――その中は、質素なものだった。
中はそうは広くないが、そこかしこにポケモンたちが朝飯と思われる食事を取っていた。
突如現れた客人に、不信な目を向けるが特に関心はないらしい。素っ気ない。
ボコボコに腫れた顔をした男性を見て、作業をしていた別の男性が何があったと慌てて救急箱を持ってきて駆け寄り、腕を組んで壁に寄りかかるトウコは黙ってその様子を見つめている。
男性は何も言わずに首を振り、それだけで事情を察した。そしてトウコを見つめる。
「何か、ご用のようですが……」
困惑顔だ。トウコの知っている顔じゃないので、もしかしたら関係者じゃないのかも。
トウコはただ見返し、喋らない。
「彼女は二年前の関係者だ。ゼクロムに選ばれた、あの少女だよ」
「ッ!? あの、ロット様の話に出てきていた、英雄の少女か……っ!?」
男性が、顔に湿布を貼りながら説明すると、驚愕の目でトウコを見る。
「……だったら悪い? この建物ごと吹っ飛ばされたくなければ、とっととゲーチスの居場所を吐いて。黙ったり嘘を言ったら、ここにいる人間を皆殺しにするわ、残らず」
トウコの口から飛び出した言葉に、目を見開き、彼女が本気で言っていることに気付く。
みれば、トウコはすぐにでも誰しも構わず殴りたい衝動を抑えていて、怒らせなくても血を見るのは間違いない発火寸前を辛うじて保っていた。
「それに、今ロットって言ったわね。あの
「……おい、ロット様はまだご就寝だぞ。起こしてくるべきか?」
男性は、手当を終えた男性に小声で問う。
傷だらけになってもなお、トウコに何も言わない彼は、言った。
「言うとおりにしておこう。彼女は本気だ。ゼクロムにここを壊されでもしたら、また一からやり直さないといけないくなるぞ」
トウコは黙ったままギロッと睨んで、早くしろと目で命令し、男性は奥に向かっていった。
小声で呟いた独り言が、トウコの耳にも入ってくる。
「……あれが、ロット様の話の中の黒き英雄だと? なんなんだ、あの殺気と闇に満ちた眼は……」
お前らが私をそうしたんだ――言外に、そう伝えている彼女はかつての仇敵、七賢人が一人に、二年ぶりに顔を合わせることになる。
「トウコッ!? トウコーッ!!」
一方その頃、目を覚ましたベルがパニックを起こしてホテル中を寝巻き姿のまま駆け回っていた。
トウコがまた、いない。一人きりで、何処かに行ってしまった。
連絡もなしに、何処にも行かないと言ったばかりなのに。
あの言葉は、嘘だったのか。
あるいは、また激情に飲み込まれて自分を抑えきれなくなって飛び出していってしまったのか。
その可能性があるから、「あのこと」は黙っていたのに。
まさか、誰かからその情報を入手して、あの場所に向かったというのか。
最悪の未来が脳裏を過ぎる。
あのプラズマ団に対して、憎しみの塊のようなトウコのことだ。
行ってしまったら、もう取り返しがつかない。
今度こそ、人を殺す。あの場所にいる、新しい未来に歩き始めた彼らを、全員。
誰がいくらなにを言っても、耳に入らず、憤怒と憎悪に身を任せて暴れて、皆殺しにして血の海を作り出してしまう。
(トウコ、それだけはダメだよ、トウコ――!)
禁忌である人殺し。
今のトウコは、その理性のリミットが限定的に外れてしまう。
首輪が外れ、手枷が引きちぎられる寸前で、足枷を引っこ抜いて彼女は行ってしまう。
油断していた。いや、信じていたと言っても良かった。
彼女なら、きっと分かってくれる。信じて、一緒にいてくれることを選んでくれると。
だが、トウコは一人で動いた。ベルを置いて、一人で出かけていた。
(あたしが、信じられなかったの!? どうして、トウコ!?)
問いかけてもその返事ができる人は、血に手を染めているかもしれない。
(抑えて、堪えて。その一線は超えたら戻って来れなくなっちゃうよ、トウコ)
急がなければ。ベルはすぐに部屋に戻り、着替えを始める。
バタバタしているが、頭だけは冷静になろうと必死だった。
「……あれ?」
そして不意に気付く。トウコの寝ていたベッドに、一枚のメモ用紙が置いてあった。
慌ててそれをひったくるように掴むと、中にはこう書かれている。
――ベル、これを見てるってことは私はいないんでしょう?
慌てないで。私は少し出かけてくるわ。
もしかしたら、あのことを受け入れることができるかもしれないから。
頑張ってみることにしたの。だから、心配しないで。私は、もう間違えないから。
でも、もしも。万が一、私がダメだったときは、私をベルの手で止めて欲しい。
それでもまだ私が暴走していたときは、ベルがその手で私を殺して。
そうしないと私、多分止まれないから。
こんなこと、頼めるのはベルしかいないの。私は、ベルとチェレンとは戦いたくない。
だから、私が壊れてしまって最早言葉すら届かなくなったら。
その時は、躊躇いないで私を殺して下さい。それが私の望み。
これが、最後の別れになるかもしれないから、こんなネガティブなことを書いているけれど、そうしないために私は向かうつもりです。
お願いします。
トウコ。
「……トウコ、やっぱり……」
ベルは青ざめて、呟いた。
目的地は分かった。つまり、トウコはあの場所に向かったのだ。
黙っていたハズの、協会に。
過去の過ちの償いをしている人がいる、あの場所に。
「……っ!!」
ベルは着替えを再開する。
間違いない。トウコは、自分なりに前に進むためにあえて一人で行ったのだ。
過去を受け入れる覚悟をもって。
だけれど、最後の最後でまた足が竦んで、こんなネガティブな書置きを残していった。
こんな、遺書みたいな書置きを。
「トウコ、あたしもすぐに行くから……!」
大切なハズの荷物をほっぽり出して、貴重品も面倒なので置いていって、財布だけ持ってベルは部屋を飛び出して言った。
今大切なのはトウコひとり。
走るベルの頭には、怒りに堪えているトウコの横顔がずっとこびりついていた。
トウコは、紅いシャツに黒いジャケット、黒いジーンズにボサボサに伸ばした黒髪のロングヘアという格好だ。
表情はぶっきらぼうで、全体的に強い憎しみのオーラを放っている彼女。
二年ぶりに顔を見たその男は、トウコを見るなり、どこか孫を見た祖父のように優しい笑顔を浮かべていた。
「久しいな。二年ぶりの再会か。達者にしていたようだな、カノコタウンの少女よ」
大きめの民族衣装のような服装の男、ロットは外見は何も変わっていなかった。
だが確実に、あの二年前の時の狂気じみた雰囲気を削ぎ落としていた。
教祖と信ずるゲーチスを崇拝していた狂信者はそこにはなく、ただの人間として、ロットは立っていた。
席を進められて、トウコは壁から背を離し、木の座席に腰をおろす。
「いや……トウコ、という名がお前にはあったな。見る限り、立派に成長したとおもったのだが……。その前に、少し怪我を負っているか。ヒウンの話は聞いている。お前があれを起こしたんだそうだな」
目を細め、指摘した。鋭い。
まだどこかぎこちないトウコの動きをみただけで、ヒウン事件の時に負った怪我と見抜いた。
相変わらずの観察眼に、トウコは素直に応じることにした。
少なくても今のこの人に悪意は感じない。
手当てをするかと問われても、トウコは辞退した。
「……あんたも随分と丸くなったわね、ロット。さっきはあんたんところの人、突然殴り倒して悪かったわ」
驚くほど素直に、忌み嫌っていたはずのプラズマ団幹部に、謝罪を言うことができた。
ロットの纏う空気は、それ程劇的に変化していた。
「いいや、構わないと彼は言っている。我らも、承知の上だ。私達に日々浴びせられる罵倒も、直接振るわれる暴力も、全ては二年前おのれの起こしたことが原因。感情を抑えることができないのは、被害者ならば同じだ」
ロットはそう言って、穏やかに笑う。
トウコは急にあの暴力が意味のなさない八つ当たりであることを自覚して恥ずかしくなった。
相手が無抵抗なのをいいことに、やりたい放題してしまった。
トウコはもう一度、丁寧に謝罪して、話を切り出す。
「ねえロット。こっちもまっすぐ言うから、正直に答えて。今のプラズマ団は、二つに分かれているんでしょ?」
トウコが問うと、ロットは少々驚き、そして何故か褒めた。
「……ほお、ここにきただけでそれを見抜いていたか。流石に、英雄と呼ばれるだけの観察眼は持っているようだ」
「茶化さないで。ヒウンでみた連中と、私の記憶の中の制服姿が違うのよ。前は白かったけど、今は黒いでしょう? それに、奴らは何が目的なの? ヒウンでは何かしているかと思ったら、何もしていなかった。ただ暴れていただけ。でも、奴らだって馬鹿じゃない。何か、大きなコトをまたしでかそうとしているから、その戦力増強の為にポケモンを奪っているのよね?」
「……そう急かすな。質問は一つずつ、答えていこう」
近くにいた女性が、トウコに頭を下げてお盆に乗っけてきたお茶を差し出す。
トウコはありがとう、と言いながらこんな無礼な客にも茶を出すなんてこの人たちはやはり違う、と自分を恥じつつロットの話に耳を傾ける。
「まずは、最初の質問だ。私達は、今はプラズマ団を脱退している。元、プラズマ団ということになるな。世間ではどちらも大差はないと思われているが」
ロットはそう言って、周囲を見る。
ポケモンの世話をしながら、世間から爪弾きにされた元団員達がここでは生活しているのだと彼は説明する。
過去、プラズマ団の無差別搾取のおかげで居場所を失ってしまったポケモンたちがここで静かに、新しい主人、または奪われた主人が取り返しに来るのを待っているのだという。
「……あんた達は、私に潰されて以来、目を覚ましてくれたの?」
「そうだな。ゲーチスの真なる目的を知り、利用されていただけと分かっただけで、もう奴に手を貸す理由もない。故に、プラズマ団から分岐したのだ。ここにいるのは、名もない過去の罪を贖罪するだけの協会。周りからは今更偽善者ぶるな、自己満足の罪滅ぼしと謗られているがね」
自嘲的に笑い、ロットも湯気の立つ茶を啜る。
「…………」
ロットが言うと、トウコは小さく溜息をついて、闇色の目をして言った。
「私も、今のあんた達と大差ないわ。偽善と独善を持って、ゲーチスを追っている。もう、英雄はやめたの。周りが勝手に言ってるだけだけど。今の私は、必要悪だと自分に言い聞かせて、進んでいるのよ」
初めて吐露する心の闇。ベルにだって言えない闇が、ロットにはスラスラと出てきた。
それは、恐らくロットがその闇に深い繋がりがあったから。
ベルはこの闇を知らない。少なくても語ってないから、察していても、同感できる訳はないのだ。
チェレンには言える訳がない。絶対に反対することは見えている。
ロットという、過去の仇敵だからこそ、言える言葉。
「……ロット。あんた達の姿を見て、私のしてきた二年間は無駄じゃなかったと思えたのは、よかったと思う。あんた達は、あんた達の理想を貫いて。私は、もう理想を持てないから。せめて、自分の過去に関わった人達は、正しくいて欲しい。都合の良いお願いだって、それはわかってるわ。でも、これから私は、どんどん間違った方向に進むつもりなのよ」
トウコは、初めて今の目的を誰かに話すと決めた。
ベルには言えず、チェレンにも言えず、母にも言えないたった一つの目的を。
そのためなら、かつてのプラズマ団を越える悪だってなる。
「……トウコ。お前は、何が目的だ?」
尋常ならざるトウコの目を見て、ロットが訪ねる。
「――プラズマ団を、本当の意味でぶっ壊すことよ。そして、ゲーチスを、私が殺したいの。もう、あいつを生かしておく理由がないから。この手で、今度こそ殺したいのよ。ゲーチスという、諸悪の根源を、プラズマ団を真にぶっ潰すには、もうそれしかないから……」
濁った闇が、ロットの目には穴に見えた。
周囲で話を聞いていた元団員は、とうとう現れたかという表情だった。
ゲーチスはその性質上、殺したいほど恨まれていても別段違和感のない程の悪党だ。
そして、直接の関係があるトウコがそれを申し出ても、おかしくはない。
「……トウコ、お前はゲーチスを殺してどうしたい?」
「殺すだけでいいの。殺せれば、それで……。私があいつを殺せば、あんた達も少しは楽になるでしょう? 利用されて、悔しくなかったの? 裏切られて、悲しくなかったの? ロット、あんたもほかの連中も、言ってしまえば被害者の一人だって自覚をしなさいよ。ゲーチスは多くの人間を利用した、ただの「邪悪」だってこと」
「……そんなことを面と向かって言われたのは、初めてだ……」
ロットは少々、予想外のことを言われて驚愕していた。
常に加害者と言われ続けてた彼らを、真っ向から被害者と言ったのはトウコが初めてであった。
「……いま、あんた達と敵対しているあいつらを潰せば、少しは世間の評価も変わるはずよ。プラズマ団には二通りあるってことを、私が世間に知らしめるわ。いいわよ、今に始まった復讐じゃないもの。私は私の目的を晴らす。そのついでにあんた達をちっとはマシな評価にする。ついででよければ、あんた達に私が味方するわ」
トウコはニヤリと口の端を釣り上げて邪悪に顔を歪めた。
「……我らは、彼らと争っている訳ではないぞ?」
「そのうちあんた達も襲われるわよ。何をしているかは知らないけど、手段を選ばないのはプラズマ団の常套句でしょ。元だろうが現だろうが、やり方を変えていないなら、同じやり方をする奴がいたほうが便利」
「……」
流石は一度敵対した組織。
内部事情までよく知っている。
ロットは、渋い顔で言った。
「……我らに出来ることはないぞ」
「あるわ。ただ、あんた達は理想を貫くだけ。要は何時もどおりしていてくれれば、それだけで十分。私が、下らない目論見をしている連中をぶっ潰す。二度と再建できないように、徹底的にね」
「……いいのか? 我らとて、元をたどれば同じなんだぞ?」
ロットの質問に、鼻で笑い飛ばすトウコ。
「今が違えばそれでいいのよ。過去は問わない。今が今なら、未来だって違う方向に行く。それをあんた達に教えてもらったわ」
ロットにそれから、トウコは聞けるだけのことを聞いた。
彼らもゲーチスの居場所は知らず、しかし今も活動しているプラズマ団は、何かを血眼になって探しているらしいとの情報は掴めた。
「なにか?」
「それが何なのかは私たちにも分からない。だが、それを使ってゲーチスが何をしようとしているかは想像がつく。大凡、二年前と違いはないだろう」
ロットは言うと、現実味がある。
「またイッシュの支配が目的か……。懲りない男ね」
二年前にゲーチスが企んだ、イッシュの実力支配。
自分だけがポケモンを持って恐怖で全てを支配する世界。
それを阻止したのが、トウコともう一人の白い英雄。
「……まぁ、今度も大丈夫よ。私がそんなこと、させないから。絶対にね。人を殺してでも奴らを止めてみせるわ」
トウコはロットに握手を求めた。
それは、元プラズマ団幹部、七賢者との和解の証。
今は、助け合う存在であると。
ロットも、それに応じた。
ロットは握手を終えて、トウコにこう、警告した。
「トウコよ。道を外してでも、彼らを潰したいとしても、決して間違うな。我らのように、無くしてしまったモノを取り返すには、相応の時間がかかる」
それは先人の言葉。トウコは言う。
「努力するけど、保身に走っていたらそれこそ取り返しのつかないことになり得るわ。その時は、自分くらいは見捨てるだけよ。どうせ、価値のない抜け殻みたいなものだから、今の私」
少し前に進んでも、引き摺る痛みが彼女にその言葉を吐かせた。
「……自分を大切にしろ」
「価値がないものを大切にしてどうするの?」
ロットの苦言にも怯まず問い返すトウコ。
「今の私が未来を待てるくらいの価値が出来るのは、全部片付いてから。それまでは、自分なんてどうでもいいわ」
肩を竦めて言ったトウコを見つめるロットの目は、どこか寂しげなモノだった。