初日に少しばかりの
――そんな、イギリス最後の夜。静穂はオルコット邸の中庭に足を運んでいた。
(中庭って、まぁ……)
中庭というか、この規模ではもう庭園である。アリスが迷い込んでもおかしくない程に背の高い生垣は、これでもかとばかりに青い花を携えていた。ただ月明かりが照らすのみだが、それでも映える、鮮やかとも異なるが夜でもその色を主張する花々。それを見て静穂は、
「青い薔薇。――薔薇と違う?」
自分が花の知識に疎い事はよく判っている。精々知っているのは青い薔薇の花言葉が“不可能”というくらいのもので。
だがそんな浅学にも該当する、既視感というか、これに似たものを自分は過去に見た事がある気がして、
「なんだろう」と、首を傾げたところ、
「ムーンダスト。カーネーションでございます」
呟いた瞬間に返答が来て、静穂は思わず前のめりになっていた背筋を跳ね上げた。
この場にいる事がまるで悪い事のような気がして、静穂は上擦りかけた声を必死に抑え、声の方を見る。
メイドの少女が、そこにいた。
「チェルシーさん」
「お気に召されましたか?」
素直に頷く。「えぇ。とても綺麗で」
名を呼ばれた少女、チェルシーの口元が喜びを訴える。「私を含めた使用人一同渾身の中庭、何よりでございます」
薔薇でないのが申し訳ありませんが、と眉を下げる彼女に、静穂は何とも苦い顔をするしかできなかった。
するとチェルシーは手を生垣の花に添えて、「――昔話という程ではありませんが、当時の使用人達の間で“この中庭を青く染め上げよう”という計画が立ち上がりました。最初はメジャーで且つ珍しい青という事で薔薇はどうかと話題に出たのですが、如何せんそちらは棘などが面倒という事で、同じ国から仕入れるという事からもこの品種に決まったそうです」
「はぁ」
「最初は中庭全体をビニールで覆い、仕入れるに至って様々な条件と問題を乗り越えたというのにあまり青いとは言えない花を増やす事から始め、中庭として人様に見せて恥ずかしくない域にまで整えた所で、当時の使用人達は気づきました。“あれ、これヤバくね?”と」
「やば、へ?」
急に口調が砕けた。
「花弁が本来のそれよりも青く鮮やかに染まりだし、目に見えて異常な程に繁殖しだしたのです。当然に原因など判る筈もなく、この場は人が入れない程に青で埋め尽くされてしまい、綺麗なのやら雑多なのやら」
さも当時を見てきたかのように頬に手を添える彼女を見て、次いで静穂は花を見た。そこまでくるともう別物ではなかろうか。
「別物でした」
「やっぱり!?」
「大学からの報告では外見こそ輸入した当時そのままでしたが、土壌の影響か他の花々と異種交配を繰り返したのか、蓋を開ければ似て非なる域にまで遺伝子が変貌していたそうです。
この世代は更に改良を加えたものなので心配はありませんが、使用人達の間では世話の仕方が厳格にマニュアル化され、大学では今もこの庭から生まれた新種を砂漠の緑化に貢献できないかと研究が続けられています」
うへぇ、と静穂は舌を巻いた。流石というか何と言うか、この家は何事もスケールが違いすぎる。
「……どうしていきなりその話を?」
「いえ、この中庭に立ち入られた方には絶対にお話しする、いわば掴みのネタでございます」
今の話で何を掴むというのだろうか。先手か。
「――しかし意外でした。このような時間に花を愛でられるような方とは思っておりませんでしたので」
「そうですか?」
「ミギワ様は日本で言う花より団子、それ以前にISと伺っておりましたので」チェルシーが詫びとばかりに一礼する。「眠れませんか? ホットミルクでよろしければ直ぐにご用意を」
「あぁいえ、そこまででは……」
「では如何されましたか?」チェルシー、
監視、ではないと思う。有無を言わせぬ、とも大分違う。
自分は防犯対策に引っかかったのかと錯覚する早さでの邂逅だった。静穂がこの青い庭園に入り込んで数分と経っていない。たまたまこの場で庭仕事という訳でもないだろう。それをするなら昼の筈で、今は夜だ。
――どうする、と静穂は思案する。正直何も考えていない。
(理由がないと駄目?)
しつらえられたネグリジェの上に羽織った制服を羽織り直し、とりあえずで理由をでっち上げにかかる。実際は窓から見下ろしたこの場にラビットで、何の気なしに降り立ってみただけなのだが。
「いやその、随分と遠くに来たなぁ、と」
「成程ホームシック」
「わたしがですか?」普段から自分はどう見られているのか、笑みを堪える彼女からは想像が難しい。
「では明日の事でしょうか。内容はいかにもミギワ様が好まれそうなものと伺っておりますので」
「……かもしれませんね」そういう事にした。
正直、早く部屋に戻りたい。夏とはいえ時間も遅く、申し訳なさが勝っている。
「ご自分の中ではそうではないと?」
「大袈裟かもしれませんが、何の変哲もない
それでも今日を体験した分落ち着いて臨めると静穂は、断り混じりに口にした。それを聞いてチェルシーは僅かに微笑むだけで。
刺激的と言えばそうだが、浮ついた感覚が拭えた事のない一週間を静穂は過ごした。今日の事など特にだ。場違いであったと今でも思っている。
それでも師と仰ぐ友人は自分を友として連れ回し、彼女の輪の中に入れてきた。この国特有の空気というか雰囲気を壊さないよう静穂は努めて必死だった。
「お嬢様も実に有意義であったと感謝しております。明日の出立時などはミギワ様を抱き締めて離そうとしないのではないでしょうか」
「それは困るなぁ」色々と。喜ばれるのは嬉しいが。
思わず苦笑いを浮かべ、それを見てチェルシーは幾度目か微笑む。
「そうなりましたら私がなんとかしますのでご安心を」
「出来るんですか、なんとか」
「ええ、指先一つで」そう言うとチェルシーは指を鳴らして見せた。「私、あの子に対しては魔法使いですので」
――その文句を切っ掛けに、静穂はチェルシーの誘導で屋敷まで歩き出した。
そして中庭から屋敷、あてがわれた部屋の前で彼女は思い出したように口にした。
「そうそう、ミギワ様」
「なんです?」
「青い薔薇の花言葉ですが、“不可能”などの他に“夢かなう”と新しく付け加えられたのをご存知ですか?」
「へぇ、知りませんでした」
「――一体どのような夢なら叶うのでしょうね」
そう言ってチェルシーは一礼ののち、その場を後にした。
一方で取り残された静穂は、
(夢、かなう)
………どのような夢なら、どの程度の夢までなら、
願う事を許され、叶う事を許されるのか。
そしてそのための努力は――と、
(…………えぇ?)
一体何の話かと、ベッドに入り寝付くまで数十秒の間、その言葉が頭を離れなかった。
――そして翌日、セシリアはチェルシーの予測通りに空港で静穂を抱き絞めて離さず、チェルシーはチェルシーで服の上から指先一つで
ドイツである。
静穂がドイツと聞いて思いつくものといえば、有名なアニメの主人公がヒロインに「ドイツ語でモノを考えろ」と言われバームクーヘンを連想するシーン程度が精々であった。それを思いついてから連想するのはソーセージにキャベツの酢の物、常温で飲む美味そうなビール……は未成年の自分には関係はないだろう。自分の
そんなどうでもいい雑念に囚われながら、静穂はイギリスの時と同じようにタラップを降りた。気候は、まあ、暑いとしか。以前に聞いた話だが、ドイツ人は夏の長期休暇が長いらしい。
そういえばと試しに周囲をラビットのセンサーで確認してみる、といっても望遠機能による目視だけだが、先日とは異なりマスコミの類が一切見受けられない。
と、自分の後に荷物を担いだメイド服の少女が先を促してくる。自分で持てる、というより拡張領域に入れると言っても頑として「お役目ですから!」と鼻息荒く譲らなかった少女が静穂の申し訳程度の旅行鞄をひしっ、と抱えて離さないままに付いてきていた。
上流階級に携わる人間とは、人目については疎いらしい。結局のところメイド服の彼女は静穂が税関を通るまで荷物を離す事なく、周囲の目線を集め続けた。その一因が荷物を取り返そうと躍起になる静穂自身にもあるという事に、当人は気づいていないのだが。
「――どうかしたか?」
「あぁいえ、なんでもないです、はい」
よもやメイド少女とのやり取りで疲れたとは言えなかった。少なくとも眼前の女性からはそういう雰囲気が感じられるから。
――クラリッサ・ハルフォーフ。階級は大尉だそうだ。
第一印象は悪くない。予めラウラから見せられた顔写真と、ラウラと同じ眼帯を装着されていなければ決して話しかける事はなかった、いや、できなかった。静穂が見つけた時の彼女は、他者を寄せ付けない、というかいかにも乗り換え待ちのキャリアウーマン然とした風貌で椅子に腰掛けて携帯端末を見つめていたから。そんな彼女が不意に目線を上げて、
――む。来たか――
……不覚にも胸が高鳴った。年上の異性の上目遣い。値踏みをされている様子でもないそれに弱くなるようなエピソードが自分に果たしてあっただろうか。
(……ないなぁ)
精々類似する記憶としては、ゲームで大人気なくボロ勝ちした義姉が勝利者の権利と称して静穂の膝を枕にし、スティック菓子を彼女の口に運ばせられたというものしかない。あれとこれとは別物だろう。あの時の苛立ちは今もはっきりと覚えている。「欲しい?」などとぬかして義姉が咥えたそれを食べさせられた時のあのしたり顔は、到底忘れられるものではない。
(それだけで終わらなかったしねぇ、あれ)
色々と甘かったというか何というか。今と関係ないのは確かだ。
――閑話休題。切り替えていく。唯一関連しそうな顔の熱さも今はもうない。それ以前に方向性が違っている。
簡単な挨拶をして、進む彼女の後を追う。
「そうか。では出発するとしよう」
「車ですか」
「いや、飛んでいく」
……飛行機で、と第一に思えなかった辺り、心境が複雑なものになっていくのを感じる。
「携帯していないとは言わないだろうな」
「絶対に外せない状態なのですがそれは」
「物事に絶対はない。例外も当然に存在する。ああそうだ、」
眼帯を替えろと彼女は指示してきた。静穂が今つけているのはセシリアからの戴き物で、彼女の上官、ラウラから賜ったそれにしろと言うのだ。
当然、何か意味はあるのだろう。自分が考え出すと長くなるので気にしない事にする。セシリア、ひいてはイギリスから何か言われている訳でもなし。郷に入っては、という言葉もある。
言われるがままに眼帯を歩きながら付け替えて、滑走路に出た。生身で。もうこの時点で交通手段は一つしかない。
推測にせめてもの抵抗をしてみる。「あの、飛行許可は」
「正規に取得済みだ。但し私の後を離れるな」
ともすれば撃墜されるのだと、素面で言ってのけられた。
(あ、冗談とかじゃないねこれ)
静穂の背筋が冷えて、伸びる。それを見たクラリッサは何故か満足気に少し頷いて、
「――イギリスでは最先端とやらを見学したようだが、
最前線。それは文字通りの意味を指すのだろう。
「国防の要、我々の家。
ようこそ。シュヴァルツェ・ハーゼは、