なんというか、魔が差しました
その日、東條希は今まで生きてきた中で一番の絶望を味わっていた。
今、希の目の前には彼女のずっと好意を寄せてきた男性がいる。しかも希とその男とふたりきりであった。本来であれば、彼女にとっては喜ばしいシチュエーション。実際、希にとって彼と過ごす時間は日々の楽しみの一つであった。だから、とりとめもない会話を交わす、そんな些細なことでさえ彼女は内心舞い上がらんばかりの喜びを感じていた。
ただ、そんな至福の時間は、彼の一言によってあっけなく崩れ去ってしまった。
「あのさ……俺、絵里ちゃんに告白することにするよ」
「えっ!?」
(……ああ、これが目の前が真っ暗になるってことなんやなぁ)
希は何故か妙に冷静な気持ちで、事を受け止めていた。しかし、そんなことが出来たのも最初のうちだけで、現実は残酷にもじわりじわりと染み込むように、その事実を彼女の心の中へと刻み付けて行った。
「……そっか。ようやく決心したんやね」
徐々に侵食されていくその心を何とか押さえつけながら、希は平静を装い続ける。
「……うん。すっごい不安だけどね」
「大丈夫。コウちゃんだったらエリちは絶対断らへんよ」
「そうかな?」
「いつもウチが言ってるやろ。エリちもコウちゃんのことが好きやって」
希自身、航太が絵里に愛の告白をするように背中を押し続けてきた。故に希にとってはこの状況は当然の帰結であり、想定していたはずのものであった。
それでもやはり希はショックを受ける。いざその場になってみてようやく分かる。それは希の想像以上のものであり、到底耐えられることではなかったと。
東條希は三神航太に対して好意を抱いている。これは紛れもない事実である。しかし希はその事を航太はもちろん、友人に対してすら打ち明けたことはい。希は自分しか知らないその想いを、小さい頃から心に抱き続けて生きてきた。
そんな恋心と共に希は成長してきたのだ。それはつまり、希自身であるといっても過言ではない。だからそれを手放すということは、自分自身を手放すことに等しかった。
それでも希は自分の心を偽ってまで、彼を別の女性の方へと目を向けさせてきた。直接的でなく、冗談半分だったり、からかい半分だったりはしたが、ことあるごとに、いかにそのふたりが相思相愛であるか、お似合いであるか、そんな言動を希は繰り返してきた。
ではなぜ希はそんな事をし続けたのか。それは希望を抱いて、それが裏切られたときの痛みを知っている、そんな彼女の最大限の防護作。
それは端から期待しなければ失望することもない、そう思って張ったはずの予防線。けれど実際、それは何の役にも立たなかった。そんなものとは関係なく、現実は遠慮なしに希の奥底へと傷後を刻み込んで行く。
(……いや、それがあったからこそ、この程度で済んでいるのかもしれへんな)
もしそうだとしたら、何の心の準備がない状態で、今のこの状況を迎えていたら自分はどうなっていたのだろう。そう考えて希はそら恐ろしくなった。
「……ほら。エリち待たせてしまうで。早く行かんと」
「うん。ありがとね、希ちゃん」
それでも希は笑顔を崩さなかった。そんな彼女の心の内など気が付くはずもなく、航太は手を振りながら遠ざかっていく。
(……後少し、もう少しだけ)
なんとか平静を保ちながら、希は手を振り返して彼を送り出す。そして航太が去ったのを確認すると、ついにそれは決壊した。
●
その日、絢瀬絵里は今まで生きてきた中で一番の愉悦を味わっていた。
今、絵里の目の前には彼女のずっと好意を寄せてきた男性がいる。しかも絵里とその男とふたりきり。それだけで既に彼女が喜びを感じるには十分であった。しかし、そんな物の比じゃない位の言葉が彼の口から発せられた。
「好きです。俺の恋人になってください」
「……えっ!?」
まず絵里に飛び込んできたのは驚きだった。そしてそれはすぐに混乱へと変わる。彼女にとってはありえない、想像もしていない出来事だったから。
(……え? え? え?)
今この状況を、絵里は飲み込めずにいた。優秀であるはずの彼女の思考回路もパニック状態で上手く働かず、もはやショートする寸前といったところであった。
それでも次第に、徐々にではあるが絵里の中でそれは消化されていく。仲のよい男女がふたりきりであるというこのシチュエーション。先程、彼が発した言葉。今まで見たことのないような彼の真剣で緊張した表情。そして彼女自身の心臓の高鳴り。そういったいくつかのパーツが一つに合わさったその時、それは喜びへと昇華した。
「……本当に私なの?」
「うん」
「別の誰かじゃなくて?」
「うん」
手探りで確認するかのように、絵里は問う。理解は追いついても何処か信じられずにいた。次の瞬間には夢から覚めてしまうのではないか、そんな夢見心地な気分であった。
その間にも航太は目線を反らすことなく、彼女のことを見つめている。反対に、絵里は動転して泳ぎまくりで、視線の行き場に困っていた。ほんの少しそれらが交差するだけで、絵里は自分の顔が紅潮していくを感じた。
とてもじゃないが今の彼女には視線をあわせることなど出来ない。返答を待っている彼と向き合う、それは即ち自分の気持ちを伝えなければならないということだから。
絢瀬絵里は三神航太に好意を抱いている。しかもずっと昔から。傍から見れば彼女の取るべき答えは簡単。私も好きです。そう言ってしまえば全てが終わる。完璧なハッピーエンド。
でもそれはあくまで他人から見た場合の話。今の彼女にとってはそう簡単なことではなかった。未だ驚きが残っていることと、今までの積み重ねてきた想いが、そのたった一言を喉の奥で押し止めていた。
それでもそんな複雑な感情を整理して、絵里は口を開く。しかしそんな時、脳裏に一人の少女の顔が浮かんでの彼女は顔を曇らせた。
(……希のバカ)
先程完成したと思っていたパズル。けれど良く見ると一つパーツが欠けていて。そのパーツをはめ込んでみると、それはまったく別の物に見えてしまった。
絵里はようやく気付く。今までの希の意図に、彼女の気持ちに。そして今まで気が付くことが出来なかったことに対して自責の念にかられた。
「絵里ちゃん?」
絵里は悲しげな表情を浮かべる。
そんな彼女を見て、航太は心配そうに覗き込む。そんな彼の表情でさえ絵里にとっては愛しくてたまらなかった。今すぐ抱き締めてしまいたい。その衝動を必至に抑え込みながら、声を震わせつつ絵里は告げる。
「……ごめんなさい」
●
希は自分の家に帰ると自然とまた涙がこぼれ出した。
(……さっきあんだけ泣いたんやけどなぁ)
頭ではそう思っていても、それは止まる気配すら見せなかった。
そんな時、玄関のチャイムが鳴らされた。しかし希は出ようとはしなかった。散々泣いたせいで目は真っ赤に腫れ上がり、とてもじゃないが人と合えるような顔をしていなかったから。
しかし、そんな希のことなど無視をして、再び呼び鈴は鳴り響く。二度三度と。それでも出る気になどなれはしなかったが、仕方がなく希は立ち上がる。そしてとりあえず誰かだけは確認しておこう、そう思ってドアスコープを覗き込んだ。
(コウちゃん!?)
そこには航太が立っていた。それだけでも彼女にとっては驚きだった。ただそれ以上に、俯いていて表情まで伺うことは出来ないのだが、それでも感じ取れるほど彼の雰囲気が何処かおかしなものだった。それが希にとっては気になって仕方がなかった。
「コウちゃん!」
希は今の自分の状況などすっかり忘れて、勢い良くドアを開ける。そして彼を部屋の中へと招き入れた。そんな望みの後を航太はただ無言で付いて中へと入っていく。そしてリビングでふたり腰を下ろすと、静寂がその空間を包んだ。
「……ごめんね、希ちゃん」
「ううん。気にしなくてええんよ」
しばらく無言を貫いていた航太が、ようやく口を開く。そんな彼に希はどうしたの、そう聞くことが出来なかった。
今頃幸せ絶頂でいるはずの彼が何故こんな顔をしてここにいるのか、そんな疑問が希の中に生じていた。そしてそれと同時に、その答えも何となくではあるが彼女の頭を過ぎっていた。そんな彼女の頭の中を見透かしたかのような答えを航太は口にした。
「……絵里ちゃんに振られちゃった」
「えっ!?」
希は絶句する。彼女にとっては有り得ないことだったから。
希は絵里が航太に好意を寄せていると思っていた。それは憶測なんて曖昧なものではなくて、確信に近いものだった。しかし、事実として航太はこうしてここにいる。今にも崩れ去ってしまいそうな彼の姿を見ると、希は自分がさっき同じ立場にいた時以上に心が締め付けられていた。
「ごめんなさい」
「どうして希ちゃんが謝るのさ。別に希ちゃんが悪い訳じゃないよ」
心配しなくていい。そう言いながら航太は弱々しく笑った。全く説得力のないそんな言葉や表情に、希はついには堪え切れなくなって彼を胸元へと抱き寄せた。このまま放って置いたらいけない、ただそれだけの感情で。
「ごめんな」
「だから……んっ」
再びの希の謝罪の言葉に、航太は言葉を返そうと掻き寄せられていた頭を上げる。しかしそんな航太の言葉を遮るように希は彼の唇を自分のそれで塞いだ。
(……ごめんな)
希は心の中でまた謝罪の言葉を浮かべる。それは今までのような航太に対するものではなく、別の人物に向けられたものだった。
●
絵里は重い足をどうにか運んでそこまでたどり着いた。
あれ以来、絵里と航太の関係は一変した。顔をあわせても会話どころか、視線を交わすことすら稀になっていた。自分の決断とはいえ、絵里にとってはそれが辛くてたまらなかった。
それとは逆に、絵里は彼と希とが一緒にいるのを目にする機会が増えていた。それがむしろ彼女にとっては救いになっていた。ふたりの関係が上手くいっている、そう思うとなんとか自分を保っていられた。
しかし、それを素直に祝福できるほどの心の整理は、まだ絵里にもつけられずにいた。だから希の家の前に立っている今も、彼女と会うのは気が進まなかった。ましてや、こうして希の家に呼ばれる理由が絵里には分からなかったから。
それでも絵里は呼び鈴を鳴らす。するとほとんど時間をかけずにドアの鍵が開けられ、その向こうから希が顔を見せた。
「いらっしゃい、エリち」
希はいつもと同じ笑顔で迎える。それが絵里にとっては逆に違和感を覚えた。
絵里は無言で希の後を付いていく。しかしリビングに入ろうとしたところで足を止めた。そこには今一番会いたくない人がいたから。その相手も彼女が来ることを知らされていなかったのであろう、お互いに視線を交わすと驚きで目を見開いた。
「や、やっぱり私帰るわね」
絵里は逃げるようにして身を翻す。しかしそんな彼女の腕が希によって掴まれた。
「あかんよ、エリち」
「希……」
絵里がそれを振り払おうとする気すら失せるほど、希はしっかりと彼女の腕を掴んでいた。そして絵里が完全に観念して動きを止めたのを確認して、希は口を開く。
「……どうして断ったりしたん?」
「っ!?」
前置きだとか前口上だとか、そんなものは一切投げ捨てて、希はずばり本題だけを口にする。
「それは、希が……」
絵里はそこまで言いかけたところで、はっと気付き、口をつむぐ。
本音を口にすることなど出来なかった。それは勝手な押し付けであり、希が望んでいることではなかったから。だからそれを口にするということは絵里にとって、責任を押し付けているのと同義であったから。
「……希には関係ないでしょう」
「関係ないことあらへんよ」
はぐらかすことしか出来ない絵里の言葉を、希は即座に否定する。そして自分を落ち着かせるように一つ大きく息を吐くと、希は絵里の目をしっかりと見据えて再び口を開いた。
「……ウチはコウちゃんのことが好きやから」
瞬間、驚きと緊張で空気が張り詰めた。視線を合わせている絵里だけではなく、傍にいた航太でさえも驚きの表情を隠そうとはしなかった。
「だったら……だったら、どうして!」
「……」
「どうして他人に譲るようなことしたのよ! ましてや自分から」
静まり返った部屋に絵里の咆哮が響く。今までとは違い、感情を剥き出しにして絵里は言葉を投げつける。それを希は逃げるようなことはせず、視線も反らさずに真正面から受け止めていた。
「……エリちはコウちゃんのこと好きなん?」
「好きよ。希だって知ってるくせに」
「だったら」
「出来るわけないじゃない! 希も航太が好きなのこと知ってんだもの。それなのに私とくっつけようとなんてして!」
希の言葉を遮るようにして絵理は続ける。
「告白されたときだって本当に嬉しかった。でも、もし希が私たちのことを応援してなかったら、こうして告白してもらえなかったのかもとか、そんなことをしていた希自身の気持ちだとか。色んなこと考えたら素直に受けることなんで出来るわけがないじゃない!」
絵里は息が上がってしまう程の勢いで自分の気持ちを吐き出していく。希は神妙な表情でそれらを全てを受け切ると、静かに言葉を口にした。
「ウチはコウちゃんのことが好き」
「……」
「でもそれと同じ位エリちのことが好き」
希は語る。絵里とは対照的に、表情も変えずにただただ静かに。しかし己の感情をしっかりと全て込めて希は話す。
「だから、もしウチが頑張ってコウちゃんに振り向いてもらう代わりにエリちが悲しむのと、逆にエリちとコウちゃんがくっついてウチが悲しむの。どっちがええんか考えたんよ」
「希……」
「それで結局、後者の方を選んだんやけど、大失敗やった」
よくやく希は笑った。ただそれはいつもの彼女の笑みではなく、何処か悲しみを含んだものだった。
「耐えられなかったんよ。実際コウちゃんがエリちに告白するって聞いたとき、辛くて辛くて。予想していたよりも全然。だから……」
希はそこで一呼吸置いて、大きく息を吐き出した。そして少し下がり気味だった眉尻と口角を上げて笑った。彼女の特徴でもあるそんな普段通りの顔に戻って希は告げる。
「だからもうウチ、遠慮しないことにしたん」
「っ!?」
絵里は希の言葉に驚きの表情を見せる。しかし希のその言葉の意図を汲むと、それはすぐに一変した。
ウチはそうするけど、エリちはどうするん?
希は口にこそしなかったが、絵里はそう聞かれているような気がした。そしてそんな挑発に乗るかのように、彼女もまた同じように笑った。
「……遠慮しないわよ? 経緯はともかく一度告白されてるんだから」
「ええよ、今はウチの方が一歩リードしとるんやから」
「ちょっと、どういうことよそれ!?」
「ふふん。ないしょ」
「……ぷっ」
「あはははっ」
希と絵里は互いに顔を見合わせると大きな声で笑い出す。何かが決壊したように、心の底から、腹の底から笑い声を上げていた。
しばらくそのまま笑い続けた後、再びお互の視線を交差し合った。それから今度は何かを企んでいるかのような笑いを浮かべる。そして、完全に蚊帳の外に取り残されていた航太の方へと、ふたり同時に振り向いた。
「え!? ……え、えっと。何か?」
ふたりは無言のまま航太の近くまで行くと、彼の腕を両脇からそれぞれ抱えるように掴んでから耳元で囁いた。
「覚悟」
「しておくんよ?」
そう言って、ふたりは笑う。まるで獲物を前にした狩人のような目つきでニッコリと笑った。
そんな彼女らを横に、ただただ航太はたじろいでいることしか出来なかった。
●
「っていう感じのはどうやろ?」
「ダメに決まってるでしょう!」
希ちゃんの提案は絵里ちゃんの一言の前に却下される。それはもう、けんもほろろに。
「えぇ~。ええと思うんやけどなぁ」
「良いわけないでしょ! 大体、何で登場人物が私たちなのよ!?」
絵里ちゃんはほんのり頬を赤らめながら捲くし立てる。
元はといえば文化祭で生徒会としても何か出し物をする、ということから始まっていた。一応は劇をやるという形で話は進んでいたのだが、その内容をどうするか。といったところで希ちゃんが持ってきた話がこれである。
「それはほら、知ってる人間にした方が親近感湧くやん?」
「そんなものいらないわよ!」
全くもって絵里ちゃんの言う通りである。親近感どころか恥を晒しているだけじゃないだろうか。というか俺の扱いも相当酷いよう気がするし。
「ん? どうしたん?」
そんな抗議の意思を含んだ俺の視線に気付いて、希ちゃんはこちらを向いた。
「……あ、もしかして、実際にこんな関係になってみたいとか思ってるんやない?」
「えっ!? そ、そうなの?」
「いやいや。そんな訳ないでしょ」
何故か希ちゃんの言葉を鵜呑みにする絵里ちゃんとそれを否定する俺。そんなふたりのやり取りを、ニヤニヤとした表情で希ちゃんは眺めていた。
それ自体は割とよくある光景ではあるのだけれど。ただ今日は希ちゃんのそれが、いつもの悪戯をする子供のような表情とはちょっとだけ違ったような気がした。
ただそれが、どこがと言い切ることが出来なかった。雰囲気だとか、目の奥のその奥の方が笑っていないように見えただとか、どれも確信をつくには足りないようなものばかりだった。
そしてそれ以上に、そのことを深く知ることがなんだか恐ろしいことのような気がして、俺はそれを気が付かなかったことにしようと、そう心に決めたのだった。
……なんだこれ?
実は一ヶ月前ぐらいに書いてお蔵入りしてたんやつなんですが
スクフェスのイベが絵里→希と、のぞえりが続いたんで
つい投稿したくなって、微修正して今に至る
とか何とか言いつつも、こういう話を書くのも楽しんでる自分がいたりして