞いて、少女提督は少年提督へと、再び視線だけを向ける。
彼は紅茶カップをテーブルのソーサーに置いてから、緩く息を吐き出した。
「……僕達には、深海棲艦の皆さんと共に生きる術を探す権利が在ります。
僕はただ、その権利を行使しようとしているに過ぎません。甘い理想ですが、足掻いてみたいと思います」
微笑んだままの少年提督は、少女提督の言葉に気を悪くした風でも無い。
ひっそりと微笑んだ彼に続き、隣に居た金剛が冗談めかして肩をすくめて、軽く笑った。
「ハイハイ! 難しい話は其処までにシマショ! 終わりッ! 閉廷!
そんな暗い話題ばっかりだと、せっかくのTea timeなのにrilaxが出来まセンヨ!
じゃあまず、テイトクの好きな艦娘を教えてくれますカ?(暴投)」
余りに急過ぎる話題転換と共に、金剛は隣に腰掛けて居る彼に肩を寄せた。
金剛と彼では身長差が在るので、歳の離れた姉が弟をからかっているみたいにも見える。
隣に居る金剛へと顔を上げた彼は微苦笑を浮かべた。
「僕は、皆さんの事が好きですよ。
大切な仲間であり、家族であると思っています」
彼の澄んだ声音は微笑みの中にありつつも、何処か重い響きが在る。芯の強さを窺わせる声だった。金剛だけでなく棲姫と水鬼を見遣った彼は、その微笑を深める。
彼の視線を受け止め、棲姫と水鬼も目許を緩めていた。金剛の方は、ちょっとだけ残念そうな、それでいて安堵したように緩く笑っていた。
「うーん、……テイトクならそう答えると思ってましたヨ。まぁ、Loveの形は色々ですしネー……」
やれやれと言った感じで言いながら、金剛はそっと彼から離れて、此方に向き直った。何だか嫌な予感がした。
「強い信頼で結ばれた女性テイトクと艦娘達が、
めくるめく禁断の花園に踏み入る事も珍しく無いと聞きマス。
……其処のトコロ、詳しくお聞かせ願えませんカ?」
むふふっ♪ と、猫みたいな口になった金剛が、ずいっと身を乗り出して来た。青葉の真似だろうか。此方にマイクを向けるようなポーズを取っている。
「禁断の花園……?」と、意味をよく理解していなさそうな彼と一緒に、棲姫達も何だか興味深そうな貌で此方を見てくるし、ちょっと焦る。いや。いやいや。
さっきまでのちょっとシリアスな雰囲気を和ませる為の、金剛なりに空気を呼んだ悪ノリなのだろうが、そういうフリは止めて欲しい。
「ウチの皆には無いから、そういうの。
幾ら期待されても、到って普通というか、提督と艦娘との関係しか無いからね」
「まーたまたぁ、とぼけちゃってェ……。
ホントは居るですヨネ? ケッコンしたい娘! 大丈夫デスよ!
ワタシは口が堅いデスから! 口が堅いから、安心!」
「面白がってる貌でそんな事言われても、説得力全然無いからね?
それに、居ないから。盛り上がってるトコ悪いんだけど。
そもそもケッコンカッコカリの施術自体、私にはまだ扱えないから」
冷静に金剛に突っ込むと、彼女は「エーーー……」とか、何だか面白くなさそうにしょんぼりとしてしまった。
しかし、すぐに上目遣いで視線を向けてきた。だが、その口許はやっぱり笑っている。
「じゃあ、……彼氏とか、いらっしゃらないんデスか?」
「えっ、そんなん関係無いでしょ(マジレス)」
こんな不毛な遣り取りを眺めつつ、クスクスと小さく笑みを零している水鬼達の右手薬指には、ケッコン施術用の指輪が嵌められており、澄んだ輝きを湛えていた。
彼が、彼女達と『ケッコンカッコカリ』を行った事は既に知っている。深海棲艦達を、人類側の戦力として安定させる為という名目で、本営に許可を得たのだという。
『ケッコンカッコカリ』の条件は、人格の存在と、錬度の高さ。そして施術者であるシャーマン、“提督”との精神的な繋がりが必要となる事が解明されている。
それは思慕の情だけで無く、信頼関係によっても『ケッコンカッコカリ』は可能である。
錬度の数値化限界Lv99から、更なる強化改修を可能にする為。お互いを信頼した上での精鋭化儀礼として、『ケッコン』を受け入れる提督や艦娘は少なく無い。
この鎮守府で言えば、野獣と加賀との『ケッコン』がそれにあたるだろう。
時雨や鈴谷、赤城に関しては、彼女達の恋慕や愛情に野獣が応える形で『ケッコン』施術を行っていた筈だ。
こうした精神的な繋がりが必須ではあるが、棲姫や水鬼達が指輪をしているところを見るに、その条件をクリアしているのだと考えられる。
ただ、彼の場合は、少々毛色が異なる。彼にとっての『ケッコン』とは『結魂』であり、人類が持つ精神と、深海棲艦の持つ鋭い感覚の融合を指す。
気付けば、少女提督は水鬼と棲姫の右手薬指を見詰めて居た。その視線に気付いたのだろう。彼は微笑みながら、穏やかな声で言う。
「人型である深海棲艦の皆さんには、自我や感情、思考が在ります。
此方の声が届くのであれば、交渉の余地も生まれるでしょう」
それがどれ程縷々とした希望なのかは理解しかねる。
だが、彼と野獣は諦めていない。現在の状況は、人類が大きく優位に立っている。
そう錯覚する程には、戦況は人類側が勝利を重ねている。
力による『受容』の実現を模索するには、このタイミングを逃せない。
少女提督はソファに座りなおして、顎に手を当てながら思案するように俯く。
「どうして“海”は、深海棲艦達に感情を与えたんでしょうね……。
いえ、この場合だと、彼女達の自我を残したままだと表現した方が正しいかしら」
深海棲艦が生まれるメカニズムとは違い、感情が残り続ける理由については不明なままだ。
“海”は、深海棲艦の精神を彫り、記憶を略取し、殺戮という機能を与える。しかし同時に、人類と心を交わしあう部分を残している。
感情と言うか、不確かで曖昧な部分を残している。それは憎悪であり、悪意である。彼女達を衝き動かして来た激情だ。だが、明らかに非効率である。
人類への殺意を植え付けても自我をも残してしまえば、深海棲艦達の中にも思考が生まれる。その思索に伴い、感情も変遷しうるのだ。兵器としての不安定さは拭えない。
そういう意味では、“捨て艦”として自我を破壊された艦娘達の方が、深海棲艦達よりも遥かに完成された兵器であり、道具としての存在意義を極めた一種の機能美を持っていた。
だが、捨て艦達には『ケッコン』する為の自我は無く、フォーマットされた人格には感情が宿らない。其処に残っているのは、戦況を分析するだけのプログラムである。
其処まで考えて、ふと気付く。捨て艦として思考や感情を破壊された艦娘達にも、“海”は、新たな思考と感情、人格と目的を与えている。それが害意と悪意でしかなくとも。
この構図が示唆するものは、一種の救済と言えるのではないだろうか。だからこそ彼は、深海棲艦の撃滅では無く、共存、或いは不可侵の道を探っているのだろうとも思う。
戦艦水鬼、棲鬼達をはじめ、港湾棲姫や北方棲姫、レ級やヲ級達も、海を巡る戦況と未来を憂い、彼の理想に賛同しているのが現状だ。
「難しい事は分かりまセンが、本当の強さが感情に宿るものである事を、
テイトクと同じく、“海”も知っているのではないでしょうカ?」
不意に聞こえた金剛の声に、少女提督と少年提督は顔を上げる。
金剛は紅茶ポットを手にソファから立ち上がり、棲姫や水鬼達の持つカップにお代わりを注いだ。普段の賑やかさからは想像出来ないような、優雅な仕種だった。
良い香りが、ふわっと広がる。会釈をして見せる水鬼達に、笑顔で頷きを返しつつ、金剛は少年提督と少女提督のカップにも紅茶を注いでくれる。
「ワタシは、テイトク達の扱う召還術式などのtheoryについて、詳しく理解している訳では在りまセン。
でも、ワタシが抱いたBurningなLoveが、より強くワタシ自身を支えてくれていることは、誰よりもワタシが知っていマス」
金剛は言いながら、最後に自分のカップにも紅茶を注いで、ソファに腰を下ろした。
「それと同じで、例え負の感情から成るもので在っても、強い意志は力となりますからネ。
彼女達がより人類の脅威となるために、感情が必要だったのでは無いでしょうカ?」
まぁ、これは理屈では無く、ワタシの感覚的なものですケドネー。
最後にそう付け加え、テヘッ☆と笑って見せた金剛は、紅茶の香りをゆったりと味わい、金剛は少年提督と少女提督を順番に見た。
「まぁ、そんな彼女達も、今ではこうしてテイトクと『ケッコン』まで済ませて、甲斐甲斐しく執務のお手伝いをしてくれる、恋する乙女達デスシ……」
そう言ってから、今度は水鬼と棲姫を見遣り、「ネー♪」っと悪戯っぽく言ってみせる。彼への好意、親愛感を面と向かって指摘されるとは思っていなかったのだろう。
ちょっと驚いた様子の二人の頬に、さっと朱が差した。水鬼はもじもじと俯き、棲姫の方は、困ったように眉尻を下げた。
「ソ、ソウイウ意地悪ハ、止メテ欲シイ……」
赤い顔をした水鬼がポソポソと言いながら、恨めしそうな上目遣いで金剛に視線を向けた。
その初心な反応を見た金剛は、何かのスイッチが入ったみたいに、ニマァ~~ッと笑う。
「ンン~~フフフゥ♪ あれあれ~、どうしまシタ?
何だか、顔が赤……い様に見えるのデスが?(すっとぼけ)」
「ソ、ソンナ事ハ無イ……」
金剛の視線から逃れるように、水鬼はきゅっと唇を噛んでそっぽを向いた。
「あ、そうだ(唐突) Hey、水鬼。
アナタ、秘書艦見習いの今日は一日中、テイトクの事をTIRATIRA見てたデショ?」
「イヤ……、ソンナ……」
狙い澄ました様な金剛の難癖に、顔を上げた水鬼は困りきった貌になっていた。
助けを求めるべく、水鬼は少年提督の方を見遣るものの、肝心の彼は微笑んだまま。
「貴女、今日ハ何処かソワソワしていて、なかなか書類ヲ捌ケて無かっタわね?」
更に今度は、隣に座っていた棲姫が、しれっとした貌で金剛の悪フザケに乗っかって行く。
すかさず金剛の方も「そうダヨ(便乗)」と攻勢に出た。
「別に隠さなくても良いじゃないデスカ。テイトクの事が好きなんでショ?(青春)」
真っ赤になった水鬼は、金剛と棲姫に何か言い返そうとしたが、結局何も言わずに俯く。そして「……ポイテーロ……(消え入りそうな声)」と小さく零して、黙ってしまった。
多分、“覚えていろ”と言いたかったのだろう。やたら絡んできては弄くり回した金剛の方は、やっぱりイジメっ子っぽい笑みを浮かべているが、悪意の無い笑みだった。
「やっぱり好きなんデスネ~♪」と、上機嫌で言う金剛は、比叡や榛名、霧島に接する時と同じ、優しい眼をしていたからだ。水鬼を弄る声音にも、愛情の様なものが窺える。
戦艦として、また艦娘としても経験も厚い金剛にとっては、新しく彼の配下として迎えた水鬼や棲姫も、妹の様なものなのかもしれない。
「僕も、水鬼さんの事は頼りにしていますよ。
互いに信頼を築けているのなら、とても嬉しく思います」
己に向けられている好意については、恋慕と言うよりも、強い仲間意識の類いとして受け取っているからだろう。
金剛や水鬼達の様子を見守っている少年提督は、この場の空気とは何処か奇妙な温度差を感じさせる微笑みを浮かべている。
ただ、余りにも真っ直ぐで、打算の無い無垢な彼の信頼の言葉に、水鬼は赤い貌を上げて彼を見つめ返した。その瞳や表情がキュンキュンしていて、泣きそうな貌になっている。
すぐにまた俯いてしまった水鬼の様子を、羨ましそうに隣で見ていた棲姫は、ちょっとだけ唇を尖らせていた。金剛の方は、もっと積極的に動いた。
彼にアピールすべく、野獣の眼光を瞳に宿らせた金剛は、彼を熱い眼差しで見詰める。ちょっと横目がちの金剛の眼力は相当なものだった。吸い込まれそう。
しかし彼は、歳の離れた姉からの激励を受けたような、恋のトキメキとは程遠い、健気で儚げな微笑を返している。
うーん……。このピントのズレ具合の大きさは、彼自身の天然ボケに併せ、素直で純真であるが故か。
少女提督は微妙な貌になって、頬をポリポリと指で搔いて金剛達の遣り取りを見守る。「さっきも出た言葉だけど、愛の形なんて、まぁ其々よね……」
しみじみと呟くように言うと、「yeah~♪」と、此方を向いた金剛がふっと口許を緩めた。
「Loveという感情は、それを現す“言葉”は幾つかありマス。
Family Love、Fraternal Love、Comradeshipなんて言葉も在りますネ。
でも有史以来、数百億もの人類が係って尚、未だその“定義”は出来ていまセン」
裏表の無い、明朗快活な普段の彼女とは、少し違う微笑み方だった。
「こういう不確かで曖昧なものが、ワタシ達艦娘だけで無く、
深海棲艦である彼女達の内にも育まれているという事実は、とても尊い事だとは思いまセンか?」
家族愛。兄弟、姉妹愛。友愛。確かに、先程金剛が挙げた感情は、愛情の一種と言えるだろう。
少年提督が艦娘達に注いでいる感情。愛情とは、恐らく、こうした類いのものだ。
俯いていた水鬼が顔を上げ、金剛を見遣った。棲姫の方も、何処か神妙な様子で金剛の言葉を聞いている。
少年提督は、軽く息を吐き出しつつ再び瞑目していた。
「そういうのを突き詰めていくと、
結局最後には、『愛って何だよ?』みたいな、哲学チックな話になるわね……」
少女提督は相槌を打ちつつ、紅茶を啜る。
確かに人類は、艦娘だけでなく深海棲艦達の精神にまで干渉、自我を破壊し、手綱を掛ける事を可能した。
思考や行動を型に嵌めて、従順な兵器として運用する術を確立している。しかし、艦娘達の感情そのものについては、全く解析する事が出来ていない。
魂の原形質として、その輪郭は暈けたまま、漠然としている。しかし其処にこそ、艦娘と深海棲艦、そして人類の三者に通ずる尊さが在るのだと金剛は言う。
「結局は答えの出ない問答デスし、常識に囚われていてはイケナイのデスヨ。
人を好きになる事は良い事デスから、人目気にせず、自由に恋しまショウ!(暴論)」
金剛は水鬼と棲姫に目配らせしてから、力強い笑みと共にグッと親指を立てて見せた。
彼が可笑しそうに笑って、それに釣られて、水鬼と棲姫も小さく笑う。
「いや、ある程度は常識も弁えてね?
野獣みたいな、極端なゴーイングマイウェイは流石にNGだから」
その豪胆さに思わず軽くツッコミを入れてしまうが、この鎮守府では丁度良いのだろう。
特使艦隊の編成に向けた、深海棲艦の教育としての秘書艦への登用などもそうだが、落ち着いた風に見える癖に割とぶっ飛んだ事をしでかす少年提督の下に居れば尚更か。
そういう意味では、彼のゴーイングマイウェイ振りも野獣に負けていない。様々な連中がひしめく軍部の中で在っても、彼と野獣はかなり特殊だ。
悪い意味でも良い意味でも、誰にも真似出来ない事を平然とやってのける。
そんな彼らの尊くも現実味の薄い理想が破れ、人類が進撃し続けた先に何が在るのか。
分からない。だが、先は無い様に思える。新しい艦娘が出来て。新しい深海棲艦が出現して。また戦う。
そんな不毛なミラーマッチが半永久に続けば、いずれ人類は疲弊しきって、海の前に跪き蹲り、赦しを乞う時が来るだろう。
「……ねぇ、聞いても良い?」
紅茶を飲み干し、カップをソーサーに置く。顔を上げて、微笑んでいる彼を見詰めた。
少年提督の過去については殆ど知らない。右眼と右腕に異種移植を受けたという程度だ。
金剛達のような人格持ちの艦娘達を束ね、“海”により徴兵された深海棲艦達の心の憎悪を解き、その両者に歩み寄る彼の過去に、興味が無いと言えば嘘になる。
直接聞いてみようと思った。でも、やっぱり止めた。金剛達も居るし、この場で聞くのも何だか違う気がしたからだ。
だから、ちょっと冗談めかして笑って見せる。真剣な様子で声を掛けたことを誤魔化そうとした。でも失敗したかもしれない。
穏やかな貌をした彼に見詰め返され、ドキッとする。その蒼み掛かった仄暗い眼は、此方の心情などお見通しなのだろうか。
そんな風に思えて来て、何だか癪だ。困らせてやろうと思った。
「此処だけの話だけど、ぶっちゃけ、アンタって年上派? 同い年派?」
「えっ」 今まで落ち着き払っていた彼が、きょとんとした。
「年上派デス!」 金剛が拳を握り固めて立ち上がり、
「オッ、ソウダナ」 水鬼が頷きながら、金剛に続いて立ち上がった。
「はっキリ、分かリまス」 棲姫も凄絶な微笑みを深めつつ、やっぱり立ち上がる。
「うん、ごめん、座ってて? と言うか、三人はどういう集まりなんだっけ?」
少女提督は仲の良い姉妹みたいな三人を半眼で見遣って、聞いてみた。
すると金剛は、胸の内に宿る、未だ定義すら無いその感情を確かめるように、一度眼を閉じて、ゆっくりと開いた。
その瞳の奥に在る輝きが、より強く、煌々と燃えていた。普段なら垣間見えるスケベ心や、場を賑やかす様なテンションの高さは無い。
毅然、凛然として、此方を見つめてくる。思わず背筋が伸びた。
金剛は茶目っ気たっぷりに軽く此方に指を振って見せる。
しかし、それでいて真摯な熱を帯びた声音だった。
「勿論ワタシ達は、王道を征く、“提督LOVE勢”デスヨ?」