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本日、快晴ナリ。
『暇だな』
見渡す限り青が埋め尽くし、空も海も、視界を遮るものが一切ない。空には雲さえなく、燦々と陽射しが海上を照り付けていた。陽光を反射し煌めくさざ波が静かに動き、レ級の心を落ち着かせる。
この空間が、この世界が何よりも好きだった。
つい、昨日までは。
『しりとりでもするか?』
背後から声が聞こえる。レ級以外存在しないはずの場所で、確かに声がする。
見渡してもレ級一人、見振り返ってもレ級一人。
正しい認識。正しい確認。
レ級は一人だったが、独りではなかった。
『知っているか、しりとり』
「……ウルサイ」
自身の尾、深海棲艦の駆逐艦を思わせる【顔】を貼り付けた自身の尾が、喧しく話し掛けてきた。
「ダマレ、チギルゾ」
『存外怖いことを言うな』
「ナラ、シャベルナ」
煩わしく喧しい。
レ級は一人でいたかった。孤独でありたかった。だからこそ、この海域から出ることはなく、大人しく空を見上げ、海を見つめている。ただただ、それだけで良かった。
青や白、灰色や茜色、藍色に黒色へと変化する空は美しく、陽が昇る空は輝かんばかりに眩しい。ぽかぽかと暖かな陽気に身を任せることもあれば、激しい雷雨に身体が撃ち抜かれるのも楽しかった。雨粒が身体に当たり跳ねる度、海面に叩きつけられ雨音を出す度に、レ級の為だけに作られた音楽のように思えた。レ級自身、音楽という感覚、知識は持ち合わせていなかったが、音色を嗜む程度には、心があった。
また海も、空に合わせて景色を変えるのが面白かった。
今のように穏やかな波もあれば、灰色の空と合わさり激しく高い波を作り出すこともある。緩急をつけ、揺れ動く自身が楽しく、公園で遊ぶ子供のような気持ちだった。
レ級にとって、何もなく寂しささえ感じるこの海原の景色は、一枚の絵画に匹敵する、それ以上の代物なのだ。
美術館で巡り歩くように、静かに楽しみ嗜む空間。
そこに、突然招かれざる客が現れたのだ。
昨日の段、話し掛けてきた尾を見て呆気にとられはしたレ級だったが、次なる行動は素早かった。次に続く、次への選択は最速だった。
上半身を捻り、思いっきり拳を振りかぶり、放つ。
空気を裂く音が、空間を叩き捻じ曲げる甲高い音が響くほどの威力。
人の生身であれば木端微塵になるのではないかと想像してしまうほど、それは速さと強さを兼ね備えた一撃。
しかし、相手は少しばかり、大分のかなり事情が違った。
尾なのだ、自分の。お尻辺りから生える尾。
腰の付け根とも言える場所に繋がっている尾は、レ級が振り向き振り被り振り抜くのと連動し、連鎖し、レ級の拳の先から姿を消した。
「!?」
『バカたれ、俺はお前だ』
またもや背後から、尾から声がする。けれど、レ級の動作は止まらない。
戦闘に関して、レ級は純粋に強い。相手が誰であろうと関係なく、天賦の才と言っていいセンスを持ち合わせていた。だがまぁ、この時に関しては、レ級の行動を表現するのにその言い方は不適切だろう。強いてあげるなら、次への判断力と行動力、躊躇ないのなさが関係しているかもしれない。
レ級が次に取った行動は、例え戦闘のセンスや才能がなくとも、誰でも思いつくモノだった。
つまりは、相手を掴む、単純な選択。
例えレ級の動きと連動して相手も動くのならば、まったく同じ体ではなく、尾という特異部分にいるのだから、拘束してしまえばいいだけの話だ。
自らの尾、付け根を捕え、そのままスルスルと駆逐艦の顔まで辿り掴み、捕獲した。
標的を、排除すべき対象を見定めた。
『おいちょっと待っ』
発言の途中、レ級は意に介さずぶち込む。
――― 海が割れ、
空気を裂く、
レ級の一撃を ―――
狙い通り、渾身の左ストレートが駆逐艦の顔面……でいいのか解らないが、正面を捉え抜いた。打ち抜いた。
『ごっ!?』
並の深海棲艦だったら貫くような一撃を喰らい、声を漏らす尾。
と、同時に、
「―――――ッッッ!?!?」
レ級にも、今まで感じたことがない痛みが全身を貫いた。
当然だ、当たり前だ。自分自身を殴ったのだから、因果など関係ない事象の節理だ。
『バ、ガッ――バガだれがっ!!』
刹那、尾が怒声と共に頭突きをする。くわんくわん、と頭の中で鐘が鳴り響く二匹。痛い、どちらも痛い。
『己に牙を向ける奴がいるかっ! 少しは考えて動け!』
「……オ、マエモ、ヤッタ」
両手でおでこをさすりながら、レ級は恨みがましい目つきで非難の言葉をあげる。
青白い肌、と言っていいのか、果たして人で言う肌で合っているのか解らないが、不健康にも見えるその色彩に、おでこに、若干の赤みが広がる。
赤が、赤色が、広がった。
そんなひと悶着があり、その後も幾度か懲りずに攻撃を繰り出し痛みに悶え、一夜明けてレ級は考えた。
ムシ、シヨウ――と。
その結果が、現状だった。
『何を見ている? 楽しいか? つまらないだろう』
「ウルサイ、タノシイ」
『いい加減なことを言うな。何もないところを見て、何が楽しい?』
「イロンナ、モノ」
レ級はここで生まれた。
この海域で、この場所で、気が付けば目を覚ませばここにいた。
生まれた瞬間理解していた。自身の存在やら、目的やら、敵やら味方やら……なんてことではなく。
この場所から離れても、海も空も変わらないのだと。
どこまでも、どこにでも、この空と海は続いているのだと。
だから、レ級はこの場から離れない。この場に居続ける。どこに行っても変わらないなら、ここで静かに世界を眺めている方がいいと、そう思ったのだ。
ずっとずっと、生まれてから半年以上、たった一人でいたのだが、最近になって艦娘と呼ばれる存在がちらほらと姿を現してきた。
その存在を知っていて、知っているというより思い出し、同時に自分が何者なのか把握していった。
同時に、今まで見てきた色鮮やかな世界が、少しずつ変わる。
青い空に白い雲。
反射し光る海に途方もない地平線。
何も変わらないはずの世界が、今までよりもっと、色濃く、艶やかに、鮮やかに、軽やかに、変化する……感じが、した。
『長閑な風景ではあるが、』
尾がレ級と同じように世界を見る、見つめる。
レ級と同じ視点で、同じ世界を。
『ここから見る世界の先に行けば、もっと面白い世界を見れるかもしれん』
ちらりと、視線だけを尾に向ける。顔は相変わらず空を見上げたまま。レ級の隣では、訳知り顔で偉そうなことを言う尻尾がいた。それは彼女に繋がっており、けれども思考も感情も、一切繋がりがない存在。
今まで一人で空を見上げ、独りで地平線を眺めるのも悪くなかったが、思ったよりも。思う、よりも。
「オマエノ、マケ」
その言葉に、尾はキョトンと、レ級と同じく表情は変わらないが驚いた空気を発する。そして、一連の会話を思い出し、レ級が何を言っているかを理解して、ニヤリと、嬉しそうに笑った。笑った、空気が流れた。
『なんだ、知っているじゃないか、しりとり』
海は今日も穏やかで、空は今日も静か。
二人で見る世界も、悪くはないな――と。