風が生暖かい。波の音も沖と比べると静かで、目を閉じれば、規則的で不規則な音色のさざ波が聞こえる。周囲を囲むように彩る葉達が、揺さぶる風の声に身を任せ、細かな砂は踏みしめられる音を上げながら、ゆったりとした時間が流れていた。それら自然に混じった、陽が伸ばす影の手は、借りられた猫のような風景。二つの影が、長く遠く、隔てていた。
「ところで、傷はもう大丈夫なのかね?」
レ級から一歩二歩、数歩離れた位置の艦長が尋ねると、ドーナッツを不思議そうに眺めながら弄ぶレ級は、寝転がったまま答える。ドーナッツは汚いが砂浜に置いて渡した。犬猫にあげるようだったが、艦長としてはそれ以上近づけなかったし、レ級も怒ってはいないので良しとした。
「痛イ。休ンデル」
そう返事をするレ級だが、パッと見た限り目立った外傷はない。レインコートの下がどうなっているかまでは解らないが、確かめようとするならば確実に変態のレッテルを貼られてしまうが、それでも見える肌の部分には、傷などは見当たらなかった。
綺麗なもので、死人のように青白い。
「深海棲艦とは、みんなそうなのかね」
「?」
艦長は深く息を吸い、飲み込んで、尋ねた。
「あれだけの激戦をやっても、数日すればそこまで回復できるのかい?」
瞼を閉じれば思い出す。
恐怖さえ覚えた、人外という言葉が当てはまるべき戦争と呼ぶべき戦争を――
水柱をあげ、ル級の前に飛び出したレ級は、腕を引き――引き絞る。
弓兵の如き格好は、しかし、錯覚には大筒の方が正しかった。
弓矢のように、ではなく。
大砲のように、感じる。
相対する二人は、二匹は、間を待つこともなく、出会った瞬間から行動に移す。移すからこそ、これまで生きてこられたのだから。
レ級が放つ、まるで神話に登場する矢の如く、風を裂く音を引きずりながら放った一撃。
極限まで引き絞り、極地まで握り込まれた必殺。
挨拶代わりと言わんばかりに、隙だらけの全力全開の攻撃。
だから、だからル級は迎え撃とうとしたのだろう。艦長が見た限りでは、直前まで満面の笑みを携えて、前のめりに頭突きでも喰らわそうとしている体勢だった。
激しくぶつかり、激しく弾け飛び、激しく水飛沫をあげる。
そんな未来を、ル級だけでなく、艦長以下乗組員たちも感じていた。見ていたものたちは。
だが――――直前。
レ級の一撃が、絞られた弓から放たれる刹那の瞬間。
時は止まることなく緩慢に、怠惰に流れを緩まして、ル級に事実を教え込む。
その威力を。
その結果を。
根拠はなく、また証拠もない。
けれど、ル級は浮かべていた笑みを消し、瞼を見開く。
ほんの一瞬の出来事。艦長以外に見た者はおらず、また気が付いた者もいなかった。
ル級が感じた――――死の瞬間を。
迎え撃つ動作は回避に、両手に備えた砲台は盾へと変わる。
強引に身体を倒して、不様に転んだ姿を晒す。
だが、それだけやってギリギリ間に合わなかった。
防御無視の一撃。隙だらけの体勢に、時間のかかった攻撃は、準備の段階で阻止しなければならない。何も考えていないようで、天才とも言える戦闘技術を持つレ級を相手に、それはあまりに無防備だった。防備など意味がないほどの、無防備だった。
レ級の拳が、ル級を抜ける。
音が 消え た。
海 が割 れた 。
それだけだ。
大袈裟でも言葉足らずでもなく、その言葉で足りる一撃。
あまりの威力に、火力に。
世界は音を殺された。
慌てて集まる常識がル級の元に届いた時、全ては終わっている。
なにかもが一拍遅れて気が付く世界の中、当事者であり避けたル級もまた、視線は放たれた背後に釘づけだった。結果を理解するのに、必死だった。
レ級の右拳から放たれた一撃を避けるため、ル級は左側に避けた。結果、右の盾砲台は粉砕され、右腕を肩から壊された。
衝撃により腕は曲がり、威力により腕は折れた。そのまま引っ張られるようにル級は体勢を崩し、後方へと半回転しながら吹っ飛ばされる。
そして、見た。
レ級が為した、天変地異に等しき惨状を。
海を割るなど、それも生身一つで起こすなど、あり得ない現実を。
目を見開き、身体は硬直、理解できない脳は停止し、けれども未来は待ってくれやしない。
放たれた威力が凄ければ、放った者も相応の衝撃を受ける。
だからレ級は衝撃に逆らわず、その場で側転するように回転し、次の行動へと移っていた。
相も変わらず、戦に関して、個々の戦闘に関して天才的な働きを見せる。
流れに逆らわず、運命を受け入れるように放たれたレ級のかかと落とし。
呆けたル級の頭上へ振り下ろされた、死の一撃。
砕かれた頭蓋骨が周囲の海を赤黒く汚し、見る耐えないグロテスクな光景を生み出すはずだった、一撃を。
タ級の砲撃が、打ち砕く。
誰もがレ級の結果に唖然とする中、唯一タ級だけが、レ級の次の行動を見定めていた。
タ級は知っていた、レ級の戦闘方法を。
タ級は聞いていた、艦娘との戦闘状況を。
だから、タ級は考えていた。
一撃必殺を放った程度で、レ級は止まらない。
穿つ一撃は全てが必殺。
そんなレ級の一番の強味は、その威力でも数多の武装でもなく。
一発でも当てれば大破の可能性がある攻撃を、休む間もなく繰り出す連続性だ。
レ級の脚に直撃した砲弾が爆発し、遅れてル級も事態に気づいた。慌てて右腕を庇いながら距離を取る。
このまま追撃しようとタ級が動いた時、ル級が叫んだ。
迂闊に一歩、踏み込めば。
その先に待つ、死が迎える。
タ級の砲撃を喰らったと同時に、すでにレ級は動いている。解っていたはずのタ級も、理解しきれていないのだ。連続性と言いながら、休む間もなくと言いながら、それはレ級敵対する者だけではなく、レ級自身にも当てはまる連続性だということを。
レ級の放った魚雷が、日本の忍者が使うクナイのように、真っ直ぐ一線、放たれていた。
撃ち落とし回避するも避けきれず、そこから始まる乱戦。
淡くも強く光る眼光が、遠く双眼鏡から監視する人類の背を、密かに濡らしていた。
遠くで鳥の声が聞こえた。砂浜にいる艦長は、ここで深く溜息を吐く。思い出せるのはそこまでだ。そこから先は、見ていたが何をどうしたのか解らない。人間の知識では、知覚では限界だった。
とてもじゃないが深海棲艦相手に肉弾戦、それも先の戦闘を起こしたレ級を相手に戦えるなど思うわけがない。
知らなかったとはいえ、迂闊に近づいたことを悔やむ艦長だったが、同時に興味がなかったわけでもない。
あれほどの身体能力を持つ生物とは、一体なんなのだろうか、と。
人に近く、人ではない。
けれど、火薬を扱い、武器を持ち、団体で行動し、戦争を起こす。
現在まで確認されている、命を持った生物の中で、人間だけが起こす動作を、深海棲艦は行っていた。
日本政府は、突如現れた海のモンスターと言っている。
しかし本当にそうなのか。エイリアンよろしく、そんなお伽噺みたいなことがあるのだろうか。疑ってみても、答えは出ない。
緩やかながらも時間はしっかり流れていく中、艦長はただ、黙って見ていることしか出来なかった。
映画のように、ドラマのように、もっと気の利いたことを言えたら良かった。ドーナッツなんかあげてる場合ではなかった。
何を聞けばいいのか解らなかったし、敵の勢力や目的など沢山あったが、恐怖を押し殺したまま接することなんてできなかった。
怖い、その一点である。
今日ぐらいはカミさんに花束でも買ってってやろうかと思い始めた艦長だったが、それも生きて帰れればである。このままでは、下手をしたら自分が花を贈られるはめになるかもしれない。
いつまで経ってっもドーナッツを食べないレ級に、毒でも疑われているのかと冷や汗を流していると、突然。
「ン、バイバイ」
と立ち上がり、砂浜から巨大な尾が出現した。
「っ!?」
腰に手をやり銃を握る。
瞳孔は開いて呼吸を止める。
心臓は縮み上がり、体温は感じない。
無意識に、反射的に。
艦長は恐怖に飲まれ、動いたまま動けなくなっていた。
警戒して素早く動ける体勢に移ったまではいいが、その後はどうすべきなのか解らない。
砲弾が飛び交う戦場で笑って歩むレ級に対し、果たして銃など脅しになるのだろうか。
そもそも先日の戦いを見たあとでは、艦長が動こうと思った瞬間、こちらが死んでいる可能性の方が高い。
動きたくても動けない艦長が固唾を呑んで見守る中、レ級は貰ったドーナッツを服の、レインコートのポケットにしまった。
「ワカラナイケド、モラッテオク」
それだけ言い、レ級はぐっと伸びをして、首をこきりこきりと回す。
海に還る、そんな言葉が、頭を過る。
このまま見送って、頭の上がらないカミさんが待つ家に逃げ帰り、いつもありがとうと抱き締めて一日を終わらせればいい。あとはいつも通り、夕飯は美味いのに朝食は不味いカミさんの料理を食べて、出勤して、変わらぬ海を監視して一日一日が過ぎればいい。
そうして、時たま現れる深海棲艦は日本の艦娘に任して、平和な世界で生きていれば。
けれど、目の前のレ級は……深海棲艦の、戦艦レ級は。
あまりに無邪気に、あまりに幼く、あまりに無知で、あまりに素直で――――あまりにも、人間らしかった。
「ま……待て。待て、待て……」
震える唇で、身体で。
艦長は心を落ち着かせながら、無理矢理抑え込みながら、聞いた。
「お前たちは、なぜ、人を襲うんだ」
その問いに、質問に。
レ級は眉を潜め、首を傾げて。
「ドコカデ、戦ッタ?」
と、言う。
襲うでもなく、殺すでもなく、戦うと。
戦う、と。
その意味を、真意を、どう解釈すべきか。
まだ解らない。これだけの情報じゃ、まだ解らない。
「そう、か……ありがとう」
「アリガトー?」
「え?」
「ナニソレ?」
不思議なことを言う。
しかし、レ級にとって、一人きりの時間が大半だった今までを考えたのならば、仕方ないことなのかもしれない。
お礼を言う相手がいなければ、使う必要のない言葉なのだから。
「ありがとう、かい?」
「ウン」
「えっと、お礼だ。お礼は解るかい? その、助けてもらったり、嬉しかった、り? なんだ、難しいな。その、相手に感謝というか、嬉しい気持ちを伝えるのに、言う言葉だ」
「ホー」
ウンウンと頷くレ級。
まるで近所の子供のような素直な反応だった。
それが、いけなかった。
思わず気を許してしまいそうになる動作。
意外と話せることを知ってしまった事実。
それらが、艦長を動かす理由になってしまった。
つい、今まで喋らなかった隣人が、話せる奴だと知ってしまった感情に似ている。
嬉しかった、のかもしれない。話せて。
「あと」
「ン?」
「ドーナッツは、食べるもの、だ……」
「食ベル?」
「ああ、こう」
艦長が袋の中からドーナッツを取り出し、齧ってみせた。
それを見て、真似しようと思ったのかポケットからドーナッツを出そうとするレ級だが、どっちのポケットに入れたのか忘れたようでポンポンと叩いている。艦長はそっと、新しいドーナッツを取り出し、レ級に差し出した。
最初とは違い、手渡しで。
近づくレ級に恐怖を覚えながらも、艦長は耐えた。耐えてしまった。
レ級は艦長の手を握り、ドーナッツを受け取り、齧る。
モグリ、モグリと。
砂糖をまぶした、甘いドーナッツを。
「オオ」
美味かったのか、レ級は繰り返しオオと言いながらガツガツ齧る。
そして、海に向かって一歩二歩。
機嫌良さそうに、スキップするように歩き去る。
去りながら、食べかすを頬につけながら。
振り返り、振り返った。
「アリガトー」
「……………」
手を振り、海上に立ち、けれど止まらず歩き去る。
一度キリの、ご挨拶。
その後はもう振り向くことなく、夕日の落ちた地平線へと消えていく。
真っ黒のレインコートを保護色に。
砂浜に佇むのは、艦長ただ一人。
「………」
調子に乗って手渡したドーナッツ。
妙に湿った手のひらは、けれど思ったより冷たくはなかった。
無邪気にもらったお礼の言葉は、隣に住む女の子と何も変わらなかった。
「ああ、くそ……だから嫌なんだ、戦争は」
まるで人間のような深海棲艦を……彼女を見送った艦長は、一人苦虫を噛み潰した表情で吐き捨てる。
「それでも俺は、おまいさんを殺さなきゃなんねぇ……」
くしゃりと紙袋を潰し、拗ねた子供のように歩き去る。
残ったのは、尾が隠れたせいで出来た巨大な穴と、レ級が寝転んで出来た砂浜の凹み。
それもいずれ、消えていく。
時間が次第に、消していく。
後編を先月中に出すと言ったが書くとは言ってなすみません。
みなさん艦これVita、予約できましたか?
私は今日仕事から帰ってから考えようと思ったらもう売り切れとか(震え声