嘗て内容物が放っていたであろう脂の臭気に心の底からの嫌悪を抱きつつ、陸を跨ぎ海を越えるまで、それは一体何度の欠伸を噛み殺したか分からない。だが目的の
えっちらおっちらといった具合に、難儀そうに歩を進めていく。猿が別段慌てて散っていくでもなくただこちらを見上げる様子を見て、
「何かやろう! 皆で!」
『……はぁ?』
地ならし用のトンボを掲げながら2年生の一人が放った唐突な一言に、上級生複数に紛れただ一人の1年、静穂も含めた全員が頭に疑問符を浮かべた。チーム汀組の面々である。
静穂の機体が紡いだ縁はいつしかその中心存在を置いてけぼりにして一種のクラン、氏族とも派閥とも近しい何かをIS学園内に構築していた。
総勢10名にも満たないチーム汀組なのだが、トーナメントの成績とその結成理由からIS学園職員内での知名度が少し高かったりする。
通常IS学園で学年を跨いでそういった集団行動をする事はめったにない。あるにはあるが、それはISとは関係のない部活動から生じる上下関係くらいしかなく、彼女達のような縁故は極めて珍しい、というより前例がない。似たような例に専用機持ちの一人と祖国を同じくする整備科が集うというものもあるが本年度に於いてはそれもなく、汀組は国籍も様々だ。
ISに関しては全員がライバル、互いの切磋琢磨が常識として固まっていた生徒達の中に突如徒党を組んで一機の経験を使い回し、その経験値を用いて擬似専用機を一時的・限定的に量産できる集団が出てくれば、教員の目にも自然と留まるというもので。
トーナメントによる振替休日の今日、チームの面々は職員室に呼び出され先日まで続いていた激闘の後始末を請け負った。折角の休日を潰されて一人あたり食券5枚は高いのか安いのか。単にうまく使われているだけなのかもしれない。
その最中、静穂を除く全員がISを駆りこれまたISサイズの整備用品を駆使してアリーナの地ならしに勤しんでいる時、彼女は何かを閃いたように提案したのだ。
2年生の発言に3年生の、自称まとめ役であり先日3年の部で決勝まで出場した永富が問いかける。
「なにかやるって、具体的には?」
「そりゃあ勿論!」2年生はトンボをバットのように振り回し、「新型機の開発ですって!」
「呆れた、まだ諦めてなかったの?」
「だって勿体無いじゃないですか。折角蓄積した経験値ですよ? 有効活用しない訳にはいきませんぜ」
「こうして皆で地ならししてるじゃない。経験値のお陰で効率良く」
「そうじゃなくて、もっとこう……ねえ!?」
2年生が空を何やら揉み込むような動作をして周囲に共感を求める。だがそうした所で意図を汲み取れる人間はいない。
「そんな事より手を動かしてよ。あと少しで終わるんだから」
永富でない別の3年生がグレネードの不発弾を解体しつつ窘めた。2年生の彼女が口を尖らせながらも作業に戻っていく。彼女の前には大人の一人は寝転んで埋まれそうな小規模のクレーターが広がっていた。グレネードの爆発によって固められたそれは硬く、周囲の土を削って充てても平坦にするにはまるで足りない。
「
「今行きますよー」
彼女の呼びかけに静穂が反応、左手一本でも慣れたハンドル捌きを見せてターレットトラックを操作、バックで近寄り荷台の側からクレーターに車体を寄せる。
まだ言いたい事があるのか彼女が荷台の土をトンボで下ろしながら静穂に同意を促した。
「頭もそう思うでしょ?」
「皆で何かする事ですか?」
そう! と頷く彼女の目は輝いている。静穂なら同意してくれるという期待からだろう。
「とりあえずこうして仕事が早く終わらせられるだけ上出来だと思いましょうよ」
えー? と彼女はあからさまに不満を示すが3年生のメンバーは静穂の意見に同意を示していた。
アリーナのグラウンド整備というこの仕事、地味だが意外と重要であったりする。ISによる戦闘は絶対防御とシールドバリアーの存在があってこそ競技として成り立つが、その実は危険物をぶつけ合う戦争と紙一重も離れていない。現状のようにトーナメントを3つもこなしたアリーナはありとあらゆる金属片と不発弾が田舎の夜空に光る星々が如く散りばめられた状態で荒廃し、授業に使用できる状態への回復にはISを用いなければ危険で且つ重労働なのだ。
金属片と不発弾を電磁石で根こそぎ拾い上げ、ISサイズのグラウンド整備器具で均し固めていく作業。他のアリーナでも食券に釣られた有志者が集って事に当たっているが、汀組と違い丸一日はかかるだろう。この差は使用する練習機の経験値とチームプレーによるものが大きい。
……昼時よりも遥か以前にグラウンド整備の全工程を終了したチーム汀組、手際よく使用した機体の掃除と経験値の並列化を同時に行っていく。
その時も話題は変わらず、寧ろ大きな仕事が終わった今だからこそ話題の方に熱が入る。
「確かにこのメンバーで何かやってみたい気もするかな」
「ですよね!? ですよね!?」
「でも何をやるの? 本国に迷惑をかけるような事は私嫌です」
「ISは無理でもEOSならいけそうじゃない?」
「あのローラーダッシュ以外に取り柄のない介護用補助外骨格の改悪版? せめてパワーアシスト全開で30分以上稼動できてから表に出しなさいよ老害共は」
「でもISよりは現実的よ。問題はバッテリーと制御プログラムだけだもの」
「競争率も低いのが良いですね。日本だと研究してるのが四十院だけだった筈」
「倉持に技術協力もやってるよね四十院。広く浅くが長生きのコツ?」
「よし、EOSを作ろう。という訳でアンタ、ISは諦めなさい」
「なんでそうなるんすかー!!」
(姦しいな)
背中を向けているから分からないがちゃんと仕事をしているのだろうか先輩達は。まともに作業をしているのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
「静穂ちゃんは何かない?」
わたし? と並列化作業を担当していた静穂はディスプレイから目を離し腰掛けた椅子を回して身体を話題の方に向け、少し考える素振りを見せる。
正直ISでもEOSでもどちらでもいい。仕事さえしてくれるなら。
……でもどうせなら。
「いっそ本当にISでも作りますか?」
「それだ!」
『どれよ!』
と、賛同を得られたのは言いだしっぺの2年生のみ。他の全員からは総ツッコミを受けた。
「汀さんもバカな事言わないで。全機体経験値の統一化と蓄積は終わったの?」
「後はもう待つだけですよ。でも何で駄目なんです?」
要するに2年生の彼女はチームの全員で何か行動したいと考えているのだ。このチームが集った理由はISにある。チームの多くは整備科と来れば、ならばIS関連の花形である機体開発でもすればいいと静穂は考えたのだが、それはあっさりと否定されてしまった。
IS学園では校則や公序良俗、一般常識から逸脱しない限りは行動の自由が約束される。ISの開発という題目にも正式なルート、申請書を提出すればその可否を伺う事が可能である筈だ、一応。
ここでも自称まとめ役の永富が説明に乗り出してくる。
「新型機って事は全部を一から作ってISコアに定着させる事よね? 仮に万歩譲って全部を作成して後はISコアを定着させるだけの段階に持っていけたとしても、コアの定着にはとても時間が掛かるのを忘れたの? ISのレンタルはその日限りで長期に渡っては借りられない。一日やそこらでコアの定着から試験飛行まで終わるんだったら学園の機体は全部ゲテモノになってるわよ」
「わたしが決勝戦の時に使ったラファールはどうしたんです? あれを作るのに時間がかかったとか言っていたじゃないですか」
嘗て静穂がトーナメントの際に求め、自分達がこうして寄り集まる縁の元となった機体の事を静穂は話題に出した。
今言われた事は静穂も知識として理解している。だが静穂はあの機体という前例があるから提言したのだが、
「あれは所詮武装とサブアームとかのあれこれを取り付けた改造の範疇よ。申請の方はトーナメント中だからできる裏技を使ったの。今はもうあんな長期の申請は通らない」
上級生ならではの申請方法があるらしい。
「とにかく長期に渡ってISを借りる事が出来ない以上、現状の制度でISの作成は無理。権利関係にしたって腕一本で幾つの特許が使われてるか知ってる? 個人の集まりでしかない私達じゃ絶対にクリアできる問題じゃない」
「そんな簡単に無理って言う事ないじゃないすか……」
言いだしっぺの少女がげんなりとしつつ永富を訴えて腰掛けたままの静穂に力なく寄り掛かる。
「何かやりたいって言うなら私達が使った経験値を成長させつつこのチームを存続させて、未来の後輩に繋げていくくらいよ」
「だから私の、……うぅー」
何か言おうとして自己完結、永富の説得を諦めた2年生が本格的に静穂に抱きついてくる。
「私の味方は頭だけだー」とぼやく彼女を宥めつつ静穂は、
「とにかく職員室に報告して、さっさと出掛けましょうよ」と言った。
今日という休日、静穂は彼女達に何か奢るといういつぞやの約束を果たすつもりだったのだ。
それを聞いたチーム全員の手が心なしか早くなり、不満を漏らしていた言いだしっぺも渋々と自分の仕事に戻っていく。
現金だなぁと思いながら、静穂は全工程が終了したと表示する端末から経験値の蓄積された記録媒体を引き抜いた。
性能の暴力というものを今、簪は眼前に目撃している。
それは赤い残光を空に残しながら、両の手に握る刀を以て自身に迫る脅威に立ち向かう。
――紅椿――
ISの生みの親である篠ノ之 束が妹の為に作り上げた、世界にたった一機のIS。
それを駆るのは当然妹である篠ノ之 箒であり、彼女は今、姉が放った多数のミサイルをたった一振りの斬撃で打ち払って見せた。
(すごい……!)
追加装備なしでの機動性、遠近を問わず振るわれる武器性能。そして未だ机上の空論を出ていない展開装甲の実用化。
製作者曰く第4世代機の性能をこれでもかと見せ付けられて、簪はその衝撃に打ちひしがれる事も許されず、ただ驚嘆させられてしまった。
ここで絶望させてくれたら楽だったのかもしれない。だがそれを簪は自分から許さなかった。
ふと指に嵌めたリング、待機状態の打鉄弐式に手をやった。
(今は、無理でも……)
いずれあの位置に、辿り着いてみせると、
(私は――)
「全員注目!」
(――!?)
簪の意志を遮るかの如く、織斑先生が全員を自分に向けた。山田先生が表情を強張らせて走り去っていく。
「現時刻を持って臨海学校の全カリキュラムを中止する! 練習機を片付けろ! 以後は別命があるまで各自自室待機!」
その言葉を受けて生徒達には混乱が広がっていく。その混乱を押し潰したのもまた織斑先生だった。
「許可なく自室を出た者は身柄を拘束する! 時間がない、早くしろ!」
混乱が収まったと思えばその後は大慌てで練習機の片付けに入る生徒達を織斑先生は確認して、
「貴様ら専用機持ちは私と来い、篠ノ之、貴様もだ」
「はい!」
篠ノ之 箒の大きな返事を聞くが早いか先生はさっさと歩いて旅館の方に戻ってしまう。
何の説明もないまま簪達は織斑先生の後を追う。先頭は紅椿を待機状態に移行させた篠ノ之 箒だ。
(何……? 何なの……?)
簪の弐式に触れる指に力が入った。
まるでそうすれば
代表者という役割は大抵が貧乏くじではないかと、静穂は曇天の空を視界の端に捉えながら思う。
責任者への報告も役職のない他者より統括責任の務めを担う者の方が適任だという事は静穂も理解しているのだが、
「ううー……」
「まだ唸ってるし」
……こうして人員のメンタルケアなども自分の仕事だと周囲に丸投げされるのは如何なものか。
3年生達に口で押さえられた2年生の彼女を連れて歩く。アリーナ整備の終了を報告するためだ。彼女は押し付けられた。うーうーと唸って煩わしいからとの理由だが、これは確かに煩わしい。静穂の背中に体重の乗った頭を預けてくる辺りが特に。
「頭ぁ」
「何ですかー」
「私、間違ってるかな?」
唸るのをやめたかと思えば何の話か。
「何がですかー」
「……専用機が欲しい」
「……あぁ、成程」
彼女は皆で作ったISが欲しかったのか。
「……どうして皆で作った機体がいいんです? 学園の成績によっては卒業後に国から専用機を任せられるかもしれないじゃないですか」
「……頭は前途洋洋だからそう言えるんだ」
言うと年上の彼女は静穂の背から頭を離す。
いや歩くのを止めたのだと気付いて振り向けば、今にも泣き出しそうな顔がそこにあった。
「先輩達、就職先がまだ決まってないんだ。他の先輩達は殆どがもう進路を決めてるのに」
「進学じゃないんですか?」
「
……世界唯一のIS操縦者育成機関という名の通り、普通ならば大学に上がったところでIS学園以上の事は学べない。
IS学園に入学できるのは一部の例外を除き世界で選りすぐりのエリートと呼ばれる少女達だが、その中にも優劣を付けてしまうのが大人達だ。目立つ人材は企業側からスカウトを受け、それ以外は自分から売り込んでいく必要がある。
早すぎる就職戦争。汀組の3年生達はその波に乗れず、だからこそ入学したばかりの、ISの何もかもまだ理解していない1年生の機体に希望など見出してしまった訳だが、
それは2年生のメンバーにも当て嵌まる訳で。
「落ちこぼれなんだ、私達は」
「…………」
「私もそう。なんとか篩い落としには残れたけど、本国で代表候補にもなれずに此処に来たってだけで、卒業して国に帰ってもそれだけで終わっちゃうんだ」
このままでは、と。
「2年の私達はまだ後1年以上あるけど、先輩達は違くて」
「専用機を自分達で作って、先輩達の履歴書に箔を付けてあげたい、ですか」
眼前の彼女は頷いた。
彼女なりに考えた末の意見だろう。3年の先輩達は然して気にしていない様子だが、それも諦めから来るものなのか。
「私、このチームが好きだ。2年になってパイロット科と整備科に分かれたけどチームではそんなの関係なくて、部活みたいに面倒なものもなくて」
学科も人種も年齢も国籍すらも垣根を越え皆一丸となってISに関わった日々が、彼女は楽しかったのだ。
もっと皆と一緒にいたい。もっと皆と楽しみたい。もっと皆と笑っていたい。
それがいけない事なのか。彼女は一つ年下の
自分達を繋いでくれた
その思いを受け取った静穂の反応は、
「……そっくりそのまま伝えたら分かってくれると思うんですが」
何故年下の自分にそれを言うのかと。自分の思いを伝えるだけだろうにと。
「……恥ずかしいからやだ」
「……わたしならいいんですか」
「頭は口が堅いもん」
「でしょうね」
静穂の口が堅いのは当然だ、自分が喧伝されて困る秘密を抱えているのだから。
内心で嘆息。何をどうすれば一般生徒が先輩の進路相談をする事態に陥るのか。
(あぁ、もう……)
「――とりあえず職員室に報告、皆で町に出て、何か食べながら話しましょうよ」
「なんで?」
なんでって、と静穂は言葉に詰まる。
「専用機、皆で作るんでしょ?」
「!」
今までの泣きそうな表情ごと吹き飛ばして彼女が静穂に飛びついてきた。
柔らかくない、寧ろ痛い。いや本当は女性特有の柔らかい部分に慌てる場面なのだろうが、彼女が有して主張する柔らかい部分と静穂の主張する硬い部分が追突。まあ要するに胸がギブスを押し込み罅の入った肋骨にギブスが食い込んだというだけで。
「頭! ありがとう!」
「ど、どうも……」
静穂はゆっくりと彼女のハグを引き剥がす。喜色満面の彼女に対して静穂の顔面は蒼白気味だ。
「じゃあさっさと報告だ! いくぞ頭!」
「ああ待って手を引かないで
――トーナメントが始まる少し前まで山田・織斑両先生の手伝いを名目に職員室に入る機会が多く勝手を知る静穂が先んじて入室、先輩が後に続く。入室の順番だけで静穂がチームの頭目らしく見えるから不思議だ。
別段目新しい訳でもないので真っ直ぐ依頼主の元へ。
「教頭先生、――と」
「貴方、」
先客がいた。その外見には見覚えがある。
眼鏡に三つ編み、しゃきっと延びた背筋。布仏 虚だ。
虚の向こうから教頭の目が静穂を捕らえた。
「おう、来たかお山の大将」
「なんですかそれ」言いながら静穂は書類を提出する。「任されたアリーナの整備が終わりました。あとこれが外出許可の申請書です」
教頭は、おう、と言って受け取ると即座に判子を押してしまう。精査しなくていいのだろうか。
「ガキらしく次からは外出くらい勝手に行けこの生真面目め。にしてもえらく早いな。流石に経験値の差か」
教頭がにやりと笑いながら机の引き出しから食券の束を手渡してくる。実際その通りなのだが後ろの先輩が得意顔をしていそうなので静穂は何ともいえない表情。
「所で汀1年」
「何でしょうか」
「お前達のチームでIS持ってねえか?」
『はあ!?』
「教頭先生!?」
思わず汀組が口を揃えて叫ぶ。側にいた布仏先輩もだ。
聞いていたのは静穂達だけではない。近くの先生の中には飲み物が気管支に入ってむせたり転んで腰を痛めているのがいる。
それにしてもなんて質問を飛ばしてくるのかこの教頭は。
素っ頓狂な質問に固まる一同。一番に反応したのは汀組の方の先輩だった。
「教頭! 私達に対してそんな事聞くなんて喧嘩売ってんすか!?」
「なんだとう!?」
「私達がどれだけそれを欲してるか分かって言ってるのかって事ですよ!」
「俺はただそこの布仏3年が許可なしに使えるISがないかって聞いてくるから手助けがしたくてだなあ!?」
「……止めなくていいの?」
「……少し休ませて下さい」
教頭と睨みあう先輩を放って静穂は頭を抱える。
(……それにしても)
使用許可なしに使えるISを欲しているときた。
十中八九、
「何かありました? ISが欲しいなんて、まるで目の前の人みたいな事を言うなんて」
布仏先輩との関係は昨日初めて会っただけだが、その性格は決して目の前の2年生のような事を言い出すようなそれではないと静穂は思うのだが。
「……なんでもないわ」
布仏先輩はそのまま顔を背けてしまう。
そして小声で呟く言葉を、静穂のハイパーセンサーは逃さなかった。
その単語を静穂は、鸚鵡返しで囁いた。
――このままではお嬢様がどうなるか――
「!?」
布仏先輩が目を見開いて静穂を見てくる。
静穂はその眼を見返しつつ、
「――更識先輩に関係するんですか?」
昨日の夜、彼女は更識 楯無の事を「お嬢様」と呼んでいた。忘れるにはその出来事は新しすぎる。
更識 楯無に、簪の姉に何かあったのか。
驚愕の表情をきりっと引き締めて布仏先輩はこう返す。
「貴方には関係ないわ」
昨日とは口調の違う布仏先輩。役目が違うという事か。昨日は更識 楯無の関係者、今は生意気な後輩を嗜める上級生。
(違うかな)
非常事態だが危険な目に関係のない人間を巻き込みたくない、か。
(…………)
汀組の先輩はいつしか教頭と腕相撲にまで発展している。仲が良いな随分。
二人がぎゃあぎゃあと騒ぐ声に紛れて、勤めて静かに、眼前の布仏先輩にしか聞こえないように。
「何とかできます。私達なら」
「……貴方達がISを個人で所有していると言うの?」
「はい」
静穂の即答に布仏先輩は固まってしまった。
当然だ。たった五百に満たない数のISで世界は簡単に、その全てが変わってしまった。それだけの力を個人で所有しているなど、一般常識ではあってはならない。
それを静穂は持っていると言った。その真意はともかく静穂は彼女の求めるものを所持している、助けになれると言っているのだ。
その悪魔の囁きに、布仏先輩の逡巡は極めて短かった。
「――貸してもらえる?」
「内容次第です」
「――あら? ん?」
『?』
見れば尻餅を突いていた先生がテレビのリモコンと格闘している。
「テレビが点かない? チャンネルは変わってる。電波かしら?」
「――何だ?」
今度はむせていた先生が電話の受話器を片手にボタンを押している。
「いきなり切れた。もしもし? ――駄目だ、ツーとも言わない」
その二人を皮切りに異変は職員室中に伝播していく。
「どうしたのかしら?」
布仏先輩が周囲を見渡す。一方で静穂は、
(使えなくなったのはテレビと電話。電気は通ったまま……)
「――先輩。ブレイク、ブレイク」
教頭に腕相撲で勝ちそうな方の先輩を引っ張り戻す。
「止めるな頭!」
「真面目な話をします。チームの皆を集めて下さい」
「?」と頭に疑問符を浮かべる彼女に話を続ける。
「携帯電話は多分使えません。全員に呼びかけて1年の談話室に集合。超特急で」
「? 分かった」
手を離す。静穂の態度に訝しげな態度を見せながらも彼女が職員室を出て行く。
「布仏先輩。何が起こっているか要点だけ教えてもらえます?」
「この状態と関係があるのかしら」
「多分」
「……貴方とお嬢様の話が終わった直後、お嬢様の家から連絡があったの」
日本海から国籍不明・正体不明の何かが領海内に侵入、上陸。その目的も進行方向も一切が不明のままのそれに対し、更識 楯無は単身で調査に向かったと言う。
教頭も職員室の混乱に飲み込まれ一層騒がしくなる中で布仏先輩は続ける。
「更識家は対暗部用暗部の家系。布仏の家は代々それに仕えてきた」
「それは要点の内ですか?」
「お嬢様は昨日話されなかったようだから」
そう言って微笑む彼女に先程まで在った拒絶の意志は感じられない。
「それで、本当にISは存在して、貸してもらえるのかしら?」
「…………」
その返答よりも先に静穂が職員室を出ようと歩を進める。
布仏先輩が後を追う。それを振り向かずハイパーセンサーで確認して静穂は言う。
「まずは情報収集から始めましょう」