統制機構諜報部のハザマさん   作:作者さん

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お久しぶりです。


stage0 prologue

 少女が目を覚ましたとき、目に入ったのは既視感のある透明な壁だった。周りも透明な液体で満たされた水槽の中で、少女は自分が膝を曲げて抱く様にして眠っていたのだと理解する。

 そう、理解はした。しかしそこに感情は一切存在していなかった。

 薄く眼を開けて辺りを、水槽の外を見渡した。そこには一人の女性が居る。金色の瞳の下には薄く隈を作り、その間の眉間にしわを寄せている。鮮やかな薄紅色の髪と同じ色の二つの尻尾は、ゆらゆらと忙しなく揺れていた。くたびれた白衣のポケットに手を突っ込みながら、いかにも面倒くさそうにその女性は通信機へと向かって聞き返す。

 

 

「もう一度報告を繰り返せ、いったい何があった」

 

《だだだ、地下に封印さえれていたは、ハクメンが、脱、走ししました!!》

 

「…………なんだと?」

 

 震えながら答えた男の声に、椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がったその女性は、慌ててコンピュータを操作し画面を変えていた。そこは薄暗い地下であるものの、術式ではない、科学的な方法で様々な封印術をハクメンへ施されていたはずだった。

 だがその場所を移しているはずのカメラは、既に砂嵐以外を映し出してはいない。盛大な舌打ちする音が辺りへと響き渡る。

 

「レイチェル……アイツ。手を出すなとは言っていなかったが……、アイツに気遣いを求めること自体が間違いだったか」

 

《ココノエ博士! 障壁を!緊急用の障壁を動かす許可をください!》

 

 ココノエは自分より遥かに落ち着きのない部下の声に、煮えたぎりそうな感情を抑えた。 

 ココノエの施した封印、多重拘束陣は一秒間隔で解除プロテクトが変わる、人外を含めて常人ならば解除不能のものである。しかし、それを解除するレイチェルは、やはり常人の理からは外れた存在だと言えるだろう。

 ココノエは自分の施した拘束陣程に、第七機関の防護システムは期待していない。ハクメンが自由になった時点で、頭の中では止められないという回答を出していた。

 

「ああ、いい。止めておけ。そんなもので止められるほどアレは力を落としていない。切り落とされるのが関の山だからな。経費の無駄だ」

 

 回答を出した以上、どうすることが最善手であるのかを考えれば、何も壊させずに素通りさせることが一番益が在ると言えるだろう。

 ハクメンと対抗できる可能性のあるテイガーが手元に居れば、選択肢としてはまだあった。だが現実にはカグツチへと再度向かっている最中であり、ラムダはまだ調整が済んでいない。結局、此処に留まることが一番正しいのだ。

 しかし通信機の先に居る職員にとってはそんなことよりも、脅威が今まさに近づいていることが問題であった。

 

《し、しかしもう私の所をすぐに通りかかります!? こ、殺され……ぁあ!?――――――聞こえるか、化け猫よ》

 

 がすっ、と拳で人体を撃った音が通信機から聞こえたかと思えば、そこから出されたのは低い男の声であった。くぐもったようにも聞こえるその声の主をココノエは知っており、忌々しそうに応える。

 

「キサマが暴れたが、機器が壊れていない分まぁ感度は良好だ。それでなんだ? 拘束していたことの嫌味の一つでも言いたかったか?」

 

《……私を止めるつもりは無いのか?》

 

「止める? 貴様を? 馬鹿を言うな。テイガーもいない今、この機関に貴様を止められる奴がどこに居る。行くならさっさと行け……ああ、無駄に壊していくなよ、経費で落とすのも面倒だからな」

 

 気怠い表情でいかにも興味が無いような声で、ココノエはハクメンへと返した。ココノエとしては恨み言の一つでもレイチェルに零しそうではあった。ハクメンはあくまでも手段の内の一つでしかない。が、大きな切り札の一つとして数えていたのも事実である。

 上質な札の一つでもあるテイガーを動かして、ココノエはハクメンの回収を考えてはいるが、ハクメンが素直に戻ってくることはありえない。少なからずその手間は負担になるに違いなかった。

 そんな内心を表すことのないすまし顔で、ココノエは通信機を握る。下手をすれば苛立ちで握り締めそうだったが、わざわざハクメンに対して付け入るような態度をするつもりもなかった。

 

 

《……化け猫、なぜ貴様が来ない》

 

 

 しかし握りしめられていた通信機の軋む音はハクメンに伝わっていたのか、通信機からの問いかけは、ほんの一瞬だけ思考を硬直させた。そんなココノエの様子を無視してハクメンは語る。

 

《貴様には、最強の血と最高の血が流れている。私を相手取るならば、訳無い程度の力は備わっているはずだ》

 

「黙れよ、ハクメン」

 

 ただ一言、拒絶の意志を見せて呟く。静かであったがその言葉からは怒りが漏れていることがココノエにも分かった。

 それがハクメンにとって挑発ではなく、純粋な疑問であることは間違いが無い。ココノエの産みの親は最高の魔法使いであり、そしてその遺伝子を分けたのは世界最強の生物である。その子であるココノエは、確かにハクメンと対峙できる力は持っている。

 だが、喧嘩を売る言葉に対して大きな反応を見せるつもりもなかった。今突き動かされるままに行動すれば、自分の信念すら見失いかねないと理解していたからだ。

 それを無視するように、ハクメンは口を閉じることはしなかった。

 

《化け猫、貴様の信念に異を唱えるつもりは無い。だがそれが貴様に歪んだ行動を引き起こさせるのなら、それは悪だ。故に私はそれを否定する》

 

「歪んだ行動? キサマ自体がその歪んだ行動の結果だろうが! ラグナ=ザ=ブラッドエッジも、ツバキ=ヤヨイも、キサマが殺した。だからこそキサマはそこに立っているのだろう? 少なくとも、キサマにその言葉を言われる筋合いはない」

 

 観測者として世界の一部を|観測(み)ることはココノエにもできる。ハクメンが引き起こしたことも、ハクメンを観測したことで知ることはできた。だからこそ、その言葉はココノエから出されていた。

世界の意志と己の欲望を穿き違え二度自らを兄と呼んだ者を殺した。そして最愛の者の死をただ眺めていただけの男が言う、身勝手な言葉をココノエは受け入れるつもりは無かった。

 結末をハクメンのようにするつもりは無い。自分なら上手くやれる、その自身がココノエにはあった。尤も、ハクメンはココノエがそう思っていてその上で言ったのだが。

 

《……?》

 

 ココノエの言葉に暫く返信は返ってはこなかった。 怒りを抑え肩で息をするココノエであったが、その通信機の奥でハクメンがどこか戸惑っていることが分かった。

 ハクメンは暫く何かを考えるように黙ると、ココノエに伝えるわけでもなく、独り言のように呟いた。

 

 

《ヤヨイ……? ……ツバキ、とは『誰』だ?》

 

「なに?」

 

 

 観測され、サルページされる過程で忘れたのなら、ココノエは見下し鼻で笑っていただろう。だが、その言葉は本当に何も覚えておらず、むしろヤヨイという単語に覚えがあるようだった。

 ハクメンにとって根幹にしていたはずの人物の事を、忘れるはずがない。観測してその人物についてココノエは見た。だからこそ返答に戸惑った。

 

《……その名を知らぬこともまた、私の内の罪の一つなのだろう。化け猫よ、貴様が辿ろうとしているのは私と言う存在の道と同じだ》

 

 それはハクメンに成る前の者にとって大事な人の名前だったのかもしれなかったが、既にハクメンには思い出せない。ココノエのたどり着いてしまう場所も、こんな存在であるかもしれないと、嘲笑するわけでもなく、忠告を送っていた。

 

「黙れ。私は、……キサマとは違う。上手くやる」

 

《……》

 

 その忠告はココノエには届かない。聞き入れるつもりは初めからなかったのだから、当然であると言えるだろう。

 互いに無言が続き、ココノエはそれを打ち切るように舌打ちする。ハクメンとしても何かに引っかかっていたのだろう。そして何かを問いかけられる前に、ココノエは通信機を切っていた。

 これ以上、あの堅物から出てくる説教を聞くつもりもない。ココノエは椅子に深く凭れかかるように座り、ふと部屋の奥に位置する培養器へと目を移した。

 国を一つ滅ぼした兵器を手にした。人間の産み出した罪の結晶であるムラクモを、そして誰のとも知らぬ肉体を、魂を利用した。

 

「本当に、今さらだ」

 

 額に手を当てて電灯の光を遮る。ハクメンの言葉を思い出し、小さく一つ舌打ちをした。

 

 

 それを少女は、ただ無感情に見ていた。少女へとインストールされていたデータにその名前が挙げられた。R-0009テイガー、第七機関所属の戦士、模倣事象兵器を保持した生体兵器。ハクメン、三輝神ユニットの保持者。六英雄。ココノエ、自分への指令の発信者。ラグナ………………。

 

「(……ラグナ)」

 

 それらは全てデータでしかない。それらを情報として理解するのなら、少女自身が考えほんの少しでも有効利用するからこそ情報たり得るのだ。だが、少女にはそれが無かった。

 だが一つだけ、少女はその単語に引っかかる。

 蒼の魔導書の所持者、それ以外の姿や声音などのデータは頭の中に張っている。だが何故か少女はその単語に惹かれていると『客観的』に意識した。無論、惹かれている、という状態すら知らない少女には、それはバグとしか感じることは無かったのだが。

 少女は思考を行わない。其処に在るだけだ。だがそれは思考の仕方を知らないだけだった。

 不完全な魂が一つ。この確率事象によって初めてこの時間軸に少女は世界を確立した。

 

 

――――――――――

 

 どうして私はこんな状況になっているのだろう。ノエルは品の良い椅子に座り、甘い焼き菓子と薔薇の香りに包まれながら、ぽかんとどこまでも広がる薔薇の庭園を見つめながらそう思った。

 丸いテーブルの斜め向かいには、ヴァルケンハインが紅茶を用意している。手つきは手早く、素人目のノエルから見ても無駄のない手つきだと思えた。

 そうして注がれた紅茶であるが、どう手を付ければいいのか分からない。テーブルマナーは最低限知っていても、お茶会は友人と行くのが殆どだったノエルにとって、上品なこの場ではどこか萎縮してしまっていた。

 

「そんなに肩に力を入れなくとも心配はありませぬよ」

 

 ヴァルケンハインのしわがれた穏やかな声に背中を押され、おずおずとノエルは紅茶へと手を伸ばす。口へと運ぶ際中、ふわりと紅茶の香りが鼻をくすぐった。

 

「……あ、美味しい」

 

「お褒めのお言葉、ありがとうございます」

 

 初めて飲む味の紅茶は、もしかしたらノエルが知っていた葉を使っているのかもしれない。少なくとも今まで自分が知っている、喫茶店などで出されている茶葉の紅茶とは思えなかった。

 ツバキみたいにこの手の知識についても知っていたら、話ももっと盛り上がったのかな、と。ノエルはそう思いつつも、ヴァルケンハインに促されるまま焼き菓子にも手を伸ばす。

老執事と少女、二人でのお茶会という光景に、ノエルはまるで自分がお姫様にでもなったような気分になった。もちろん浮かれているという意味ではなかったが、どこか落ち着かないのは確かだ。

 

「あの、ヴァルケンハインさん?」

 

「おや、何か不備でも御座いましたか?」

 

「あ、いえ不備だなんてそんな。お茶もお菓子もとっても美味しいです!」

 

 思わず立ち上がって答えてしまったノエルは、それはよかったと、微笑ましそうに言葉を返すヴァルケンハインを見て、緊張している自分が恥ずかしく感じ静かに座り直す。そうして赤い紅茶の水面に映し出される自分の顔を見た。

 髪を下した姿は普段自室で見慣れているはずだったが、どこかその姿が自分を不安に駆りたてる。

 理由は分かっていた。いつもの休日であればその姿でも可笑しくは無い。だが今は任務を行っているはずの期間で、さらにこの場所に運ばれてから数日が立っている。だが、任務の事だけを考えるのには複雑な出来事が多すぎた。

 ジン=キサラギは血だらけで倒れ、ラグナ=ザ=ブラッドエッジと協力し、自分にそっくりな兵器と対峙して。そして、ハザマという存在。そして、μという……

 そこまで思考を進めたとき、紅茶の水面が揺れてノエルの表情は見えなくなっていた。ノエルにはそこに映っていたのは暗い表情であることは予想ができていたため、考えを逸らす様にカップを傾ける。

 

「……どうしたらいいんだろう」

 

 なにをすればいいのか分からない。ノエル自身、衛士という立場にすがることが、逃げであるという事が分かっている以上その行動をとるわけにもいかず、時間が流れるのを待っていただけだった。

 無意識に出たそれは独り言のように見えて、近くに控えるヴァルケンハインへの問いかけであったのだろう。自然にノエルは傍にいるヴァルケンハインへと視線を移していた。

 ヴァルケンハインはその視線を受けつつも、静かに紅茶を淹れ直す。空になったカップへと紅茶を注ぎ込み、答える。

 

「貴女が歩む道を定めるのは私ではなく、貴女自身以外に有りえません。私が定めてしまえばそれは、どのような結末であろうと間違いなのでしょう」

 

 やんわりと断られたその言葉に、ノエルは内心で納得さえあった。

 ヴァルケンハインの主であるレイチェルという少女について、ノエルはあまり知らない。ラグナの知り合いであり、この城の主、そして人ではないという程度だ。それでも、理から外れた存在であることは実感できていた。そしてその存在が定めた道が、同じように外れていないものだと考えることはできない。

 それはその従者であるヴァルケンハインも同じなのかもしれない。それでも、ノエルは力のない口調でヴァルケンハインに尋ねる。

 

「……それでも頭の中がぐちゃぐちゃで、何をどうすればいいのか分からないんです」

 

「そうですか。では、貴女は何を成されたいのですかな?」

 

 

 え、と。ノエルはヴァルケンハインの言葉に呆けた声を上げた。

 自分が今何をどうしたいのか。やらなければならないことではなく、やりたいこと。望ましいこと。

 

「……分かりません」

 

「なら、それを探しなさい。立ち向かう事も、逃げることも、その他の道も、全てそれが起点に成るのですから」

 

 そう言ってノエルへとヴァルケンハインは微笑み、紅茶を淹れ終えて一歩下がる。これ以上の助言はするつもりは無いと、そう言っているようにノエルは感じた。

 再度、カップへと注がれた紅茶へと目を向ける。其処に移るのは自分の顔、ほんの数日前に対峙した、νの姿を思い出させる。無意識のうちに自分の表情が強張ったことが分かった。ν、μ、そしてノエルという名を持つ自分の事。それを知ることは、きっと後戻りできないところに行ってしまうだろう。

 しかし、それは自分にとって本当に重要なことなのだろうか。答えは出ず、紅茶の水面に映る自分は情けない顔をしていた。

 

 突然、その水面が大きく揺れる。遠慮なく庭園に響き渡るのは、此方へと走ってくる男のものだろうと分かりノエルは思わず顔を上げた。

 

「ちぃ、此処にも居やがらねぇ、おいオッサン! ウサギの野郎は何処に居る」

 

「……少しは静かにせんか小僧。怪我が治ったと思えばすぐに騒ぎおって……」

 

 端然とたたずむヴァルケンハインとは対照的に、此処へと訪れた男……ラグナは息を切らしてヴァルケンハインを睨む。数日前まで体に巻いていたはずの包帯は既に無く、赤いジャケットは既に修繕されたのか、剣が貫いた場所の穴は既に無くなっていた。

 思い怪我もない様子で、思わず安堵の息が漏れる。此処に運ばれたときは体中が血まみれで、今にも死んでしまいそうな様子だった。心配していたことも事実であり、こうして元気な姿を見られたのは喜ばしくも思った。

 と、そこまでノエルは考えて首を振る。ラグナは統制機構への反逆者で、賞金首にもなっている。衛士として、未だそんな犯罪者が健在なことに喜んでいいはずがない。

 

「……って、ノエル? なんだってテメェまだ此処にいやがる」

 

「ま、まだってなんですか!? 私だって心配していたのに……」

 

 余程ノエルが此処に居ることが意外だったのと、優雅にも見えるお茶会の最中とあってラグナは目を丸くして驚く。ノエルとしては此処にまだ居る理由の一つに、ラグナが心配であったという事もあり、ラグナの言い方に少しだけ頭にくる。思わず眉を寄せ半目で何かを言いたそうにラグナを睨んでいた。

 

「俺、犯罪者。テメェ、衛士。んな間柄ならそりゃあ訝しむだろ」

 

「うっ……、そうですけど……」

 

 一方ラグナとしては何不機嫌になってんだコイツ、としか思わなかった。

 勿論衛士だから即殺すとまでは行くわけでもなく、個人的に殺したくないとも考えている。とは言え少なくとも自分は心配されるような人間でもなく、衛士からしたら目の敵にされるべき存在だろう。

 意外ではあったが、過去に自分を心配するような人物は、子供時代を除けば獣兵衛しか居なかったため、どことなくくすぐったくもある。ラグナは意識していなかったが、照れ隠しも交じっていた。

 

「……むぅ」

 

 しかしノエルとしては面白くない。此方だけが一方的に心配して、それでは馬鹿みたいではないか。当然ラグナの言っていることも分かる。自分が考えていることはおかしいと、自分で否定したばかりだ。それでも感情はそれとは相反しているため、余計に頭がこんがらがった。

 そうすればますます面白くない。相手は自分の事を碌に考えていないのに、どうして自分ばかり相手の事を考えなければならないのか。実際のところラグナも様々なことを考えてはいるのだが、そんなことは伝わるはずが無かった。

 

「むむ……むぅ、卑怯ですよ!ラグナ=ザ=ブラッドエッジ! どうして私ばかりこんなに考えなければならないんですか!?」

 

「あぁ? 何言ってやがる。テメェ馬鹿か?」

 

 ノエルはやきもきとした思いにむくれながら、力強くラグナへと人差し指を向けた。自分でも何を言っているのか、とは思っていても、言ってしまった言葉は止まらなかった。

 何を子供のようなことを言っている、と。自分の頭の中では叫んでいる。それでも何故かラグナを前にすると、その警告が無かったかのように言葉が飛び出ていった。

 

「バカって言わないでください! バカって言ったラグナさんがバカなんです!」

 

「んだとテメェ……どいつもこいつも人を単細胞扱いしやがって。それならテメェも馬鹿じゃねえかバーカ!」

 

「バカバカ言わないでください!」

 

 ヴァルケンハインは突然始まった子供のような口喧嘩に、小さく溜息をついてお茶会の片づけを始めていた。その数分後、レイチェルが二人の姿を見て不機嫌そうな顔になるまで、その口喧嘩は収まらなかった。

 

 

――――――――――

 

 

 頭の中で何時までも何かが騒いでいる。男はその事実に苛立ちつつもその足を止めることは無かった。

 辺りはまだ太陽が射しこんでいないため、暗闇の中で街の外灯だけが辺りを照らしている。階層都市の統制機構本部のある上層部で、男は身体を引きずるように歩いていた。ぎらぎらとした目は焦点が在っておらず、ぶつぶつと何か独り言をつぶやきながらどこかに向かっていた。

 頭の中から声が聞こえる。その声は男にとって最も嫌悪した男の声と同じであり、単語の一つ聞くことすら苛立ちが増す要因になっている。手に無意識のうちに造られた拳は、八つ当たりをする子供のように壁を打ち付けた。

 痛みが手に走る。頭の中ではまだ何か喚いているが、男にとってはどうでもいいことだった。

 

「(ダメですよ! もう身体がボロボロだって分かってるじゃないですか!)」

 

「黙れ。お前が俺に指図するんじゃねぇよ、ハザマ」

 

 焦ったようなハザマの声は寧ろ男にとって不愉快であり、その忠告を聞こうと言う意志さえも無くしていた。

 男の躰はボロボロで、身体を殴打された跡が服にまで残っている。上層部の端とは言え、そんな姿で街中を歩いていれば通報されることは間違いないだろう。そうなることも考えずに男はただ歩いていた。

 魔操船までたどり着けばとりあえずは治療を受けられる。今この躰が『テルミ』でないと理解した以上、最低限の治療をしなければ面倒なことに……

 そこまで考えて男は自分の手に造られた拳を、上層部の端に位置する防護柵に叩きつけた。何を考えている、俺はテルミだ、そうでないはずがない。本当は分かっていることに反発する様に、男は歯ぎしりをして拳を叩きつける。

 

「……糞がっ!」

 

 防護柵を叩きつけた音が辺りに響き渡るも、それで誰かが訪れる事も無かった。

 ただ無言で、ハザマは別意識の中でそれを眺めていた。真実を認めようともせず、ただ偽りの事実にすがって生きようとしている。それを無様と呼ばずになんと呼ぶのだろう。それを一番嫌悪していたのは、テルミと男自身ではなかったのか。

 ハザマ自身もそう思う事も無かった。ただ流されるようにして生きていた中で、本当に重要な物は見つけて、それを無くさないように生きていただけだ。ただ生き延びたかっただけだ。

 

「……殺す、殺す、殺してやる。必ず、あのクソ野郎を……」

 

『……どうするつもりですか?』

 

 ハザマは男へと問いかける。今この時点で自分の身体の制御を取り戻すことは可能だ。蒼の継承者によって観測された今、男とハザマははっきりと独自の存在を確立していた。そのため融和は起こることは無く、また身体の支配権は半分は取られたものの、まだ自分の方が優先権がある。余程精神が乱れていない限り、無理やり男を眠らせることもできるかもしれない。

 今男が勝手に動かすことができているのは、ハザマが許可しているからに他ならない。その気に成れば、男の魂ごと封印することだって可能なのだ。

 

「殺すんだよ、決まってんだろうが! 俺がこの手で尊厳もなにもかもぶち壊した状態でなぁ!」

 

 そんなことできるはずがない。狂ったように喚く男を見ながらハザマは冷静にそう判断しつつも、言葉を返すことはしなかった。そうすれば逆上することは目に見えて分かったからだ。

 ハザマ自信も分からないのだ。自分にはテルミを敵にする理由もない。それでも男を放置しているのはなぜか。

 

『(……情、ですか? 嗚呼まったく、くだらない物を知ってしまったものですね)』

 

 もしも自分に体のコントロールが在ったのなら、額に手を置いて溜息を吐いていただろう。基本的に敵意と毒ばかり吐いていたような相手だったと言うのに、嫌いには成れないのは元々の気質が同じだからだろうか。

 それでも自分の命が惜しくなったら逃げ出すだろうことは自分でもわかっているため、只の価値のない同情であるという事は理解している。男がそれを知れば怒り狂う事も簡単に想定できた。

 テルミと敵対する理由は無い。だからこそそうなろうとすれば、ハザマは身体の支配権を奪って逃げだすだろう。ならば……

 

 そこまで考えて、視界の端で何か蠢くモノが見えて思考を止めていた。

 黒い塊は、昔研究施設で見た、魔素に汚染された生物によく似ている。辺りは暗くその中に浮かびだされた白いお面のような顔が、お化けのように恐怖感を募らせる。それに気が付いたのか、男もその蠢く影に向かって視線を向けていた。

 

「……グ…ギ見 け 。蒼……知 の りと新 る 叡智  晶が ク ギギギギギィィィ!!」

 

 人の声とは呼ぶことはできないが、確かに人語のような何かを言うそれは、普段は下水道に居るはずの魔素の怪物だった。街の住民からはアラクネと呼ばれたその怪物は、上層部へと繋がっていた下水道から顔をだし、濃厚な蒼の匂いに誘われてそこまで訪れていたのだ。

 身体を蠢かせて男へと飛び掛かったアラクネを、男は無言のまま蹴り飛ばす。硬化し無数の針のように身体を変えていたはずのアラクネは、まるでサッカーボールのように地面を汚しながら転がって壁へとぶつかった。

 鋭い痛みが脛辺りに感じられたが、そんな痛みを無視して男は飛び掛かってきたアラクネを忌々しそうに睨みつける。

 

「ギギ……」

 

「ああ? ……く、は、ハハハハハハハハ! 煩せぇ、ウゼェ、黙ってろこのゴミ蟲がよぉ!」

 

 硬質化したアラクネの針が蹴った時に刺さったのか、足元には血が流れている。そんな自分の状態も無視して男は笑った。

 俺はテルミだ、間違いない。世界に誇示しろ、俺が俺であるという証を。

 蒼が辺りへと満ちる。それは男が蒼の魔導書を発動させようとしている前兆であり、それに反応する様にアラクネは顔を起こした。

 

「第666拘束機関解放、次元干渉虚数方陣展開ィ! ククッ、ぎゃははははははははははははは!! そうだ、俺がテルミだ! 俺が俺が俺が俺がぁ!!」

 

 

 男は狂ったように魔導書を発動させる。蒼が渦巻き身体に装着されていくのを、ハザマは何か声をかけるわけでもなく、ただ黙って見ていることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 無限に回り続けていた輪はすでに崩れ、此処から先は確率事象の世界に入る。

 

 男たちは幻影を追い続け、置き去りにした過去と対面し、選択した。

 蒼の少女と破壊者は運命へと向かっていく。壊すべきものは、なんだったのか。

 えいゆうと英雄は、互いに互いの存在を否定した。

 

 そこから先に決められた運命など無い。今、確率事象は始まった。

 


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