――連絡してから、あの子がカノコタウンに戻ってくるまで丸一日かかった。
何でも、アララギ博士から頼まれた、新しい図鑑の調査をするであろう子供たちにポケモンを渡しに遠い街に出かけていたらしい。
あと冒険の簡単なレクチャーをして、そのあと彼女はすっ飛んで帰ってきたという。
その間、トウコは挙動不審で部屋の中をウロウロしては奇声を上げて悶え苦しむ時間を過ごしていた。まるで禁断症状が起きたヤク中の人みたいだった。
その主の醜態を、アークとディーが呆れ半分のジト目で眺めていた……。
「こんばんわっ!! あの、おばさんっ! トウコ、帰ってきてますかっ!?」
下の階で、そんな息の荒い懐かしい声を聞いたとき、心臓が爆発するかのような思いをした。
「…………」
普段のダウナーさが消えたトウコ、長年使っていなかったのにシミ一つないシーツの頭から被って、ベッドの上で震えていた。
電気もつけず、息を殺してじっとしている。主に、恐怖のせいで。
自分から連絡したくせ、いざ逢うとなると小心者なトウコは竦み上がって、迎えに行くことができなかった。
本当に、何を言われるか想像しただけで怖い。
あの幼馴染のことだから、泣いて怒るか泣いて喜ぶか泣いて引っぱたくかどれかだろう。
泣いて、以外の選択肢は多分ない。
『おいトウコ、例の幼馴染来たぜ?』
部屋の隅っこに置いてある、ラジカセにイリュージョンで変身したアークの、ノイズ混じりの男の声がする。
念の為、アークには部屋の中で見張っててもらうことにした。何かされたら逃げられるように。
『何時までビビってんだよ、お前が呼び出したんだろうが』
「……」
『やれやれ……相変わらずチキンだな……。まあ、何かあったらすぐ助けてやるから、頑張んな』
それっきり、アークラジカセは黙り込んだ。
彼女の手持ちたちは、棚にボール置きに設置されている。
何かあれば、みんなトウコを守るために人間にだって牙を向く。
そういう、仲間意識で繋がっているから、こうして監視の目を光らせている。
階段を駆け上げる乱暴な足音が近づいてくる。
ああ、そんな、急がないで、心の余裕を頂戴と思うけれど、彼女はそんな余裕はないだろう。
『トーコ! トーコ!』
何かイントネーションがおかしくなっているが、間違いなく彼女の声だ。
少し大人っぽくなった彼女の声で、トウコの名を呼ぶ。
「っ!」
思わず耳を塞ぐ。ひっ、と喉から潰れ損なった悲鳴が漏れる。
声の雰囲気からして怒ってはないが、だが穏やかじゃない空気も感じる。
トウコにはそれだけで、何か攻撃の意思を感じさせるには十分だった。
『トウコそこにいるんでしょおー!? ドア開けてよおー!』
ドアに鍵をかけておいたので、ドンドンドンッ! とドアを雑に叩くベルらしき人物。
「……」
ドアの鍵を閉めたのは、最後の最後で拒絶の意思が出てしまったから。
逢いたいのは本心なのに、同時に成長したベルに困惑して逃げ出そうとしている自分もいる。
どっちなんだろう。逢いたいのか、逢いたくないのか。
多分両方だ。逢いたいけど、逢いたくない。それで正解。
どうせ今の彼女は、過去の全てに怯える小心者。
それが幼馴染だったとしても、二年間離れていれば過去になる。
過去に怯えるから、変化した幼馴染にも怯える。変化が怖い。
どんな世界だろうが、どんな人間だろうが時間の流れは確実にある。
どんな意味でも変化をしていくのが世界であり、人間であり、ポケモンだ。
だが、トウコは変化を拒んでいる。それは、変化する万物から置いてけぼりにされていくことだ。
時間の流れに足を止めて、突っ立っていることだ。
その意味はつまり、取り残されて居場所を失うということだ。
自分のやっている愚かしい行為など自覚している。でも、それでも怖い。
自分の前にいるベルが、手を振ってこっちに来いと言っても行けない。
自分が変化していないことを知っているから。
英雄の重荷に堪え切れず逃げ出した過去を今でも引き摺っている自分は、何一つ成長していないから。
「……」
きっとベルも、新しい事を何か始めているのだろう。その目先は、間違いなく前を見ている。
自分はどうだ。トウコは振り返ってばかりで、見ている先は過ぎ去った過去ばかりで、目線は決して前を見ることはない。
それが違いだ。未来を見ている人間と、過去を振り返っている人間。
かつて、理想と真実は相容れないとトウコは誰かに言った。
これも同じだ。過去と未来は相容れない。やはり、間違っていたのだ。
ベルに逢いたいと思った気持ちは、過去の傷痕に自ら刃を突き立てる行為にほかならなかった。
なんて馬鹿なんだろう。泣きたくなった。
自分は過去に囚われた英雄の成り損ない。
やっぱり、イッシュのどこにも現在の居場所なんてなかった。
戻ろう、放浪の旅へ。また、逃げ出してしまおう。何もかも捨てて、何もかも振り切って。
イッシュに戻ってくるまで悩みに悩んだくせに、逆の選択肢はこうも容易く選べたことに、トウコは濁った瞳で自分を手を見た。
この手が生み出したのは、トウコにとっては居心地の悪い世界だった。
所詮、他人事のために動いてたトウコに、未来なんてなかったんだ。
傀儡のトウコにはお似合いの結末だ、と鼻で笑ってしまう。
トウコにとってはこれが真実で。
誰かにとっては、これは理想で。
自分勝手な人間が心底羨ましい。あんな風に振る舞えれば。
多少なりとも自我があれば。こんな結末、訪れなかったのに――
『いい加減に、しろおおおおおーーーーーっ!!』
どーーーーーーんっ!!
「え゛っ……」
何か、過去に聞いたことのないほど怒り狂った幼馴染の声が聞こえた。
あと、何かが爆ぜるような断末魔も。シーツから頭を出して、ドアを見て。
トウコは戦慄し、言葉を失った。
「はぁー……。はぁー……」
――そこには、トウコのイメージとはあまりにもかけ離れた光景が広がっていた。
完全に血走った目でベッドの上のトウコを睨むベル。
メガネをした表情は鬼のごとく、温厚な彼女からは想像できない。
慌ててきたのか、荷物は廊下からちらっと見える。
彼女に付き添うように座っているのはムーランド。
ひさしぶりトウコさん、という感じで一声鳴いた。
彼女の相棒の一匹で、木屑がパラパラ頭に降りかかっている。
足元には、破壊されたドアノブと木片が飛び散っていた。
「トーコー……? 自分から、呼び出しておいて……部屋に閉じこもってるって、どういう了見かなぁ~……?」
あは、あはは……と乾いた笑い声を上げるベル。青筋が浮かんでいる。
あれはあれだ、怒りすぎて笑うしかないというベルのマジギレの状態だ。
数年前に、ベルの楽しみにしていたお菓子を全部トウコが盗み食いした時以来の、マジギレだ。
普段はもう一人のメガネが一番怖い。その理由は、小言をずっと言っているからだ。
だが感情の発露という意味では、ベルが一番怖い。
理由は、火山の噴火よろしく切れてしまうから。
多分もう、話し合いでは解決しない。
経験で知ったが、普段おとなしい人ほど怒るとマジで怖い。ベルはそのタイプ。
「ひぃぃぃぃぃっ!?」
トウコは悲鳴を上げて震え上がった。
当然、チキンだからであるがそれ以上にベルの予想以上の怒りが全神経を活性化させる。
反射的に逃走準備をしておいた荷物を持って逃げようとする。
「させないよっ! ムーランド、荷物押さえて!」
「ガウッ!」
ぴしっと命令、素早いムーランドがトウコの荷物を銜えて差し押さえ。
「そんなっ!?」
手を伸ばした先で奪われる荷物、トウコは一瞬フリーズした。
「隙ありぃっ!」
その間に、駆け寄ったベルがベッドに向かって突貫した。
「え゛っ?」
振り返るとベルが突撃してきていた。
ぶっ殺スイッチ入ってる鬼フェイスで。
「トオオオオーーーーコオオオオオオーーーーー!!」
「きゃあああああああああーーーーーーーーーー!?」
トウコにとって、予想斜め上の地獄が始まった。
ポケモンを置いておいた、人間同士のリアルファイトである。
結果、ベルは二年経ってもキレると怖かった。
アークはとっとと逃げ出していて、役に立たなかった。みんな怖くて助けてくれなかった。
二階で悲鳴と怒号と破壊音で騒がしいのを、母は初めて冒険に出たとき、室内でポケモンバトルをしてしっちゃかめっちゃかにされていたことを思い出して一人お茶を啜っていた……。
「――改めて、おかえりトウコ」
「……ただいま、ベル……」
色々爆発してしまった喧嘩から一時間後。散らかり放題の室内で、再会の挨拶をする二人。
比較的被害の少ないベッドの上で、二人は座る。
トウコはベルを横目で見た。ベルは少し髪の毛が伸びていた。
大きな触覚みたいに跳ねた髪の毛は健在で、今はメガネを外しているが、どうやら視力が悪くなったわけではないみたい。
全体的に明るく真っ直ぐ大人っぽくなったベルは、心配そうにトウコを見る。
トウコは決して目を合わせようとしない。そっぽをむいている。
ベレー帽はあの時のものとは違うようだが、でもしっかり被っていた。
パーカーとジーンズと、あの頃とは違って随分とラフな格好になったものだ。
対してトウコは、あの頃にしていた帽子は家において、今は壁に引っかっている。
適当に伸ばした髪の毛は一つにまとめることも嫌になって放置して伸ばしている。
雰囲気もどこかダークになっており、顔も疲れたような表情だ。
ベルとは違って、悪い意味で成長しているような印象が強い。
ベルは聞きたいことが山ほどあった。
なぜこのタイミングで帰ってきたのか。
この二年間、どこで何をしていたのか。
どうしてももっと早く連絡してくれなかったのか。
そして。
最初のポケモンたちは、何処に行ってしまったのか。
ここに来る前に、疑問をぶつける気でいたのに。
だが、
「……」
――今のトウコは、それをシャットアウトするような強い拒絶感を纏っていた。
二年前とは、別人のように黒く、暗く成長した幼馴染。
「……トウコ……」
静かに名を呼ぶ。
だが、トウコは遠い目で違う場所を見ているだけ。
しばらく、気まずい静寂が包む。
やがて。
小さく、トウコが切り出した。
「――失望したでしょ。これが、今の私よ」
「えっ……?」
最初、何を言い出したのか、分からなかった。
トウコは、暗い瞳でベルを見て、ニコリと笑った。
まるで、油を切らして壊れてしまったロボットのように、ぎこちない動きで、顔を歪めて、わざとらしい笑顔で。
「今の私はね、元々誰とも逢うつもりはなかったの。戻っても、どうせ人形のようにかつて冒険していただけの日々を思い出すだけだから。でも、どうしてもケリをつけなくちゃいけないコトがあったから、イッシュに戻ってきた。そして、私は忘れ物を清算しようとして、どうやら失敗したみたい」
「……トウコ?」
トウコは、一方的に続ける。
「ベル。私は、忘れ物を片付けたらまた旅に出るわ。今度はもっと遠く、イッシュからもっと遠くへ。当分は戻ってくるつもりはないし、最悪もう帰ってこない。だから最後に、ベルに顔を合わせておこうと思って連絡したのよ。前みたいに、黙っていなくなるのは流石にいけないと思ったから」
肩を竦めるトウコは、哀しそうだった。苦しそうだった。
遠くへ行く。イッシュから出ていく。帰ってこない。
それだけが、長い説明の中でベルの中にすんなりと入ってきた。
それは、永遠のオワカレの予感がした。
「……トウコ、また遠くへ行くの?」
「ええ」
「……今度は、帰ってこないの?」
「ええ」
「どうして?」
「イッシュが嫌いだから」
「何で?」
「嫌な思い出しかないから」
トウコは淡々と答える。事務的な会話の中、ベルはトウコとの壁を感じた。
突き放すような、冷たい壁を。
「……それは、Nさんのこと?」
「ええ。Nに関しても大きいわ」
禁断かと思った質問も、すんなりと答える。
顔は相変わらずのわざとらしい笑顔。
「…………。今のイッシュも、嫌い?」
「ええ。とびっきり、大嫌い」
なんて歪な笑顔だろう。
これが、あの頃と同じ少女なのだろうか?
空白の二年間、そしてあの冒険中に。
一体、彼女に何があったのか。
ベルには予想もつかなかった。