――ごめんなさい。
「えっ……?」
小さな声で、過ちを認める、そんな声が、聞こえた。
「ベル……。ごめん……なさい……。私……一体、今まで……何を……」
「トウ……コっ?」
震える身体、小さな声。痛みを自覚し、強い自責に囚われた、少女。
「私……間違ってたんだ。何しようとしてたんだろう。どうして、ベルまで犠牲にしてまで……。私……そこまでして、人を殺したいなんて……願ってなかったのに……。どうして……」
「トウコ……」
――二年前に、戻ったような口調だった。
当時まだ幼子のように感情を露わにし、みなと楽しくいた頃の、彼女のような。
ダウナーな彼女はそこにはいない。
いるのは、自分のやってきたことへの自覚し、自分を責めている一人のトレーナー。
さめざめと泣きながら、ごめんなさいと、繰り返す幼馴染だった。
ベルはそんな彼女を、優しく頭を撫でて、何も言わず、抱きしめた。
しばらくし、彼女は……こう、呟いた。
「ベル……。私、怖い……。何で、人を殺したいなんて……思ってたの?」
その時、いち早く違和感に気付いたのは、彼女の手持ちのポケモンではなかった。
「え」
顔を上げ、腫れた目をしながら彼女を見るトウコ。
その顔には、明らかな困惑があった。
彼女は、怯える顔で、再び、問う
「ベル。私……誰を殺したいと、思ったの……?」
「っ!?」
それを聞いたとき、見たとき、ベルは背筋が凍りついて、戦慄した。
一度だけ、彼女が、ぶっきらぼうに、半切れしながら説明していた事を思い出す。
そう。トウコは強い心の傷を負っている。
そしてそれは、あいつらが全部悪いという外罰的にシフトした思考によって、支えられていた。
それを自らの疑問で打ち崩した事で、トウコは……壊れてしまった。
一度だけ語った、彼女がベルに説明した、万が一の可能性。
急性ストレス障害。俗に言うトラウマ。
表現ではなく、違う言い方をすれば急性ストレス障害ともいう、立派な病。
命を失いかけた二年前の最終決戦の時に発症し、そのストレスを忌避するために、心が行う逃避行為。
酷ければ、一時的な記憶障害を起こす。
「あれ……? 私……? 誰を……憎んでいたんだっけ……?」
泣き止み、腫れた目で、そう呟く。
思い出さないほうがいい、と脳が判断して、記憶を封じ込めてしまった。
呆けている。自分の中の、疑問に首を傾げて、疑問符を浮かべている。
憎しみが、消えている。否、忘れている? 思い出せないでいるのか?
ポケモンたちも、困惑したかのように、トウコの中を探る。
見当たらない。彼女の中にあった、今の彼女たる根拠を示していたハズの感情が。
ようやく見つけたその感情は、彼女の中で隅っこに追いやられ、妙なもので周囲を固められている、不気味な形状に変化しているのをココロは見てしまった。
一方、ベルも思い当たる節があった。
(これってまさか、トウコが言ってた……記憶障害!?)
……トウコは、稀に記憶が飛ぶことがある。
それは、一度だけNの城に自力で近づこうとして失敗し、その時の記憶を失ったあの時と、同じ。
それを事前に、しつこく聞いてきたベルにだけ、軽く説明しておいた。
そのおかげで、彼女はギリギリの場所で、助かった。
今度のは、もっと重症だったけれど。
「私…………。あれ、っていうか……私は……誰なのかしら……?」
自分の名を、忘れかけている彼女の肩を掴んで、ベルは怒鳴った。
「トウコッ!!」
びくっ、と怯えた表情で、トウコはベルを見た。
その瞳は、幼馴染ですら見たことのない色が浮かんでいた。
即ち――未知への畏怖が。
既知である彼女に、こんな色を向けるはずがないのに。
「だ、誰……?」
声を出されて、ベルは咄嗟に叫びそうになった。乱暴な言葉で、思い出せと。
だが、喉元までせり上がった声を、意識で握り潰して、優しく幼子に言い聞かせるように、言う。
「あたしだよ、トウコ。ベルだよ? 分かる?」
「……」
数秒の間を開けて、トウコは思い出したように頷いた。
「あなたは、トウコ。あたしの、大切な、大事な、幼馴染。分かる?」
「……ええ」
一個一個、消えそうになってる記憶のピースを、彼女のパズルにはめていく。
これが正しいのかは分からない。
でも、やらなきゃいけない。
そんな気がして、彼女はずっと問いかける。
「あたしと、トウコは、幼馴染。大切な、人」
「……うん」
「あたしは、ずっと、トウコの、そばにいる」
「……うん」
「だから、一人で泣かないで、いいの。悲しまなくて、いいの。怖がらなくて、いいの。怯えないで、いいの。あたしは、ずっとトウコと一緒」
「いっ……しょ……」
「そう。分かる? 自分が、誰なのか。あたしが、誰なのか。そして、トウコは、自分でこれから、未来を決めるの。あたしも一緒にいるから。逃げないでも、大丈夫だよ。あたしが、トウコの手を引っ張っていく。独りじゃない。あたしがいる」
「ベル……一緒……」
落ち着かせるために、言い聞かせる。
優しく、ゆっくり、一歩ずつ。
もう一度抱きしめて、彼女に言った。
「トウコ。いいんだよ。泣きたい時は、泣けばいい。あたしがいるから。あたしがトウコの泣き言、聞くよ。溜め込まないでいい。あたしが、トウコの弱い部分、支える。だから、ね? 何も、怖がること、ないよ?」
「……」
トウコの中に、変化が起きた。
戻りたい、逃げたくない。
大切な人が、ここにいる。大切な世界が、ここにある。
私は、立ち止まらない。過去も過ちも自分の出した理想も。
全部受け入れて、前に進みたい!
どこかで、そう叫ぶ声が、聞こえた気がした。
閉じこもりかけていた記憶をおおう球体が、ヒビを入れられ解放される。
ココロが見つめる先で、まるで影の繭を内側から壊すかのように、細かい罅から漏れ出す光。
それが、一つの現実を欲して、向いたいところに、自らの足で、駆け出した。
トウコは、壊れずに、再生した。
ベルの、言葉によって。
暫くの間、無言を貫いていた彼女は、ゆっくりと、言った。
「……ベル、ありがとう……。私は、もう平気よ」
しっかりとした目を取り戻し、彼女は何時もどおりのトーンでそう告げた。
「もう、くすぐったいわ。そんなに強く抱きしめないで?」
軽口を言って、彼女から離れた。
ベルは治ったらしいトウコを、心配そうに見つめて、問うた。
「トウコ、大丈夫? 何があったの?」
「……ごめんなさい。少し、自分でも混乱しているの」
トウコは、少しだけ時間を貰い、自分の中で生まれた、たった一つの正解を、見つめ直す。
(……私は……間違っていたのね……)
そう。
トウコは間違っていた。方法を。手段を。
間違いだと認めるのが嫌で自分は正しいのだと言い聞かせ、英雄だからという理由で自分を奮い立たせ、自分のしようしていることから目を逸らして。
凄惨な事になるのは考えれば分かっていたのに、考えなかった。
見えない人からの気持ちに怯えて、自棄糞になって、いない誰かに逆ギレして、そんな自分にすら嫌気がさして全てを否定し逃げ出した。
(でも……人を殺して、なんになるの?)
法律は、誰にでも一定の効力がある。
英雄だろうと、悪党だろうと、救う時は救い、止めを刺すときは容赦ない。
それを忘れ、独善と偽善で私にはやらなければいけないことがある、などと意気込みそして呆気なく自滅。
情けないにも程がある。
(悲観しすぎたのかもしれない。私は、未来を何処かで諦めていたのかな)
名を思い出した。
ゲーチスがいる限りイッシュに平和はないと、諦めていたのもしれない。
諦めを自覚する前に憎しみに囚われた結果、人を殺すという決意までして。
(滑稽ね……)
我ながら呆れてしまう。
奴を殺せば自分も同罪、下手をしなくても咎人になる。
なのに自分は平和な未来を夢見ていた。
(欲しい未来がああなら、方法は別にしないといけないのに)
『お姉ちゃん……大丈夫?』
『トウコ、無事か?』
『トウコ、だいじょうぶ?』
ココロ、アーク、シアが心配そうに聞いてくる。
(大丈夫よ。ちょっと混乱しただけ。ごめんね、みんな)
トウコの身を案じてくれたのだろう。迷惑をかけてしまったことを謝罪する。
『病み上がりで治りきってねえのに何してんだお前……』
『お前は心配するのか悪態つくのかどっちかにしろ、ディー』
『うるせえ
『……。なんだろうな、今お前の言葉に久方振りの悪意を感じたぞ』
『だろうな』
何かオス二匹が揉めそうな空気があるが、まあ心配したんだろうと思いたい。
していないのはこいつだけだ。
『……zzz』
寝てやがるギガスのみ。こいつは蚊帳の外だ。知りもしない。
休みの日のおっさんのように横になってぐうすか寝ている。
尻を指でボリボリかきながら。
『この野郎、肝心なときに寝てやがる……』
ぷちっと血管がキレたような音をさせてアークが引きつった顔で言っている。
『やれやれ……。お姉ちゃん、無理はしないでね』
(ええ)
ココロが呆れながら、アークを騒ぐなと怒る。
『……んあっ? 誰か、今レジギガスの事を呼んだか?』
突然目を覚ましたアホが飛び起きて、正座するや周囲をキョロキョロ。
『遅えよ!』
アークにツッコまれ、ギガスは膝を抱えて落ち込んだ。
指で床をなぞっているというわかりやすさ。
何というか、和んだ。彼女たちなりに、励まそうとしているのだろう。
(何でもないわ、ギガス。昼寝を続けていいわよ)
『貴殿がそういうのなら』
何という変り身の速さ。
膝を抱えていたのを横になると、またグーグー寝始めた。
『この野郎……』
『まあまあ』
主の一大事に、爆睡を選んだギガスに殺意でも湧いたのだろうか。
アークの声が殺気立つ。シアが宥めて流していく。
(ふふふっ……)
能天気な子らだ。
五月蝿かった心が穏やかになっていく。
そして、クリアになった心に浮かんだ答えを、彼らに伝える。
(みんな、ありがとう。私は、もう間違えない。過去のやったことは取り戻せないけど……受け入れることは出来ると思うの。因縁に囚われた個人的復讐なんて、意味がないわ。誰もが不幸になるだけ。これ以上、ベルやチェレン達に迷惑もかけたくないし。もうやめるわ。これから先も楽しく生きたい。あのクソ野郎のせいで、私の人生棒に振るなんて冗談じゃないもの。私の理想の実現は、少なくても法の中でやることにする)
――それは、劇的な瞬間だった。
今までの全てを抱きしめて、憎しみすら含めて過去を肯定し乗り越え、倫理観が戻った彼女の産声。
彼女のポケモンは、それをあっさりと受け入れた。
「ベル」
トウコは、不意に声を出して大切な人を呼んだ。
「えっ?」
ベルが反応すると、トウコが笑っていた。
今までのような、無理をしたような笑みや、寂しそうな笑みではない。
ベルが待ち焦がれていた、心から微笑んでいる、トウコの笑顔。
「今まで、本当にありがとう。ベルのおかげで、立ち直れた」
そう言われて、ぽかんとしているベル。
感謝の意を込めて、彼女に万感の思いを告げて、トウコは改めて、宣言した。
「私、復讐を――この手でプラズマ団を壊滅させるのを、やめることにしたわ」
と。