その日、関係各所やマスコミに向けて水晶像の披露パーティが開催された建物は、つい最近に東京郊外へ建設されたばかりの高級ホテルだった。
ホテルの最上階には全面ガラス張りの広大なパーティホールが設計されており、当初は一般的なパーティの他にも結婚式なども予想していたのだろうそこは、非常にきらびやかで高級な様相を呈していた。その日、水晶像の披露会が行われたのもその最上階のホールだった。
最上階は、その面積の半分以上を占める楕円形のパーティホールを中心に置き、調理場や倉庫、パーティ出演者のための控室などのいわゆる「裏」の部分と、客用トイレやエレベータホールなどの「表」の部分がそれぞれ分断されるようにして設計されている。
調理場や倉庫、控室などはパーティホールのステージ裏から出入りできるよう、ホールを挟んで最上階の北側へと集められており、また南西側に位置するパーティホールの正門からはエレベータホールまで一本の廊下が伸び、トイレはその最中に設置されていた。
この階では、ホール正門前にある、(ホテルの目玉の一つでもある)ガラス張りエレベータとその横の非常階段、そしてホールを挟んだ北側に設置されている業務用のエレベータと二つ目の非常階段しか移動手段はなかった。
――つまるところ、そんな構造の中で客用トイレに爆発物が仕掛けられているとはどういうことなのか。
それは、この最上階において最も大きなエレベータと非常階段、その二つをパーティホールとつないでいる廊下の最中に爆弾が仕掛けられている、ということで。
つまり、爆発したが最後、最上階から脱出するためのすべが半分なくなってしまう、ということである――。
さらにいうのならば、すでに一つある以上、他の場所にも幾つかの爆弾が設置されている可能性は非常に高かった。
「――おいおい。こいつァ、……え? まじかよ……」
小五郎はどんな小さな振動も与えないように気を付けながらそっと紙袋の中をのぞき、そしてそれが明らかに爆発物である、ということを確認して、ひきつった顔でそう呟いた。
「どこの誰だか知らねえが、……とんでもねえことをしやがる」
一瞬、小五郎の脳裏に怪盗キッドが浮かんだ。が、キッドの今までの犯行(窃盗はするが殺人はしない犯行動向)をそれなりには知っていた彼は、すぐにないな、とその考えを打ち消した。
最も、このとき小五郎は、それよりも、娘たちのいる会場のすぐそばに、いつ爆発するかもしれぬ爆弾があるというその事実で頭がいっぱいになりかけていたから、実際のところは爆弾の仕掛け主のことなどどうでもいいに等しかった。
「くそッ! なんだって――いや、とりあえず、早く知らせにゃあな……」
小五郎はそっと洗面台の下の扉を再び閉じると、すっくと立ち上がってトイレ出口へと向かう。
爆発物が出てきたとあっては、怪盗騒ぎ以上の非常事態である。まずはホールに集っている民間人の避難、そして同時に警察へ応援の要請が――具体的には機動隊の爆発物処理班の要請が火急だった。
(――まあ、とりあえずのところはなにをおいても避難だ。早く避難を始めにゃあ、大変なことになる)
こういうときこそ、冷静にならなければいけない。過去、刑事時代に散々と教え込まれたことだった。
そうして小五郎はできるだけ冷静になろうと試みつつ、しかしそれでも思い浮かぶ娘の顔に、結局は抑え込められずに慌てながらトイレから飛び出した。
そして、毎度の怪盗騒ぎのごとく、中森の命令でそこらをうようよ巡回している警官たちのうちの誰かを捕まえようと見渡して、
「――え?」
そこで、ようやく小五郎は周囲の異常に気がついた。
ホールやエレベータの出入り口を見張っていた者も含め、廊下のところどころで警備巡回をしていた警官が、皆、一人残らず倒れ伏していた。
「ンなッ!?」
まさか――。
最悪の状況を想定しながらも近くの警官へと急いで駆け寄る。
「おいッ! どうした! 大丈夫か!?」
うつぶせになっていた男を抱き起し、その顔を確認して、
「息はしている……」
死んではいないようで、とりあえず安心する。他の警官の様子も確認するが、どれもただ寝ているだけのようだった。
「一体なにが……?」
と、そこで、辺りを見回す小五郎の目に、廊下の隅に転がっている金筒の缶のような物が映る。
警官をそっと寝かせ、近寄り、ハンカチを被せて拾ってみれば、筒はすでに空で、その上部には霧吹きの様な穴が無数に開いていた。
「ンだ、こりゃ。殺虫剤?――いや、」
そこで、眠りこけている警官らを振り返る。
「――催眠ガスか」
同時に、小五郎の中である推測が成り立つ。
催眠ガスは、煙幕やパラグライダーと並んで怪盗キッドが好んで使用する小道具である、とは前に聞いたことがある。
と、いうことは、爆弾とは別に、この階の警官らをまとめて眠らせたのは怪盗キッドである可能性が高い。さしもの怪盗キッドでも、ここまでがっちりと唯一の入り口を固められては強行突破しか手段がなかったのだろう。小五郎が眠らなかったのは、ひとえに廊下とトイレが扉で隔たれていたからか。
……すると、怪盗キッドは、すでに警官かなにかに変装して式場へと入り込んでいることになる。もう例の予告時間であるし、おそらくは間違っていないであろう。
つまり、「侵入を拒むのは難しいから、侵入後、出られないように閉じ込めればいい」という今回の中森の計画は、今のところはおおよそうまく運んでいたようだった。
――爆弾さえ現われなければ、という注釈がつくが。
いろいろ面倒くさい状況になってやがるな、と小五郎は舌打ちをしたくなった。
とりあえず、
「……おい、すまねえが、借りるぞ」
一言断った後、そばで倒れている警官の腰から無線トランシーバーを拝借する。
そわそわとした様子で、びくともしないホールの出入り口扉の前にくると、そちらの方を睨みながら、発信ボタンを押した。
ボタンを押したまま、トランシーバーに話しかける。
「こちら、毛利。緊急事態が発生した。トイレにて爆発物と思われる不審物を発見。繰り返す。トイレにて爆発物と思われる不審物を発見。中森警部らは、今すぐホールの入り口の鍵を開け、至急民間人たちの避難を行われたし。繰り返す。トイレにて爆発物と思われる不審物を発見。中森警部らは、今すぐ民間人の避難を……」
そのまま、繰り返すに数度。
しかし、それでも一向に何の応答もない。
さすがの小五郎も段々と焦りやら怒りやらで取り乱し始め、心のどこかで不審を感じるものの、それに気を取られる間もなく、そのままトランシーバーに怒鳴りつけた。
「おいッ! どうしたッ!? 聞いているのか!! いいから、さっさと入り口を――ッ」
そこで、耳に届いたとある轟音に、小五郎は言葉を紡ごうとしたまま絶句した。
――扉のむこうから、銃声が響き渡っていた。
時刻、午後九時〇〇分のことである。
◆
時は少し遡る。
午後八時三十分。
小五郎がパーティホールから出て行き、そしてトイレで一服をしていた、丁度その頃のことである。
小五郎の一人が抜けた毛利御一行は、パーティホールにてある人物と思わぬ再会を果たしていた。
「あれ?…………お母さんっ!?」
テーブルの奥にあったジュースをコナンの代わりに取り、彼に渡そうと少し屈みこんで、そこでコナンの頭越し、人ごみの向こうに見知ったる自分の母親を見つけた蘭は、思わず大きな声をあげてしまった。
「え?」
配られたワインを片手に、同行してきた秘書と二人で会話に花を咲かせていた妃英理も、その声に振り向いてそこに自分の娘がいることに気がつき、驚く。
(蘭に、コナンくん?……一体、なぜこんなところに……?)
そばの秘書に一言断ると、英理は蘭のもとへと寄っていく。
一方、蘭はといえば、突然大きな声を発したことで恥ずかしそうに周囲へと頭を下げていた。
「まったく。いったい何をしているの?」
英理は苦笑しながらそんな蘭のそばまで寄ると、顔を上げた愛娘と向き合う。
「ひさしぶりね、蘭」
柔らかに話しかける英理に、蘭もまた笑顔で返す。
「うん。一カ月ぶりになるのかな」
そうね、とそれに頷き、そこで英理は蘭の横のコナンにも声をかける。
「コナンくんも。ひさしぶりね」
「うん。ひさしぶり、英理おばさん」
コナンの返答にも笑みを浮かべて頷いて、そして蘭へと向き直ると、英理はようやく疑問を問いかけた。
「それにしても。なんであなたたちがこんなところにいるのよ」
「それはこっちのセリフだよ。お母さんこそ、なんで?」
問いに問いで返す娘に英理は小さく肩をすくめると、ホール前方のステージへ視線を移し、そのまま疑問に答えた。
「あの天使像ね。法手続きは、全部うちの事務所でしてるのよ。私と栗山さんはその関係で招待されたってわけ」
英理につられてステージの天使像を見ていた蘭はそこで視線を戻し、すると英理の肩越しに彼女の秘書である栗山緑と目が合ったので、互いに軽く会釈しあう。
英理もそこで視線を蘭へ戻し、再び問いかけた。
「それで、そっちは? ……まあ、大体予想はつくけれど」
本当に予測できている様子の英理に蘭は小さく苦笑いしながら、今度こそそれに答える。
「ああ、うん。お父さんに、天使像の護衛の依頼がね」
「だと思った。それで? その、肝心のちょび髭探偵はどこにいるの? 姿が見えないようだけれど」
軽く組んでいた腕を入れ替え、さりげなく辺りを見渡しながら問う英理。
それに、「ああ、えっと……」と蘭は答えずらそうに言葉を濁す。
「お父さんは、その……」
「おじさんなら、今はトイレに行ってるよ」
蘭に代わり、仕方がないのでそこでコナンが子供っぽく答えた。
それに英理はコナンを見下ろすように一瞥すると、
「ふうん。ま、どうせ、ただ酒だーとか言って、呑み過ぎたんでしょ。馬鹿なあの人らしいわ」
「あははは……」
小五郎に対しては相変わらずの態度をとる英理に、蘭はただ苦笑を浮かべるしかない。その隣でジュースをちびちびと口に含むコナンも、それは同じだった。
そんな二人の様子を横目に、しかし気にすることなく、英理は別の新しい話題を蘭へと振る。
「そういえば蘭。この前の――」
それはどうも、出来の悪い夫のことは彼が現れるまで忘れることにして、それまでは久しぶりの娘との再会をとことん楽しむ腹づもりであるようだった。
しかし、それでいて、会話のところどころでさりげなく最近の夫のことについても聞こうとしているあたり、この両親はそろって素直じゃないなあと、英理の会話に付き合いながら蘭は改めて思った。
とまあ、そんな案配で、蘭と英理の間に親子水入らずの空間が構築され、そこへ混じれないコナンはその傍でジュースを飲みながら、腕時計とステージ、そして目に映る周囲の人間らをちらちら気にする作業を繰り返すだけの体になった。
その状況はしばらく続く。
状況が展開する変化の兆しが起きたのは、それから約二十分後。怪盗キッドが予告した午後九時までに、残り十分を切ろうとしていたときだった……。
2016/02/15 作中時刻を一部修正
2017/02/07 まえがき・あとがき編集