風邪をひくと無性にワクワクするのは何故だろうか。俺自身そんなに頻繁に病気になる方ではないし、それこそ何日も寝込むなんてことは未だ嘗て経験したことはない。だからこそ言えることで、病気がちな人からしたら何を不謹慎な、と一喝されてしまいそうな話である。
子供の頃に風邪で学校を休んだ時なんかは、自分がえらく特別待遇を受けているような気がして嬉しくてたまらなかった記憶がある。他のみんなが授業を受けている最中に、自分はただ寝ているだけなのだ。しかも普段とは違って多少のわがままは許された。子供心にしてみれば、これがウキウキせずになんていられる筈はなかった。
でも実際はそれも最初のうちだけで、次第に退屈で仕方がなくなってくる。とはいえ、布団を出て動き回ろうものなら、親から烈火のごとく叱られてしまう。まあそれも当然で。何しろ病人だという免罪符の元、学生の義務が免除されるだけなのだ。代わりに行動が制限されてしまうなんていうのも当たり前の話。
「こんにちは」
「あら、いらっしゃい。久しぶりねぇ、航太君」
どことなく歴史と風情を感じるそんな和菓子屋。その玄関をくぐると、店内で優しげな雰囲気のご婦人に迎えられた
「どうも、お久しぶりです」
「あら、身長伸びた? また一段と男らしくなっちゃって」
「いやいや大して変わってないですよ。中身はガキのまんまだし。というか逆におばさんは全然変わってないですね」
「まっ! お世辞まで覚えちゃって」
やだわぁ、なんて言いながらおば様特有の仕草を見せるこの方が、何を隠そう高坂穂乃果の母親なのである。お世辞だなんて彼女は言っているが。俺はそんなつもりは更々ない。何しろ外見がありえないくらいに若々しいのだ。二児の母、ましてや高校生の娘のいる母親にはとてもじゃないか見えやしない。
「それで今日はどうしたの? お買い物?」
「あ、いえ、すみません。穂乃果の様子を見に来ただけなんです」
「あら、そうだったの。何だか悪いわねぇ、心配かけちゃって」
「いえいえ。いつもお世話になってますから」
「……どっちかって言うと、世話になってるのはあの子の方だと思うけどねぇ」
「あはは……」
おばさんの発言を否定する言葉も見当たらず、かといって馬鹿正直に肯定するわけにもいかず、とりあえず愛想笑いを浮かべてお茶を濁す。
「それじゃあ、悪いんだけど顔だけでも見せていってくれる? あの子も喜ぶだろうしね」
「はい。それじゃお邪魔します」
おばさんに軽く会釈をしてから店の奥へと入っていく。その途中、何と無しに襖の開いていた居間を除くと見知った後姿が寝そべっていた。
「おう、雪穂。元気してたか?」
「ん~? あぁ、どっかで聞いた声だと思ったら航太さんか。こんちはー」
高坂穂乃果の実の妹である高坂雪穂が、ラフな格好で横たわりながら雑誌を眺めていた。その雪穂は俺の声を聞くと、体を起こすことはせずに首だけ曲げて俺の方を向いてそう答えた。
「いいのか、そんなにだらけてて。仮にも受験生なのに」
「へーきへーきー。やる事はちゃんとやってるから。お姉ちゃんとは違うもん」
「まぁ、そりゃそうだわな」
雪穂は姉への辛辣な言葉を口にする。だが実際、この高坂雪穂という穂乃果の妹とは思えないくらい、姉に似ず意外としっかり物なのだ。穂乃果とは違って、ギリギリになって誰かに泣きつくようなことをするタイプの子ではない。恐らく本人の言う通り、計画性を持って行動しているに違いない。
「その姉ちゃんはどうしてる?」
「熱も引いて、もうだいぶ良くなったみたい。なんか退屈そうにしてたよ。もう動けるようになったのにー、って」
「アイツらしいというか、なんというか……」
雪穂の言葉で、暇を持て余しているだろう穂乃果の姿が容易に想像できた。何しろ昔からじっとしていられない性格だ。病気のときぐらいじっとしていればいいものを、恐らくそうもいかないのだろう。
「まぁ、とりあえず様子見てくるわ」
「わかった。後でお茶持ってくね」
「おう。サンキュー」
俺は気の利く妹と別れて、穂乃果の部屋へと続く階段を登っていった。
●
「……寝てんのか?」
穂乃果の部屋の前について二、三度扉をノックしてみたものの、中からの反応は無かった。もし寝ているのだとしたら、あまり大きな音を立てて起こしてしまっては悪い。ドアを開けて中を覗いてみたって構わないのだが、着替え中だったり、あられもない姿で寝ているなんて状況だったりしたらそれこそ申し訳がない。
「なーにしてんの?」
「うおっ!?」
どうしたもんかと悩んでいると、不意に後ろから声を掛けられた。突然のことだっただけに驚きで心臓がバクバクと跳ね上がる。振り返ると、そこにはお盆にお茶を載せた雪穂が立っていた。
「忍者かお前は!?」
「いや、意味わかんないんですけど。つか入んないの?」
「ノックしたんだけど反応無くってさ」
「開けてみればいいのに」
「いやいや。寝てるんだったらいいけどさ、着替え中だったらどうすんのよ」
「ん~、役得じゃない? 一応ノックはしたわけだし」
なるほど、そういう考えもありか。……という冗談はさて置き。このままじっとしていても仕方がないもまた事実だった。覚悟を決めつつ、なるべく音を立てないようにしてゆっくりとその扉を開いていった。
「……あっ」
「なになに?」
扉を少しだけ開らいて、隙間から覗き込むようにして中の様子を伺った。そして部屋の中の現状を把握した俺は思わず声を漏らしてしまう。そんな俺も声に反応して、雪穂も少し腰をかがめて、俺と同じような姿勢で中の様子を覗き込んだ。
「……」
「……」
「……はぁ」
一瞬の沈黙の後、俺と雪穂は顔を見合わせると盛大にため息を付いた。それもそのはず、何しろ中にいる病人であるはずの穂乃果が、部屋の中で軽快なステップを刻んでいたのだから。その姿を見た俺は無言で扉を全開まで開いた。
「ひゃぁあ!?」
バタンという大きな音と共に扉が開かれる。それと同時に、飛び上がらんばかりに驚いている穂乃果の姿がそこにはあった。
「え? え? 雪穂? ってか航太君も!?」
「……」
「え? あっ! あははは」
何が起こったのかわからない。そんな混乱している様子の穂乃果を、仁王立ちでただただ見つめていると、ようやく現状を理解したのだろう。耳に刺さっていたイヤホンと音楽プレイヤーを必死で隠すと、穂乃果は取り繕ったような乾いた笑顔を浮かべた。
「おまえなぁ……」
「ち、違うの! ちょっとストレッチしてただけだよ。ホントだよ!」
「説得力無さすぎでしょ……」
しどろもどろになりながら必死で弁明する穂乃果と、それに呆れ返るその妹と俺。何というか無性に情けなくなる光景だった。
「はい。お茶」
「おう。ありがとう、雪穂」
「どーいたしまして。それじゃごゆっくり」
手に持っていたお盆をテーブルの上に置くと、ひらひらと手を振りながら雪穂は部屋を後にする。この間も穂乃果の顔には乾いた笑いが張り付いたままだった。その姿もやはりどっちが姉で妹か分かったものではなかった。
「まったく。風邪ひいた時くらい大人しく寝てろよ」
「……だって退屈だったんだもん」
拗ねたようにぶうっと頬を膨らませて穂乃果は言う。彼女の性格を考えたら無理な注文なのかもしれないけれど、それでぶり返しでもしたら元の木阿弥だろうに。
「はぁ……せっかくお見舞い持ってきたけど、持って帰ろうかな」
「ホントに!? なになに?」
俺は今まで手に提げていた紙袋をテーブルに置いた。すると穂乃果の熱い視線がその紙袋一点へと注がれた。
「ほら。大福」
「えぇ~」
穂乃果は怪訝そうな顔をして、心底不満げにそう漏らす。いつもそうだが、和菓子屋の娘がそこまで餡子を毛嫌いするのもいかがなものかと思う。
「別に嫌いなわけじゃないもん。ただ食べ過ぎて飽きただけで」
「同じようなもんだろ。おばさんもおじさんも泣くぞ」
「ていうかウチ和菓子屋だよー。普通、和菓子屋にお土産で大福もって来ないよぉ」
「……冗談に決まってるだろ。本当はプリンだし」
「ホント!?」
不服そうな表情は何処へやら。穂乃果の表情が一瞬にしてパッと明るいものに変わる。そしてガサガサと音を立てながらその中身を確認すると、その輝きはさらに増していった。
「駅前の店のヤツ。前に食べてみたいって言ってただろ」
「やったー。ありがとう 航太君!」
「まぁ、風邪ひいた時ぐらいはな……って今食うんじゃねーよ」
「何で!? だってすっごく美味しそうだよ?」
「もう少しでメシ時なんだから、それまで我慢しろって」
「……はーい」
穂乃果は手に持っていたプリンを寂しそうに見つめた後、渋々とそれを袋の中へと戻していった。袋へ入れた後もしばらくの間、名残惜しそうにそれを眺めていた。
「というか、晩飯まで少し寝ろ。動いて汗かいただろうから、またぶり返すとよくないし。それに俺ももう帰るから」
「ええっ!? もう帰っちゃうの?」
「様子見に来ただけだからな。思ったより元気そうで安心したし」
「もうちょっと居てよ~。ずっと退屈だったんだからぁ」
渋る穂乃果を無視し、背中を押して半ば強引にベッドの中へと誘導した。年の離れた妹というか、本当に小さな子供を相手にしているようなそんな気分だった。
「ぶぅー。航太君のイジワル」
「はいはい。完全に治ったら聞いてやるよ」
「……ねぇ」
「ん?」
「だったら、せめて穂乃果が眠るまで手繋いでてくれない?」
それこそ小学生じゃあるまいし。高校生にもなって、ましてや親族ならいざ知らず、幼馴染相手にそんな恥ずかしいことが出来ようはずもない。
「その方が落ち着いて早く眠れるんだもん」
「いや、そうは言ってもなぁ……」
「じゃあ、起きてプリン食べる」
「……はぁ。分かったよ」
今日だけだ。そう、相手は病人様だ。今日だけは特別。こっちが折れなきゃ収拾もつかなさそうだしな。
そう自分に言い聞かせるようにして、穂乃果の要求を受け入れる。布団の隙間から伸ばされた穂乃果の手をそっと握ると、風邪のせいなのだろう、普段よりも幾らか余計に熱を帯びているような気がした。とはいっても穂乃果と手を繋ぐ機会なんて滅多に無いのだけれど。
「航太君の手、冷たくて気持ちいい」
「お前の手が熱いんだろ。つーか熱ぶり返してきたんじゃないか、言わんこっちゃない」
「えへへ。ごめんなさい」
穂乃果は叱られているはずなのに、何処か嬉しそうに笑っていた。
しばらくそのまま手を握っていると、彼女の言葉通り、程なくして穂乃果は規則正しい寝息を立て始める。それを確認した俺は、何となく後ろ髪を引かれつつもそっと手を離し、穂乃果のそれを布団の中へと戻してやった。そして部屋の明かりを消して、なるべく音を立てないようにしながら穂乃果の部屋を後にした。
風邪といえばアニメだとシリアス一直線なんですが、
この作品ではシリアスのしの字も無かったり