艦隊これくしょん―軽快な鏑矢― 作:オーバードライヴ/ドクタークレフ
演習編は今しばらくお待ちください。
皆様体調を崩されない様にどうぞお気をつけください、な今回です。
それでは、抜錨!
「うー……」
まさかこんなことになるとは、というのが今の龍鳳の正しい感想だった。
国連海軍極東方面隊横須賀鎮守府義体制御研究室第三分室。
漢字だらけでなにがなんだかわからないが龍鳳はそこに“隔離”されていた。
「なんで艦娘がインフルエンザになんてかかるんですか……自己免疫システムは正常だったはずなのにぃ……」
重い頭をいつもと違う羽毛の枕に抑えつけながら龍鳳はそう呻いた。だめだ、完全に熱でやられている。
「なんでこういうのは
もちろん説明されて頭に入っているのだが思い出すのも億劫だ。高速修剤は対症療法であり傷んだ部分の修復は可能だが、原因となっているウィルスを殺傷して回復させることはできないなんてことを聞いても何の改善もしないのである。そしてインフルエンザ菌を保持している以上、高速修復剤で回復してもすぐに症状がぶり返すため意味がない。まぁ原因菌をもっていて、なおかつ周りにたくさんの人がいるところで仕事をしているので、隔離措置になるのは当然と言えた。
「でもなぁ……」
元々龍鳳は周りから世話焼きと言われる性質である。だからこそ、ベッドでひとり横になってというのは実は向いてなかったりする。できることと言えば、窓の外の冷たい雨粒を数えるくらいのものだろう。それは少しもの悲しい気もする。
「でも、たまにはゆっくりするのもいい、のかなぁ……」
少しもったいない気もしていたが、熱でうなされている頭は起きていることを許してくれなかった。ゆっくりと夢幻の中に落ちていったのである。
――――――敵機直上、急降下。慌てて転舵。間に合わな……!
「――――――!」
「大丈夫かい?」
誰かの声で一瞬夢か現かわからなくなった。夢にも出てきた声だったからだ。
「……時雨ちゃん?」
「うん、龍鳳が倒れたって聞いてお見舞いに来たよ」
時雨が朴訥とした喋り方でそういう。その頃になって龍鳳は自分がインフルエンザで隔離中だったことを思い出す。
「えっと……」
「大丈夫、お医者さんの許可はもらってるし、抗体検査を受けたら大丈夫だったみたいだから」
「そう……なんだ」
時雨は小さく笑って「何か食べられそうかい? リンゴでも切ろうか?」と言った。わずかに頷くと時雨が笑った。横の棚を開くとミニ冷蔵庫が入っていて(龍鳳はそこにそんなものがあるなんて知らなかったのだが)、そこから真っ赤なリンゴを取り出した。
時雨はスカートのポケットからコンパクトな赤いフォールディングナイフを取り出すと、ブレードを濡らした清潔なふきんで拭った。ナイフをリンゴにあててゆっくりと皮をむいていく。料理慣れている手つきではなかったが、安全にしっかりと剥いていく様は刃物の扱いになれていることが見て取れる。
それをぼうっとみていると時雨が笑った。
「……龍鳳みたいに上手くはできないけどさ」
「そんなことないよ」
それだけで会話が終わるでも、居づらい感覚は無かった。雨が落ちる澄んだ音が部屋に響く。
「はい、どうぞ。うさぎ切りなんて初めてやったよ」
「いただきます。でも……これ食べるのもったいないような気もするね……」
「早くしないと色変わっちゃうよ」
「……それもそうかな」
それじゃ、いただくね。と言って龍鳳が小さくリンゴを口にした。さわやかな甘みにほうとため息が出る。果汁が身に沁みる。ナイフの先端をつかってつぶらな瞳まで描いたうさぎだから食べるのももったいない気がしたが、やはり食べると食べてよかったと思う。
「……龍鳳は、さ」
「はい?」
リンゴを齧っていると時雨が口を開いた。
「雪風と同じ食べ方するんだね」
「雪風ちゃんと……ですか?」
「一口一口が小さくて、でも食べるペースが早い……食べ方そっくりだよ」
「そうかなぁ……」
言われてみればそうかもしれないなと思いながら小さくなったリンゴをまとめて口に放り込んだ。少し襟元を引っ張っると背中が少し冷えてることに気がつく。汗が少し冷えてきたらしい。
「着替えた方がいいかもしれないね。うん。待ってて、着替え、もらってくるよ」
時雨がそう言うとゆっくりと部屋を出ていく。それを見送って小さくため息をついた。窓の方に目線を振れば外はやはり暗い。スリッパに足を差し込むとベッドから抜け出して、窓際の方に寄ってみる。窓から見える中庭には冬ごもりを決め込んだつぼみを抱えた木が見える、よく手入れされた芝もどこか寒そうだ。コンクリート製の殺風景な建物で跳ねた雨粒が白く光る。
「――――――龍鳳も雨は好きかい?」
後ろから声がかけられた。時雨だ。紙袋手首にかけ、お湯が張られた洗面器を両手に持っている。彼女は桶を置くと紙袋から病院着のような服とクリーニングを掛けてもらっていたいつもの濃い桜色の制服を取り出した。
「雨は……少しきらいかも。艦載機を飛ばすのが少し難しくなるから」
「そっか。ほら、汗を拭いたほうがいいよ」
「……うん」
ベッドに腰を掛けて、前合わせのリボンをほどいた。衣擦れの音が雨の音に混じって響く。タオルを絞る水音がそれに乗る。
「背中は僕が拭くよ」
「それじゃぁ……お願いしようかな?」
「任せて」
服の下が蒸れていたのだろう。部屋の空気に触れて背中が妙に冷たくなった。
「……そういえばさっき、龍鳳『も』雨が好きかってことは、時雨ちゃんは雨が好きなの?」
「うん。好きだよ。嫌いじゃない。……名前のせいもあるかもしれないけど」
時雨は確か初冬の季語だったか。通り雨という意味だったはずと思いだしていると背中に仄暖かいタオルが触れた、驚いてピクリと背中を揺らすと、時雨の焦ったような声が降ってきた。
「ご、ごめん。冷たかった?」
「ううん。大丈夫……」
そう言ってわずかに微笑んだ。
「話戻すけど……時雨ちゃんはどうして雨が好き?」
「そうだね……実はあんまり考えたことなかったかもしれない」
背中の汗をぬぐいながら時雨は少し悩むように間をあけた。
「雨の音が、好きなのかもしれないね。うん」
「音?」
「無の音っていうの……かな? 風鈴の音が風の存在を示すように、雨の音もまた何かを示す気がする……自分でも何を言っているのかわからないや」
時雨の小さな手……小柄な彼女の手が背中に触れる、暖かな血の通った手だった。
「僕の“しぐれ”って名前……詩歌で使うと移ろいゆくものとか世の定めなさとかを読むときに使うんだ。世にふるもさらに時雨の宿りかな……みたいな感じ」
肩から背中へとその手が下りていく。
「止まない雨はない、降っては止んでを繰り返すけど、きっといつか晴れる……雨が降る音はそう言うのを教えてくれる気がする。初時雨は冬の到来を告げるけど、冬が終われば春がくるでしょ?」
「……時雨ちゃんらしいなぁ」
「え?」
「昔のこと、覚えてる?……マリアナのこと」
時雨の手が止まった。
「……うん。覚えてるよ。忘れたりしないよ」
「あの時の時雨ちゃんを見て、私はかっこいいなぁって思った……レーダーの怖さを知って、それでもみんなを守ろうと奮闘して……その時私は危うく沈みかけたし、何やってるんだろうって思ったことはたくさんあった」
そっと背中から手が離れた。
「……でも龍鳳は誰も死傷者を出さなかった。みんなを守り切ったんだよ」
「うん、それだけが救いだったんだ。艦載機のみんなもほとんど帰ってこなかった。飛鷹さんがいなくなって、隼鷹さんも大破して……それでも戦死者を出さなかった。それだけは誇れると思うよ。でもね、もっとしっかりしてれば守れるものもあったかもしれないって思うし、この体を得てからは何度もあの時の夢を見るんだ」
そう言って笑って……笑ったことが自分自身でも寂しかった。
「もっと雷撃に注意していたら、もっと対空砲火をうまく使えたら、急降下爆撃以外にももっと注意していたら……。一人でいるとそんなことばかり思い出す……!」
時雨がそっと後ろから抱きしめた。彼女の汗ばんだ背は小さく震えていた。
「私は……やっぱり雨は嫌いかもしれない。無の音が私の
晒された白い背中に覆いかぶさるように時雨がぴったりと抱きついた。そっと目を閉じる。
「……雨は、いつか止むさ。明けない夜は無いように、止まない雨もない。暮れない昼も永遠の晴れ間もないけれど、終わらないものは、ないんだよ」
ゆっくりとその背中を抱いて、時雨はゆっくりと体重を預ける。ゆっくりとリズムを刻むように体がしなり、また戻る。波のリズムにも似て、幼子をあやすリズムにも似て、龍鳳にその波を届けようと時雨はゆっくりと口を開いた。
「大丈夫、僕がついてるから、また前みたいに守るから」
「時雨ちゃん……」
「使ってくれてるんでしょ、僕のネクタイ」
時雨が小さく目を開けると棚に置かれた龍鳳の制服が目に入る、セーラーと和服を合わせたような独特な制服、緋色に白い線が入った天鵞絨のネクタイは時雨のそれとお揃いのものだ。それも当然、元は時雨が使っていたものを以前龍鳳に渡したものだからだ。
「佐世保の時雨と言われた幸運艦、周りのみんなが僕のものを借りて幸運に預かろうとすることはよくあるんだ。でも、ネクタイを渡したのは、龍鳳だけだよ?」
「時雨ちゃん……?」
「大丈夫さ。僕がついてる。龍鳳はひとりじゃないさ。……ちょっと気障だったかな?」
「……似合うような、似合わないような」
「そう言うのは似合わないでいいんだよ。……ほら、冷えちゃうから続けるよ」
少しだけ背中を擦ってからお湯で絞り直し、龍鳳に手渡した。
「もう、大丈夫?」
「はい、もう大丈夫です」
「そっか、なら良かった」
小さく笑いあって時間が過ぎる。雨音が少し軽くなった気がした。
……と、ここで終わればそれはそれでハッピーエンドなのだが、これにはもう少しだけ続きがある。
「まさか僕が倒れるとはね……」
国連海軍極東方面隊横須賀鎮守府義体制御研究室第三分室。
漢字だらけでなにがなんだかわからないが時雨はそこに“隔離”されていた。夜の雨がしとしとと降っているのを見ながら時雨は熱で重くなった頭を枕に預けていた。
「時雨ちゃん? 大丈夫?」
消灯時間前に影が一つ部屋に入ってくる。
「龍鳳? 来ちゃだめ……ってあぁ、同じインフルエンザだったからもう抗体持ってるんだね」
「そういうこと。しばらく私も出撃ないみたいだし、お世話役でいてもいいって月刀大佐がおっしゃって」
「あぁ……
「うん、その用意で艤装に大改修が入るからしばらく出撃無理だって」
そう言ったタイミングで消灯のチャイムが鳴った。室内灯がふっと消える。時雨が手を伸ばしてベッドのライトをつけた。
「そっか、おめでとう」
「ありがとう。……そういえば時雨ちゃんには声かかってないの?」
「異動の話はあったみたいだけど、横須賀をからっぽにする気かってことで僕のところの提督が断ったらしい」
「それもそっか、時雨ちゃんは優秀だからだれも手放そうとはしないだろうしね」
「そんなことないよ、僕の力なんて些細なものさ、ちょっとの運と提督のおかげさ」
時雨がそう言うとゆっくりと目を閉じた。
「もしかしてずっといるの?」
「邪魔?」
「ううん、嬉しいけど……無理はしないでね」
「大丈夫。……電気消そうか?」
「うん」
部屋の明るさが一気に落ちる。窓枠で切り取られた四角いあかりが部屋に落ち、月が出ていることを知る。
「――――――降る度に月を研ぎ出すしぐれかな」
小さく呟いて、龍鳳はその月を眺め、寝息を立て始めた少女に微笑みかけた。
「ありがとね、時雨ちゃん」
龍鳳の胸元のネクタイが月光に輝いた。
これを書くにあたって時雨を久々に秘書官にしてみました。……思っていた以上に声が幼い? とか思いながらつつきまわしてました。かわいいなぁおい。
途中に出てきた俳句は実際に存在するものです。世にふるも~の句は飯尾宗祇の句で室町時代に詠まれたもので、降る度に~は小西来山の句で江戸時代のものです。俳句は詳しくないので変な引用してたら笑って流してください。
感想・意見・要望はお気軽にどうぞ。
次回こそ演習編に戻りたい……!
それでは次回お会いしましょう。