フェンリルに勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない 作:ノシ棒
運命。
それが神がさだめしものならば、手が萎え、足が折れ、はらわたを零れ落としてでも抗ってみせる。
男の叫びが木霊する。
痛みに耐え、涙を呑み、怒りに悶え苦しみながら。
誰にも聞こえぬ、魂の叫びがまた。
闘え。
何度でも、幾度でも。
それがお前の、往く道ならば。
――――――ペイラー榊著、『ゴッドイーター:神狩人』より一部抜粋。
■ □ ■
帝王牙DENEEEEEE!!!!!!!111111
俺はあと何回テメェの面を拝まなきゃいけねえんだよこんちきしょん!
いい加減俺に獣剣の強化をさせてくれませんかねぇディアウスさん!?
こうなりゃ出るまでマラソンじゃあ!
うおおおああアアーーーッ!!
加賀美リョウタロウ、心の叫び――――――。
■ □ ■
ここはかつて、新横浜と呼ばれた都市であったらしい。
らしい、としか言えないのは、都市機能を有していた以前の姿をこの場に居る二人が知らないからだ。
二人が産まれる以前にはもう、一帯が砂漠地帯と為り果てていて、多くの≪アラガミ≫が餌を求めて徘徊する危険地域と化していた。
この場に足を踏み入れる者がいたとしたら、その者の正気を疑うしかない。
そんな地で、フェンリル正式制服を着た特別特徴もない青年と、ローズグレイの髪をしたやや露出の多い服装の少女とが、取り乱した様子もなく黄土色の砂上にしっかりと足を着けていた。
二人の肩には、剣と銃が融合したような巨大な機械の塊……『神機』が担がれている。
彼等こそ『ゴッドイーター』――――――。
アラガミの跋扈する世界で唯一の抵抗手段である、人間の守護者達だ。
――――――因縁か。
青年の小さな呟きが、風に乗って少女の耳へと届く。
因縁という言葉を聞けば、何が思い浮かぶだろう。
『アリサ・イリーニチナ・アミエーラ』は、≪ディアウス・ピター≫の顔を思い浮かべる。
≪ディアウス・ピター≫――――――帝王の名を冠する、≪ヴァジュラ≫種の最上位に位置する個体。
黒い獅子の身体に、豊かな髭を蓄えた人面を持つ、人面獣身のアラガミである。
通常のヴァジュラとは姿形も戦闘力も一線を隔するそのアラガミは、ゴッドイーター達の間では恐怖の代名詞として語られていた。
出会えば、命はないと。
それにはアリサも頷くしかない。感情は別として、だが。
ヴァジュラ、というものが、ある一つの壁としてゴッドイーター達の前に存在している。
その上位個体ともなれば、多くのゴッドイーターが絶望を抱いたとしても、それはむしろ当然の反応だろう。
精神的にももちろん実力としても、ゴッドイーターにとってヴァジュラとは、超えねばならない大きな壁として立塞がっているのだ。
初めから精神的にフィルターがかかっているようなものだ。であるならば、神らしく一種の信仰として存るディアウス・ピターを、ヴァジュラと見間違えたとしても、まあ、納得はいく。
悪態を吐くことを止めるまでには至らないが。
「いい加減な仕事を……偵察班は何をやってるんですか」
青年は肩をすくめただけだった。
ディアウス・ピター来襲の報を受け出撃したアリサ達だったが、到着してみれば、そこには黒い巨体は無く。
朽ち果てたビル群が並び立つ砂漠には、ヴァジュラの群れが闊歩するのみだった。
太陽光の反射の加減で、揺らめく空気が視界を滲ませる。ヴァジュラの群れが黒く燃えているかのように見えた。
体毛の色を錯覚したのだろう、とアリサは偵察班のミスであると判断した。
とはいっても数が数だ。脅威であることには違いない。
アイコンタクト――――――青年の瞳に自分の顔が映る。そして自分の瞳には、青年の顔が映っている。
アリサは青年と二人、並び立ってヴァジュラへと襲いかかった。
状況はすぐさま乱戦となり、戦力の少ないこちらは、ほとんど彼一人が戦っているようなものとなった。
それは戦いというよりも、舞いのようにも見えた。
神前に捧げる舞踏――――――否、武踏であるか。
体術のレベルが違いすぎる。自分では、付いていけない高みにあった。
下手に踏み入れば邪魔になるどころか、誤射をしてしまいかねない。
アリサに出来たことといえば、彼が的にならないようあぶれたヴァジュラ達の囮となることと、合間に回復弾を撃つことくらいのものだ。
悔しさにアリサは歯噛みする。
彼を羨んでいるのではない。
何の役にも立てない自分を恨んでいるのだ。
一体、二体――――――彼が剣を振るう度、巨体に傷が刻まれ、そして地へ崩れ落ちていく。
三体目は口内に銃口を差し込まれ、喉奥を吹き飛ばされていた。
淡々と捕喰形態へと神機を変化させ、倒したヴァジュラからコアを抜きとっていく。その動きは、寒気がするほどに正確だった。
最後の一体が存命中であり、今もこちらを狙っているというのに捕喰を優先させている様は、恐怖など微塵も感じてはいないように見えた。
では自分はどうなのだろう、とアリサはヴァジュラと対峙し、思う。
今でこそ何とか倒せる相手となったが、縦に裂けた瞳孔に睨みつけられれば、身体は僅かに硬直した。
獅子の頭は人面のそれとは掛け離れているというのに、それでもアリサは思い出してしまうのだ。
人を模した厳めしい顔。
ぞろりと生えそろった乱喰い歯。
下顎から滴るどす黒い血と、ぬめり落ちる内臓の一部。
扉の隙間からじっとこちらを見詰めている、赤い眼を。
その度にアリサは叫び声を上げそうになる。
あるいは、怨嗟の唸りを。
憎悪――――――。
それがアリサの、ゴッドイーターとして原点だった。
封じたはずの記憶はなおも蘇る。
かつて、親友を喰い殺したヴァジュラの姿。
それが当時の衝撃をそのままに、両親を喰い殺したディアウス・ピターの姿へと重なって見える。
怒りで息は乱れ、視界が赤く染まる。
神機を握る手はがたがたと震え、自分が逃げ出したいのか、戦いたいのか、そうなるとアリサにはもう、解らなくなってしまうのだ。
憎しみは別の何か、重い感情へと変わり、身体を縛り付けていく。
重い。そんな目に見え無い何かが、重ねられていくばかりだ。
それでもアリサが自分を見失わないでいられるのは、彼に依るところが大きい。
彼の羽織ったジャケットの深い青を見て、乱れた心を落ち着かせる。
ヴァジュラの群れ最後の一体が今、斬り伏せられた。
誰よりも強く、誰よりも優しく、どんなに辛くても決して立ち止まらない、彼。
彼はどんな気持ちで戦っているのだろう。
アリサは神機に捕喰させている彼の背へと手を伸ばし掛け、そして下ろした。
怖い、と思った。彼の心の内を知ることが。
『感応現象』というものがある。
『新型』同士が触れ合った際に、接触した者の間で、記憶や感情の交信が行われるという現象である。言ってしまえば、相手の心が読めるということだ。
ディアウス・ピターにまつわる因縁は、もはやアリサだけのものではない。
そのアラガミは、前隊長の仇ともなっていた。
それも、アリサが原因となって、だ。
錯乱したアリサが射線を乱し、前隊長をガレキの向こう側へと閉じ込め、単独での戦闘を強いさせてしまったのだ。
そして――――――MIA《戦闘中行方不明》判定。
死体が発見されることはなく、残ったのは神機と『腕輪』のみ。それが示すことは、もはや望みは無い、ということだった。
ゴッドイーター達は、神機から供給されるオラクル細胞によって肉体強化がなされている。
ゴッドイーターとは、人為的なアラガミであると言ってもいい。
オラクル細胞に食い殺されて不定形な肉塊とならぬよう、もしくは真にアラガミ化せぬよう、腕輪……『P53アームドインプラント』から投与される『P53偏食因子』によって、神器のオラクル細胞を制御しているのだ。
それが失われたということは、つまりは、死しかないということである。
彼によって討伐されたディアウス・ピターの体内から腕輪が見つかったという報告は、皆に絶望をもたらすものであった。
表には出してはいなかったが、サクヤも、ツバキも、皆アリサに思うところがあったはずなのだ。
情報封鎖をされてはいたが、噂は流れるもの。
ゴッドイーター達の中には噂を聞き付け、面と向かってアリサを罵倒する者もいた。
裏切り者、と。
彼等の罵詈雑言は何も悪意から出たものではなく、全ては第一部隊前隊長の事を想っての事だとは、感応現象などなくとも理解できることだった。
平時は人の良い彼等にそこまでの事を言わせてしまった自分の所業を、アリサは深く後悔した。
ソーマも、コウタも、初めはアリサとどう接したらいいのか、戸惑っていた様子だった。無理もない、と思う。
だからアリサは、彼等に掛けられる言葉を、自分を見る困惑の視線を、全て受けとめた。
これは罰なのだと。
彼等の心の内を少しでも軽くすることが、自分に許された唯一の贖罪であるのだと。
だというのに。
そんな中、彼は全く変わらない態度でアリサに接した。
彼だけが、アリサを同じゴッドイーターとして、仲間として、変わらずに慮ってくれたのだ。
それまで自分でもドン引きだと思うくらいに酷い態度を取っていたというのに、である。
崩れてしまうと思った。
思った時にはもう、手遅れだった。
ぼろぼろと崩れた心が、両の眼から零れて落ちていくのをアリサは感じた。
前線に復帰しても、しばらくは病室のベッドの上で過ごすことが多かった自分を見舞う者は、いつしか彼のみとなっていた。
そして眠りに就いては悲鳴を上げて飛び起きる自分の手を、彼はずっと握っていてくれていた。
一人では眠れないなどと寝言をぬかす自分に、仕方ないなと苦笑して。そうして一晩中手を繋ぎ、ベッド脇に腰掛け、彼は自分のことを見守っていてくれたのだ。
その手の温かさをアリサは忘れない。
だが――――――と、アリサは考える。
彼も、本当は自分の事を、憎んでいるのではないだろうか――――――と。
感応現象で彼から流れ込んで来るのは、過去の映像と、感情の熱だけだ。
写真データに、その時に彼が喜怒哀楽の何を感じていたかというテキストを張り付けただけの、情報量の少ないものでしかない。
新型神機への適合率の高さが影響しているのだろう、とは榊博士の言だ。
水が高い場所から低い場所に流れるように、新型神器の感応現象によってやり取りされる情報は、完全に相互のものという訳ではないらしい。
アリサと比するまでもない程に、彼の適合率は高い。それは、彼が初めて新型神機に触れた日にはもう、変型タイムが一秒を切っていたのが証明していることだ。
同じ新型使いといえど、彼はアリサの上位存在であり、感応現象における情報流入もその情報量や質は、下位であるアリサには制限されたものしか伝わらないのである。
握られた手から温かさが流れ込んで来ることは感じた。
だが、正確に彼が何を思っているのかは、アリサにはまったく解らなかった。
ソーマなどはそれで十分だろう、と言っていたが、アリサとしては安心出来るものではない。心を読み合えるのだから、余計に。いっそ知らなければよかったとさえ思う。
穏やかに微笑んではいても、寡黙な性質の彼である。
口数は多い方ではなく、胸の内を行動で表すような人格だった。
その彼が、あの事件を境に、執拗にディアウス・ピターを追うようになったのだ。
それも、一人で。
ディアウス・ピターは、『接触禁忌』に数えられるアラガミである。
接触禁忌とは、保有するオラクル細胞による感応波が強大なため、通常の神機使いではオラクル細胞に不調が発生する可能性があるとして、一定以上の素質が備わった神器使いでなければ戦闘の禁止、回避が推奨される特殊なアラガミのことだ。
読んで字の如く、である。
アリサがディアウス・ピターと対峙したのは、前隊長の腕輪と神器回収のために、特例として出撃が許可されたその一回限り。
接触そのものを禁忌とされるアラガミ。それが接触禁忌なのである。
だが彼に限っては、隊長のみに課せられる特務、という大義を盾に、ディアウス・ピターの単独討伐の命が幾度も下っている。
特務は秘匿されて然るものであるが、こと彼の対ディアウス・ピターの戦歴においては、まるであてつけのように開示されていた。
上層部の嫌がらせだろう、とは、これも榊の言である。
開示されたスコアはもう10体以上を記録していて、そこまでの執着を露わにする彼が何もアリサに感じていないなどとは、信じられなかった。
あの温かさが、新隊長に任命された彼の、義務としてのものだったのではないか。
感応現象によって彼の心の一端に触れたことが、アリサにそう思わせていた。
そう思わずにはいられなかった。
聞けば、彼も家族をアラガミ被害で亡くしたというではないか。そしてその光景を、幼い頃の彼は一部始終見せ付けられたという。
憎んだだろう。憎悪しただろう。そして世界に絶望したはずだ。
同じ新型神機使いで、しかも始まりまで同じ。
アリサは奇妙な運命を感じずにはいられなかった。
ただし、彼と自分の行き着いた先は、まるで真逆だった。
片や、新型機の変型時にどうしても発生する隙を埋めるための空中変型や、連激捕食なる新戦術を編み出し、今や極東支部の前線部隊で隊長を任せられる程にも成長した、元無名の新人。
片や、鳴物入りで配属されたはいいが対人関係の構築能力が低く、しかも任務中に取り乱し前隊長を戦死させた、元期待の新人。
彼が自分と同類なのかもしれないなどと、どうして思ったのだろう。勘違いも甚だしく、恥知らずも極まる自惚れである。
彼と自分とでは何もかもが大違いではないか。
自分は憎しみに任せて世界を拒絶したが、彼は世界を愛していた。
それは決してアラガミに屈したのでも、絶望を受け入れ諦めたのでもない。
彼はあるがままに、世界に対して、己の足で立っていた。
限られた時を人々の暮らしに寄り添って生き抜こうと、彼は決めたのだ。
神に喰われるのが人の運命ならば、そんな世界の中で幸せを見付け、世を愛し生きていくことそれ自体が、運命への反逆であると言えよう。
それは我欲を満たすための復讐ではない。
それは道を示すことなのだ。
彼が示した道を、後に続く者が踏み締めて往くのだ。
かつて、自分を希望なのだと言ってくれた人がいた。
その人は正しく、真っ直ぐで、素晴らしい女性だったが、アリサはその言葉にだけは頷けなかった。
なぜなら自分は、彼女の言葉を最悪の形で裏切ってしまったからだ。
自分は希望とはなれなかった。
道なき道を往く彼の背は眩しく、あれこそがきっと、本当の希望という名の光なのだ、とアリサは思っている。
だから、もし、もしもだ。
彼に失望されてしまっていたら、どうしよう。
彼は単独での任務を希望していたのに、無理矢理付いて来て役立たずだった私のことを、邪魔だと思っていたら、どうしよう。
希望に見放されてしまったら、どうしよう。
私はいったい、どうなってしまうのだろう。
今度こそ壊れて、消えてしまうのではないか――――――。
――――――エリッ……アリサ! 上だ!
彼の叫ぶ声がした。
注意力が散漫となっていたツケが、もう回って来たようだ。
いいや、これは報いなのかもしれない。
アリサの視界に映ったのは、一面の黒。
錆びた鉄のような生臭い臭気を孕んだ風が頬を撫で、一瞬の後、衝撃。
悲鳴を上げるよりも早く、アリサの体は宙を舞っていた。
身体に激痛の灼熱を感じながら、流れていく視界に、必死の形相で手を伸ばす彼の姿が。
痛い。
やられた。
何に。
わからない。
わからないけれど、悲しい。
とても悲しい。
彼の手に、届かなかった。
何度も触れ合ったはずなのに、通じ合えたはずなのに、何て近くて、遠いのだろう。
アリサの意識は悲しみの海に呑まれ、暗がりへと沈んでいった。
■ □ ■
もういいかい。
「まあだだよ」
もういい……かい。
「まあだだよ」
もうい……か……い。
「まあだだよ」
も……か……。
「まあだだよ」
……い。
「まあだだよ」
消えていく声。
だけど、私は、今も、ここにいて。
誰か、私を。
私を、ここから――――――。
「残念、それは私の役じゃない。まだここに来るのは早いよ。まったく、あれだけ言ったのに、忘れちゃった? ドン引きだぞ!」
あなたは、誰?
――――――оре не море,выпьешь до дна……忘れないで、アリサ。私はここにいるよ――――――
■ □ ■
意識が戻る。
しかしアリサには、これが現実であるという実感が無かった。
呆とした頭で身体を起こそうとし、しかし身体が動かずに、失敗した。
どうやら自分は、瓦礫に埋もれてしまっているようだ。
視界が悪く、隙間からしか外の様子を伺えない。
頭の上にまで瓦礫が積まれていた。崩れた鉄骨が支えとなって、他の瓦礫よりアリサの身体を奇跡的に避けてはいたが、それも何時まで保つか。
神機の柄の感触は、手の内には無い。
どこかに弾き飛ばされてしまったようだ。
アリサは小さくか細い吐息を、唇の隙間から少しづつ漏らしていく。
音を立てないように。
気付かれないように。
すぐ近くに、あれが居る。
「やめて……」
悪い夢を見ていた。
ならばこれも夢か。
悪夢はまだ続いているのか。
「やめて……たべないで……」
ガツガツと、何かを食む音が聞こえる。
「パパとママを、たべないでえ……」
近付いてくる、足音。
クローゼットの中から動けない自分。
扉の隙間からこちらを覗きこむ、真っ赤な眼――――――。
ひぃ、とアリサの喉が鳴った。
見間違えようもない。
それは両親の仇と、同じ顔。
ディアウス・ピターの人面だったのだから。
偵察班はディアウス・ピターの存在を、見落とした訳ではなかったのだ。
「いや、いやいやいや、いやあああああ! いやっ、いやあっ! ああっ、やだっ! こないでえ!」
じいっとこちらを覗きこむ、ディアウス・ピターの顔が。
舌なめずりをして、涎を垂らして、耳まで裂けた真っ赤な咥内を開きながら。
身動きの取れない獲物へと、喰らい付こうと歩み寄って来ている。
「いやっ! いやっ! あけないで、たべないで! あああぁあぁああああっ!」
ディアウス・ピターの巨体が瓦礫を踏み締め、アリサの身体を圧迫する。
厳めしい髭面が近付く。
夢で見たあの光景よりも、ずっと近くに。
眼を閉じてしまいたい。これは夢だと、そう信じたい。
しかしアリサは限界にまで眼を見開いて、閉じることは出来なかった。
狂ったように上がる叫び声は、自分でも止められない。
隙間から除くアリサの頭に喰らい付かんと、ディアウス・ピターが顎を大きく開き、乱喰い歯を覗かせた。
アラガミにしてみれば、こんなに生きの良い獲物を逃す手はないのだろう。
人面を模した顔が、運が良い、と醜い喜悦に歪んだように見えた。
このままでは、喰われてしまう。アリサは思った。
自分はお行儀よく残さずに食べられてしまう。
クローゼットの中、一人で閉じこもったままに。
一人で――――――。
「あけない……で……誰も……こない、で……」
その時、アリサに浮かんだのは、彼の顔だった。
視界一杯にディアウス・ピターの人面を映しながら、しかしアリサが思い浮かべていたのは、彼の優しげな微笑みだった。
いままでアリサは、扉を開けないでくれと、誰も来ないでくれと、そう叫んでいた。
ずっと一人だった。
一人きりだった。
そう思っていた。
でも――――――。
――――――俺がいるよ。ここにいる。
彼の声が、聞こえたような気がした。
「あ……あああああああっ! 助けて、リョウっ! 助けてええっ! リョウゥゥッ! 」
自分はここにいる。だから早く見つけて、と。
クローゼットの中から身を乗り出して。
アリサは初めて、心の底から叫んだ。
瓦礫が崩れるのも気にせずに、必死になって手を伸ばした。
伸ばした手に、ディアウス・ピターが喰らい付こうとした――――――その瞬間だった。
オラクルバレットの閃光。
黒い人面が真横にずれ、吹き飛んでいった。
巨体を追うように駆ける男の影が躍り出る。
それは全身から黄金のオーラを立ち登らせた、極東支部第一部隊隊長――――――加賀美リョウタロウだった。
リョウタロウの全身から黄金の、神機から黒いオーラが噴き上がる。オラクル細胞を燃やすことによる身体機能の活性化。
『神機解放《バースト》』という、限られたゴッドイーターのみに許された、切札である。
特に彼の神機解放の効果は著しく、鬼神もかくやという奮迅の活躍が、彼が最強のゴッドイーターなのではないか、と噂される一端ともなっている。
こうなればディアウス・ピターの命運は決まったも同然であり、数十秒後、戦闘音が静まりかえったことが全てを知らせていた。
姿は見えずとも、不思議とアリサは彼の勝利を確信していた。
ディアウス・ピターのそれとは違う、静かな足音が近付く。
――――――見付けた、アリサ。
瓦礫の、クローゼットの隙間には、彼の頬笑みが待っていて。
みつけた、とアリサは彼の言葉を繰り返す。
「あ、あ……みつ、けた? みつけてくれた……の?」
――――――そうだよ。アナグラに帰ろう、アリサ。
「もう、おそとに、でてもいいの?」
――――――ああ。ほら、出ておいで。
みつけた。
みつかっちゃった。
みつけてもらえた。
見付かったなら、かくれんぼはもうお終い。
私はもう、隠れていなくてもいいんだ。
彼の手を取る。
伝わる、温かな気持ち。
どうして気付かなかったんだろう。
どうして疑ってしまったんだろう。
彼はこんなにも、私のことを想ってくれていたというのに。
――――――また泣いてるのか、アリサ。
苦笑して、彼は言った。
「女の子の泣き顔を見て笑うなんて、ドン引きです……ばか」
アリサも、泣きながら笑った。
本当は解っていたのだ。
自分はずっと、クローゼットの中から救いだしてくれる誰かを待っていた。
それではいけない。それは間違いなのだ。
見付かって、かくれんぼが終わったのなら、自分の足で出て行かないと。
恐怖を、乗り越えないと。
だから、暗闇の中から一歩、踏み出そう。
大丈夫。
光は眩しくて、眼を焼くかもしれないけれど。醜いものを曝け出し、見せ付けられるかもしれないけれど。
そこにはきっと、彼が待っていてくれるのだから。
そうしてアリサは、自らの手で、クローゼットの扉を開けた。
光射す世界へと、彼に手を引かれて、アリサは踏み出す。
眩しい太陽にアリサは眼を細めた。
「оре не море,выпьешь до дна《ゴーレ・ニェ・モーレ、ブイピエシ・ダ・ドゥナー》」
悲しみは海にあらず、すっかり飲み干せる――――――。
でも、海のように大きな悲しみだったなら、飲み干すには難しいかもしれない。
小さく、細かく、砕く必要がある。
そして今、ようやく悲しみは粉々に打ち砕かれた。
打ち砕いたのは、彼。
するり、とアリサを苦しめていた悲しみの欠片が、喉を通っていくのを感じた。
あの人達が言った通りだ。
時間は掛かったけれど、悲しみはすっかり飲み干せる。
「パパ、ママ……『オレーシャ』」
アリサは繋いだ手に力を込めた。温かい気持ちが伝わり、飲み干した悲しみが熱へと変わる。
「私はもう、大丈夫だよ」
胸が熱い。
もう一度、アリサは大丈夫だと、空の雲を見上げて呟いた。
「この人の手は、温かいから……だから私は」
――――――何か言った? アリサ。
「なんでもないですっ!」
私はアラガミなんかに負けはしない。自分にだって、負けはしない。
たくさんの辛いことや苦しいことが、これから先にはあるのかもしれないけれど、きっと大丈夫だと確信していた。
目元を拭いながら、止まらない涙がおかしくて笑う。
アリサはもう、一人ではないのだから。
■ □ ■
ううっ、心が荒むなあ。
もう何度目になるんだろう。十回は越してるはず。
黒い髭面はもう見たくないよう。
神機様も食傷気味で嫌がってるしさあ。最近はさっさと終わらせたいのか、前足チクチクしかしてくれなくなったもん。
後牙三つか……先は長いなあ。
うー、ストレスが溜まる。
アナグラに帰っても書類が山積みに残ってるし。
隊長になったんだから前隊長の遺した書類の処理してね、とかもうね。
いややりますよ、そりゃ。
企業戦士なので。
でもねリンドウさん。あんたに一言、言わせて欲しい。
あんたね、書類仕事サボりすぎでしょう。
あれですか、イケナイ夜の残業ですか?
仕事をサボってはサクヤさんとお楽しみタイムですね。解ります。
何なん?
あの人何なん?
新しく隊長になったからって、前隊長の部屋を掃除もせずにそのまま使わせるとか、何なん?
もういい考えるの疲れたってベッドに倒れこんだら、何あれ、男の汗の臭いにまじって、女ものの香水の臭いがしたんですけど?
ていうかサクヤさんが使ってる香水だよ!
ベッドの下には女ものの下着が放り込んであったよ! 黒だったよ!
お楽しみでしたか? お楽しみでしたねぇ!?
確かにあの乳は男として放ってはおけない。
気持ちは解りますよ。
でもね、一応隊長だったんだから、お仕事の責任くらいは果たしましょうよ。
俺のやってる書類仕事の大半が、前隊長からの引継ぎ用件とか何なん!?
俺に全部押しつけて逝ってくれやがりまして……ちきしょん。
癒しだ。癒しが必要だ。
よし、アリサの下乳を見て癒されよう。
男はおっぱいがあれば頑張れる生き物だから。
俺は言い訳せん!
おっぱいがあれば、頑張れる!
……ああ、癒されるなあ。
アナグラ所属ゴッドイーター女子のおっぱい率は高すぎると思います。
上乳下乳横乳中乳なんでもござれだぜひゃっはー!
中身まで美人揃いときてるんだからもう、たまりませぬな。
個人的な理由でディアウス連戦に付き合わせるのも悪いかと単独出撃を繰り返してた俺に、この子は付いて来てくれたし。
危なくなると回復弾撃ってくれるし。
アリサ・ザ・ヒットマン! ロシアの殺し屋恐ろしやー!
そう思っていた時期が俺にもありました。
過去の自分を捕食してやりたい。
いやほら、二人きりで特訓したいとか言われたらさ、すわこんどは俺の番かも、とか思っちゃっても仕方ないよね? ね? あ、気付いてらっしゃらない? ななな、何でもないよ? 本当だよ?
わーかわいい笑顔。
太陽みたいにこう、ほにゃりって笑うね、アリサは。
良い子やー。
うちのロシアっ娘はホンマ良い子やー。
手も柔らかくて気持ちいーなー。
おっと、感応現象。
これは……喜び?
嬉しい。ありがとう。そんな感情の波が流れ込んで来る。
うん、何か知らんが悩みが解決したみたいでよかった。
俺がそうだったからかもしれないけれど、辛い思いをした子には幸せになってほしいから。
俺も嬉しいな。アリサが嬉しいと俺も嬉しいよって、伝われー。
そーれ感応現象ーゆんゆんゆんゆん。
ちらりと横を見れば、目が合ったアリサがまた、ほにゃりと笑ってくれる。
白い歯を見せ、目がなくなるくらいのとろりとした笑み。
可愛いなあ。
ずっと手を握ってたいけど、これ以上はセクハラになっちゃうよなあ。
名残惜しいけど手を離さないと。
「あっ……」
どうしたの?
お腹いたいの?
砂漠でもおへそを出しっぱにしてちゃ駄目だよ。
そっか、何でもないのか。よかった。
さあ、早く帰ろう。
「はい。あの、お願いが、あるんですけれど」
うん、いいよ。
俺に出来ることなら。
「気が向いたらでいいんです。その、また、手を握ってくれませんか……?」
……ああ、そうか。
洗脳の影響が残っていて、まだ不安定なのか。
あのヤブ医者め。
今度会ったら、酷いめにあわせてやる。
アジン・ドゥヴァ・トゥリーって数えながらな。
その間に懺悔しやがれ。俺に祈れ。
ああ、ごめんごめんアリサ、お願いね。
もちろん、いいよ。
俺なんかの手でよかったら、いつでも握ってよ。
俺からはいかないからね?
セクハラになっちゃうから!
「はい……ありがとうございます」
おおう、さっそくか。
役得役得。
みなぎってきた。
あと10戦くらいはあの髭面を見るのを耐えられそうだ。
お前との因縁はまだまだ続きそうだなあ、ディアウスさんよお……!
いいだろう。お前達の目撃情報が無くなるまで狩って狩って狩り尽くして、根絶やしにしてくれるわ!
ひゃっはー! ゴッドイーター業は本当に地獄だぜぇー! フゥハハー!
ごめん、強がり言った。
うん……また、なんだ。
このディアウスからも、牙、出なかったんだ……。
また、こいつと戦わないといけないのか……。
本当に、俺はもう、限界かもしれない。
同じ新人はフルチューンされた神器を使っています。
こっちはナイフ・バックラー・プロトタイプの嫌がらせにしかみえない訓練用の装備です。
チュートリアル? なにそれ、ああ、実戦前にやるはずの初期訓練のこと?
そんなのスキップされてるよ。
昨日まで一般人やってたのに、いきなり実戦投入とか、意味解らん。
↑
主人公は泣いてもいいと思う。