小五郎が過去の世界で目を覚ましてから、はや三日が経った。
1989年2月4日、土曜日。
まだこのころは週5日制が施行されていないので、いわゆる半ドンの日である。
数日前までは自由業が生活サイクルであった小五郎も、今では一中学生としてもれなく土曜午前を学校に費やした。
昼を告げる放送がかかり、退屈な授業が終了する。とたんに教室のそこらかしこから気の抜けたような声と喜悦の声が上がる。
学校が終わった。ここから先は、休日の時間だ。
「じゃあな、毛利」
声をかけるクラスメイトに返事を返して、小五郎は先ほどまで使っていた教科書を鞄へとしまう。
そうして座ったまま背を伸ばし、息を吐いた。
中学校に再び通い始めて、今日で三日目となる。
当初はどうなることかと思った学校生活だが、思っていたほど苦難の連続ばかりというわけでもなかった。
薄れていた勉学の記憶もだいぶよみがえりはじめているし、周囲との関係もとくにこじれることはなかった。英理と瑠璃のただ二人からは変貌を薄々と察知されてはいるものの、ほかクラスメイト達のなかに小五郎を訝しがる風潮はとくに見られない。
なんだかんだで、今のところはうまくやれている、といってよかった。
「小五郎ちゃん、さ、帰ろう」
立ち上がった小五郎のそばに、そう言って瑠璃が寄る。その後ろには英理も追従していた。
ここのところ――というよりも、記憶のなかの学生時代から、学校帰りはこの三人組となることが多かった。
英理は小五郎の家と隣同士で生まれたころから知っているし、瑠璃は英理を通して、小学校のころからの付き合いである。自然、家も近い三人は登下校などの際は固まることが多くなる。
小五郎はちらりと英理を見た。
小五郎が目を覚ました翌日から、彼女の様子は少しだけおとなしい。以前はもっと噛みついてきた印象なのだが、それがなく、ことあるごとに小五郎のほうをうかがうようにのぞき見ている。
――やはり、彼女には訝しがられている。
そのように感じるも、この点に関してはどうしようもない。
彼女が感じているだろう何らかの疑問、それの原因と事情は彼女にだけは伝えられない。伝えて、もしも拒絶などされようものならば、小五郎は自身がどうなってしまうか見当もつかなかった。
なので、小五郎の様子をうかがう英理に対し、小五郎もまた自然と手探りの対応となり、二人はここ三日ほど、互いに少しだけそっけなくなりがちとなっていた。
……対して、それに反比例するように小五郎へと若干に距離が近づいてきたのが瑠璃である。
なぜなのかは小五郎にはわからなかったが、今の彼女は記憶でのそれよりも小五郎に話しかけることが多い気がした。
記憶のなかの「辿った過去」では、中学校も後ろとなると、卒業前の頃から瑠璃は少しずつ小五郎と距離を取り始めていた印象があったのだが……今回はそれが見られない。
英理と同様に小五郎の変化にいち早く気づき、そして悩む彼に「自分は自分」であることに変わりはない、という真理を気づかせた存在。
英理と並ぶ付き合いの古さであることもあって、大切な友人である。
以前に距離を取ろうとしたことも、現在に距離を縮めたことも、どちらも一体どのような心境の変化なのかは小五郎には依然としてわからなかったが、しかし友人なのだ、疎遠となるよりはマシだろうとたいして気にはしていなかった。
先日に彼女から貰った助言、それにより、「自分が自分を殺してしまったかもしれぬ」懸念と、「英理に事情を隠すこと」自体に対する罪悪感はそれぞれだいぶ薄れ、小五郎のメンタルは間違いなく改善したのだ。
その恩義染みた経緯もあって、小五郎自身もまた、瑠璃に対して以前よりも親し気な対応になっていた感触も少なからずあった。
そんな態度が、英理の不審がる気持ちを助長させていることについては、彼は気づいていない。
とまあ、そんなこんなでこの数日を過ごしている小五郎であったが、今日に限っては別に予定があった。
「わりィ、このあとちょっと……」
言って断ると、残念そうな声を上げる瑠璃と片眉を上げる英理、二人の返事を待たずにそのままそそくさと教室を飛び出した。
廊下を抜け、下駄箱で履き替え、学生鞄を脇に抱えた学ランの恰好のまま、彼は家とは逆の方向へと駆け出した。
◆
小五郎がこの過去の世界で目覚めた日は、2月1日の水曜日である。そこから木曜日に学校へと登校し、金曜日を挟んで、本日が土曜日であった。
これはつまり、目覚めてからこちら、一日の大半は学校で潰れていたということで、今日が初めての「まとまった自由時間」なのだ。
この三日間、小五郎は自身の家と学校と、その間の通学路しか見ていない。この過去の世界のほかの場所については、いまだ確かめていなかったのだ。
つまるところ今日の予定、用事とは、過去の世界の見物である。
帝丹中学から離れることしばらく。
小五郎は、とある建物の前にいた。三階建ての小ビルで、二三階は現在空室、一階は布で覆われ改装工事の途中であった。
小五郎の親が所有し、そして未来、彼が探偵事務所を開くことになる場所だった。
「そうか、ポアロはまだ入っていないのか……」
工事の音が漏れる一階を眺めて、彼はそうこぼす。
かつて刑事を辞職した際に親から譲られるまで、その存在すら知らなかった建物なので、小五郎が探偵事務所を開く以前に入っていたテナントや、ポアロがいつ頃から開いていたかなどについては、彼はまったくと言っていいほど無知だった。
過去の世界をめぐるにあたり、ひとまずの足を向けた場所だったが、このように知らなかった事実を知るということは、どことなく楽しい。
英理との関係がぎくしゃくとしていたなか、久しぶりに楽しみを得られた気分だった。
「工事終了は来月か……開店したら、来てみよう」
掲示を見て、小さくつぶやいてから歩き出す。
次に訪れた場所は帝丹高校。かつて卒業した学校で、今年の春からは自身が再び通学することになる場所だ。
その後も馴染みの場所をめぐってゆくが、それらはやがて居酒屋やバー、パチンコ屋などとアダルティな方面へと偏ってゆく。
ある店の前で、小五郎は足を止めて看板を見つめる。
その胸中とは。
(……ビール飲みてえ)
キンキンに冷えた生を、ジョッキで一杯……。そんな夢想をして喉を鳴らすも、昼間なので店はまだ開いていない。
どころか、彼は現在は未成年であるし、そのうえで中学校の制服を着ているので入店すら断られるだろう。
「はあ……」
ため息を一つこぼして、歩みだす。
と、今度はそこである自販機が目に入る。
道路のはし、電柱の横で佇むそれが販売しているものは……煙草。
白や青や緑、赤。色とりどりの包装が、機械の窓の向こうに飾られている。
ここでも小五郎は、その喉を鳴らす。
(……吸いてえ)
浮かんだ言葉を慌てて追い出す。首を振り振り、自販機の前を通り過ぎた。
つい数日前までは一日に一箱は軽く吸っていたヘビースモーカーの小五郎であるが、身体自体はニコチンに依存しない健常な少年時代のものであるためか、誘惑は習慣的・精神的なものに留まっていて、我慢できないほどではない。
いわゆる不良やツッパリなどと呼ばれる輩ならば中高生でも吸ってはいるが、先日まで一人の父親であった小五郎としてはあまり親不幸をするつもりもなかった。
「さて、次はと」
気を取り直して、散策をつづける。
時刻は午後三時を過ぎようとしていた。昼食は当初はポアロを目当てにしていたが、店がなかったため、その後で道中にあったコロンボのほうで済ませていた。
馴染みの飯屋として頭に浮かぶものには、ほかに「死ぬほど美味い ラーメン小倉」(移転後は「マジで死ぬほどヤバイ ラーメン小倉」)があったが、あれは2012年当時でたしか開業後20年だった。
23年前の現在ではまだ店は出ていない。事実として、杯戸商店街にも立ち寄ってみたが、それらしき店はなかった。
3年後あたりに開店した際には、是非もう一度あのラーメンを食べてみたいものである。
そんなこんなで昔の景色を楽しみながら歩いていると、やがて小五郎は駅前の大通りへとたどり出た。
道路は太く四車線で、駅前広場には行き交う人が雑多に溢れ、周囲には様々な店や商ビルが並んでいる。
歩道脇に続く背高な並木は、クリスマスシーズンになるとイルミネーションとして飾り付けられていた覚えがある。
駅を背に、家路へ向かって大通りを歩いてゆく。
そのときだった。
「あら、小五郎くんじゃない」
横手からかかった声に、驚いて振り向くと、そこにはにこやかに片手を振る女性。
一瞬だけ記憶を探るも、すぐに思い出す。
「妃さん……」
実家の隣の家の奥さん。つまり、英理の母親であった。記憶の中の「辿った過去」においては、小五郎の義理の母親にあたる女性である。
「どうしたの、ひとりで」
寄っていく小五郎に、彼女は朗らかに語りかける。
「ああ、いえ。少し散歩を……」
片手で頭の後ろをかきながら、あいまいに笑う。ふと視線を下げると、彼女の手にある紙袋が目に入る。
「これ? ここのお店のモンブランよ。とても美味しくて評判でね。予約していたのを受け取りに来たの」
言って彼女は背にしていた店を掌で示す。どうもその店から出たところで、目の前を小五郎が通りがかったようである。
「へえ、そうなんですか」
うなずいて小五郎も店を見る。黒を基調としたシックな色合いで固めた店で、筆記体の店名が白と黄色で装飾されていた。
と、ここで妃夫人と小五郎が見やる菓子店、その隣の店先にて自動ドアが開く。
「お母さん、お待たせ――」
そう言いかけて、出てきた少女は息をのんだ。
小五郎もまた現れた姿に硬直する。
「英理、お目当ての本は――あら、どうかしたの二人して」
妃夫人が戸惑ったように声を上げる。
彼女が買い物をした菓子店の隣は大きな書店となっていて。そこから出てきた少女こそ、彼女の娘にして小五郎の幼馴染、妃英理その人だった。
「――別に、たいしたことじゃないよ。ほら、お母さんの欲しがってたレシピ本もついでに買っておいたわ」
いち早く再起動した英理が、大型本の入った紙の包みを見せる。そして母親の隣へと視線を移し、
「それより、どうしてここにそいつが……」
「こら、『そいつ』じゃなくて小五郎くんでしょ」
言う母親に、少しだけ首を縮めると、英理はしぶしぶ言いなおす。
「……小五郎がなんでここにいるのよ」
「散歩だそうよ」
そして聞くと、
「……ふうん、散歩ね」
含みのある言い方でつぶやいた。
「ははは……」
薄く笑いながら、小五郎はどうにかしてこの場を去ろうと考える。瑠璃の言葉によって妄想染みた懸念と一方的な罪悪感は薄れたものの、ここ10年ほど喧嘩していた認識の上で、そして疑念を覚えているらしき「過去の英理」に対しては、小五郎はやはり居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
私服に着替え紙袋を抱えた英理と、学ランのままの小五郎と、そして主婦。店先で屯するこの組み合わせも、少しばかり人目につく。
小五郎が、そろそろ離れようと何か言葉を発そうとしたその時だった。
「きゃああああああああっ!!」
突如、悲鳴が響いた。
つんざくような女の声に、その一瞬の間だけ辺りから音が消える。一転してざわめき。
そして。
気が付いたとき、小五郎は駆け出していた。
広がってゆくざわめきを背に、悲鳴の聞こえた菓子店のなかへと駆け込み、状況を知る。
驚き浮足立つ店内。客。
そしてカウンターにて倒れ込むようにして崩れる一人の男。パティシエ。
「蒲生さん!? 蒲生さん!?」
若い男女がカウンターの向こうで、倒れ伏す男を両側からゆすっている。
その周りの他の店員も、客も、皆なにが起こっているのか戸惑うばかりで生産的な行動を取ることができている人間は一人もいなかった。
「救急車を!!」
叫び、小五郎は伏す男のもとへと駆け寄る。
「え?」
おうむ返しに問う呆けた店員に、小五郎は再度怒鳴った。
「電話だ!! 救急車を! 早く!!」
「は、はいぃ!」
大学生ほどだろう店員は、慌てて踵を返すと、カウンター奥にある電話に飛んでゆく。
それを横目に、小五郎は男に呼びかけながら上体を起こし――
苦痛に染まった死人の表情と、白目を剥いた瞳。口元から漂う独特なアーモンド臭に、その眉をひそめた。
急いで脈を測り、そして爪や唇の状態も見やる。
「……警察もだ」
つぶやく。
「ちょ、ちょっと君、さっきから何を……」
肩にかけられた大人の手を払い、小五郎は
「警察も呼ぶんだ!! これは毒殺だ!!」
そして叫んだのちで、ふと我に返る。
己の周囲には、おののくような表情の人間が並んでいる。そのほとんどが大人で、学生もいるが、中学生以下はおそらく自分一人で。
――そう、今の自分はただの子供で……。
刑事や探偵として長くあり続けた経験が、小五郎の初動を決定させたが、そんなこと、
しかし。
先ほどまでの小五郎は、なんの躊躇も違和感もなく
(俺は……)
途端に、ずきりと胸の奥底でなにかが痛む。
(違うんだ……)
心のなかで一人、誰かに向かって何かを訴える。
(俺はもう、探偵じゃねえんだから……だから、違うんだ)
トラウマ染みたかつての痛み、苦しみ。そして闇。
死んで、過去に戻り、異常な現状を割り切って、英理とのあれそれにかまけて忘れ去ろうと、考えぬようにしようとしていたものが、胸の奥底に封印したつもりであった闇が、鎖を引きちぎって姿を現そうとする。
(死んだから、だからもう、俺は解放されたはずなんだ……!!)
(もう、眠りの小五郎じゃねえんだ……!!)
なのに。
なぜ己は今、再び。自ら事件現場へと飛び込んでいるのだろう。
複雑に絡み合い、混沌とした想いが小五郎の脳内を蹂躙した。
意識の外、遠く向こうで救急車とパトカーのサイレンが聞こえる。
死体を前にして大人たちに囲まれたまま、小五郎は呆然と立ち尽くしてしまった。
――ただ、彼は一つだけ、あることを忘れていた。
生前の彼が、意識の外で知らず活躍する名探偵「眠りの小五郎」に恐怖していたことは事実である。
だが、炎に巻かれて死んだあの夜。それでも彼はたしかに、最期にあることを願っていたはずだった。
――今度こそは、本物の名探偵に。
あの夜に、彼は、たしかにそう願っていたはずだった。
彼がその想いを思い出すまで、あと――。
未熟な作者の筆力不足により、ちょっとどころではなくおっちゃんの心理描写の軌跡あたりが稚拙極まりないことは自覚しております。
もっとわかりやすくなるように、のちのちで修正を入れるか、補完的な脚注を活動報告あたりに載せるかさせていただきます。
が、今のところはとりあえず現状を晒させていただきます。ご容赦ください。