少年提督と野獣提督   作:ココアライオン

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第1章

 波の音が遠くに聞こえる。早朝の鎮守府はとても静かだ。冷え澄んだ朝の空気に、白みかけた空の蒼さが冴えている。雲は無い。快晴である。歩きながらゆったりと息を吸い込むと、潮の香りがする。普段から慣れ親しんだ香りだ。不思議と落ち着く。もう少しすればいつも通り、騒がしくも忙しい一日が始まる。提督を起こす為、彼の部屋へと向う廊下から窓の外を見遣り、広すぎる海に眼を細めた。

 

 遥か昔から、海には神が居ると信じている人々は多い。海神という奴だ。船旅の安全を祈り、大漁を願い、人々は寄せては返す波に手を合わせたのだろう。ただ、艦娘の立場から見ると、海の神とやらには、人類に対する敵意が伺える。最も分かりやすい例は、明らかな害意と悪意を持って海を跋扈していた深海棲艦の存在だ。母なる海という言葉もある程、海は多くの生命を抱えているし、その起源でもある。深海棲艦達は、人類をその母なるものから追放しようとする、自然の意思の様に思える。それに対抗すべく、人類の中からも特殊な力を持つ者達が現れる様になった。

 

 金属で建造された“艦”という兵器から、其処に宿る“艦娘”という命や自我、意思の造形を、この世界に招き入れる者達。かつて海に沈んだ艦船から、誇りや魂を呼び戻し、その艦娘達の機能や姿へと鋳込む者達である。それは『召喚』と言うよりも、海の底に巍巍として鎮座している力の『召還』である。こうした神秘に触れ得る者達を、現在“提督”と呼んでいる。

 

 私達は、自らをこの世界に召んでくれた“提督”の元で、日々命令に従っている。今はそれが全てだ。確かなものは、眼に見えるもの、或いは、自分の心に在るものだけだ。窓の外を眺めながら、廊下を歩く足を止めた。潮風がほんの少しだけ強くなった。雲の無い悠遠な蒼い空と、遮るものの無い渺茫とした碧い海が、地平まで続いている。眼の前に広がる広漠な世界が、艦娘の現実であり、また戦場であり、生きる場所でも在る。そしてこの鎮守府が。私達を召んでくれた、彼の居る此処が。自分たちの返ってくる場所だ。鼓動が高鳴るのを感じる。甘いような、少し苦しい様な、心地よい高鳴りだった。それを落ち着かせる様に。もう一度深呼吸をして、また歩き始める。今日は、私が秘書艦を務める日である。

 

 彼が最初に召んだ艦が私ということで、艦隊の規模が小さい頃は、朝も無く夜も無く、秘書艦として彼を傍で支えたものだ。彼は頼り無かった。執務と戦果に追われ、いつも右往左往していた。だが、彼は次第にその才能を開花させ、非常に優秀な提督として知られる様になった。数多の艦娘を召び、その悉くを轟沈させることなく、分け隔て無く育み、労ってくれる。誰も沈まぬ様に、皆が帰って来れる様に、彼は日々粛々と作戦を練り、任務にあたっている。

 

 少し昔。まだ、深海棲艦との戦いが激しかった頃。戦果を急かない、徹底した艦娘第一主義を取る彼の下。海域解放が他の鎮守府よりも遅いことについては、何度も本営から通達が届き、彼を無能扱いする者も少なくなかった。それでも彼は、頑なに捨て艦法などの効率重視の強行策は採らなかった。それが、余計に彼の評価を落とした。しかし、提督の愚直なまでの艦娘第一主義が実を結び始め、シビアな資源運用の中、錬度の高い艦娘の数が増えるにつれ、我が鎮守府の戦果も大きくなっていった。自らの提督への侮辱的な評価への憤激を糧に、艦娘一人一人が奮戦し、激戦を戦い抜き、連勝を続けた。他の提督では手に負えないような危険な海域でも次々と解放し、人類の進撃に大きく貢献した。正に快進撃と言って良かっただろう。

 

 結果として、彼は勲章をいくつも進呈され、非常に優秀と評される提督の一人として数えられる様になり、同時に、今までの低評価に対する冷笑に代わり、強い嫉みの視線を向けられる様になった。だが彼は、そういった周りからの評価には、一顧だにしなかった。ただ艦娘達の無事に安堵し、授かった勲章の名誉を皆と分かち合い、感謝と労いを伝えるだけだった。彼は他の追随を許さない程ストイックに、一人の提督として在り続けている。御蔭で、彼に対する本営からの高評価や、他の鎮守府、提督からの嫉みの視線、根も葉もない流言飛語の類いは、徹底して空回りしていた。

 

 変わった提督だと思う。だが、そんな彼の事を、この鎮守府に居る艦娘達は皆慕っている。艦隊の規模が大きくなるにつれ、秘書官も交代で務めることになったのが良い証拠だ。彼の存在が、ふっと遠のいて感じたのも、丁度、彼が力を伸ばし始めた頃だったろうか。多くの艦娘に慕われる彼に少しの寂しさと、広がっていく距離を感じたのを強く憶えている。私は手袋をしたまま、何も嵌っていない自身の左手の薬指に、右手でそっと触れた。ケッコンカッコカリ。錬度の高い艦娘の力を、更に解放する為の特殊な儀礼だと聞く。

 

 彼は、一体誰を選ぶのだろう。戦艦か。空母か。重巡か。軽巡か。潜水艦か。それとも、駆逐艦か。彼がどんな女性を好むのかという事に関しては、艦娘達の間で話題となる事も多い。だが、一向に答えが見えてこないのが実情だった。彼は、誰かを特別扱いしたりしないし、そういった素振りも見せないから余計だ。思い遣りや真摯な優しさは向けてくれるのだが、その心の内を見せてくれないと言うか。艦娘一人一人の性格や意思や自我を尊重してくれるが故に、彼は艦娘の心へ深く踏み入ろうとしない。勿論。彼に信頼されているのも分かるし、大事にされていることは、皆実感している。だからこそ、彼との間に時折感じる溝のようなものは、いやに深く、広く感じるのだろう。そんな事を考えていると、困った様に優しげに微笑む彼の顔が脳裏に浮かび、緩く頭を振る。気持ちを切り替えないと行けない。駄目だ。暑い。と言うか、妙に顔が熱い。

 

 歩いていて、気付くのが少し遅れた。提督の部屋は、もう眼の前だ。胸が更に高鳴りそうになったが、軽く眼を閉じて気持ちを落ち着かせる。それから、扉の前で身だしなみを整え、髪の毛が乱れていないかを再度チェックする。緩みそうになる頬を必死に引き締めつつ、軽く咳払いをして、ノックをしようとした時だ。多分、気持ちの昂ぶりにあわせて、身体の感覚が研ぎ澄まされていたからだろう。微かに。本当に微かにだが。中から気配を感じた。彼のものでは無い。別の人の気配。

 

 今日は彼の秘書官という事で、その事で頭が一杯で失念していた。この鎮守府には、“提督”は彼一人では無い。もう一人居る。嫌な予感がした。ノックをせずにドアノブを回そうとした。回らない。中から鍵が掛けてあるのだ。扉に耳を当てる。すると、中から声が聞こえた。「起きんなよ……起きんな……(囁き声)」男の声だ。私は即座に扉を蹴破った。「司令、おはようございます……!」バァンという派手な音が響く。蹴飛ばされて吹き飛んだ木製の扉が床でバウンドして、壁に激突する。

 

「ファッ!?」

 

 ベッドで眠る彼に覆いかぶさっている男が、奇妙な驚き声を上げて床に転げ落ちた。昨日も夜遅くまで仕事をしていたのだろう彼は、まだ眠ったままだ。起きる気配は無い。彼は基本的に、目覚ましが鳴らないと起きない。揺すろうが傍で騒ごうが、ぐっすりである。そういう彼の体質は、まぁ、今は問題では無い。

 

「起こしに来るの早スギィ……!! 普段はもう一時間位経ってからじゃん!? アゼルバイジャン!? (意味不明)」

 

 問題なのは、ベッドから落ちた拍子に腰を強打し、黒のブーメラン水泳パンツ一丁でM字開脚をしている侵入者である。

 

「って言うか鍵がしてあっただルルォ!? 扉を蹴破って入って来る秘書艦とかおかしいだろそれよぉなぁ!?」

 

 床にひっくり返ってM字開脚のまま喚くこの男も、一応、この鎮守府の提督である。優秀な提督であり、艦娘達の運用にも長けているのだが、素行に問題が多すぎて好きになれない。その浅黒い肌と筋肉質な身体、眼つきなどから“野獣提督”、“野獣司令”と呼ばれる彼は、ほぼ間違いなく男性好きだ。若い憲兵を手篭めにしただの、正体はサイクロップスなどと言った、黒くて妙な噂が絶えない男だった。

 

「失礼致しました。何やら不穏な空気を感じ、“司令”の身に危険が及ぶのでは無いかと思ったので、ドアを破りました。すぐに修理に掛かります。…しかし」

 

 居住まいを正し、深く頭を下げた私は其処で言葉を切り、顔を上げて“野獣”を見据えた。私は右眼だけを窄めて、ゴキッと右手の指を鳴らして見せる。眉間に皺が寄っているのが自分でも分かった。

 

「“野獣司令”は何故、この時間に此処に……? 鍵は内側から掛けられていましたし、“司令”のベッドに乗り掛かっていた様に見えたのですが……」

 

 何の為に此処になど。別に聞かなくても、状況を見れば誰でも分かるだろう。そう。簡単な話である。“野獣”はこの明け方に、“彼”に夜這いを掛ける為に忍び込んだのだ。夜中は、その日の担当となった艦娘が鎮守府内を見回っているが、明け方から全員が起床するまでこの時間は、若干警備が緩む。その時間を選んで、この部屋に忍びこんだのだろう。もしも今日、私が秘書艦で無かったならば、“彼”は野獣の毒牙にかかっていた筈だ。卑劣漢め。鎮守府内だというのに、油断出来ない。私は“野獣”を睨み殺すつもりでねめつける。

 

 

「あ、朝のトレーニングに誘いに来ただけだから……(震え声)」

 

 私の視線に気圧されたのか。言いながら、“野獣”はへっぴり腰になりながら立ち上がり、後ずさった。

 

「そうでしたか。では、私の方から伝えておきましょう。他には、何か?」

 

 思いっきり下目遣いで、私は有無を言わさぬ口調で告げる。“野獣”の行為には深く言及しない。無論これは、さっさと失せろ、のサインなのだが、一応は伝わった様だ。「オッスお願いしまーす……(敗北宣言)」 と早口で言いながら、そそくさと部屋から走り去ってしまった。まぁ、流石にブーメラン一丁の姿では私に食い下がる事はおろか、先程の状況を弁明する事も不可能だ。そういった意味では、まだ賢いと言うべきか。褒めるつもりはさらさら無いが。嫌悪感を隠さない貌で、“野獣”の走り去った方を睨みながら、舌打ちしようとした時だ。背後。彼の枕元にある目覚ましが鳴った。

 

 「ん……」という小さな声と同時に、“彼”がベッドから身体を起こす気配。しまった、と思った。“彼”の寝顔を見れるのは、秘書艦の特権だと言うのに。久々に。久々に“彼”の寝顔を堪能出来るチャンスだったと言うのに。さっきの騒ぎのせいで、そのチャンスを逃してしまった。あぁ、何てことだろう。これも、全部あの“野獣”のせいだ。許せない。もう。もう、あとで消そう。胸中で悪態をつきつつ、私は慌てて彼に振り返り、思わず凝視してしまった。今までに遭遇した事の無い、衝撃的な光景を目の当たりする事になったからだ。

 

 ベッドから身を起こした“彼”は、寝巻きの代わりに白い被術衣を着ている。その胸元がはだけて、柔肌が顕わになっていた。そこから覗く、桜色の蕾がががが。まるで女性の様だ。だが、ある意味で男性特有の色気と言うべきなのだろうか。私は自身の下腹部から脳天へ、何かが突き抜けて行くのを感じた。胸が熱い。“彼”がゆっくりとベッドから降りる際には、その脚も顕わになり、眼のやり場に困ってしまう。枕元に置いてあった眼鏡を掛けて、眠そうな眼を瞬かせた“彼”は、此方に向き直り、緩く頭を下げてくれた。

 

 「おはようございます。不知火さん。少し寝坊してしまいましたね。すみません」

 

 丁寧な言葉で挨拶をしてくれた“彼”は、私よりも少し背が低い。“彼”は少年らしい腕白さとは無縁で、非常に大人しく、もの静かである。ひっそりとした“彼”の微笑みには、此方に対する深い信頼が伺え、胸の熱さが加速する。

 

 「ぅ、い、いえ、しょの……。まだ、寝坊などと言う時間では全くありませんので、お気になさらず……」

 

 熱暴走を起こしそうになる頭を何とか働かせようとするが、駄目だ。しゃっくりみたいに声を引っくり返しながら、そう答えるのがやっとだった。さっきの光景が脳裏に焼きついて、まともに思考が回らない。刺激が強過ぎた。真面目な表情を維持するのが困難になりつつ在る。頬の肉が攣りそうだ。部屋を見回していた“彼”も、どうやら私の様子に気が付いたらしい。

 

 「不知火さん、具合でも悪いのですか? 顔が赤いようですが」

 

 心配そうに此方を見上げて来る“彼”の表情は反則だった。

 

 「体調は、りょ、良好です。問題は在りません」 

 

 私は慌てて眼を逸らしながら、一歩後ずさる。それを見越していた訳では無いだろうが、“彼”がすっと歩み寄って来た。実戦を幾度と無く経験した私でも、捉え難く、反応しにくい静かな動きだった。以前から気になっていた事だが、やはり“彼”には何か武術の心得があるのかもしれない。気付けば。私の左頬に、小さな“彼”の掌の優しい感触が在った。ひんやりとした掌だった。背筋に強烈な甘い痺れが走って、変な声が出そうになったが、ぐっと堪える。

 

「少し、熱いですね……。本当に大丈夫ですか?」 

 

ああ。そんな。何て、近い。近い近い。こんな近い距離で、“彼”の声を聞いたのは初めてだ。熱い吐息が零れた。耳朶を擽る、澄み渡った“彼”の声は、脳に直接染み入ってくる様に感じた。

 

「は、はい……。いえ、す、少し、どうにかなりそうです……」

 

 大丈夫だと。私に不調な箇所な何処にも無いと、そう言うべきなのだが。眼を合わせる事も出来ないまま、もう何と言うか、掠れた声でそうとしか言えなかった。私の頬から、“彼”の掌が離れる。その名残惜しさに、情けない程胸が軋んだ。しかし、不甲斐無い私を見て“彼”は、またその幼さには不釣合いな、静かな微笑みを浮かべて見せた。

 

「体調が優れないのであれば、今日の秘書艦の交代を……」

 

「いえっ! その必要はありません。秘書艦は私が務めます!」

 

 咄嗟に言葉を返したものの、縋る様な声音になってしまった。それに、思ったよりも大きな声が出てしまい、“彼”も少し驚いた様な貌になっている。しかし、すぐに微笑んで、頷いてくれた。

 

「分かりました。では、宜しくお願いします」

 

“彼”の穏やかな声音には、不思議な包容力が在り、その外見の幼さには似つかわしくない、大きな父性の様なものが在る。

 

「でも、無理はしないでください。辛くなったら頑張り過ぎないで、遠慮せずに仰ってくださいね」

 

 鼻血が出そうだ。俯いてしまう。不味い。今口を開くと、変なことを口走りそうだ。一人で勝手に盛り上がっている自分に自己嫌悪を覚える。何とか心を静めようとする。そんな私の葛藤になど、“彼”は全く気付かない。

 

「頼り無いかもしれませんが、僕に出来ることでしたら、もっと頼って下さいね」

 

 打算も下心も無い、あまりに真っ直ぐなその言葉を聞いて、“あぁ^~、ダメになる~”という感覚を何となく理解した。朝から何を一人でトキメキまくっているのかと、更に深まる自己嫌悪を抱えて、「はい……」とだけ言葉を返した。私の返事に、“彼”は満足そうに頷いてから部屋を見回した。

 

「所で、扉が壊れているのですが、何か在ったのでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陽炎は食堂のテーブル席に一人腰掛け、不知火と提督の二人がやって来るのを待っていた。何を食べようかな~、なんて思いながら、昨晩の不知火の貌を思い出す。秘書艦の番が回って来て、嬉しいのに困った様な表情を浮かべていたのを憶えている。他の艦娘が見たら仏頂面にしか見えないかもしれないが、少なくとも陽炎にはそう見えた。久しぶりに提督と一緒に食事を摂る事になって、間が持たなくなったら困るわね。そんな風に冗談っぽく言ってみたものの、では、少し助けてくれませんかと頼まれるなどとは思わなかった。

 

 秘書艦が不知火の時は、提督と不知火はだいたいこの時間に朝食を採っている事は知っていた。普段、陽炎が食堂に向う時間よりもかなり早い時間である。今も眠気がまだ抜けていない。油断すると大あくびが出そうだ。これは不味い兆候である。自分の体のことだから、大体分かる。恐らく、この眠気の山は一度乗り越えても、昼過ぎには猛烈な睡魔となって襲ってくる事だろう。気合を入れて、極端に早起きして動き出した日は大抵そうだ。だから、不知火から今朝の朝食に誘われた時は、ちょっと迷った。昼に来る睡魔の強さは半端じゃない。出来れば戦いたくない。しかし、他ならぬ不知火の誘いだ。了承して今に至る。欠伸を飲み込んで時計を確認した。時間的にはそろそろ現れても良い頃の筈である。お腹も良い感じに空いて来た。陽炎は、ちらりと周りを見回してみる。

 

 此処、鎮守府内に在る食堂は、飯時には艦娘達で大きな賑わいを見せる。大人数の艦娘達の胃袋を引き受けるだけあって、品書きも建物も相当立派であり、味も良い。ある意味で彼女達のオアシスでもある。朝餉の香と、活力を感じさせる彼女達の騒々しさは、此処の一種の名物だ。だが、今はまだ賑わうには早い時間で在る為、食堂はがらんとしている。現在食堂に居るのは、テーブル席についた陽炎。その近くには、向かい合って座り、笑顔を交えながら何かを話し合っている大和と長門。それから、遠征から帰って来てすぐの天龍と、暁、響、雷、電。天龍の朝食に付き合っているのは摩耶。二人もテーブル掛けで、向かい合って座っている。暁達は四人で一つのテーブルを囲み、朝食を採りながら、今回の遠征についての話で盛り上がっている。後は、朝の支度が早い赤城と加賀の二人と、金剛、比叡、榛名、霧島の四人だ。赤城、加賀の二人はテーブル席に。金剛達は座敷席に陣取っている。

 

 普段は熾烈を極める戦場で、勇猛果敢に戦う彼女達の表情には、安らぎの様なものが伺えた。陽炎にとっても、提督に報告している時の次に、帰って来たんだと実感する場所が此処でもある。ホッとすると言うか。不思議な安心感が在る。仲間達と語らえる場所でもあるからだろう。いつもより静かとは言え、憩いの場としての此処は、穏やかで暖かな空気が在った。

 

 

「えぇ~! “司令官のミルク”飲ませて貰ったの!? 一人だけずるーい!!」

 

 

 しかし、不意に響いた暁の声のせいで、食堂の空気が凍りついた。食べているものや、飲み物を噴出す音が聞こえた。ガタっ!、と立ち上がったのは金剛だったが、何も言わず、すぐにまた座った。挙動不審である。周りに座っていた比叡、榛名、霧島は、頬を赤らめつつ視線を彷徨わせている。他の艦娘達も皆同じような様子で、下手な事が言えない様な、何だか気まずい空気だ。例えるなら、家族団欒の最中に見ていたテレビドラマが、突然いやらしいシーンになった様な感じだった。

 

 司令官のミルクって……アレ、だよな? いや、さぁ……。多分……。みたいなアイコンタクトを交わしているのは、天龍と摩耶である。赤城や加賀も何事かと箸を止めているが、最も重症なのは向かい合って座っていた長門と大和だろう。首筋まで真っ赤にして俯いている長門はしきりに下唇を噛んでいるし、さっきまで上品に食事をしていた大和は、激しく噎せ返っている。

 

 こんな空気にした張本人、いや張本人達と言うべきか。暁、響、雷、電、の四人は、周りの空気など何処吹く風で、楽しげにテーブル席で談笑中である。この場に居るほぼ全員の視線が、四人に注がれているが、盛り上がっている暁達は気付いていない。テーブル席で朝食を囲む暁達の姿は、実に可愛らしく微笑ましいというのに。彼女達の食事風景を、こんなにハラハラした気持ちで見守った事など、かつて在っただろうか。

 

 

「別にずるくなんて無いでしょ! 飲んだのは私だけじゃないもの。ね、電」

 

そうは言いつつも、ちょっと自慢げな雷は、隣に腰掛けた電に笑いかける。

 

「はい。私も一緒に、コップ一杯分だけ頂きました。とっても濃厚で美味しかったのです」

 

 

 

 

 食堂に居た他の艦娘達にざわめきが広がる。「こ、コップ一杯……」と、羞恥に震える声で呟いたのは榛名だ。「濃厚……」と呟いた霧島も、頬を染めつつ生唾を飲み込んだ。この二人の視線は座敷テーブルに置かれた、牛乳の入ったコップに注がれていた。比叡が飲もうと思って頼んでいたものである。「ひ、ひぇ~……」と零した比叡は、重さを確かめるみたいに牛乳の入ったコップを持ち上げて、コップの中に揺れる白い牛乳を見詰めていた。

 

「比叡、あの、……チョット貸してみなサイ」 

 

恥ずかしそうに言いながら、金剛は比叡からコップを受け取った。それから赤い貌のままで、何処か愛おしそうにゆっくりとコップを揺らして見せる。

 

「Oh^~、何デスかこの量はぁ……。たまげたネー……」

 

そう熱い溜息を零してから呟き、金剛はコップを傾け、ゆっくりと牛乳を飲んでいく。うっとりとした表情で牛乳を嚥下する姉の姿に、比叡、榛名、霧島は眼を奪われている。

 

 

 

「何やってんだあいつら……(興味津々)」

 

 摩耶は金剛達が陣取る座敷席を横目で見ながらも、暁達の話に耳を欹てた。一方で天龍の方は、頬杖をついてそっぽを向いている。興味無い様な振りをしている様だが、艤装の耳がピコピコと動いている辺り、しっかりと聞いている様だ。暁達から少し離れた席に座っている赤城は、頬を染めながら人差し指で頬を掻いている。しょうがないですね…、みたいな、大人のお姉さん的な感じだ。一方で、加賀の方は真顔で暁達の方を凝視していた。敵意や殺意こそ無いものの、その眼光の迫力は相当のものだ。ちょっと怖い。

 

 

「響はどうなの? 飲んだ事あるの?」

 

 妙な緊張感の中、暁の可憐な声が響く。誰かが息を呑む音が聞こえた。多分、加賀と長門だ。陽炎も固唾を飲んで、響の言葉を待っている。勿論、食堂に居る全員がそうだ。心は一つである。しかし、響はすぐには答えない。もったいぶるみたいに落ち着いた様子で朝のコーヒーをゆったりと啜っている。長い。早く。早く回答を。まるで。焦らされているかの様だ。緊張感が高まっていく。知りたい。他の艦娘が、どんな寵愛を受けているのか。知りたい。除け者にされたくない。私だってと声を上げたい。陽炎は膝の上で拳を握り固める。不知火や他の艦娘が、“提督”を慕っているのは当然知っている。“提督”とはつまり、私達“艦娘”をこの現世に召び入れ、身体と意思、能と優を与えてくれた人物なのだ。金属から肉体を。兵器としての存在意義から魂を。艦という枠からは誇りを。私は其々授かったのだ。もうその時点で、艦娘達にとっては在る意味で、父であり、上官であり、恩人でもある。

 

 それを笠にかけ、不埒な行為に及ぶ提督も少なくは無い。若い女性の見た目なのだから、無理からぬ事なのかもしれない。しかし、この鎮守府の提督は二人居るのだが、彼らに関してはそういう噂は殆ど聞かない。多分、今が初めてだ。だから、暁達の話が凄く気になる。いやもう、凄く気になる。見ればいい。大和も長門も金剛姉妹も、一航戦の二人だって、誰も喋って無い。陽炎だってそうだ。“提督”を慕っているのだ。別に何が何でもケッコンしたいとか。一番になりたいとか。独り占めしたいとか。そんな事は思っていない。一緒に居られるなら、それだけで十分だ。“彼”の下で、“彼”の為に戦えるのなら、もう何も要らない。そう思う。思っていた。でも。だって。何と言うか。羨ましいでは無いか。敬愛する人との繋がりが欲しいと思うのは、誰だってそうだ。それに何だ。“提督のミルク”とは。もう。直球ではないのか。何故こんな早朝から下腹部を熱くせねばならないのだ。切なさとやる瀬無さが募り、響の沈黙が重みを増していく。もう、早く。早く答えを。教えて下さい。何でもしますから。

 

 叫び出しそうだ。陽炎が顔を上げてちらりと横を見ると、下唇をぎゅぎゅぎゅーと噛んだ長門が、俯いたままモジモジとしているではないか。しかも、さっきまでは無かった筈の艤装が現れていた。いや、ビッグ7よ。昂ぶり過ぎだろう。陽炎は心の中でツッコミを入れるに留まる。というか、その長門と一緒に居る大和の方も大概やばい。赤い顔で俯いたまま、頻りに瞬きをする大和の身体からは、モッファ~~と蒸気が立ち上っている。明らかに暖まり過ぎである。このままだと食堂がサウナになっちゃう。ヤバイヤバイ……。というか、もうちょっと熱い。ただ、そんなツッコミが出来る程、陽炎も冷静では無かった。そろそろ限界を迎えようとした時だ。「あるよ」と。響が短く答えた。

 

 

「ちょっと前にね。頂いた。美味しかった。お代わりもさせて貰ったよ」

 

 

 凍り付いていた食堂の空気が、粉々に砕け散った。戦場海域に突入したみたいな緊張感だ。というか、もう食事をするような空気じゃない。「じゃあ、飲んだ事無いの私だけじゃない!」暁が可愛らしい非難の声を上げるのを聞いて、私も無いわよ!、と絶叫しそうになったのを、陽炎は飲み込む。それから搾り出すようにして息を吐き出して、腕で額の汗を拭った。顔あっつ……。ちらりと大和と長門の様子を伺う。大和は、上品な仕種で鼻を押さえて、何故か天井を振り仰いでいた。何処かの神に祈りでも捧げているのかと思ったが、多分、鼻血でも出たんだろう。長門も、耳まで真っ赤にして両手で顔を抑え、艶っぽくも灼熱の溜息を漏らしていた。

 

「お代わりまで出来るのか……(混乱)」

 

ボソッと呟いたビッグ7の言葉に、胸が熱くなる。見れば、加賀も似た様な有様で、何を想像したのかは分からないが、右手で頭を抱えて悶絶している。それを見て苦笑している赤城の余裕を見習うべきなのだが、無理だ。出来ない。座敷席に居る金剛達は揃って牛乳をお代わりしようとしているし、天龍と摩耶に至っては無言で固まっていた。クールダウンが必要だ。深呼吸をして、少し落ち着こう。そう思った時だ。

 

 

「ぬわあああああああああああん、疲れたもおおおおおおおおおおん!」

 

ぴちぴちの黒ブーメランパンツ一丁の筋肉質の男が、食堂に現れた。それに続いて入って来たのは、眼鏡を掛けて提督の正装をした少年である。やたら眼力のある不知火が秘書艦として背後に控えているせいもあり、不思議な存在感の様なものが在る。二人共、この鎮守府に配属されている“元帥”の称号を持つ提督だ。

 

 少年の方は、他の鎮守府と同じく“提督”、“司令”と呼ばれ黒パンツ一丁の方は、皆から“野獣”、又は、“野獣司令”などと呼ばれている。ちなみに、先程まで暁達の話題に上がっていた“司令官”とは、少年提督の事だ。食堂に居た全員が起立し、敬礼をしようとした。だが、さっきまでの妄想炸裂状態のせいで皆タイミングが遅れていた。しかし、「いいよいいよ。そのまま喰ってて、どうぞ(適当)」と野獣に手で制される。何かムカついた。陽炎が眉間に皺が寄りそうになるのを堪えていると、提督の後ろに控える不知火と眼が合った。不知火は、ふっと優しげに目許を緩めてくれたのだが、さっきまでの自分の盛り上がりっぷりを思い出して恥ずかしくなった。

 

 天龍と摩耶も気恥ずかしさからか、挨拶もソコソコに、そそくさと提督達と擦れ違うように食堂を後にした。

 

「へぅ、へ、HEY、テイトクゥーー! セ……セッ、ク……、あの、えぇっと! 時間と場所を弁えなヨー!!(目的語喪失)」

 

 眼を合わせずに声を裏返しながら挨拶をしたのは、座敷席から身を乗り出し、眼をグルグル回している金剛だ。と言うか、何を弁えるんだろうか。いや、まぁ。ナニを弁えなよと言うことなのだろうか。ナニって何だよ(哲学)。比叡は手にした牛乳の入ったコップと提督を見比べながら、改めて「ひぇ~……(戦慄)」と呟いていた。金剛に続いて深々と礼をした榛名も、俯き加減のままぎゅっと裾の辺りを掴んでいる。霧島は提督を熱い視線で見詰めながら、コップの牛乳を喉を鳴らして飲み干した。金剛姉妹は流石というか、陽炎ではちょっと敵いそうにない。

 

 

 長門と大和は、先程最敬礼をしてから、自分の座っている場所から動かない。二人共、頬に朱を指したままで、チラチラと提督の方を伺っているだけだ。ただ、大和の方はそろそろ落ち着いてきたらしく、放散していた蒸気が止まっている。食堂が大和サウナになるのは未然に防がれた。長門の方は、まだ戦闘体勢が解けていない。仰々しい艤装が召還されたままだ。暴発しそうだが、大丈夫なんだろうか。逃げようかな。

 

 暁や響、雷、電達から元気良くも可愛らしい挨拶を受け、提督は優しげな微笑みを返している。野獣の方も受けた挨拶に対してちゃんと返している辺り、一応はまともなのだ。ただ、黒パン一丁なのはどうなのか。自身の肉体を見せびらかしたいのかどうかは知らないが、朝から見ていて気分の良いものじゃない。自重して欲しいところだ。そうこうしている内に、暁達や金剛達も、天龍達に続いて食堂をあとにした。彼女達の背中を見送った不知火と提督が、すぐ傍まで歩み寄って来る。陽炎は立ち上がり、居住まいを正す。そんな陽炎を見て、提督もすっと頭を下げてくれた。

 

「おはようございます。陽炎さん。お待たせしてしまいましたね。此方、宜しいですか?」

 

「は、はいっ! あの、どうぞ!」

 

 丁寧な挨拶と共に、提督が陽炎の正面の席に腰掛けて、不知火が陽炎の隣に座った。その不知火が、陽炎にだけ聞こえる声で耳打ちしてきた。

 

「……食堂で何か在ったのですか? どうも空気が不穏なのですが」

 

まぁ、気付くよね。だが、正直に言うのは気が引ける。どう言えと言うのか。

 

「いや、別に何も無かったよ?」とだけ言葉を返す。

 

鋭い不知火は怪訝そうに眉を顰めているが、気付かない振りをした。自分でもこれは苦しいと言うか、白々しいと思っていると、不知火の正面の椅子が引かれた。テーブルは四人掛けだから、一つ席が余っている。

 

「お、空いてんじゃーん!(強引)」

 

其処に野獣が腰掛けたのだ。不知火が舌打ちするのを、陽炎は聞き逃さなかった。多分、今は陽炎も露骨に嫌な顔をしているだろう。穏やかな表情なのは提督だけだ。

 

「他にも席はいくらでも空いていますが」

 

即座に不知火が噛み付くが、野獣は無視して、提督に向き直った。

 

「俺も仲間に入れてくれよな~、頼むよ~(ねっとり)」

 

 

 

 

 結局。優しい提督が言葉を拒むことなど無く、野獣、提督、陽炎、不知火の四人で朝食を摂る事になってしまった。普段は執務室で一人朝食を摂る提督と、せっかく食堂の空き時間に一緒に朝食を摂れると思ったのに。あ~、もうめちゃくちゃだよ(辟易)。さっきから喋っているのは野獣だけだし、嫌な貌一つせずに聞き役に徹しているのは提督である。苛立ちを通り越して、無表情なのに何処かしょんぼりしている不知火が可哀想になってきた。少しはこっちの事情も考えてよと、朝からラーメンを啜る野獣を少しだけ睨んだ。まぁでも、表立って噛み付いたって余計に空気が悪くなるだけだ。我慢しよう。陽炎はサンドイッチに齧りつく。

 

「あ、そうだ(唐突)。最近ボーキの減りがスッゲー早ぇんだよなぁ、お前のトコどう?」

 

「ボーキサイト、ですか? いえ……。僕達のところは、其処まで大きな動きは在りませんでした」

 

提督は不知火に視線を向ける。不知火は頷いて、テーブルの端に置いていたファイルを手に取る。中の書類をペラペラと捲りながら、頷きを返した。

 

「仰る通りです。資材量は十分な筈です」

 

陽炎は、不知火の持つファイルを横から覗き込んだ。其処には、提督が管理している鉄、油、弾、ボーキサイトの項目に、提督がその備蓄量が表示されている。不知火がペラリとファイルの書類を捲った。野獣管理の資材の項目が目に入り、陽炎は食べていたサンドイッチを噴き出した。汚いですよ、陽炎。そう不知火に注意されたが、私は悪くない。誰だって噴き出すよ。こんなの。だって。

 

「あの、他の資材が各6桁ずつ在るのに、ボーキサイトだけ2桁なのは大丈夫なんですかね……(恐怖)」

 

陽炎は口許を拭いながら野獣に聞いた。

 

「大丈夫な訳無いんだよなぁ……。まぁ、犯人の目星はついてるから、まぁ、多少はね?(野獣の眼光) おいAKGィ! KGも見てないでこっち来て!」

 

 野獣は陽炎にウィンクしてから、食堂を後にしようとする赤城と加賀を呼び止めた。無表情な加賀がこっちを振り返り、面倒そうに何度か瞬きをしてから歩み寄って来る。「はい、何でしょう野獣提督」と、素直に返事をしたのは赤城だ。席に座る陽炎の隣に、一航戦の二人が並んだ。すぐ近くに感じるその存在感と威風に、おぉう…、とやはり陽炎は身を引いてしまう。その錬度の高さから、この鎮守府でも主力を担う彼女達は、その立ち姿も凛然としていて隙が無い。この二人とどういう関係が在るのか。野獣提督はラーメンを食べていた箸を置いた。それから、真面目くさった貌になって、一航戦の二人に向き直る。

 

「ボーキを喰い散らかしたのは、君達だね?(言い掛かり)」 ど直球だった。

 

「えっ(困惑)」赤城は、野獣の言葉をイマイチ理解出来ていない様子だ。

 

「は?(威圧)」加賀の方は低い声で言いながら、不機嫌オーラを放ち始める。

 

 提督と不知火は、黙したまま野獣と一航戦の三人を見守っている。正直、加賀の不機嫌オーラをすぐ近くで浴びている陽炎にとっては、この展開は災難以外の何物でも無い。

 

「とぼけちゃってぇ……。ボーキがガバガバになるって言ったら、君達ボーキサイターの仕業だって、それ一番言われてるから(したり顔先輩)」

 

 よくそんな理由で一航戦の二人を呼び止めたなと、陽炎は呆れるよりも先に感心した。ひょっとしたら、本当にこの野獣という提督は、途轍もない大物なのかもしれない。そんな風に思い掛けた時だ。「憶えていませんか?」と。ドスの効いた声で言いながら、加賀が懐から何かの書類を取り出した。加賀の言葉を引き継いだのは、隣で所在無さげに立っていた赤城である。

 

「一週間程前になりますね。ビールを浴びる程飲んでガンギマリ状態になった野獣提督が、私達だけでなく、保持している空母全員にボーキサイトを振舞ってやろうと仰ってくれたのですが……」

 

「資材の浪費なので私たちは断ったんですが、艦載機の開発に“突っ込め”と……。野獣提督に喚かれましてね。資材使用の許可については、サインも頂いていますよ」

 

 加賀が野獣に広げて見せた書類には、確かにボーキサイトの使用許可と、野獣のサインが在る。

 

「あっ、ふ~ん。そうなんだ……(小声)」

 

 眼を逸らした野獣には反論材料が無い。自分でやらかした事である。白けたような空気が辺りを包んだ。気の毒そうな貌をしている提督だけで、不知火は半目の下目遣だ。陽炎も、もう何も言えなかった。ちょっと野獣を見直しかけた自分にムカついたが。

 

「まぁ、大胆な資材浪費は提督の特権だからね。しょうがないね(開き直り)」

 

 赤城が愛想笑いに失敗したみたいな苦笑を浮かべ、加賀は無言のまま書類を懐にしまった。そういえば、野獣の秘書艦は、加賀か長門であることが多い。二人の手が空いていない時は、陸奥をはじめ、他の艦娘が秘書艦をしたりしていた筈だ。赤城、加賀の二人を召んだのは野獣である。この場に居る者で言えば、長門、比叡、榛名もそうだ。其処まで考えて、改めて実感する。この野獣も、名だたる戦艦である彼女達に人格と肉体を与え、この世界に招き入れた、非常に高い力を持った提督なのだ。また本営に“課金”する派目になるのか壊れるなぁ……。そう呟いた野獣は、ゆっくりと息を吐き出した。

 

「じゃあ、資金どうっすかなー。俺もなー。それじゃ此処は一つ、一航戦の二人に一肌脱いで貰ってさ、レズビに出て貰って終わりで良いんじゃない? おっ、そうだな(自問自答)」

 

野獣の発言に、赤城の頭の上には?マークが浮かんでいる。ただ、陽炎と加賀は同時に吹き出した。勿論、即座に噛み付いたのは加賀だ。

 

「じょ……、冗談では無いですね。いくら相手が赤城さんとは言え、お断りします」

 

「目線も入れるし大丈夫、大丈夫だって(無責任)。 ヘーキヘーキ、安心しろよ~(モザイクを入れるとは言っていない)」

 

 これは、何だか凄いことになりそうだ。赤城さんも加賀さんも、モデルが裸足で逃げ出す様な飛び切りの美人である。艦娘達の写真なんて、割りと出回っているし、特に美人だったりグラマラスな艦娘にはファンだって存在する。ビデオを見た視聴者だって、例え目線が入っていたとしても(あれ、これ一航戦の人じゃねぇ)、ぐらいは思う人も居るだろう。そんな噂が広まり、コレクター的なプレミアがついたりしたら、どんな値段になるのだろうか。妙なことを考えていると、隣に座る不知火の真剣な眼差しに気付いた。

 

「どうしたの、不知火」

 

「陽炎。レズビとは何ですか?」

 

「えっ」 

 

そう来たか。

 

「えぇっと……」 

 

 顔を強張らせながら、陽炎が不知火から視線をずらすと、提督と眼が合った。少年らしくない、菩薩の様なひっそりとした微笑を浮かべている。ヤバイと思った。

 

「“れずび”とは何なのか、僕にも教えてくれませんか?」 

 

その通りになった。不意に視線を感じて、不知火と反対隣を見上げる。なー頼むよー。絶対嫌です。などと遣り取りしている加賀と野獣の隣に居た、赤城と眼が合う。「私にも教えて頂けませんか?」と、赤城も微笑んで来た。

 

 え、何この状況? 説明するの? 私、火傷確定じゃない? アー泣キソ。

 

「その、レズビっていうのは……女性同士で、その、女性の魅力を訴える、えっ、……ち、じゃなくて、え、映像作品って言えば良いのかナ(しどろもどろ)」

 

 輪郭を暈しすぎて全く何も伝わらない説明に、不知火は二回程まばたきをした。

 

 察してくれと祈るしかない陽炎は、不知火に眼を合わせず、すっとぼけた答えを返して、誤魔化そうとした。だが、それが不味かった。「立派な活動なのですね」と提督が頷いた。不知火も頷く。「魅力を伝えるという事ならば、陽炎も出てみてはどうですか」と言われて流石に耳を疑った。陽炎は、不知火の事を無二の親友であり、最高の相棒だと思っている。不知火が困っていたら、何としてでも助けたいと思う。

 

 そんな不知火から、レズビに出たらなんて言われる日が来るなんて誰が思うだろう。心に罅が入る音が聞こえた気がした。何処にも逃がせない悲しみの様なものが水位となって上がってくる。あ。やばい。鼻の奥がツーンとしてきた。泣きそう、いや泣く(確信) いや、泣くな。そうだ。不知火は、レズビが何なのか知らないのだ。悪意なんて無いのだ。自分に言い聞かせる。きっと、陽炎は魅力的だよ、という事を不知火は言いたかったのだ。そうに決まっている。

 

「どうしたのですか、陽炎。私は何か、酷いことを言ってしまいましたか?」

 

 悲しみに歪みそうになった私の貌を見て、不知火まで悲しそうな貌になっていた。ううん、別に何でも無いよと答えて、微笑みを返した。洟をすする。そうだ。悪いのはこんな訳の分からない話題を出した野獣だ。おかげで心に傷を負ったじゃないか。非難めいた視線で野獣を睨んでいると、向こうも気付いた。

 

「お、KGRUも出るか(半笑い)」

 

「絶対出ません!!(蒼き鋼の意思)」

 

「話は聞かせて貰ったぞ。野獣」

 

 突然だった。不知火と陽炎の背後に、巨大というか強大な雰囲気を感じた。長門と大和だった。腕を組み野獣を見下ろす長門は、呆れている様な貌だった。

 

「また資源を無駄遣いしたようだな。加賀や赤城には、後輩達の訓練や演習の任務もあるんだ。余計な手間を掛けさせるものでは無いぞ」

 

 野獣を諫める長門の視線は鋭く、有無を言わさない迫力が在った。しかし、やはり自分が召んだ艦娘に対しては、かなり強気に出れるのか。「ん、おかのした(適当)」と、野獣は上の空な返事を返す。「貴様……」と、長門の眉が釣りあがる。大和が、まぁまぁと野獣と長門の間に入る。加賀と赤城は何も言わなかったが、目礼をして見せる辺り、長門の気遣いに感謝している様だった。

 

「あ、そうだ(唐突)。これ渡すの忘れてたゾ」

 

 野獣はゴソゴソと黒海パンの尻部分から、何かを取り出した。陽炎はぎょっとした。流石の不知火も驚いた貌をしている。うっ……! と後ずさったのは、加賀だ。赤城も身を引いていた。提督と大和は、怪訝な貌でそれを見詰めている。野獣が長門に差し出したソレは。

 

「御札……ですか?」

 

「そうだよ(肯定)」

 

 そうだよ、って……。陽炎は、困惑しながらも野獣が手に持った御札の束を凝視してしまう。複雑な紋様と、墨でびっしりと書き込まれた文言はえらく本格的で、直感的に何だかヤバイものだという事が分かる。その御札を差し出された長門は、余裕の無い真顔になっていた。

 

「……何だこれは」

 

「御札でしょ」

 

「そうじゃない。何故私に渡すのかを聞いているんだ。悪ふざけならば、やめろ。そういうのは」

 

 長門は腕を組みながら、差し出された御札から逃げるみたいに半歩だけ後ずさった。

 

「悪ふざけとかじゃ無いんだよなぁ…。長門が自室に使ってる部屋にぃ、何か色々、出るっらしいっすよ。じゃけん、御札張っときましょうね(他人事)」

 

「な……ッ! 初耳だ!!」

 

「ビッグ7の部屋怖いな~。とずまりすとこ(棒)」

 

「貴様が部屋を割り振ったんだろうが! そんな曰くつきの部屋を私に押し付けるなど、もう許せるぞオイ!!」

 

 長門が怒鳴った瞬間だった。ガタっと音がした。陽炎は、思わず椅子ごと身を引いて立ち上がった。全員が長門の後ろを凝視する。鳥肌が立った。誰も居ない筈のテーブル席の椅子が、全部引かれた状態になっていた。断言出来る。さっきまでは絶対に、椅子は引かれて居なかった。寒気がした。ポルターガイストという言葉が脳裏を過ぎる。正直、ちょっとおしっこが漏れそうだった。自分の背後を振り返った長門は、今まで見たことの無いくらい蒼褪めた貌で、陽炎達を順番に見た。

 

「こ、こういうな。あく、悪質な悪戯は、やめにょ、おいやめろ」

 

 誰に言っているのか分からないが、こんな追い詰められた長門を初めて見た。表情がガチガチで、泣きそうになっている様に見える。もう何と言うか、一杯一杯である。だが、それは陽炎も同じだ。不知火も立ち上がり、陽炎の隣に並ぶ。ヒヒヒヒヒ。何処からか声がした。此処に居る誰のものでも無い声だった。陽炎は血の気が引いた。ちょっと漏れたかもしれない。

 

「おや、声がしましたね」平気な顔をしているのは提督だけだ。

 

「な、長門はさ、もうちょっと此処でゆっくりしてて良いから(良心)」

 

流石に、野獣の貌も蒼褪めている。

 

「あ、そうだ(天才のひらめき)」

 

野獣は何を思ったか、手にした札の束を自分の体にペタペタと張り出した。なる程、御札を使用することで、自身の身だけは守れるという事か。提督の屑がこの野郎……(憤怒)。陽炎がそう思うのと同時か、それより早かったか。

 

「ぬあぁぁあん! 怖いもおおおぉぉおおん!」

 

 野獣が陽炎達を置き去りにして、一人だけ走って出口に向って走り出す。またガタガタっと音がした。「私達も…!」「あっ」大和が提督を抱えて駆ける。それに続き、陽炎、不知火も駆け出す。赤城、加賀も。

出遅れた長門も半泣きでそれを追う。皆で一斉に食堂から逃げ出した。本当に、散々な一日のスタートになった。ちなみに、あとで分かった事だが、暁達の言う“司令官のミルク”の正体とは、提督宛に時折送られてくる、新鮮な牛乳の事であった。何でも、牛乳が好きな提督が、定期的に注文をしている品だという。“司令官のミルク”という言葉に対し、自分が何を想像したのかを思い出して、陽炎はその夜悶えに悶えて眠ることが出来なった。


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