「――っと。ねえ、ちょっと」
肩を強くゆすられて、そこで小五郎は正気を取り戻した。揺すっていた英理が、その細い眉を寄せてこちらをのぞき込んでいる。人によっては不機嫌そうな顔に見えるらしいのだが、長い付き合いである彼にはそれが、なにかこちらを心配げにうかがっている顔だとすぐにわかった。
呆然とした気分のままに見まわすと、小五郎は店のすみの壁際にて立っていた。
中央を見れば、すでに青い制服の人間が多くたむろしている。担架に乗せられた遺体が、ちょうど運び出されていく。
鑑識と、刑事。警察だ。
自分でも信じがたいことに、あれから警察が到着してもなお、小五郎は今の今までまったくとして意識を呆けさせてしまっていたらしい。
「ねえ、ちょっと。大丈夫なの、あんた」
再度ゆすって、英理がそう問いかけてくる。
「あ、ああ……」
若干に上の空のままで返事をしてから、ハッと我に返って問いただす。
「……どのくらい経ってるか、わかるか?」
質問に質問で返された英理は一瞬だけむっとしたような雰囲気を漏らすも、
「あんたが固まってからなら、だいたい十分と少しってところよ」
軽く息をついて、そう素直に答えた。
その返事を聞いて、小五郎は少しだけ黙る。そうして、ひとつ、本心からの疑いを恐る恐るこぼしてみた。
「……俺は、どうだった?」
「はあ?」
わけが分からないとでも言いたげな語調で聞き返した英理に、(普段の小五郎ならば反射反応して彼も荒い口になりそうなところを、)依然として静かな言葉のままで、再び小さく問いかける。
「……さっきまで、俺はどんな感じだった?」
「だから、なにが聞きたいのか、よくわからないのだけど」
憮然とする英理に、しかし取り合わず、小五郎は先ほどに気が付いたそのときから抱える気がかりな不安を、今度こそ直接に、だが悟られないように気を付けながら問うてみた。
「――寝てたり、しなかったよな……?」
「はあ?」
英理は今度こそ呆れたような声を出して、
「なに、あんた。立ったまま眠るの? 夢遊病?」
その様子に、先の呆然自失は自身が眠っていたわけではないことをようやく確信出来て、小五郎は小さく安堵した。
「い、いや、なんでもない」
詮索したそうな英理にそう言い切って、ふと、目を菓子店中央へと戻す。
そこでは、店内に残っている客を相手に事情聴取をしていたらしい警官が、ちょうど取ったメモを読み上げているところだった。
◆
「――では、まとめるとこういうことですね」
三十代手前ほどの若い警官が、ひとつ息を漏らして言った。
「亡くなったのは、
そしてここが彼の所有する店舗で、しかも開店時の接客中であったことや、遺書の類が見つからないことなどの点から、現在のところ我々、つまり警察は事件性も十分にあるとみています。
さて、もう一度確認いたしましょう。事件当時、店舗にいて、かつ被害者のそばにいた方々は……」
警官は、そこで言葉を止めて一人の女性を見た。
店の白い制服を着た、大学生風の若い女性で、髪は染めて茶色だが、小柄でおとなしそうな顔つきをしている。
「まず、受付の
「きょ、去年の四月からです」
刑事の言葉を継いで、高城と呼ばれた女性が若干におどおどとした様子で答える。彼もそれにうなずくと、
「次に、パティシエの
それに、同じく轟木と呼ばれた男が答える。
「はい。蒲生さんには、修行時代からとてもよくお世話になっていました。一昨年にあの人の念願かなってこのお店が開くことになった際も、再就職に難航していた僕に、わざわざ声をかけてくださって……」
静かな語りで話す男だった。半分うつむき、目を伏せているので、その瞳にどのような色が湛えられているのかは、はた目には推測しかできない。
「再就職?」
ふと、軽くうなずきを返していた刑事が反応した。
「ああ、いえ、その以前に勤めさせていただいていたお店で少し……刑事さんが話せと仰るのなら話しますが、正直、今回の件にはあまり関係がないことかと……」
「いえ、すみません。では、その次は、
「はい」
刑事の言葉に答えたのは、恰幅のよい裕福そうな身なりの女性だった。
「ええと、五十三歳。近所に住む主婦で……今日は買い物をしにいらしていたと」
「ええ」
桂川はそう返すと、オーストリッチの提げ鞄の持ち手を指でもてあそびながら続ける。
「ここのお店のモンブランはとても美味しいと評判でしたので……。今日は私の誕生日なので、ちょうど良いと予約して、受け取りに来ましたら目の前で突然に苦しみだして……」
「ははあ、誕生日ですか。それはお気の毒に」
じゃあ今日で五十四歳になるのかな、などと若い刑事は小さくつぶやいたが、桂川には聞こえなかったようで、彼女は勢いそのままでしゃべり続ける。
「それで私、最初は持病か何かの発作が起きたのかしらと思ったんですが……その後すぐにどうも毒殺らしいということになって……。だから私、警察が到着するまでお店に残ることにしましたの。ほら、ドラマなんかでよくあるでしょう。事件現場から当事者は離れちゃいけないって……私の目の前で倒れたのだし、当事者かなと思いまして……」
と、そこで手帳から刑事が顔を上げる。
「そういえば、そうでしたね」
ぱちぱちと両目を瞬いて、若い警官は話していた人間たちの顔を眺める。
「通報の電話では、毒殺された、と伝えられたそうなんですよね。……失礼ですが、どなたが通報を?」
見回す彼の前で、高城がおずおずと右手を小さく挙げた。
「あの、わ、わたしです……」
反対を見ていた刑事の首がぐるんとそちらに回って、
「では、あなたがそのように判断を?」
「……ひぃうっ」
その一種異様な動作に、高城はびくんと両肩を上げる。しかし刑事はそれに気づかず、話を続けた。
「いえね、別に責めているわけではないのですよ。ただ、素晴らしいご慧眼をお持ちですなあ、というただそれだけの……」
「あの、刑事さん」
見かねた轟木が助け舟を出した。
相変わらず静かな声音で、興奮していた彼を治める。
「僕もその場にいましたから、詳しい事情は知っています。その正確な判断を下したのは、高城さんではありませんよ」
「なに? それでは、もしかしてあなたが?」
おどけながらいて、しかしどこか鋭さを増してゆく刑事の目を見返しながら、轟木は首を振った。
「いえ、僕でもありません。そこの……」
自分に向かい合う刑事の肩口を指さして、
「ほら、壁際に立っている……あの少年ですよ。学ランを着ている、短髪の。……ええ、彼です。ああ、彼もどうも落ち着いたようですね。いえ、倒れた蒲生さんを見分して毒殺だと判断したのは彼なんですが、その後僕たちに救急車と警察を呼べと指示したあとで呆然としてしまって……。ええ、おそらく自分が殺人死体を触ったと遅れて理解してしまったことによるショックかなにかだと……」
静かに語る轟木が指さすその先。
彼の説明を聞きながら、刑事の視線もそちらへと向かう。
英理を横に、刑事たちの事情聴取を完全に他人事の傍観者のごとき気分で眺めていた小五郎は、刑事の通報の話のあたりでいやな予感を感じて、そして轟木の指先が案の定に自身のほうを指したところで、それが最高潮になった。
「……ねえ、あの人こっちを指さしてない? あれ、刑事さんがこっちに来る……」
話を聞いたのだろう刑事が向かってきた辺りで、小五郎は過ぎたことは仕方ない……と、苦し紛れに思うことにした。
◆
「ははあ、帝丹中学三年生……。学校帰りに寄ったわけか」
「はい」
刑事にうなずく小五郎の横では、英理が物凄い目つきで彼を凝視している。視線が物理的な圧迫感を伴っているかのような気分を小五郎は感じていた。
というのも、英理は「悲鳴を聞いて駆けて行った小五郎が、死体の前で呆然としていた」ことは知っていたが、その彼が「救急車を呼べ!」はともかくとして、まさか「毒殺だから警察も呼べ」などとも叫んでいたとはまったく知らなかったのである。
しかも、だ。
「それで、なんで……ええと」
「毛利です。毛利小五郎」
固い表情で静かに答える小五郎に、刑事がうなずくと尋ねる。
「そう、毛利君。君はなぜ蒲生さんが毒殺だと……?」
「駆け寄った遺体の口元から、酸っぱい独特の……アーモンドにも似た臭いが漂ってきたからです。脈もなく、死亡していることは明らかでしたが、喉を掻きむしりながら苦悶した死に顔と、口元から漂うあの独特の臭いから、おそらくは青酸系の毒物が胃液と化合した青酸ガスの臭いで……そしてそれによる窒息死なのではないかと。……そしてまさかこんな場所、こんな状況で自殺する人は滅多にいませんから他殺事件なのではないかと……」
「ははあ、なるほどねえ。しかし、よく知ってたね」
感心するような素振りをする刑事に、「以前になにかの本で読んだだけだったんですが、間違った判断ではなかったようで良かったです」と返す小五郎。
そんな彼を見て、英理は思う。誰だこいつ。
青酸カリウムなぞという毒物とその症状について流暢な説明をする小五郎も、そのようなことについて言及するような本を読んでいる小五郎も、……英理はこれまで一度も見たことがなかった。
数日前の、彼が珍しく体調を崩したあの朝。あの後から、どうにも若干の余所余所しさに近い、妙にこちらをうかがうかのような空気が小五郎から漏れるようになった。
それでいて、なにか悩んでいるようで、突然に人が変わったようにここのところをおとなしくしている。親友の瑠璃はそんな彼を「思春期なんだし、よくあることじゃないかな」などと言っていたが、しかし英理は思春期なぞという軽い言葉では納得できなかった。そんな常識的な言葉では表せられないような事情があるのではないかと疑っていた。
なによりも、今まで半身に近い距離感にあったと思っていたはずの幼馴染が、突然に自分の関知しないところで変貌して、そして自身に対して余所余所しい空気を持つようになった……ということが、なぜだか無性に気に食わなかった。
腹が立ったので、ここ数日は英理自身も小五郎に倣うようにして彼に対して対応を素っ気なくしてみたが、すると期待に反して彼もまたそれまで以上に素っ気ない対応になり始めた。
物心がついたころからの付き合いで、その今迄までは、英理が反発すれば決まって小五郎も反発し返してきたし、その反対のほうが多かったが、そのどれも「相手にちょっかいをかける」系統であって、今回のように「他人行儀になる」ことは初めての経験だった。
(もしかしてこのまま関係が薄れていって、幼馴染も終わってしまうのでは……)
ここ数日の間にどんどんと別人のようになっていく小五郎が、なんだか手の届かない遠くへ行ってしまうかのように見えて、英理はひとり小さく不安を覚える。
中学生の終わりという、一部の友人らとの別れの時期が近いこともあり、英理は鋭い表情の下で静かに不安げに揺れていた。
「――まあ、遺体に触ったわけだし、君も当事者ということになるね。悪いけど指紋も採りたいし、ちょっとこっちについてきてくれるかな」
「わかりました」
ふと気づくと、あらかたの事情を話し終わった小五郎が、刑事に連れられて先ほどの事情聴取の輪の中に戻ろうとしていた。
英理も慌ててそれについてゆく。
「さて、思わぬ形で聴取者が増えましたが、続き行きましょうか。お待たせしましたね、ええと次は……」
刑事が言いよどみ、手帳をめくる。と、そこで声を張り上げる者がいた。
「次は自分です。部長刑事殿!」
刑事と、そして小五郎と英理もそちらを向く。
先ほどに聴取されていた店員や客と共に、一人の青年が立っていた。がっしりとした体格に、熱意に溢れている表情をしている。
「
聞き、若い刑事もああ、とうなずく。
「そうそう、最後は君だったね。お仲間さんだ……さて、とは言いつつも甘く見はしないよ。なんだって君が購入した順番は桂川さんの前。つまり被害者が倒れる直前に接触した購入者が君ってことだからね」
「重々わかっております!」
敬礼をする目暮という青年に、英理は「5歳しか違わないのに、もう働いているのか」と軽く驚いた。20歳といえば、まだ大学生の年齢である。……ということは、彼は高卒で警官になったわけなのか。
そんなことを思ってふと横を見れば、小五郎も驚いている様子だった。
……が、なんだか驚き方が尋常ではなかった。
目を見開いて、口が音を発さないまま魚のようにパクパクと開閉している。
(もしかして、あの目暮ってお巡りさんと知り合いなのかしら……?)
自分の知らない小五郎が、また一つ現れた。
そのことに、英理は再び不安を覚える。
「さあ、事件当時の状況についてもう一度確認してみましょう!」
様々な人間の様々な思いが錯綜するなか、そんなことなど知らぬかのような朗らかさで、若い刑事がそう言った。